カギャク性レンアイ循環 ——Reversible Romance Round——

りんごちゃん

Round Start ——循環始動——

第1話

藍花あいか……」

「よく来てくれたね、蓮乃はすの。待ってたよ」


 昼休み。学校の屋上には春らしい柔らかな陽の光が降り注いでいた。

 飛び降り防止のフェンスにもたれて、私を呼びつけた張本人がこちらを見ている。


 樋口藍花。校則ギリギリの明るさに染められたセミロングの髪。毛先にかけてゆるくパーマをあてて、ふわりとその毛先が肩口で揺れている。


スカート丈は短く、黒いニーハイとスカートの間には雪のように白い素肌が晒されていて、男受けを狙っているのが露骨にわかる。時おり吹くそよ風に乗って、これまたいかにも男ウケが良さそうな甘い香水の匂いが私の鼻頭をくすぐっていくのも不快だ。


「何の用? 私たちにはもう話すことなんて何一つとして無いと思うんだけど」

「それがあるんだよ。蓮乃に話したいことがね」

「……なに?」

「あ、やっぱり気になる? ふふ、なんだと思う?」


 藍花あいかは私から視線を外すことなく、もたれていた壁から体を離し、私の周りをぐるぐると歩き出す。昨日の話の続きということなら思い当たることは一つしかない。


「……悠一ゆういちのこと?」


 私が彼の名前を出すと同時に藍花の脚が止まる。クラスの大方の男子が虜になった愛嬌ある顔が、嗜虐しぎゃく的な微笑みを浮かべる。まるで罠にかかった小動物を眺める捕食者のように。


「正解。澄ました顔しててもやっぱり不安だったんだ。自分の彼氏が他の女に言い寄られるのが」

「きも」


そう吐き捨てる。藍花あいかはいつも余裕綽々で、どこか人を食ったような振る舞いをすることがある。私は藍花のそういうところが昔から嫌いだった。


「悠一は私の恋人。アンタには絶対に渡さないから」


 私はそう言って藍花に背を向けて、屋上から立ち去る。もう一秒だってこの女と同じ空間にいたくない。


「昨日さー、私の家に悠一が来たんだよねー。しかも部活終わりに」

「は?」


 背後からの声に思わず足が止まる。


「びっくりしたけど、とっても嬉しかったなぁ。悠一ってば汗だくになって走ってきたみたいでさ。とりあえずシャワー貸して、それからお腹も空いてそうだったからご飯作ってあげたんだよねー。悠一は友達の家に泊まるって親に連絡してさ。

あ、そういえば昨日悠一と電話してたでしょ? あのとき悠一は私の部屋にいたんだよね」

「……またお得意の嘘?」

「いやいや。嘘だったら、自分から呼び出してまで聞かせるわけないじゃん。適当な友達を使って噂流してもらう方が蓮乃はもやもやするでしょ? 

私が今、蓮乃はすのに直接この話を聞かせるのはさ、本当のことを話した時に、蓮乃はすのがどんな顔して、どんな言葉で、どんな気持ちでその『本当』を拒絶するのかなぁってのを目の前で見るためじゃん」


 藍花はこの上なく愉しそうな表情を浮かべながら、うっとりと恍惚こうこつとした瞳で私を見つめる。

 私が一人暮らしをしているマンションは学校を中心としてちょうどこの女の棲家すみかの反対側にある。つまり学校からの距離はほとんど変わらない。その上で悠一は恋人の私ではなくこの女の家に行った。しかも部活終わりに走ってまで向かうほどの理由があるなんてよっぽどのことだ。本当の話だったら、だが。


「私がアンタの話を信じるわけないでしょ。それともなに? 証拠でもあるわけ?」


 私は蓮乃をにらみつける。これ以上ないほど濃密な敵意と嫌悪をこめて。

 しかし、藍花は怯むことなく――むしろ嗤笑ししょうを噛み殺すのに苦労しているといった表情で――歪んだ愉悦を漏らす。その表情は今まさに獲物を丸呑みにしようと鎌首をもたげた蛇のようだった。


 ――蓮乃はなんにもわかってないんだね。


 藍花が声なき声でそう言った気がして、私は背筋に悪寒が走る。同時に聞いてはいけないという直感が走り抜けるが――あまりに遅すぎた。


「証拠かー……。蓮乃に見せられるようなものは正直ないね。まぁでも証拠なんてなくても、

「っ……」


 それがどうした、とは聞けなかった。もし聞いてしまったら、決定的な一言を告げられてしまう気がしたから。今朝から私に対してどこか気まずそうに接していた悠一が頭をちらつく。繋がってはいけない点と点が結びつく。


 何も言えなくなった私に構わず、蓮乃はほんの少し頬を赤らめて、まるで大胆な恋人の行動に恥じらう純粋な少女のように面映がる。


「ふふ。そういえば今日、悠一のカッターシャツにしわがつきっぱなしだったよね。それにいつもは部活の自主練のために朝早く登校してるのに今日は遅刻ギリギリだったし」

「…………めて」

「昨日の夜はすごかったなぁ。溶けそうなくらい熱かったから必死にしがみついて、お互いがお互いの熱を通して自分の形を確かめ合ってた。流石の私もあんなのは初めてだったよ」

