第8話

 家には誰にもいない。

 両親は共働きでたいてい外でご飯を食べて夜遅くに帰ってくる。たまに早く帰ってくることもあるが、家族のライングループを見ると今日もいつもと変わらなさそうだった。


「この辺りはオリジナルと全く同じなんだね……」


 おおむね記憶通りに進んでいる。放課後は全く異なる流れの中に、ぽつぽつと同じ部分が見える程度だったのに。

 ――一度、情報を整理しようか。


「クピド、いる?」

「僕はどこにでもいるよ」


 再び私の肩口から声が聞こえる。

 クピドは背中の翼をはためかせて、ダイニングテーブルに降り立つ。

 少年のようなあどけない顔、金髪碧眼、天使が着ているような真っ白な服装に真っ白な翼。

 語り口調は芝居がかっていて、回りくどい言い方をする。

 それに、どことなく尋常じゃない存在感というか、こっちを圧倒してくる凄みのようなものも感じる。

 見れば見るほど不思議な生き物だった。……生き物なのかもわからないけど。


「クピドはお腹減ったり、喉乾いたりしないの?」


 私は気になって聞いてみる。


「僕は人間じゃないからね。君たちみたいに飲食はせずとも問題はない」

「そうなんだ」


 私はグラスに注いだ麦茶を一口飲む。ひんやりとしていて美味しい。これからもっと美味しくなる季節がやってくる。


「この美味しさがわからないなんて人生? 天使生? わかんないけどとにかく損してるねー。ちょっと飲んでみたら?」

「いや、いいさ。僕らには僕らの嗜好があって人間とは少し違うんだ」

「そうなの? なになに、何が好きなの?」


 私は興味津々に尋ねてみるけど、クピドはふっと笑みを浮かべて受け流す。


「それはまた機会があれば話そう。それよりも今はやることがあるのではないかな?」

「あ、そうだった。とりあえず一回情報を整理したいんだよね。まず、クピドは二四時間だけ時間を巻き戻せるんだよね」

「そうとも」

「で、私は一日前に戻ってきた。悠一があの女に奪われるのを防ぐために」

「そうとも」

「悠一は今夜、あの女の部屋に向かっていた。だから私はそれを止めるために悠一とご飯に行く約束をした」

「そうとも」

「そして今に至る……と。これ、そんなに複雑な話じゃないよね?」

「まぁ正直整理するまでもなかったかもね」


 クピドは軽く笑う。


「うーん、でもなんか頭こんがらがってきちゃってさ……。そういえばそもそもなんでクピドは私を助けてくれるの?」

「別に君を助けているわけじゃないさ。僕は僕のために君に近づいたのだからね」

「どういうこと?」

「一言で言えば、修行の一環ということになるのかな? 僕が天使であることはもう言ったと思うけど、そもそも天使というのは神様に仕えているものなんだ。当然僕もそのうちの一人で、主である神様もいる。その神様が僕に「下界を見て見聞を広めよ」と仰ったのさ。それで僕はこの世界に来てしばらく過ごしたあと、君と出会ったってわけ」

「ふぅん……」

「君を助けるのは君であって僕じゃないんだ。僕にできることは人と人を繋ぐ糸に綾を生み出すことだけだからね」


 だから僕に頼りすぎるのも良くないんだけど、君はその心配も必要なさそうだ、とクピドは言った。


 どうやら天使には天使の役割があって、その役割を越えてまで何かをもたらすことができるほど尋常じゃない存在ではないらしい。

 そういう意味では私たちととても似ている。学校でも一人一人見えない紙に書かれた役割を顔に貼られ、知らず知らず、その通りに振る舞っている節がある。


「大変だね」


 私は思わずそう溢していた。この小さな天使が背負っているものの重さがほんの少しわかった気がして、なんというか他人事に思えなかった。

 クピドはまんまるな目をパチクリと瞬かせると、頭の後ろをかきながら照れ臭そうに笑う。


「気を遣ってもらって悪いね、ありがとう」

「……うん」


 クピドと出会ってまだ一日にも満たないくらいの時間しか一緒にいないはずなのに私はこの幼くて大人な天使との間に確かな絆が芽生えているのを感じた。


***


 日が暮れた。

 薄暗い藍は燃えるような茜をあっという間に飲み込んで、ここからは自分の時間だと主張するように空を染め上げていた。

 私は一人、学校への道を歩く。自転車を使わないのは悠一が電車通学だからだ。できるだけ長い時間一緒にいた方が藍花の部屋に向かう可能性も低くなるだろう。

 普段はこんな時間にこの道を歩かないから、まるで違う街に辿り着いてしまったのかと錯覚してしまう。


「それはこの服だからっていうのもありそうだけど……」


 今の私は制服ではなくて、お気に入りの服を着ている。トレンドのカジュアルスタイルで全身をコーディネートしつつ、トートバッグも統一感のあるカラーリングが施されているものを選んだ。


