第2話

 御影悠一みかげゆういち。私の大好きな彼氏の名前。


 私よりも頭二つほど高い身長。さっぱりとした顔立ちに、すらっと鼻筋が通っていてかっこいい。それに気遣いもでき、誰にでも分け隔てなく接する人格者。私の自慢の彼氏。私には勿体無いくらい素敵な恋人。私が選んで私を選んでくれた特別なあなた。


 そんな彼が、今、目の前に立っている。


蓮乃はすの? 顔色が悪いけど大丈夫?」

「な、なんでここに……?」

「いや、昼ごはん一緒に食べようと思ったんだけど、どこにもいないから三組の奴に聞いて……どうしたの?」


 切長の目が心配そうに私を覗き込む。いつもならその眼に見つめられると、頭がくらくらしてしまうのに今は何もない。

 このタイミングでこの場に悠一が現れることに、否が応でもあの女の作為を感じてしまう。


「悠一…………」

「なに? どうしたの?」


 不思議そうに私を見る悠一。一点も曇りもない瞳。いつもと何も変わらない彼を見ていると、あの女の話も実は嘘だったのかと思えてくる。


「……………………」


 あの女の話を確認してみたい気持ちがある。でも認められたらきっと私は耐えられない。ぐちゃぐちゃになりそうだ。


蓮乃はすの? ほんとに大丈夫? とりあえず教室戻ろう」


 昼になって日差しが強くなっている。屋上はじりじりと陽が照り付けられて気温は上がる一方だった。汗をかいているはずなのに、身体は冷えている。まるで全身の血が抜けてしまったようだ。


「そ、そうだね」

「蓮乃はあんまり身体強くないんだから、大事にして欲しい」

「ごめんね。気をつける。ありがとう」


 私は昔から身体が強くなかった。何か病気を患っているわけではなかったけど、体調を崩しやすかったり、朝起きるのが辛かったり、食も細かったりと、他の同年代の子たちと比べて何かと苦労続きだった。そしてそれは今も続いている。


「ご飯食べられそう? それともこのまま保健室行く?」


 悠一は親切に聞いてくれる。あの女の話だと、突然家を訪ねてきたと言っていたが、悠一は基本的にそんなことはしない。何をするにしても相手優先で、相手の都合に合わせる。自分勝手、自分都合で動くようなことはほとんどないはずだ。


 私にはそれが少しだけ悲しかった。いつも私の都合ばかり優先して、悠一がどうしたいのか、どうして欲しいのか、言ってくれたことなんてなかった。


 デートの行き先も、日取りも、時間も、集合場所も、帰る時間も、何をするかも。

 決めるのはいつも私だった。


「ねぇ、悠一はどっちが良いと思う?」

「えっと……それは蓮乃が自分で決めたほうがいいんじゃない?」

「だよね。うんっ。大丈夫! ご飯食べよう?」


 私は後悔とともに自嘲する。


 ばか。

 いくらなんでもこんなことを悠一に決めてもらわなくてもいいじゃん。


***


 教室に戻った私たちは、悠一の机に弁当を広げて一緒に食べる。クラスのみんなには私たちが付き合ってることは言っていない。でもなんとなく察しているような気がする。


「あれ、今日はお弁当なんだね」

「え、あ、うん。たまたま母親がつくってくれてさ」

「へぇー……。美味しそうだね」


 私は悠一の顔を見る。悠一がお弁当を持ってきたことなんて今までない。おかずはどれもそれなりに手の込んだ料理で、冷凍食品なんてなさそうだった。


 本当に悠一のお母さんが作ったのだろうか、なんて突拍子もないことを考えてしまう。さっきの話が本当なら、この弁当はあの女が作ったものだ。でも悠一が嘘をついているような感じはしない。でももしかすると……。


 もやもやした何かが胸のうちに湧いてくる。


「普通だよ。蓮乃は?」

「私はいつも通り」


 コンビニで買った菓子パンを取り出す。うちは共働きで忙しくてお弁当なんか作ってもらえない。毎朝テーブルの上にお金が置いてあってそれで終わり。


「それじゃ足りないよ。ほらこの卵焼きあげるから」

「いらない」

「美味しいよ?」

「だからいらないって」

「そう……」


 少し語気が強かったかな。

 いや、あの女が作ったものなんて食べたくない。

 というか、浮気した男が恋人に対して、浮気相手が作った料理を食べさせたがるなんてことあるのだろうか。ちょっと考えられない。

 それからお互いに喋ることなくお昼ご飯を食べる。

 私は沈黙が心地悪くなって教室を見渡す。すると樋口藍花の姿が目に入った。

 藍花あいかはこちらを見向きもせず、いつも一緒にいるクラスメイトたちと楽しそうに喋っている。カースト上位グループ特有の華やかさと喧しさが同居した雰囲気は、教室の端にあって全体を掌握しているように見えた。


「ちょっと。さっきからうるさいんだけど」


 藍花グループの近くで弁当を食べていた数人の女子の一人が文句を言う。

 話し声としてはそこまで騒がしい訳ではなかったけど、日々カーストの上下を競っている連中からしたら、『自分たちよりも大きな声で話している存在』に対して過剰に敏感になることもあるのかもしれない。


