第14話 御影悠一の事情1/2
家では僕、学校では俺、そんなふうに一人称を使い分けていると、いつの間にかどちらも使うようになってしまった。だけど俺は結局、家で「俺」と言えないあたり、未だにあの檻の中に囚われているのだろう。
幼い頃から矯正に次ぐ矯正の連続だった。
親が求める理想のために俺という人間の個性は、芽吹く前にあらかた摘まれ、代わりに『理想』というラベルでデザインされた人工製の種を植えられた。
野球ではなくてバスケをやりなさい。
あの子ではなく、あっちの子と仲良くしなさい。
『パパ』『ママ』ではなく『お父さん』『お母さん』と呼びなさい。
自分のことは『僕』と言いなさい。
ゲームをしてはいけません。本を読みなさい。小説を読みなさい。漫画を読んではいけません。
毎日何があったか報告しなさい。テストで満点を取らないとお仕置きです。
うちには何をするにしてもルールがあって、それを破ると容赦なく手を上げられた。
そうやって言葉で俺を縛り、暴力で俺を支配する。
そんな家にずっと住んでいると、大抵は段々と欲がなくなり日々を緩慢に過ごすようになってくるが、俺はただひたすらに我慢を続け、歳を重ねるたびに増える『外』の時間を有効に使って、うちに溜め込んだ欲求を発散していた。それも、誰にも気づかれないように巧妙に。
「なんだったんだあいつ……」
去っていく蓮乃の背を見ながら、俺は体育館の壁に背を預けて空を見上げる。本当は部活に行かないといけないが、もはやそんな気分ではない。それに俺はずっとバスケじゃなくて野球がやりたい。もっと言えば勉強がしたい。中間テストが駄目だった分、期末で取り戻さないと飯抜きでは済まされなくなる。
「あー……くそっ。マジで意味わかんねぇ!」
自分を取り巻く環境のことを考えると無性にイライラしてしまって、俺は体育館の壁を蹴り飛ばす。普段はあまり暴力的ではないが、本来の俺はもっと粗野な人間だ。こういうところは蓮乃には見せられない。
蓮乃が好きなのは『僕』だからだ。
いっそのこと全部を振り切って自分の思うままに生きてやろうかとも思うが、所詮、高校生の身分でできる自立なんて大したことはない。
ないない尽くしの人生に嫌気が差したこともあって、いっそ自殺でもしてやろうかと思っていた時期もあった。
「あほらし……バイト行くか」
家にも学校にも居場所がない。
となると、できるのはせいぜい隠れて金を稼ぐことだけだ。
***
「お疲れ様でーす」
「あれ、悠一くん、今日は休みじゃなかったっけ」
「すんません、部活サボってきました。今からいいっすか?」
「うちとしては助かるよー」
学校からそれなりに離れた場所にある一軒の喫茶店。
そこが俺の仕事場だった。昼過ぎから夜まで開いており、夜は酒の提供もしている。カフェバーみたいなものだ。
店の主である
俺は手早くエプロンを付けてフロアに出る。
店内は狭く、店も茜さん一人で回している小さなものだ。だからスタッフも俺一人しかいない。
「っていうか部活サボっちゃっていいの?」
「いいんすよ。そんなにガチなわけじゃないんで」
茜さんは俺よりも五つ年上の二一歳だ。自分でアルバイトして貯めたお金でこの建物を借りてカフェを始めたらしい。いまはもう大学を中退してこの店を一人で切り盛りしている。
「ふーん。で、藍花とはどうなってんの?」
「いやまぁ、ぼちぼちですよ」
「あの子もアンタと一緒にいると楽しそうだからね。大変な妹だけど仲良くしてやって」
「あぁ……はい」
嘘だ。藍花は普段俺と一緒にいても基本的に無表情だ。そもそも感情が表情に出ないタイプだと思っていたけど姉である茜さんの前ではいつも楽しそうに振る舞っている。前に一度なぜ茜さんの前ではそんなふうに振る舞うのか尋ねたことがあるが、「心配させたくない」の一点張りで何も教えてはくれなかった。
小さい店だけど、毎日近所の常連が足を運ぶためそれなりに忙しい。
掃除や仕込みなどをして準備をしていると、徐々になじみの客が訪れ始める。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「いいっていいって。ここの紅茶とお菓子を食べるのがおばさんの午後の楽しみなんだから」
「いつものですね。かしこまりました。空いているお席にお座りください」
「はーい。おっ今日はイケメンくんも来てるんだ」
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ。美男美女と一緒ティータイムを過ごせるなんて豪勢なことだよ」
大体、常連のお客さんとはこういう会話を繰り返す。男女比は午後は女性、夜は男性が多い。
そんなこんなで日が暮れ、一旦店を閉める。22時ぐらいからスナックバーとして再度店を開けることになる。ちなみに俺は普段、ティータイムの半ばから手伝い始め、スナックの準備をして帰るシフトになっている。
「今日もありがとー。助かったよー」
「お疲れ様でした。明日は流石に部活に出るので来れません」
「おっけー。また手伝いたくなったら手伝ってよ。これ、今日の分ね」
「いや、もらえないっすよ。急に来たのに」
「なんで? 働いてもらったぶんはちゃんと払うよ」
「でも俺は……」
俺は逃げてきたんだ。部活にも勉強にも、何もかもに両親の思惑が入り混じっていて、そんなもので埋め尽くされた環境から逃げたかった。
「悠一くん」
ぎゅむっと頬を両手で挟まれる。
「最初に出会った時のこと、覚えてる?」
「……ふぁい」
「言ったよね。タダ働きはさせないって」
「…………ふぁい」
茜さんはお金に関しては厳しい。どれだけ断ってもちゃんと働いた分の給料は出してくれる。俺を一人の人間として見てくれている気がして、それがとても嬉しかった。
そんな俺が茜さんに惚れるのは当然の流れといえば当然だと言えた。
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