「悠一、喜んでくれるかな……」


 あまりにあからさまなオシャレは避けてきたつもりだけど、折角の夜デートなんだからいつもと違う私を見てほしくて普段は着ないタイプの服を着てきた。

 悠一は私を見てなんて言うだろうか。内心照れながらも、平静を装って「かわいいね」なんて言うだろうか。それとも見るからに顔を赤くして「いや、ちょ、可愛くて……」って焦るのだろうか。それとも、ほうっと感嘆の息を漏らして見惚れてくれるだろうか。


 私は愛しい恋人の反応を夢想しながら学校への道を急ぐ。

 この道の先に、私の望む結末があると信じていた。


「――――♪」


 鈍いバイブレーションと共に着信音が鳴る。バッグの中からスマホを取り出して画面に表示された名前を見る。――悠一。

 私は慌てて電話に出た。


「もしもし?」

『あ、もしもし、蓮乃? 今どこ? もう家出てるかな?』

「うん。どうしたの?」


 今は、学校まではおおよそ十分ぐらいのところにいる。待ち合わせ時間には問題なく間に合うだろう。

 けれど私の言葉に対して悠一は何も言わない。不可解な沈黙がスマホ越しに私のところへ伝播してくる。なんだか、途轍もなく嫌な予感がした。呑み込んだ生唾が喉の辺りで引っかかって気持ち悪い。

 何も言わない悠一に代わってこの沈黙を埋めなければならないと口を開こうとした時、ちょうど悠一の声が耳元から聞こえてくる。


『あー……。ほんっとうに申し訳ないんだけど、ご飯行くってやつキャンセルしていいかな? 部活が思ったよりハードでさ。早く帰って寝たいんだ』

「――――っ」


 ひゅっと空気が流れる音がした。それは私が息を吸った音だった。

 背筋が一瞬だけ冷たく感じて、その後はじんわりと嫌な汗が広がっていく。

 悠一が私との予定をキャンセルするなんてことは今まであり得なかった。空いていれば遊んでくれるし、空いていないならしっかりと断る。あり得ないはずの事が今、起きていた。


 ぴり、と刺すような痛みがこめかみの辺りを貫く。


――痛い。


 ずぶ、と泥のような深みに足を取られる。


――重い。


 キーン、と黒板に爪を立てたような音が鼓膜を震わせ私の大事な部分を擦り減らす。


――うるさい。


『もしもし? 蓮乃? 聞こえてる?』

「う、うん……」

『本当にごめん。この埋め合わせは必ずするから。また明日』

「ま、待って!!」

「……どうしたの?」

「ご飯は一緒に食べられなくてもさ、一緒に帰ろうよ。私もうすぐ学校着きそうだからさ。せっかくだし、ね?」


 藁にもすがる思いでそう切り出す。


「……ごめん。本当に疲れているんだ。正直、楽しく話せないと思う。申し訳ないけど、今日は帰ってくれないかな」

「…………そう、わかった」


 気を抜いたら震えてしまいそうな声を無理やり平坦に抑える。

 悠一は、あからさまに安堵の息を漏らすと、


『じゃあ』

「ねぇ、悠一」

『……なに?』

「好きだよ」

『どうしたの急に』

「んーん、言いたかっただけ。悠一は――」


 私のこと好き?

 そう聞こうとして、私は途中で口をつぐむ。私は何を言おうとしているのだろう。まるで悠一を信じていないみたいじゃないか。それに……もし、私の望んでいる答えと真逆の言葉が返ってきたらきっと私は正気でいられない。


『僕は?』

「私の……私の大切な彼氏だよ」

『……うん。蓮乃も僕の大切な彼女だよ。またね』

「うん、ありがとう……また明日」


 私がそういうと通話は切れた。

 街灯が青白い光を申し訳程度に道を照らしている。

 よく見ると大小様々な羽虫たちが光に呼び寄せられるように集まっている。見ているだけで気色が悪い。虫は元々苦手だったが、今の感情には同族嫌悪も入っているかもしれないと思った。


「…………悠一」


 予定は覆された。それは私の考えた計画にほつれが見えるということだった。

 もはや、予感は確信に変わりつつある。私は踵を返すことなくそのまま学校へと向かう。足は自然と早歩きとなり、何かに突き動かされるように走り出す。

 学校に着くと、運動部は既に帰ってしまったようで、職員室の明かりだけが煌々と灯っていた。外には全く人気のない学校を通り過ぎて、そのまま街の反対側へ私は足を伸ばす。


 なんで。なんで。なんでさ。


 機械的に足を動かしながら私は頭の中で何度も反芻する。

 元々の過去では私は、悠一となんの約束もせず家に帰っていた。だけど今回はちゃんとセッティングをした。予定をおさえた。なのに今こうなっているということは、そうなることがよほど強い力で定まっているとしか思えない。どれだけ別の道を選択しても結局はそこにたどり着く。


――それって、悠一とあの女の縁がそれほど強く結びついているということ? そんなの、そんなの、そんなの!!


