第7話 解放された心と身体。

 奴隷になってはいても仕事は仕事ですから、進めて行かなければ成りません。アートディレクターの彼からの指示書には、『クライアントの要望は、出来るだけ話題性の有る作品にして欲しい』と書いて有りましたので、私は二人の彼を苦しめるような作品に仕上げる事を企んでいました。


 オランダの画家 ヨハネス・フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』をモティーフに立体造形をして、目隠しをされ涙を流している少女をアンティークジュエリーで飾り、対になる作品は1m20㎝程の巨大な心臓をリアルに作り、そこに大手通販会社のロゴをエアブラシで書き、AtoZの部分をカミソリで切り開いている形を作り、零れ落ちる金貨が地面に落ちてゴミになって行く作品を仕上げてショー・ウインドウに飾りました。


 完成した作品をお披露目すると、気は確かなのかと激昂して詰め寄るアートディレクターの彼と、激賞する彼の対照的な姿を見て、笑いを堪える事が出来ませんでした。


 私は納品を済ませて奴隷契約に終止符を打ち、帰路に就きました。作品が完成して仕事を終えた充実感と爽やかな開放感に心が軽くなっているのが分かりました。帰宅して子供の顔を見ると、不思議の国から現実に戻った事を再確認しました。


 家を出た時と何も変わない部屋と子供の笑顔。それ迄とは違う別の女になって帰って来た自分に喜びを感じていました。そして、何食わぬ顔をして主人の帰りを夕食の準備をして待ちました。


「お帰りなさい」


「ただいま。帰っていたんだ」


「家を空けてすみませんでした。御迷惑をお掛けしました」


「こっちの事なら、良い子にしていたし、なんて事は無かったよ。君の方はどう?」


「ええ、お陰様で仕事は上手く行きました。クライアントもとても喜んで、お褒めの言葉を頂きましたので」


「そう。それは良かった。気に入って貰えて良かったね」


 私は普段は何も言わない主人が仕事の事を聞いて来たり、感想を言ったりした事に驚いていました。仕事で家を空けた事は何度か有りましたが、私の仕事やプライベートなお付き合いにも今までは何も言いませんでしたから。


 主人が入浴をしている間にマッチングアプリを開き、彼と刺激的な会話を楽しむ事に喜びを感じていたのは、きっと、平和な家庭に秘密の臭いが立ち込めて行くのが快感だったからだと思います。


「アリスさん。素晴らしい作品を有難う。少女の涙が零れ落ちて宝石ジュエリーになるロマンティックな表現が対照的でとても美しい。評判も良いですよ」


「ピーターさん。素晴らしいのは作品だけかしら?」


「ほらね、フッフッフ。アリスさん、あなたは素晴らしかったですよ。束の間でも、あなたを自分の所有物にし、奴隷に出来た事に感謝していますよ」


「ピーターさん。礼など要らないわ。野兎の罠にかかったアリスは今でもあなたの奴隷なのだから……」


「アリスさん。あなたはもう解放されたのです。奴隷では有りませんよ」


「ピーターさん。あなたは私の事を無防備だと言って笑ったでしょう。奴隷契約からは解放されても、私はこれからも、あなたの要求に従うしかない。あなたの奴隷のままよ」


「アリスさん。あなたが僕の奴隷のままでいてくれる事に、心から感謝しますよ。ありがとう」


 主人が浴室から出て来ると不思議の国で戯れる時は終わり、アリスから母であり妻である自分に戻りました。そして、秘密が有る事が、こんなにも私の日常を刺激的にしている事が嬉しくなりました。平和な日常が粉々に砕かれて塵と消えても、世間から後ろ指を指さたとしても、それさえ厭わない程、私は強くなっていた居たのかも知れません。


 私は主人と子供を送り出し、誰も居なくなった家で、彼に出会う前の事を思い出していました。ぼんやりと過ぎて行く時間の中で、手の平に乗るほどの小さな幸せでも充分なのに、それ以上の物を手にしていた私は、物質的にも精神的も満たされていると思っていました。そして、これ以上を求めるのは強欲だと信じて疑いませんでした。


 コロナ禍のお家時間の中で社会の価値観が変化して行き、外出を控えオンライン決済で全てが完結してしまう生活様式スタイルが定着すれば、私の仕事は必要無くなってしまう。自分の存在価値が無くなって行く様な気がして不安だったのです。


 焦燥感に苛まれる中で久しぶりに愛美に会い、マッチングアプリを悪用して火遊びをする事を勧められ、彼女を軽蔑し「身の破滅だから止めなさい」と諭した私がこんなにも彼に惹かれて行ったのは生の欲動以外の何物でも有りませんでした。


 私の心の中は欲しくもない物で一杯になっていた事に気付かされたのです。彼はゴミの中に埋もれて息の出来ない私に救いの手を差し伸べたエロースだったのです。


 子供を迎えに行き、その帰りにスーパーで買い物をして帰宅をすると、主人の帰りを待つだけの日々が遠い昔の事のように感じました。彼の作業場アトリエで過ごした僅かな時間と、目眩めくるめく情事の余韻が愛おしくて、不思議の国で戯れる時に思いを馳せると、スマホに温もりさえ感じていました。


 それから二週間か過ぎた頃でした。週に何日かピーターと連絡が取れない日が有りました。


「ピーターさん。昨日はどうして連絡をくれなかったの」


「ほらね、フッフッフ。アリスさん、あなたは私の奴隷だと言いましたね。なら、問い質したりしてはいけませんよ」


「ピーターさん。不思議の国で……待ちぼうけは嫌よ」


「アリスさん。『快楽とは苦痛を水で薄めた様な物』だと言うでは有りませんか」


 私は、これもレッスンなのだと無邪気に彼の言葉を信じていました。






━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 Insert song Erik Satie  Gymnopedies #1 ~ Gnossiennes #1,3,4,5




 お読み頂き有難う御座いました。


 ★マークまたは❤マークを押して応援して頂けると、とても嬉しいです。


 また、感想やレビューも頂けたら今後の励みになります。


 次回もお楽しみに。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る