第5話

一か月後。今度は熊本市で合流した。彼女の家まで迎えに行った。彼女と鳥がいそうな場所に出かけながら、頭の片隅にある『妻の顔を思い浮かべて、お前の胸は痛まないのか』と言う、誠実な善の恭二の呼びかけに、『俺の気持ちを伝えられさえすれば、すべては終わるんだよ。ここは見逃してくれ』と、頭を下げて知らんふりをした。

 恭二は、自問すれば迷うことが分かっていた。そのカギを開ければ、『妻との【敬虔な愛】に背いて良いのか。彼女は、何も知らずお前を信じて生きている』と、重い言葉が次々に、自分の心に問いかけて来ることは容易に推測できた。そんな言葉を聞いていたら、この三十年にもわたった諒子への思いが、霞んで消え去ってしまう。

 せめて、せめて

『この三十年の思いだけでも伝えたい。それだけでいいんだ』

と、強く願っていた。

そして目的地に着いた。江津湖と言う市民憩いの池に来た。しかし、すでに鳥のことはどうでもよくなっていた。だから、鳥を探す時も、図鑑を見る時も、話している時も、全て上の空だった。想いを伝えるタイミングをずっと、計っていたのだった。

夕暮れも近くなった頃。休んでいた湖畔のベンチで、あまりに動こうとしない恭二に、怪訝そうに諒子が口を開いた。

「恭兄ちゃん。今日はありがとう。もう、遅くなるから帰りましょうか」

「諒子ちゃん、僕ね。僕達が小さい頃に遊んでいた時から、君のことを何となく良い子だな、って思っていたんだ」

 唐突な話にも諒子は、

「あら。ありがとう」

 と、両膝を手で囲ったまま、微笑んだ。つぶらな瞳が一瞬だけ、大きく光ったように見えた。さすがに、息が上がってきた。鼓動が高鳴ってきた。掌に汗がじわっとにじんできた。まさに、女性に気持ちを告白する時の、緊張する瞬間だった。そうだ、今まさに、ときめいていた。

「そして、君が高校生の時、山鹿で会ったでしょ」

 諒子の顔をまともに見ることはできない恭二。言葉に詰まってしまった。いわゆる愛の告白だから、そんな言葉がすんなりと出てくるはずはないし、見つめることなどできるはずもない。

「あ、あの時、胸がドキッとしたんだ。あれは……」

 そこまで言うと、諒子が恭二を注視した。その視線にさらに緊張が高まった。

「あ、あれは……、あれは……」

 顔を思わず背け、一息吐いた。呼吸が荒くなっていて、視線は虚ろになっていた。思い切って息を吸うと、諒子を見た。

「君を好きになったんだと思う」

 諒子は、じっと恭二を見つめていたが、徐にうつむいた。恭二は続けた。

「あの時の気持ちは今も変わっていなかった。思いは、あの時のままだった。ずっと変わっていなかったんだ。この前バードウォッチングに行った時、僕は、その思いが蘇ってくるのをしっかり確かめた」

 一瞬の間があった。

「好きなんだ」

そう口走った途端。恭二はあっという間に諒子にキスをした。自分でも分からないうちに、勝手に体が動いてしまった。その瞬間。体を電気が走った。『きゃっ』小さく声を上げた諒子は、そのまま小さな肩を抱かれ、ずっと身を任せていた。

初夏の風も、夕方には少し涼しくなる。湖面を吹く風が、二人を包んだ。甘い時間がそよ風に乗って、静かに漂っていた。そして湖面は、しばし凪いだ。

唇を離し、頭を抱き寄せた。諒子が腰に両手をまわしてきた。水の香りと髪の香りが合わさって、魅力的で新たなフレグランスになっている。

大きく息を吸って、諒子が離れた。

「恭兄ちゃん。やっぱり……」

 その唇を、指で押さえた。

 諒子の顔をまじまじと見て、ついに言葉にすることができた諒子への気持ちだった。

「諒子ちゃん。せめて今日だけは、僕の思いを受け止めていてくれ。明日からは捨てていいから……」

 諒子は黙ってうなずき、また肩に頭を寄せてきた。かぐわしい香りをかぎながら、優しく抱き寄せ、しばらく黙っていた。時折吹くそよ風の囁きが、耳に心地よかった。ふと気が付くと、辺りはすっかり陽が落ちている。

「帰ろうか……」

 なぜか、自分でも意識しないのに口にしたくない言葉が、自然に出て来た。今日で終わりと言う決意いの表れだと、恭二はほっとした。いたずらに悪へ誘う、もう一人の恭二も、さすがに今回は、心の隙は見つけられなかったようだ。

『もう終わったんだ。自分の想いは伝えられた。これで終わりだ』と。

 しかし、

「恭兄ちゃん。帰りたくない」

 諒子の衝撃的な言葉に、それまでの恭二は、一挙に、しかも簡単に壊れてしまった。あれほど、強い意志で決めたラインを、かくも簡単に踏み越えてしまった。甘いオブラートに包んだ地獄への誘いを、もう一人の恭二は陰で用意していたのか。

 もう止まらない。何も考えられず、無意識のうちにしっかり肩を抱いて、またキスをした。しかし、今度はさっきよりも、確実に、想いを込めて。それから三十分。二人は車に戻って、長く唇を重ねた。恭二にとって諒子の気持ちが、限りなく嬉しかった。久しぶりに胸が高鳴った。初めてドヌーブを見た時のように、周囲が見えなくなった。

「もう……帰らなきゃ……」

 恭二の絞り出す声に、諒子は何も言わず助手席に体を預けて、頭だけを恭二の肩に乗せている。手を握り合っている二人。傍から見ればすっかり恋人同士のようだった。

「帰りたくないけど……」

 諒子は、涙を浮かべている。思わずまたキスをしたくなる恭二。そんな諒子が愛おしくてたまらない。久しぶりに漂う恋の渦の中だった。

「僕も帰りたくない。でも、仕方ない」

 そっと諒子の肩を抱き起こし、助手席に戻した。うつむいたままの諒子。すぐにでも抱きしめたい。しかし、しかしもう駄目だ。今度抱きしめたら、離せないような気がしていた。

 スタートボタンを押し、発車させた。

 天草に帰り着いたのは、十時を過ぎていた。さすがの妻も、途中で携帯に電話したり、ラインをしたりしてきた。バードウオッチングに出かけて、夜遅く帰るのは、あまりにも不可思議だ。妻の心配も当然である。

「いったいどうしたって言うの?ラインにも出ないし、電話もないから心配したわ」

 恭二を見つめる目は、驚きのあまり真ん丸になっていた。

「すまん、北先生に会っちゃって」

 北先生と言うのは、妻の大学時代の研究室の指導教授で、恭二は仕事の関係で知り合いだった。さらに二人とも野鳥の会の会員で、バードウォッチングでもよく出会う仲間のような関係だった。

「北先生と……」

「うん。久しぶりに会ったら、お茶のみに行くことになったんだけど、つい話が盛り上がってね。晩飯まで食べてきちゃった。で、電話しようかって迷ったけど、止まって話すよりこのまま走った方が早いって思って……。ごめん」

 苦笑いしながら美咲を見ると、安堵の表情がうかがえてホッとした。

「それで、先生はお元気だった?」

「あ、ああ。いつまでもお元気で、若いよ」

 キッチンのテーブルでビールの栓を抜きながら、すらすらと噓を並べる自分に、恭二自身が驚いた。

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