第3話

 目が覚めると見知らぬ天井が――なんてことはなく、見慣れた天井だった。

 ほんのりと薬の匂いが漂っている保健室。通い慣れた場所。寝慣れたベッドの上に私はいた。


「ん……」


 ゆっくりと重い体を起こす。

 音がない。

 保健室の先生は席を外しているのか、保健室の中には私だけしかいないようだった。

 時刻は午後三時を少し過ぎた頃。六限が始まっている。


「そっか……、教室で倒れたんだっけ」


 ベッド横のサイドテーブルにはペットボトルの水が置いてある。

 すぐそばの紙切れには、整った字で『大丈夫? これ飲んでゆっくり休んでね。六限終わったらまた来るね。みつほ』と書いてある。三組にいる友達がわざわざ買ってきてくれたらしい。


 三村光穂みむらみつほ。一年の時に同じクラスで、仲良くなった女の子。今のところ一番仲がいい同性の友達ということになる。大きな丸メガネをかけていて、三つ編みで、一見すごく地味だけど、めちゃくちゃ可愛いし、私よりも数段頭がいい。


 学校ではすごく地味だけど、遊びに行くときは人が変わったようにオシャレになる。それが本当にセンスが良くて少し羨ましかったりする。

学校でももっと可愛くなれるのに、本人はこのままがいいの一点張り。どうやら男避けファッション?というものがあるらしい。


 親友の差し入れに心があったまってくる。だけど意識も覚醒してきて、どうしても私の心は暗く沈んでしまう。


「悠一……」


 確定的だった。なにか物証を掴んだわけではなかったけど、そういうのを飛び越えて、あの女が屋上でのたまったことは全て事実だということが私には分かってしまった。


 じわじわと実感が湧いてくる。

 嫉妬、怒り、失望、悲しみ、そんな言葉では表せないぐらい、ぐちゃぐちゃで、どろどろで、めちゃめちゃな感情が私の内臓をぐるぐると掻き回すような感覚。


「なんでっ……」


 抑えようもない感情の奔流は涙となって私の体外へ排出される。

 大声で泣きたかったけど、私はむしろ無理矢理にでも歯を食いしばる。泣くのがみっともないからではない。少し我慢すれば、行き場のない感情が内側から私を壊してくれると思ったのだ。もう、いっそ壊れてしまいたいさえと思った。


 だけど人間そう簡単に壊れない。思い出しただけでも吐き気がぶり返すけど、それだけだった。

 私はどっとベッドに倒れる。視界を両手で覆って真っ暗の中でぐるぐるぐるぐる考える。


 なんで。どうして。悠一がそういうことをするはずがないのに。

 いくら自問したところで答えが得られるはずがないのに、思考は同じところを巡る。


 瞼の裏には悠一の笑顔が今でも張り付いている。

 それに連なって、思い出が湧き上がってくる。


 八月、夏祭りの日に告白したこと。

 九月、付き合って一ヶ月記念にお互いにプレゼントを贈り合ったこと。

 十月、二人で期末テストの勉強をしたこと。

 十一月、初めて喧嘩したこと。仲直りしたこと。

 十二月、クリスマスに少し大人なキスをしたこと。

 一月、初詣で一緒におみくじを引いたこと。

 二月、手作りのチョコを喜んで食べてくれたこと。

 三月、一緒のクラスになれると良いなぁって話したこと。

 四月、二人で花見をしたこと。


 ねぇ悠一。私ぜんぶ覚えているよ。

 私の私服を見て、派手な感じよりも清楚な方が好きだって言ってくれたこと。

 姿勢が綺麗な人に憧れるって言ってたこと。

 誠実な人が好きだって言ってたこと。

 だから私、そうなれるように頑張ったんだよ。

 それに、付き合う前にさ「重い女は無理だ」って話してたよね。

 だから、部活が忙しくて、二人の時間が取れない時も我慢したよ。

 だから、毎日電話して『おやすみ』って言いたいけど我慢したよ。

 だから。LINEの返事が全然来なくても催促せずに我慢したよ。

 ねぇ悠一。私、そんなに駄目な彼女だった?

