第3話 ピーターと不思議の国へ。

 彼女は私の目の前にグラスを置くと、美しいクリスタルのピッチャーから水を注ぎました。


「御注文は? 何をお飲みになります?」


「こちらのお店は初めてなので……何がお勧めかしら?」


「あぁ、それなら僕に任せて下さい。こちらの女性にワイルド・コピルアックを、僕はキューバ・クリスタル・マウンテンをお願いします」


「かしこまりました。それでは少々お待ち下さい」


「ワイルド・コピルアックって……何かしら」


「ほらね、フッフッフ。ワイルドと言うのは人工的に飼育されたジャコウネコではなく、野生に生息しているジャコウネコだからですよ。野生のジャコウネコが食べたコーヒーの実が体内酵素で熟成され、未消化のままフンとして排泄され、それをキレイに浄化したコーヒー豆です。ジャコウネコの最高の風味と神秘的なテイストが楽しめますよ」


「ふぅ、面白いチョイスね。ピーターさんの見立てでは、それが私にふさわしいのかしら? でも、どうして同じ物を頼まなかったの?」


「それは、来れば分かりますよ」


 暫くするとコーヒーが運ばれて来ましたが、私には理由が分かりませんでした。すると、私の怪訝な表情を見て彼は微笑みました。


「最高の男の体臭は白檀サンダルウッドの香り、最高の女は麝香じゃこうの香りと言うでしょう。このふたつのコーヒーの香りがこの部屋の中で混じり合い溶け合うのを堪能するためですよ」


「良い男の匂いが植物由来で、良い女の芳香が動物由来と……」


 火傷をしない様にコーヒーを唾液で包むようにそっと舌に乗せて味わい、喉へ流し込むと熱い物が身体の芯を突き抜けるような感覚に襲われました。ほのかに感じる香り、心地よい酸味と甘み、上品でなめらかで後から追い駆けて来る独特の旨み、苦味にキレが有るのに深い余韻を感じさせる複雑で独特な味わい。このテイストが私だと想像しているのなら、それは彼の期待と願望の表れに違いない、そう思うと私は彼とのセックスを妄想せずにはいられませんでした。


 愛美は私に恋愛感情の全く無い、肉体だけの関係こそが純粋に性的衝動リビドーを掻き立て、互いに欲望を満たすだけの火遊びだからこそ良いと言っていましたが、私はマッチングアプリで出会った男性が、自分の性欲を満たすために満たされない女性の相手をするだけの関係なら帰ろうと決めていました。でも、彼は幾重にも甘い罠を仕掛けて来て、何か倒錯した性的嗜好の持ち主の様な気がして帰れなくなっていました。


 後戻りできない程、彼に惹かれてしまったのです。常に何かを妄想させるエロティックな存在に、その倒錯した性的嗜好を知りたい、体感したい欲望を止められなくなっていました。満たされない何かが、何時も何かを待っている私の魂を震わせていたのです。コーヒーを飲む時に彼の唇からチラッと見える舌先に、私の身体は敏感に反応していました。


「さぁ、行きましょう」


 彼はジャケットを羽織り、ストールを巻くとコートに袖を通し、マリンベレーを被りました。その姿に見惚れていると、部屋の奥のクローゼットの中に仕舞っておいた花束を取り出し私に手渡してくれました。


「ラナンキュラス……花言葉は『とても魅力的。晴れやかな魅力。光輝を放つ』だったかしら?」


「良くご存じですね、アリスさん。ふわっとした薄い花びらが、開けば開く程……美しい花ですよ」


「この色の意味は、確か……」


「オレンジ色のラナンキュラスの花言葉は『秘密主義』です」


「『あなたにふさわしい』そう言いたいのかしら? でも『私達』でしょ? ピーターさん」



 カフェを出ると駐車場まで少し歩き、彼の車に乗りました。クラシックな英国車は主人のMercedesを味気の無い、只の機械の様に感じさせました。彼はラブホテルに行くようなタイプではないので、きっと、シティホテルの高層階だろうと想像していると、信号が赤になり止まりました。


「アリスさん。お互いに何も知らない方が良いでしょう?」


 彼はそう言うと、私に目隠しをしました。そして、暫く走ると地下の駐車場に入った様でした。


「ここは僕のマンションなのです。このエレベーターは直通ですが、ベッドルーム迄、そのままでお願いします」


 彼は目隠しをされた私の手を引いてエレベーターに乗りました。不思議ですが恐怖感は全く無く、むしろ日常で経験した事の無い、初めての出来事に興奮し、楽しんでいたのかもしれません。


「ウフフフッ。ほらね。やっぱり不思議の国に連れて行くのは……ピーターさん、あなたでしょう」


「アリスさん。此処は野兎のねぐらですよ。さぁ、着きましたよ。どうぞ此方へ」


 彼の部屋に入ると、目隠しをされている事で嗅覚が敏感になっていた私は、適度な湿度と木の香りに心が落ち着き、男性の部屋の独特の臭いに安らぎを感じていました。そして、堅いフローリングの床が柔らかい絨毯に変わり、そこがベッド・ルームだと分りました。中に入ると彼の体臭を感じて、頭がぼんやりとしました。


「アリスさん此処に座って下さい」


 彼は私をベッドに座らせると、優しくキスをしてくれました。そして、その余韻に浸る間も無く、右手、左手の順で手かせを着けてロープで引っ張り、両腕を固定しました。私はベッドの中央で膝をつき、両腕を吊り上げられて、まるではりつけにされたキリストの様でした。


「ピーターさん。私の腕を天井から吊り下げてどうするつもり? 私はコートも脱いでいないし、ヒールも履いたままですけど?」


「アリスさん。美しいラナンキュラスの花には……蝶がふさわしいと思いませんか?」


 私は冷静を装っていましたが、蜘蛛の巣にかかった蝶の姿を想像すると、死の欲動と性の欲動を同時に感じていました。彼は獲物の皮を剥ぐ様に、コートのボタンを外し、ジャケットのボタンを外し、ブラウスのボタンをゆっくりと外して行き、ベルトを外し、ウエスマンのフックを外し、ファスナーを下げてスカートを膝まで下ろすと、ブラウスの残りのボタンを外すのを、じっくりと楽しんでいる様でした。






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 Insert song Erik Satie  Gymnopedies #1 ~ Gnossiennes #1,3,4,5




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