第10話
「よく来てくれたね、蓮乃」
藍花は余裕のある笑みで私を屋上に迎え入れた。
「悠一のことでしょ?」
「そうだよ。私、まだ蓮乃に言ってないことがあって。ほら、お互い正々堂々でって話したじゃん。だから隠し事は良くないなって思って」
薄く、空っぽな言葉が藍花の口から垂れ流される。
何一つ信用できないのに、この女はこれで私を騙せると思っているのが腹立たしい。
私は最初から、藍花の言葉に合わせるつもりはなかった。
「へぇ、そうなんだ。てっきり自慢でもするのかと思ってた」
「自慢?」
「自分の身体を使っていやらしく悠一を誘惑して、それで私にドヤ顔でもするのかなって」
藍花の顔が凍りつく。
その顔を見れただけでも、ここにきた甲斐があったかもしれない。
私は失敗した。悠一はこの女に寝取られてしまった。それはもう変えることができない。
だけど、私にはもう一つだけできることがあった。たった一つだけ。
「…………なんで、知ってるのかな?」
それは、樋口藍花に私の心を弄ばせないこと。時間を遡ってきた私だから可能な、樋口藍花に対するたった一つの嫌がらせ。
「さぁ? なんででしょうね。ちょっとやり方が杜撰すぎたんじゃない? あんたが自分の部屋に悠一連れこんだの、誰かに見られてたりして。そんで写真とか撮られてたりして」
「…………」
「人の彼氏勝手に連れ込んだら駄目じゃん。そうでしょ? 人の心を弄んで快感を得ている変態さん?」
「……へぇ。私のこと、よく知ってるね」
にい、と三日月の形に口を歪ませて、藍花は嗜虐的な笑みを浮かべる。その醜い表情は、私があの日、屋上で見たものとそっくりだった。
「で、蓮乃は何が言いたいのかな」
「そんなことも分からないの? あれだけ自信満々に人の心が読めるみたいなこと言ってたのに」
「そんなこと私言ったかな? まぁいいや。で、なに? 私に謝ってほしいの? いいよ。ごめんね。あなたの彼氏使ったのは失敗だったわ。もう近づかない」
藍花は驚くほど素直に私に対して頭を下げる。つくづく人の神経を逆撫でするのがうまい。
私はそのまま髪を掴んで藍花の顔を引っ張り上げた。
「いたっ」
藍花が顔を歪めるが当然無視する。
そのままお互いの息が掛かるくらい近くまで顔を近づけて、
「ふざけないで」
人は、怒りの臨界点を越えるとこんなにも平坦な声音が出るらしい。
純粋な怒りだけで研ぎ澄まされた声は、どこまでも冷たくそれでいて深い。
「痛いよ。蓮乃。なんでこんなことするの?」
「うるさい。さっさと謝れ」
「だから、私ちゃんと謝ったはずだけど」
「もっと、せーしんせーい、私が満足するように謝りなさいよ。頭、床に擦り付けてさぁ!」
私は掴んでいた髪を離して藍花を突き飛ばす。尻もちをついた藍花はめくれそうになったスカートの裾を直す。
「……やりすぎだと思うけど」
あれだけ人を食ったような態度をとっていた藍花が、私に対して明確な敵意を向けていた。それだけで私は優越感が全身を駆け抜ける。
すぱん。私は藍花の頬を張る。昼休みは有限なんだ。早くしてくれないと時間がもったいない。
「っ」
「はやく」
すぱん。今度は逆。藍花は乱れた髪型を直しもせず、地面に手をついている。元々の過去とは全く違う展開だ。なんだ最初からこれでよかったんだ。最初からこうしていれば全部丸く収まったんだ。
悠一を取られたとしても、私の心だけは犯させない。それだけは許さない。この女の悪意を全部踏みにじって、私の心だけは清くありつづける。
「さ、謝って?」
「……蓮乃ってこういうこともするんだね」
「うるさいなぁ!」
私は荒々しく地面を蹴る。ゴム底の上靴とコンクリートが擦れてザリザリと不快な音を立てる。
もう二、三発殴らないと分からないのかな。それとも蹴った方がいいか。
私はいまだに立とうとしない藍花に向けて右脚を上げる。
「ね、ちゃんと謝って。……謝るまで痛いの続けるよ?」
「……その前に、一ついいかな?」
項垂れたまま、藍花はポツリと呟く。
「何?」
ゆらゆら、髪を振り乱したまま藍花はゆっくりと立ち上がる。スカートのポケットからスマホを取り出して、何かしら操作して私の前につき出した。
「何これ」
「死刑宣告」
藍花の声と同時にスマホから――片時も忘れない、脳の一番大事なところに刻みつけている大好きな声――悠一の声が聞こえてきた。
『あーお腹減ったぁ』
『ちょっと待ってね。今日は悠一の好きなもの作ってあげるから』
『おっしゃあ! ここまで歩いてきた甲斐があったってもんだよなぁ!』
『はいはい。お風呂沸いてるから、さっさと入ってきて』
『藍花は?』
『今日は一緒に入らないから。ほら、さっさと行った行った』
『はーい』
「は?」
なにこれ。この女と悠一の声がする。まるで恋人のような――いや、そんな淡いものじゃなくて、もっと先に進んだ関係。長い時間をかけて二人が丁寧に編んだ太い縁を感じさせる会話。
なにこれ。頭がまわんない。金属バットで頭殴られたとしても、きっとこの衝撃よりはいくらかマシだと思う。
視界にあるスマホの画面からは、この録音データが昨日の日付が書かれたタイトルで保存されていることがわかった。
同時に脳裏で再生されるワンシーン。マンションの一室へと仲睦まじく入っていく二人の背。