 毎分毎秒、あなたのことを考えてるの。あなたのことしか考えていないの。それくらい好きなの。あなたが私を好きでいてくれるなら、どんなことだって我慢する。どんなことだって耐えてみせる。

 でも、でもね。

 あなたが私を好きでいてくれないなら、もう何もかもが耐えられない。この世界で生きる意味も、理由も、全部どうでも良くなってしまう。死にたくなる。


 ……バカだな、私。


 形だけ笑みが浮かぶ。

 全部、妄想だった。悠一が「そんなことない」って言ってくれることを前提にして造られた台本の一つだった。本気で死ぬことなんてできないくせに、いつだって自分が悲劇のヒロインになれる物語を描いてしまう。そんなことをしても何も現実は変わらないのに。 

 視界が滲む。目尻に雫が溜まって、抑えきれなった感情が静かに頬を伝って流れ落ちる。

 そうして私はしばらくの間泣いた。声を押し殺して。

 力の限りを込めて握りしめたシーツには深いシワが寄っていて、どれだけ引っ張ってもその後が残っている。


「うぅ……ぁ~~~~」


 私はずびずびと鼻を鳴らしながら、声にならないうめき声を上げる。

 光穂が買ってきてくれたペットボトルの水を手に取り、口に含む。

 これからどうしよう。どんな顔して悠一の隣にいればいいんだろう。

 そもそも、私が気づいたことに気づいたのかわからない。でもあの女はきっと気がついた。だったらもう悠一に伝えているかもしれない。『勘付かれたから、はっきり言ってあげたほうがいいかもね』なんて言ってるのかもしれない。


 だとしたら、もう私にはどうすることもできない。それこそ時間を巻き戻せない限りは。

 私はペットボトルをサイドテーブルに置いてもう一度ベッドの上に寝転がる。


「はぁ~~」 


 嫌だ。

 このまま悠一と別れないといけないなんてそんなこと私は思っていない。

 我ながら馬鹿だと思う。浮気されて、大嫌いな女とデキてる彼氏のことをまだ想っているなんて。


「でも好きなんだもん……」


 小さな声でそう呟く。

 惚れた弱みだった。世界にただ一人のあなたに想われたいという感情が恋なのだとしたら、恋に落ちるとはよく言ったものだ。私はもう、自分の全てがその感情に浸かってしまっている。今更抜け出すことはできない。


 ていうかこれ、完全にアレじゃん。寝――。


「うんうん。かんっっっっっぜんに寝取られたね、これは」

「ひゃっ!」


 私は驚いて跳ね起きる。

 どこからか声が聞こえる。

 私は辺りを見回すけど、カーテンで区切られたベッドの周囲には誰もいるはずがない。

 ……何? 誰の声? それとも空耳?


「違う違う。ここだよここ」

「え?」


 すぐ近くから声が聞こえてくる。ちょうどサイドテーブルのペットボトルがあるあたりだ。


「やっと気づいたね」


 そこには全長15センチぐらいしかない小さな少年がいた。小さな羽が生えていて天使みたいな格好をしている。


 ……何これ? 夢? 幻? とうとうおかしくなった?


「おっとっと。これは夢じゃない。れっきとした現実だよ。僕はクピド。君たちにはキューピッドって言った方がわかりやすいかな?」

「キューピッド?」


 キューピッドって言ったら持ってる矢で射られたら恋に落ちてしまうってやつ?


「そのキューピッドさ。大好きな彼氏を大嫌いな女に寝取られた可哀想な君だったけど、神様はまだ見放さなかったのさ」

「どういうこと?」

「君には、僕がついてるってこと。恋愛の導き手、あるいは縁の結び手、クピドくんがね」


 キューピッドの少年はクピドと名乗った。


 …………正直言ってキモい。


 背中から羽が生えているみたいだけど、そのつけ根の辺りとか想像するだけでちょっとね……。

 未知との遭遇に私は若干引いていた。


「おいおい。失礼なことを言うね。僕はれっきとした人の上位存在だよ。超常的なこともお任せあれだ」

「え……私の考えていることがわかるの? ますますキモいんだけど」


 人の心を読むなんて失礼な人、もとい天使だ。私は余計に胡散臭く感じてしまう。


「失敬な。当たり前じゃないか。君たちにとっては読心術というのかな。僕の場合は「術」ではなくて「知覚」なんだけどね。まぁ細かいところは置いておくとしよう。ともかく君は今、とても困っている、そうだろう?」

