「見立て」の根幹をついたお腹の空くお話

「見立て」の技法というのは、日本文学史上、私の学んだ範囲では少なくとも江戸時代から明確にありまして、例えば『好色一代男』の井原西鶴時点での俳諧なんて、この「見立て」がなけりゃなりたたぬのです。ええ、西鶴時点の俳諧はまだちょっと上手いこと言ったもん勝ちな節がある。
その後、落語とかでも花が咲いた技法ですね。勿論落語家の皆様方が手ぬぐいや扇子を箸に見立てたり、キセルに見立てたりというところ……なんなら演目の「長屋の花見」だとか「貧乏花見」って言われるやつは、そもそもの内容がこの「見立て」に基づいておりまして、大根のかまぼこ、たくあんの卵焼き……うん、これ以上の薀蓄はお呼びじゃござんせんね。

とはいえ、それらは娯楽としての「見立て」に過ぎず、じゃあ本来的に「見立て」はどこから始まったのだろうと考えますと、ずばり「呪術なのでは?」という私見を持っております。
かの『金枝篇』を記したフレイザーは「呪術」というものを「類感呪術」と「感染呪術」の二つに分けました。
が、結局これは「見立て」の想起の起点を「事象・物体間の類似性」に持たせるのか、「本体と分離体の過去時点での一体性」に持たせるかの話でしかないのです。
「ないものを(そこにあるものを元に)あるように想起する」のが「見立て」であれば、予祝の神事など全て「見立て」であると思うのです。

え? 薀蓄はお呼びじゃないって自分で言っただろ?
うん、まあ、前置きが長くなるのが玉に瑕……とまれ、だからこそ、最初びっくりしたのです。

ミルクレープ、おいしそう!
……からの、そうくるの!

……と、同時に、そんな簡単に使ってええんですか、どう考えても大技だよ、大盤振る舞いでは?(でも物語の始まりに相応しい衝撃でわくわくする、天地開闢想起もできなくはないよね)みたいな気持ちも無きにしもあらず。

さて、「見立て」は「ないものを(そこにあるものを元に)あるように想起する」ので、当然その「見立て」の正しい見方を承知していなければ、物事を誤認するというもの。西鶴のやっぱり『好色一代男』でしたっけ、伏せたすり鉢を見て「この富士山の焼き物はなんじゃろな」してた良家からのお嫁さんの話って。うん、私の中で印象に残ってる例なだけです。

そして、この「正しい見方」とは「見立て」が対象とする事象と結果の間に筋道を通す、いわば「道理のフィルター」と申せましょう。

怪異とはその道理が普通見えぬが故に、「そういうもの」とされるか、「それ以外のもののせい」として見落とされてしまうのが現代の世の常。
そんな現代の世の常たる秩序を守る警察官と、そうした怪異を「正しい見方」で道理を通して、その「見方」に沿って解決への筋道を作る陰陽師、なんていう同じ世界に生きながら、現代において交わることがそうそうなさそうなこのコンビ……いや逆に秩序の中の混沌的なところがあるんじゃないか、この婦警さんの性格。
そう考えるのであれば、混沌に秩序を見出す陰陽師である紡さんと、秩序である警察の中の異端である混沌の桃子さんはまさしく太極図のようにも見立てられるのでしょう。
うん、白と黒に赤を添えるのもデザインとしてはまたありありのアリのものですしね、うん。


……とまあ、長々と好き勝手に書かせていただきましたが、最後に。
これは単純に好みなんですが、時々今昔物語の各話みたいなタイトルになってるの好きです(〜が〜したる語みたいなの、ぴしっと決まる感あって好き)

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