「あ、ごめんね。最近、いい化粧見つけてさ。シェアしているうちに盛り上がっちゃって」


 たはは、ときまり悪そうに謝る藍花。人懐っこい表情に怒気をくじかれた女子は少しだけ表情を緩める。


「聞こえてたからわかる。Mishaミーシャでしょ?」

「そうそう! 知ってるの?」

「知ってるも何も、使ってるし……」

「えっそうなの!? どう? めちゃめちゃ良いよね!」

「うん。薄めでもばっちり決まるし、すっごい肌ツヤ出るし、何より重たくないんだよね」

「うわー! まさに私が言いたかったのそれ!」

「ほんと? 藍花ってそこまで化粧水わかんの?」

「いやいや、こいつ適当喋ってるよ絶対。後乗りしてるだけ」

「ちょ、やだなぁー二人とも。……でもまぁそうかも?」


 どっと笑いが生まれる。

 そして樋口藍花ひぐちあいかを中心にしたグループはまた一つ大きくなる。

 つっかかった女子もなんだかんだ藍花に絡んでもらえたことがまんざらでもないようで、声もリアクションも気も大きくなっている。

 あほらし。

 冷めた目で眺めていると、悠一が不思議そうに聞いてくる。


「どうしたの?」

「な、なんでもないよ。そういえば昨日は何してた?」

「えっと…………、そうだね、昨日は部活してた……それじゃいつもと同じか。その後ってことだよね」

「う、うん。でも言いたくないなら言わなくてもいいよ」


 やぶ蛇になってしまいそうで怖い。まさかここで素直に話すとは思わないけど、疑いすぎると私たちの仲に亀裂が入りかねない。

藍花の話がまるっきり作り話で、私を疑心暗鬼ぎしんあんきにさせることが狙い。


「言いたくないって、まるで僕が言えないようなことをしてるみたいじゃないか。もしかしてなんか様子が変だったのってそういうこと?」

「い、いや……えっと……」

「全く、疑うなんて蓮乃らしくないな。僕が君を裏切るようなことをすると思ってるの? 言ったじゃん。僕はいつも蓮乃を想っているよ」


 そう言って、悠一は机に置いてあった私の手に自分の手を重ねる。暖かくて大きな男の人の手だ。

 大好きなあなたの声は、私の柔らかいところを優しく包み込んで思わず身を委ねたくなってしまう。

 だけど、なぜだろう。私は今、大好きなはずの声がどこか薄ら寒く聞こえる。

 まるで小さな穴が空いてそこから暖かさが全て流れてしまった後のような、そんな空っぽの寒さ。


 私は悠一の顔を見る。

 瞳は気遣わしげに私を捉えている。

 口元は優しそうに微笑んでいる。片えくぼが可愛い。いつもの笑い方。

 だけどやっぱり何かが違う気がする。言葉にすることは難しいけど、何処かが決定的に異なっているように思えて仕方がない。


 私は視線を外して俯く。

 ……わからない。やっぱり私の気のせいなのかもしれない。あの女に惑わされているだけなのかもしれない。さっきの話を聞いてから、確かに私の中には悠一を疑う気持ちが芽生えたのは確かだ。でも結局見つからなかった。猜疑心に囚われてしまっているから、何もないところに何かを見出そうとしてしまう。勘違いし易いのは私の悪い癖だ。


 私はそこまで考えをまとめるとひとつ息を吐く。すると胸につかえていたもやもやが少しだけ亡くなった気がした。

 うん。気のせい気のせい。悠一に謝らないと。


「そうだね。ごめん――」 


 再び顔を上げた私の目に映ったのは悠一の顔――私じゃなく、その後方を見る、悠一の顔だった。

 まさにそれは――見惚みとれる、といった表情だった。


 私は、半ば無意識のうちに後ろを振り返った。


 大きな女子グループがある。


 真ん中にあの女がいる。たくさんの女子に囲まれて照れくさそうに座っている。


 その顔はさっき屋上で見たものとは少し違う。


 肌の白さ、薄い唇の朱さ、二重の目に、長いまつ毛。朱が差した頬。


 ――化粧。


 藍花がこちらに気づく。


 一瞬私を見た後、悠一の方を見る。


 照れ臭そうに笑う。


 そして口パクで何かを伝える。あ、と、で――――。


 その瞬間、言いようもない気持ち悪さで胃の中身が迫り上がる。藍花の言葉が蘇る。


 昨日の夜は――。

 流石の私も――。


「うおぇええっ」


 私は耐えられなくなって、その場に膝をついて盛大に吐瀉物としゃぶつをぶちまけた。

 そしてそのまま床に倒れ込む。


「蓮乃っ!!」


 遠くで悠一の声が聞こえる。焦った声で私を抱き起こそうとする。

 相変わらず優しい。自分よりも他人を優先し、いつも周りに気を配っていて、誰かが困っていれば迷わず声をかける。聞く人を包み込むような、そんな包容力のある深い声色が私はずっと大好きだった。


 蓮乃、蓮乃、蓮乃――。


 その声で自分の名前を呼ばれるたびに私は飛び上がるぐらい嬉しかったし、他の人の名前が呼ばれるのを聞くと胸がきゅっと切なさに哭いた。


 私の名前だけ呼んでほしい。他の人は呼ばないでほしい。そんな幼稚な独占欲は日々募っていき、それは想いの成就という形で満たされていた――――はずだった。


 ――ねぇ、悠一。


 私は遠ざかる大好きな彼の声を聞きながら思う。


 ――昨日の夜、その声で、何回あの女の名前を呼んだの?


 応えがあるはずもなく、私は暗闇に呑み込まれた。


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