「……困ってるっていうかこれからどうしようっていうか」

「うんうん。大好きな彼氏を大嫌いな女狐に寝取られ、彼氏は自分との関係を維持しようとする気配があるけど、女狐は勝ち誇った顔で君に絡んでくる、そういうことだろう?」

「……ハエたたき欲しいな」

「おっとっと。僕に八つ当たりするのはやめてもらっていいかな?」

「はぁ……。それで? なんで私の前に出てきたの?」


 いきなりこんな少年天使が現れるなんて正直信じられない。ショックのあまり私の脳みそが幻影を見せていると言われた方がまだ信憑性があるように思う。


 クピドはとてとてとベッドサイドのテーブルの上を歩きながら口を開く。


「それは君があまりにも可哀想だったからさ。僕が助けてあげられると思ってね。ちなみに僕の姿は僕に選ばれた人間にしか見えないから気をつけてね」


「ふぅん、あっそ。で、助けるって何ができるの? 悠一と私をもう一度……」

「おっと、僕にそんな力はないよ」

「ハエたたきどこかなー」


 保健室の先生が帰ってきたら聞いてみよう。ハエたたきがなくても蚊取り線香を炊いてもらえれば駆除できそうだ。


「待て待て待て待ちたまえ。そうやってすぐ暴力に訴えるのは良くないと思うんだが。それに僕は蚊じゃないから蚊取り線香は効かないよ。もちろんハエでもないけどね」


 よく喋るハエ……、もとい天使だ。私は長いため息を吐く。


「さっきは超常的なこともお任せあれだって言ってたじゃん。嘘ってわけ?」


 せっかく役に立つかと思ったのに残念だ。

 クピドはぱたぱたと翼をはためかせて私の視線の高さまで浮かび上がってくる。


「僕にできることは、輪を編み直すことだけ。結ばれた縁は、一つの輪になって、時に絡まり、時にほつれ、時に新たな結び目を生む。僕はその輪に少しばかりの「綾」を生じさせるだけさ」

「つまり……?」


 何を言っているのかいまいちわからない。私は首をかしげる。


「輪を辿って、人と人との繋がりにちょこっとばかり介入の余地を生み出せるということさ」

「ということは、悠一とあの女を結ぶ……繋がりもどうにかできるってこと?」

「ザッツライト」

「おもっきし日本語だな」


 金髪碧眼で全く日本人には見えないのに喋っている言葉は日本語。不思議な生き物だ。


「で、具体的に何ができるの?」

「時間を巻き戻せる」

「時間を! すごい!!」


 私は一気にテンションが上がる。時間を巻き戻せるというのは、まさに私が求めていたことだ。急にこの天使が頼もしく見える。


「まだまだ修行中だから不完全だけどね」

 クピドはへへ、と鼻の下をこすりながら謙遜する。ちょっと嬉しそうなのが年相応に見えて可愛らしい。


 でも、時間を巻き戻せるならそれはすごいことだ。


「その話、乗った」


 私は覚悟を決める。悠一を取り戻すために、この少年天使の手を借りることに決めた。全てはあの女、樋口藍花から悠一を取り戻すため。


「私は出海蓮乃いずみはすの。よろしくねクピド」

「あぁよろしく。では確認しよう。君に課せられたミッションは、君の彼氏の心と身体、双方を取り戻すことだ」

「身体っっ!?」


 私はついつい大きな声を出してしまう。


「おいおい、何を恥ずかしがっているんだい?」

「いやでも……」


 顔が赤くなる。でもそういうやり方もあるってことだよね……。

 そこまで考えて私は頭の中に浮かんだ妄想を振り払う。


「ダメダメ!! あの女と同じやり方で悠一を取り戻したとしても意味ないんだから!」


 そう、そうだ。あの女は悠一を落とすために自分の身体を使った。一人の女としてそれは一番軽率で陳腐なやり方だと思う。私ならそんな方法を使わなくたって悠一を夢中にして見せる。それができてこそ、私はあの女より優っていると言えるのだ。


 クピドはそんな私を見て、呆れたようにため息をつく。


「はぁ……なら言い方を変えよう。その藍花という人物に、君の彼氏の心と身体を奪われないようにすることだ」

「そうだね。悠一は私の彼氏なんだから!」

「その意気だ。人の男に手を出すということはどういうことか。しっかりと教えてあげるといい」

「うん!! ありがとうクピド!!」

「おやおや、礼を言うのはまだ早いんじゃないかな?」


 クピドは肩をすくめる。


「あ、そうだね! 私、頑張る!」

「では――、準備はいいかい?」


 クピドの言葉に私は頷く。

 クピドは背中の小さな翼で跳び上がり、私の目の前の空中で静止する。


 とたん、空気が重くなる。眼の前の天使が醸す雰囲気ががらりと変わる。それは、人ならざる存在だけが放つことができる圧倒的な存在感。私は知らず知らずのうちに生唾を飲み込んでしまう。


 厳かな雰囲気を小さな身体にまとわせながら、クピドは祈りのように言葉を連ねる。


「ここに君と僕の縁は結ばれ、輪は成った。

 時間は逆行し、不確定な想いはメビウスの渦の中で攪拌かくはんされる。

 汝の抱く欲の形は、如何なヨスガを彩るか。

 ――見せてもらうよ。

   可逆カギャク恋愛レンアイ循環――――開始」


 直後、私の意識は真っ白に塗りつぶされた。

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