第8話 優しい嘘。

 それから数日後の事でした。彼の会社から私の口座に仕事の報酬が振り込まれ、それと同時に宅配便が届き、その箱の中にはラナンキュラスのアレンジが入っていました。初めて出会った時に貰ったオレンジ色のラナンキュラスの花言葉は『秘密主義』そして、たった今届いた紫色のラナンキュラスの花言葉は『幸福』でした。私は彼と幸福を分かち合う喜びに、嬉しくて胸がいっぱいになりました。


 その日の晩、彼と不思議の国で会うのを心待ちにしていた私は、主人が入浴中にマッチングアプリを開きました。


「ピーターさん。報酬と素敵なお花を有難う御座いました。でも、今回の仕事の報酬は、私には過分だと思いますけど?」


「ほらね、フッフッフ。アリスさん、決して過分では有りませんよ。あなたは素晴らしい仕事をしたのですから。それが、僕の気持ちです。遠慮無く受け取って下さい」


「ピーターさん。もし、よろしければ、もう一度、あの風変わりなカフェで会えませんか。あなたに会って、直接お礼が言いたいの。分かるでしょう?」


「アリスさん。今日のあなたは不思議の国で現実を語り過ぎですよ。あなたは才能に恵まれ、その仕事は素晴らしい。只、僕にも仕事が有ります。買い付けの為、暫くの間、日本を離れます。もう一度、あなたと一緒に不思議の国へ行くその日迄、僕は大草原で遊んでいます」


 私は暫くの間ピーターと不思議の国で戯れる事が出来なくても、淋しくは有りませんでした。レッスンは続いていると信じていましたし、魂の奥の深い所で彼と繋がっていると確信していましたから。再会した時に、初めて大草原で彼を見付けた時の喜びと、出会いの感動を再び感じる事が出来る様な気がして、期待をしていたのかも知れません。


 主人が浴室から出てくると、湯上りの彼の香りが秘密の臭いを掻き消して行きました。


「この花。買ったの?」


「いいえ、仕事のクライアントからです。お礼に頂きました」


「そうなんだ。なんて綺麗な花だろう……優しい香りがとても素敵だね」


「ラナンキュラスって言うの。花言葉は『とても魅力的』で、紫の意味は『幸福』です」


「そう。ラナンキュラスって言うんだ。良いね」


 普段は無関心な主人が感動を口にしたからでしょうか、花の名前や花言葉を嬉しそうに伝えている自分自身に驚いていました。



 彼が海外に買い付けに行き、連絡が無くなって暫くした頃、お店のディスプレイを見たアパレル・メーカーの人から急な仕事の依頼が有りました。勿論、彼のお店の様な作品を作るのでは無く、デパートからの協力を得て、ショー・ウインドウを額縁に各社の製品を競演させて注目を集めたいと云う趣旨のものでした。


 新型コロナウイルスのオミクロン株による第6波の流行が始まり、2月初旬をピークに感染者数は減少傾向に転じたとはいえ、の時期と重なり、買い物客の減少は著しく、陳列販売に苦慮しているアパレル・メーカーにとって、コロナ禍の販売不振は死活問題でした。


 打ち合わせや、商品のコンセプトと展開の確認をする為、地下鉄やタクシーを利用していると、コロナ禍の人々の社会活動はマスクが必須でしたから、街行く人は皆、秘密めいていて、誰なのか分からない匿名の人になっていました。私にはそれが心の声を発してはいけない、罰を与えらえている様に見えました。


 そして、移り行く季節を感じる事も出来ないまま、時間だけが消費されて行く日々を思いながら街を歩いていると、目の前を通り過ぎて行く見覚えの有る古い英国車の中に、買い付けに行ったはずの彼の姿を見つけてしまったのです。


 私は、突き付けられた残酷な現実を受け入れる事が出来ずに立ち竦み、只、呆然と見送っていました。


 嘘を吐かれ、裏切られ、弄ばれていただけだったと知り、胸が苦しくなりました。そして、他人の事の様に自分が可哀想に思えてなりませんでした。走り去って行く彼の車が、大切な思い出まで連れ去って行ってしまう様に感じて、眩暈めまいを覚えました。


 愛美が性的な関係だけを求め、多くの男性と情事を重ねて楽しんで居る様に、彼も又、私以外の少女人形ドールを求めているのだと思いました。



 子供を迎えに行き、何時もの様に買い物をして帰宅をすると、淋しさから涙が溢れて止まりませんでした。自分自身を哀れな女と突き放して笑い者にしても、もうひとりの自分の魂がそれを拒みました。彼が私に嘘を吐く理由など何も無いはずなのに、何故、彼は嘘を吐いたのか。彼のがレッスンであって欲しいとさえ願っている自分に気付かされ、やりきれない思いで胸がいっぱいになりました。



 彼はこのまま嘘を吐き通すつもりなのか、それとも、自然消滅させる気なのか分かりませんでしたが、私は気が付くとスマホを手にしてマッチングアプリを開き、通信相手ピーターが不在のままタイプをしていました。


「ピーターさん。あなたは大草原で遊んで居るのでしょう? そのまま遊んでいて構わないのよ。でも、私は街であなたを見付けてしまったの。だから、もう終わりにしましょう。永遠にあなたの奴隷のままで終わりにしたい、それが私の願いなの。素敵なレッスンを有難う。さようなら」


 もうひとりの自分を言い聞かせる様に、何度も何度も書き直しては、読まれる事無いメッセージを綴っていました。







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 Insert song Erik Satie  Gymnopedies #1 ~ Gnossiennes #1,3,4,5




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