第9話 過ぎ去って行く時の中で。

 彼と連絡が取れないまま何週間か過ぎました。私は最後のメッセージを送信するために来る日も来る日も、彼からの連絡を待ち続けましたが、連絡は有りませんでした。新しい少女人形ドールを手に入れて私の事など忘れているのかもしれない。もう、私の事に興味が無くなってしまったのだと思っていました。


 見捨てられた私には仕事だけが救いでした。仕事をしていれば気が紛れましたから、忙しくする事で彼の事を忘れ様としていました。お家時間でひとりで家に居たのなら、気が変になっていたかもしれません。


 からに移行する様に、季節が私の心を変えて行くのが分かりました。マネキンが重衣料の重さから解放され、発色が鮮やかで軽快な春の洋服に着替え、明るい表情をして輝いている様に、新しい季節の到来に心を躍らせていました。一日の仕事を終えて帰宅をすると、以前の平和な家庭に戻っていましたが、彼のお店のディスプレイのお陰で仕事の依頼が来たと云う事実を変える事は出来ませんでした。


 私が一家団欒の中で何事も無かったかの様に振舞い、元通りの生活を取り戻そうとするのとは裏腹に、主人は日に日に表情を失って行きました。


 私が見るに見かねて、何か心配事でも有るのかと聞いたとしても、彼が何も答えてくれない事を私は知っていました。仕事柄、患者の個人情報の取扱いに細心の注意を払っていたからだと思いますが、主人は仕事の事も、プライベートな人間関係も家では一切、口にしませんでしたから。


 不思議の国で戯れる事も無くなり、彼の事を忘れかけていたある日、主人が入浴中に子供の服を畳んで片付けをしていると、突然、電話が鳴りました。夜遅い時間に家に連絡が有る事を不審に思いましたが、受話器を取ると、電話は大学病院からの緊急連絡でした。主治医である主人のスマホを鳴らしても出ない為、自宅に連絡をして来た様で「患者の容体が急変した事をお伝え下さい」と言われましたので「入浴が済みましたら、折り返す様に伝えます」と言って受話器を置きました。


 主人が風呂から上がり、電話が有った事を伝えると、慌てて寝室のスマホを手に取り大学病院に連絡をして、患者さんの容体の確認を済ませてスマホを置くと、深い溜め息を吐きました。そして、私に着る物を用意させて着替えると、直ぐに大学病院に向いました。



 主人が帰宅したのは深夜でした。既に出掛けた時の険しい表情は消え、何時もの優しい表情を取り戻していましたが、瞳は潤んでいました。


「喪服を用意して。お願いね」


「はい。分かりました」


 主人の言葉に、自分の患者が紹介先の大学病院で亡くなったと云う事を悟りました。私に背を向けてリビングのソファーに座っている彼が、泣いている事が分かりましたが、何と言って声を掛けて良いのか分からず、出来る事と言えば、お茶を淹れる事くらいでした。


 そっとお茶を差し出すと「ありがとう」と言って、口にした湯飲みに涙が落ちるのが分かりました。主人がこんなにも打ち拉がれる姿を見たの初めてでした。そして、亡くなったのは主人の最愛の友だと聞かされ、泣き崩れる主人を思わず抱き締めていました。そして、私の胸で泣く彼を愛おしく思い、朝が来るまで慰めていました。



 その日の朝、主人が出掛けに葬儀と告別式は火葬場の都合で二日後になると言いました。お互いに仕事を抱えてはいましたが、私は憔悴し切っている主人に付き添い参列する事にしました。コロナ禍の影響も有ったのかも知れませんが、主人には患者がいましたから、スケジュールの調整に手間取っている様でした。私の仕事の方は最終段階に入っていましたから、計画通りの商品が納品され次第順次飾り付けをすれば明日には終わる予定でした。



 私は現場に赴き、明日に備え納品されたの商品の検品をして、ショーウインドーの照明の点検をしていると、アートディレクターの彼から一通のメールが来ました。


「美穂さん、お疲れ様です。落ち着いて読んで欲しいのですが、仕事でお世話になった佐藤康孝社長が急逝しました。社員の方から直接手渡したい物が有るので、都合の良い日に御足労願いたいと言付かっています。都合の良い日時を連絡して下さい」


 私は自分の目を疑いました。佐藤康孝という人の死では無く、私の魂と繋がっていたピーターが死んでしまったと云う事が、まるで自分の魂が死んでしまった様に感じていたからなのかも知れません。


 コロナ禍で著名人の訃報を目にする事が日常的になり、人の死を受け入れる事に慣れていたにも拘らず、ピーターの死を受け入れる事が出来ませんでした。マッチングアプリを開き、彼とのやり取りを読み返していると、今でもピーターが大草原の中で生きている様な気がして、送信されないまま保存した自分のメッセージを何度も何度も読み返していました。


 仕事が手に付かなくなった私に、追い打ちを掛ける様に、クライアントから商品の差し替えの依頼が有り、その日の仕事を中断して帰宅する事を余儀なくされました。


 子供の迎えにはまだ時間が有りましたから、そのまま帰宅をして家で寛いでいると、ピーターの事を思い出してしまい、頭から離れなくなっていました。もしもピーターが生きていて、私の事を思っていてくれたのなら、私に何て言ったのだろう「買い付けから帰って来たから会いたい」と言ってくれただろうか。きっと、彼ならお土産プレゼント持って会いに来て、それを私に手渡して「あなたにふさわしいでしょう?」と言って微笑んでくれるような気がしました。






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 Insert song Erik Satie  Gymnopedies #1 ~ Gnossiennes #1,3,4,5




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