第2話 大草原で捕まえて。

 サムネイルはブランクのままでハンドルネームをアリスと書いただけなのに、ピーターと名乗る男性が『不思議の国のアリス』と言い当てた事に驚き、運命の出会いの様な錯覚に陥ってしまい、返信せずにはいられなくなってしまったのです。


「初めまして、アリスです。ねぇ、ピーターさん。アリスを不思議の国に連れて行くのは、あなたの役目では無いのかしら?」


「アリスさん、僕はボウタイもしていなし懐中時計も持っていないのです、草原で人参を食む、只の野兎です。だから、連れて行く事は出来ないのです」


「ねぇ、ピーターさん。あなたの中ではアリスはもう一度、あなたを連れて不思議の国に行くのかしら?」


「そうですよ。不思議の国から戻ったアリスの案内で、再び不思議の国へ行くのが僕の役割ストーリーなんです」


 私は、からかっているのか、からかわれているのか分からないその会話に、何故か心を惹かれました。気が付くと毎日、彼と会話チャットをして楽しみ、ピーターからの連絡を心待ちにする様になっていました。そして、どちらからともなく会おうと云う事になりました。


「代々木上原駅の南口にピグマリオンと云うカフェが有ります。そこに、三時で如何でしょうか? 僕は目印に大草原で摘んだ花を持っています。明日、アリスさんにお会い出来るのを楽しみにしています」


『気に入らなければ断れば良いだけ。簡単でしょ?』愛美にそう言われていたからでしょうか。私は主人には仕事と嘘を吐き、暑いシャワーを浴びて丁寧に髪と身体を洗い、ブローをして、もう使う事が無いと思っていても捨てる事が出来なかった高級ランジェリーを躊躇なく身体に着けると、身体の芯が熱くなるのが分かりました。そして気が付くと入念にメイク・アップをしていたのです。


「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ」


 待ち合わせをしたカフェの店内はジュモーやブリュ・ジュン等のアンティーク・ドールに囲まれ、そこかしこに置いてあるフォト・スタンドの写真はハンス・ベルメールでした。待ち合わせで相手を確認して気に入らなければ、素知らぬ顔で帰れば良い。


 ピーターは私を知らないのだから。


 そう思って店内をさりげなく見廻すと七人程の男性が居て、ひとりは入って来た私と目が合うと、つま先から顔まで嘗め回すように視姦しました。通り過ぎて行く私のお尻を追いかける視線を感じましたが花は持っていませんでした。


 取り敢えずカウンター席に座りピーターを探しましたが、ノートパソコンを開いているビジネスマンも、スマホを操作している大学生も花は持っていませんでした。残りの男性達も待ち合わせの彼女や友人が来て、出て行ってしまいました。


 ピーターは最後に残されたロマンスグレーの男性に違いないと思い、確認の為に席を立ち、化粧室に向う振りをして近付き、わざとハンカチを落として確認しましたが、その男性も花を持っていませんでした。


「お客様。化粧室なら、あちらで御座います」


 お店の人が手のひらで案内をした方を見ると、カウンターの脇の通路の突き当りに化粧室が有りました。私は行きがかり上、用も無いのに化粧室に入り、ドアを閉めると「騙されてしまった」と思いました。そして、もしかしたらピーターは何処かで私を観察して嘲笑っているのかもしれない。そう思うと、鏡に映る自分を見て悲しい気持ちになりました。


 髪を洗い綺麗にセットをして、何時もより時間を掛けてメイクをして、フランス製の高級ランジェリーを着けて居る事をオーデコロンの香りが否応無しに思い出させて胸が苦しくなりました。


 そして、席に戻ろうと化粧室を出た時でした。左手に通路が続いていて、その先に紳士用の化粧室が有る事に気が付きました。通路は丁度、厨房を時計回りに一周する様な作りになっていましたので、私は吸い寄せられる様に通路の先へ進みました。すると、紳士用の化粧室から客席に戻る途中に小さな古めかしいドアが有り、そこには特別室と書いた真鍮のプレートが付いていました。


 私は騙されついでにと開き直り、その特別室を覗いてみようとドアノブを掴み、静かに捻ると、ロックが開錠されたのかガチャッと大きな音がして心臓が止まりそうになりました。その事が切っ掛けでスイッチが入ったのか、ドクンッドクンと鼓動が聞こえる程、激しくなり、押さえる事が出来ませんでした。


 私は胸の高鳴りを信じてドアを開きました。すると、直ぐに目に入ったコート・ハンガーにはメルトンのコートとカシミアのジャケット。マリン・ベレーにストールが掛けて有りました。ゆっくりと開いて行くドア越しに、そっと身を乗り出してテーブルに目をやると、ゆるやかなウエーブの髪をサイド・バックにした男性が足を組んで本を読んでいました。彫りが深く神秘的な瞳に、ナイフで削った様な鼻筋の下の唇は女性の様に艶やかで、パウダー・ブルーのシャツに優しいアンティーク・カラーのロイヤル・スチュアートのタイを緩く締め、フェアアイル のベストに、グレー・フランネルのパンツ を合わせ、美しいダーク・コニャックのコードバンの編み上げブーツを履いて居ました。


「特別室にようこそ。アリスさん」


「あら、ピーターさん。あなたは特別室で待っているとは言わなかった。意地悪なの? それとも、何かの試験テストかしら?」


「そうでしたね、アリスさん。でも、どちらでも有りませんよ。この部屋は、あなたにふさわしいでしょう?」


 特別室の中は少し照明を落としていて、窓から微かに差し込む光はステンド・グラスによって日光のノイズを取り除かれていました。トリポットティーテーブルの上には、18世紀のアンティーク・ボヘミアガラスの花瓶に花が生けて有り、その隣のガレのランプが不思議なほど調和をしていて対を成している様でした。


「ピーターさん、掛けても良いかしら?」


「勿論ですよ、アリスさん。どうぞお掛け下さい」


 ピーターは起立して私の椅子を静かに引いて座らせてくれましたが、着席した私の正面にはバルテュスの『ギターのレッスン』が掛けて有りました。目を背けようとする私の背後をゆっくりと回り着席すると、ちょうど彼の左耳の横にヴァルヴァが、右肩の上に苦悶か恍惚か分からない表情の少女の顔が有りました。


「ありがとう。ねぇピーターさん、この風変わりなカフェの特別室がどうして私にふさわしいのかしら?」


「どうして? フッフッフ。女性というのは直ぐに理由を聞きたがりますね。さぁ、どうしてでしょうね。それより、コーヒーでも如何ですか?」


 彼がテーブルの呼び鈴を鳴らすと、豊満なバリスタが注文を取りに来たので、私は慌ててメニューを開きました。







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 Insert song Erik Satie  Gymnopedies #1 ~ Gnossiennes #1,3,4,5




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