つまりこの音声は……。
「あれからどうなったか……ってこと?」
「あれからってことは、やっぱり付いてきてたんだ。まぁ大好きな彼氏からドタキャンされておとなしく帰れるほど素直じゃないもんね」
藍花は一度、再生を止めて私の方を見る。その目には、もう敵意などなかった。あるのはただ、これから起こるであろう精神的陵辱に対して、抑えきれないほど昂った興奮の色だけ。
その目に見据えられて、私は言葉には表せない気持ち悪さを感じる。
「勝ったと思ったでしょ? ブチ切れて、手を出せば、同級生の女子ぐらい簡単に思い通りにできると思ったでしょ? ――バァカ」
藍花は次の録音データを再生する。
『ごちそうさま。いやー美味しかったなぁ』
『お粗末さま。後でお皿洗うから水につけといてもらっていいかな』
『ご馳走してもらったから俺が洗うよ』
『いや、いいよ。私が洗う』
『いやいや、俺が洗う』
『じゃあ二人でやろっか』
『それ天才じゃん』
『でしょ……そういえばさ、今日部活終わりに急に呼んだのによく来てくれたね? なにも用事なかったの?』
『あー。まぁなくはなかったけど、正直こっちの方が大事だからドタキャンしてきた』
『え、大丈夫なの?』
『うん。ひたすら謝ったからね。なんとか許してもらった』
『もしかして蓮乃?』
『うん』
『ふーん。彼女ほったらかして他の女の部屋に来るなんて悪いんだ』
『悪いね。超悪い。正直さ、別れたいって思ってんだよね』
『じゃあ別ればいいじゃん。お互いのためにもさ』
『えー。あいつめちゃくちゃメンヘラくさいんだよね。顔は悪くないけどなんというか重いんだよな、いちいち』
『ふーん。蓮乃って重いんだ』
『藍花も思わない? なんかちょっとしたことで世界の破滅ぐらい落ち込んだり、尋常じゃないぐらい喜んだり、情緒不安定ってやつ?』
『どうだろ。もっと重い女はいると思うけど』
『まぁ、でも俺は藍花ぐらいがちょうどいいな。飯も美味いし、干渉してこないし、あとは――』
『きゃっ、ちょっとまだお皿洗ってるんだけど』
『じゃあ洗い終わるまで待つよ。どうせそういうつもりで呼んだんだろ?』
『まぁ……ね』
そこで再生は止まる。
「というわけで、私に彼氏を寝取られたーなんて、被害妄想はやめてもらっていいかな? あんたの彼氏から誘ってきてるんだよね。それを何故か自分の彼氏は悪くない。悪いのは全部あの女狐のせいだーって決めつけるあたり、自信も自意識も過剰摂取気味のデブ乃としか言いようがないね。これでわかったでしょ? あんたの彼氏はあんたのことなんて好きじゃないんだよ」
にぃ、と嗜虐的に嗤う。
「うそ……」
膝の力が抜けて、私はその場にへたり込む。
「んーんー嘘じゃない嘘じゃない。これはほんとの話。っていうか私さ、さっき蓮乃に二回も叩かれたんだけど。ね、ここ見て、赤くなってるよね?」
「そんな……」
私はもはや藍花のことなんて眼中になかった。今しがた聞いた声が私の頭を全て塗りつぶしてしまったみたいに思考が硬直してしまっている。
私はこの女が悠一をたぶらかしているのだと思っていた。悠一はあくまで騙されてしまっているのだと。でも違う。先ほど聞こえてきたのは紛れもなく――、
ぱぁん。
音が聞こえたと同時に、顔が強制的に右を向く。遅れて左の頬がじんじんと熱を持って私はビンタされたことを知る。
「話聞いてる? ここ、赤くなってるよね?」
自分の頬を突き出して私に見せてくる藍花。私は、何が何だかわからずとりあえず頷く。
「誰がやってくれたんだっけ?」
「わ、わた、し……」
「だよね。だったら、せーしんせーい、だよね?」
「でもっ……」
パァン。先ほどよりも強い音がしたと思ったら、今度は左を向いている。
「口ごたえする気?」
「い、痛い……」
「私も痛かったんだけどなぁ」
ざり、ざり、と上履きがコンクリートと擦れる音が鼓膜を荒く撫でる。
すぐ近くまで歩み寄ってきた藍花は地面で項垂れる私を見下ろす。
藍花の表情は逆光になって見えない。
「ほら、せーしんせーい」
「ひっ……」
怖い。真っ直ぐな敵意と害意がこんなにも身体を竦ませるなんて思わなかった。
そんなことを考えるいとまも無く、私は無理やり頭を押さえつけられる。
「はやくぅー。昼休み終わっちゃうんだけどー」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい!」
「もっとちゃんと。具体的に」
「ビ、ビンタして、すいません、でした……」
地面に額をつけてひたすら謝る。
「声がちぃさーい」
「ビンタして、すいませんでしたっ」
やけくそ気味に声を大きくする。
今の私はこの上なく惨めな姿で地面に蹲っているんだろう。その様を自分で見なくて済むのは救いだった。
「……ま、これくらいで許してあげる。別にチクりたかったらチクっても良いけど、何も証拠がない以上は私を疑う人間なんていないから時間の無駄だと思うよ。じゃね。彼氏に愛想尽かされた出海蓮乃さん――」
その様を見て満足したらしい藍花は晴れやかな笑顔を浮かべながら屋上から去っていった。
残されたのは、呆けたままの私独りだけ。
私、独りだけだった。
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