「やめてッッ!!!!!!」


 私は思わず叫んだ。藍花の声を塗り潰せば、全部無かったことにできると思ったから。思いたかったから。思わずにはいられなかったから。

 昼休みの屋上。快晴の下、私の絶叫は突き抜けるような青空に吸い込まれていく。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。こんなの、全部が全部悪い夢に決まっている。

 早る気持ちを抑えられなかった陽炎がフライング気味に見せた春の幻影だ。


「……くふっ、あはははははっ! あははははははははっ!」


 大声を出した私に一瞬だけ呆気に取られた藍花は、次の瞬間にはお腹を抱えて笑い出した。対照的に私の視界はぼやけて、色も朽ちていく。耳につんざく哄笑が言いようもない黒い感情を際限なく湧き出させ、私の心をあっという間に染め上げる。


「あー……最高。私、蓮乃のその顔がずっと見たかった。こうやって私の手でぐちゃぐちゃになっていく人の心が、私にとって何物にも代え難い一度きりの玩具なの。特に蓮乃、あなたにはとっても愉しませてもらっちゃった」

「アンタ、最低……!」


 陶酔然とした表情を浮かべ、熱っぽい吐息を漏らす藍花が私にはどうしても同じ人間には見えなかった。魔性の女、魔女の類はやはり恐ろしい。


「そうね。あなたから見れば最低で最悪、まさに悪女ってやつでしょうね」


 藍花は私の罵倒もサラリと受け流す。


「だけど、他の人は私のことを清廉潔白で品行方正、成績優秀の善人に見えているんだよ。仮にあなたが私のしたことを言いふらしたとしても、誰も信じない。なにせ私にはこれまで積み上げた絶大な信頼がある。それに妬みを買うようなキャラでもない。つまらない僻みなんかで真偽不明の噂を流す人間もいないの」

「っ……」


 事実そうだった。樋口藍花には悪い噂が一つもない。友人も多く、教師受けもいい。かといって妬まれるような人間でもなく、誰であってもうまくやっているように見える。そういう処世術に長けているところも忌々しい。


「私は人の心の機微に敏感なの。何を考えているか、何を思っているか、何を欲しているか、手に取るようにわかる」


 藍花は一転して温度を感じられない瞳で私を見る。


「だからあなたが悠一のことを好きなのもすぐに気がついたし、悠一が私のことを好きなのもすぐに気がついたし、あなたが私のことを嫌いなのもすぐ気がついた」


 藍花の口から次々と私の知らないことが語られる。


「じゃあ何? 最初から全部アンタが仕組んでたってわけ?」

「どこを最初とするかによるけど、蓮乃が考えている中でなら、まぁそういうことになるね」


 ネタばらしを終えた藍花は一つ息を吐くと、「あー愉しかった。じゃあね」と漏らしてそのまま屋上から立ち去ろうとする。


「ちょっ、まだ話は終わってない――――」


 私が呼び止めようとしたところで、藍花はちょうど足を止めこちらを振り返る。


「あ、そうそう。昨日悠一から聞いたよ?」


 いつもの優等生な笑顔でそう言うと、すぐ近くまで歩み寄ってくる。私が身を引いて距離を取ろうとすると、ぐっと顔を近づけて耳元で囁く。


「『俺の気持ちはいつも蓮乃に向いてるよ』って言ってくれたんでしょ? ふふ、良かったね」


 そのまま、私の肩をぽんぽんと優しく叩いて、今度こそ屋上から去っていった。

 もはや立っている気力もなかった私は、崩れ落ちるようにしてその場にへたり込んだ。


 私が藍花に話していなかったこと。それすらも彼女は知り得ていた。誰が教えたのかは明白だった。そしてその事実が、既に粉々に砕け散っていた私の心をさらに細かく擦り潰した。


 消えてしまいたい。ここではないどこかに。


 際限なく溢れるどす黒い感情は、とうの昔から私の心から溢れ出して、辺りを染めていた。その黒は屋上のコンクリートを底なし沼のように変えてしまい、私を引き摺り込んでいく。

 でももう、私はその沼から抜け出そうとしなかった。むしろ率先して沈み込むように身体をねじこむ。


 消えたい。消えたい。消えてしまいたい。死にたい。死にたい。死んでしまいたい。


 底の見えない黒の深淵にまで落ちていく私。ゆっくりと足はフェンスの方へと向かっていく。それを自覚できるほど私は正気ではなかった。

 虚ろな意識のまま腕を伸ばしてフェンスを掴む。

そのまま足をかけようと力を入れたとき、後ろから声が聞こえてきた。


「蓮乃、こんなところでどうしたの?」

「っ……ゆう、いち」


 私はフェンスから手を離して咄嗟に振り返る。そこには私の彼氏が立っていた。

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