第2話

一か月ほど経った、初夏のある日曜日。恭は趣味のバードウオッチングに、出かけようとしていた。野鳥の会に入るほど、野鳥が好きだった。ただ鳥は好きでも、一般的に思われるような【鳥バカ】では決してない。鳥を通して【自然を見る】のが好きなのである。

 そこに、会誌が届いた。県野鳥の会の会誌だった。年に一回、会員の連絡先を載せてある。情報漏れを心配する現代においては珍しいが、やはり、会員同士の連絡には有難かった。連絡先は、珍鳥だけでなく、やはり自然の変化を知る意味で、貴重な情報交換の手段だった。何気なくめくっていると【永岡諒子】と言う名前を見つけた。

“なんだ。諒子ちゃん、こんな趣味があったんだ”

 そう思うと、先日の彼女の、暗い顔を思い出した。

“そうだ。一緒に誘って、元気づけてやろう”

 携帯で連絡をしてみると、『何も用は無いので行く』と言う返事だった。

 次の日曜日、彼女は熊本市から、恭二は天草から。互いに車を走らせ、三角付近で落ち合うことになった。目的地は、戸馳島辺りはどうだろう。海辺の鳥が見られるのではないか。渡り鳥の休憩が考えられそうだった。簡単にウオッチできそうなのは、宇土半島の反対側。国道五七号の海岸には、ウミウやユリカモメが確実に観察できる。一時間後、三角駅で合流した。

「こんにちは」

 手を挙げて、小走りで駆け寄って来るその顔に、この前の暗いイメージは無かった。ホッとして、車に乗せた。ドアを開けて助手席に乗り込む時、爽やかなフレグランスに、一瞬ドキッとした。

「ごめんね、急に電話かけて」

「いいえ、全然です。だって暇なんです」

「でも、諒子ちゃんが、こんな趣味を持っているなんて、ちょっと驚きだったよ」

 駅から十分ほどで、戸馳大橋を右に曲がって、島へ入る。人口千五百人足らず。周囲十六、五キロと言う島に入る。その温暖な気候を生かして、花つくりが盛んだ。若宮海水浴場へ向かってみた。天草・大矢野島や八代方面が望める。八代海に面した砂浜だ。

「いるいる。ほら」

 駐車場に車を止めると、早速、長い尻尾を上下に振りながら、黒と白の目立つ鳥が、せわしく動いている。ハクセキレイだ。しばらく車に乗ったまま、裸眼で探してみる。恭二はもう三十年以上、バードウオッチングを趣味にしており、姿だけでなく【聞きなし】と言う、鳴き声だけでも声の主が何と言う鳥かを当てる技術も持っていて、かなり高い確率で判別できた。

「恭兄ちゃん。あの声は何ですか」

 窓を少し開けて、その声に聞き入る。

「チイー、チイー、チイー」

 甲高い、細い声だった。

「これは、シジュウカラかヤマガラだ。たくさんいるね。すると、ジュリジュリって言う声も聞こえるかもしれないよ」

 そう教えてあげた。

「それって、何と言う鳥なの」

「エナガ。体の半分くらいの長さがある尻尾。可愛い嘴と愛くるしい瞳。僕も好きだよ」

 それを聞いて

「エナガ、エナガ」

 繰り返しながら、図鑑をめくっている。

「カラ類を探した方が早いよ」

「カラ類、ですか」

 少しマニアックだが、小さな可愛い鳥だ。シジュウカラをはじめヤマガラ、エナガ、ホオジロやメジロの類である。正式には、科で細かく分かれているが、似たような習性の鳥だ。猛禽類や爬虫類のエサになることが多いため、科を超えて集団で採餌したり、移動したりする。そうする事で、一つの科でいるより、より早く敵を察知することが出来る。そうやってお互いで身を守りながら生きている。

「どれ、貸してごらん」

 そう言って図鑑を取ろうとした時、手が触れた。ハッとした。柔らかく、温かい。子どもの時、手をつないでゲームをしたり、一緒に帰ったりしている時は、何気なく握っていた。その時は、男の子のように痩せてカサカサだった。今は、完全に大人の女性の手だった。一瞬、当時のことを思い出し、思わず彼女の顔を見た。しかし、そう言う記憶はまるでないかのように、諒子は図鑑だけを見ている。その顔は、少しだけ微笑んでいた。慌てて図鑑に目をやる、恭二だった。

「ほれ、ここら辺だよ」

 順番として、だいたい水辺の鳥から始まり、サギ類に移り、次にカラ類になっている。

「あっ、いたいた。やっぱりエナガだ」

 双眼鏡で見るまでも無く、裸眼で見られる。

「どこ、どこ。あれ」

 慌てて木に目をやる諒子。しかし、時すでに遅い。この集団は、同じ木に数分しか留まっていない。始終動き回り、一本の木のあちこちで採餌する。そして、流れるように別な場所へ移動していく。天敵から身を守る術だ。

「ああ、見えなかった」

 そう言って、口をとがらせる。

「残念。悔しいなあ」

 意地者の顔が、出て来た。

「あいつらは、エサのある場所を、何日かおきに廻っているから、またそのうちに来るよ」

 そう言って慰めた。車から降りて、海岸に行くと砂浜には、ハマシギやコチドリが忙しく飛び回っていた。沖にはユリカモメ。ミズナギドリも、時折水面を滑空していく。

「凄いですね。鳥がいっぱい。双眼鏡なんて必要ないし」

「そうだね。ここは、人も少ないし、鳥たちも安心しているね」

 彼女を促して、浜辺の石に腰掛けた。いつの間にか、日は傾きかけていた。

「ところで、まだ、スーパーのパートはしているの」

 と、彼女を見ると、

「うん。市内の新町でやってますよ」

 と、微笑んだ。恭は息子さんのことが気になっていた。学費がかかるだろう。

「大吾君は、大学はどこ」

「ああ、広島。工学部」

「凄いなあ。広大の工学部か」

「でもね、彼が遠くに行ったおかげで、私は一人になってしまって……」

 八代海の方を見る諒子の横顔に、恭二はある瞬間を思い出していた。

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