「認められるわけっ……ない!!」


 苦しげに漏れた声が夜の空気に溶けていく。

 走るのには向いていない服装だったけど、そんなこと気にしてる余裕はなかった。私はできる限り速く、その場所に向かわないといけなかった。

 遠くで車の音がする。車通りの多い大通りからは離れたところにある付近の住宅街。人の通りも少なくなった時間帯、私の足音だけが響き渡る。

 そして辿り着いたのは、一棟のマンション。


「……はっはっはっ、はぁはぁ……」


 走るのはあまり得意じゃない上に、体が強くない私にとって、長く走ることは人並み以上の疲労と苦しみを味わうことになる。だけど心はどうしても急いてしまって、足は限界を超えても動き続けた。

 そのおかげで、私は目前に映る景色を目にすることができた。いや、目にしてしまったというべきか。


 マンションの五階。そこに愛しい恋人の姿があった。横顔はライトの加減で見えなくても、背格好、歩き方だけで十分にわかる。


 疲れて眠いから家に帰ると、そう言って私との約束を反故にした彼が、全く別の場所にいた。


「ねぇ――」


 ぽつり。荒い息と共に、唇の間から漏れるのは、遠く離れた場所にいる彼に対する問いかけ。


「なんで、そこにいるの――」


 どさり。膝から崩れ落ちて、せっかくのコーディネートに黒ずんだ汚れが付く。


「なんで、嘘ついたの――」


 はらり。いつかの花占いでちぎった花びらが落ちるように一粒の雫が目尻から溢れる。

 遠く、手の届かない所にいる彼は今、一枚の扉の前で止まり、程なくして扉が開く。部屋の中から暖かな光が漏れる。


『――――』

『――――』


 あの女が悠一と話している。今まで見たことがない人懐っこい笑みを浮かべている。

 私に背を向けている悠一の顔は見えない。でも揺れている肩を見るだけで朗らかに笑う彼の顔が思い浮かんだ。


 二人が何を話しているのか、私には聞こえない。二人には二人の世界があって、そこに私が入る余地は残されていない。


 そのままあの女は悠一を自分の部屋に入れる。距離が近い。ほとんどくっつくようにして二人は部屋に入っていく。扉が閉まると同時に私の網膜を灼いていた暖かな光はなくなり、元の無機質な蛍光灯だけが無感動に――されど平等に光を振りまく。


 涙は雫一つだけ。それからは何も出てこない。

 まざまざと見せつけられていた。


 そして私は知った。


 人は心を抉られたとき、耐え難い痛みを感じるけれど、一瞬で丸ごと引き潰されてしまうと痛みすら覚えず、ただ壊れるのだと知った。


「はは」


 乾いた笑みが溢れる。


「はははは――――」


 一度声に出して笑うと思ったより気持ちが良くて、もうこのままずっと笑っていればいいんだそうしようきっとその方が楽なんだ辛いのは誰だって嫌だから逃げていい逃げていい笑え笑え笑え笑え――。


 何かが軋むような私の笑い声が、私の耳をつんざいてうるさい。私の脳は、私の心を煩わしいものだと判断したらしい。こんな、こんな脆い私が、一体何を成せるというのか。


 その時、耳元で深く沈むような静かな声がした。


「人は――」


 落ち着きがありながら、何も言えなくなる迫力を帯びたその声は、不快な笑い声の中にあって確かに私の耳に届いた。


「人は、心が感情を受け止められない時、涙を流して心を壊さないようにする――」


 声は優しく、慈悲をまとって私の心を包み込む。


「人は、脆いが故に、たくさんの逃げ方を知っている。君は、君の心のために正しい逃げ方を覚えてあげるべきだ」


 切ない声音は、私の柔らかいところを貫いて、思い出したようにじくじくと痛み始める。


 痛かった。

 どうしても痛かった。

 彼の顔、彼の言葉、彼の記憶が、私の脳、私の心、私の体に染みついて離れない。


 痛い。痛いよ。忘れようとしても痛い。覚えておこうとしても痛い。


 だから、どうしても痛かったし――、


 でも、どうしても一緒にいたかった。ずっと一緒にいてほしかった。

 そして、私は泣いた。泣き続けた。生きてて一番いたかったから、ちゃんと泣いていたかった。

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