第6話

そのまま一か月が過ぎた。あの日。いったん壊れた恭二だが、どうやら互いの距離が立ち直る時間をくれた。熊本市と天草は約百二十キロと言う距離がある。ノンストップで行っても、二時間半。しかも、いつも会える訳ではない。日にちが経つにつれて、諒子への思いは、当然のように薄らいで来た。元々、不倫をするつもりは微塵も無い。美咲は、恭二にとってなくてはならない、まるで【空気のように、大切な存在】だった。彼女と一緒にいるだけで、心が落ち着く。彼女を尊敬している。愛は、そのワンランク下にあった。

 諒子への思いは心の隅に残っていて、美咲だけに対する純粋な愛情であることを自分に確認するたび、それがいつも引っ掛かっていた。それを吐き出した今、心の中はすっきりしたものだった。妻の言った【ときめく】だけに戻っていた。だから、日常は以前の妻と恭二の時間に戻っていた。

 しかし一本の電話が、その時間をあり得ない日常に変えてしまった。

「恭兄ちゃん。この前はありがとう」

 諒子だった。

「ああ、諒子ちゃんか。何てことは無いよ。それより、どうしたの。急に」

 諒子の言葉が、一瞬で甘い世界へ誘った。

「あの……、会いたいんだけど……」

 そこまで言って、あとは、言葉が出ない。恭二が何かを言うべきなのか。しかし、言葉が見つからない。スッキリ終わっていたつもりなのに、『帰りたくない』の一言で一気に壊れた自分のように、またしても戸惑ってしまう。

“はっきり言うべきか。それとも、柔らかく否定するか。いずれにしても、止めないといけない”

 そう思いながら、

「ああ、そ、そうなんだ。えっ、バードウォッチング?あ、いいよ。ああ、いつ頃が良い?気に入ったんだね。あ、そう。じゃ、予定見てからまた、こっちから電話するよ」

 妻の手前、冷や汗を隠しながら、わざと普通に言った。しかし、もし彼女が恭二の諒子に対する気持ちを知っていれば、異常に多い口数に疑問を持ったかもしれない。しかも、ほとんど相手の返事を聞いていないかのように、矢継ぎ早のやり取りになっていた。

 しかし、その言葉と気持ちのずれに、一番驚いているのは自分だ。話をしながら

“全く逆のことを言っている。いったいどうしたって言うんだ”

 自分に対する疑問が、頭の中を渦巻いていた。その疑問も追い付かないくらい、展開が早い。

 一時間もしないうちに、次の逢瀬の期日を知らせた。その瞬間、

“まずい。まずいことになった”

 と、心の中で気持ちが右往左往した。頭は止めようと踏ん張っているが、体が言うことをきかない。考えてもいない言葉が、すらすらと出てくる。

「諒子ちゃんがまた、『バードウオッチングに連れて行ってくれないか』だってさ。この前のが、気に入ったみたいだ。僕は、ちょっと大変なんだけどねえ」

 そう話しながら、困惑の表情をして、迷惑なふりをした。

「まあ、そうなら仕方ないんじゃないの。今度くらいまで行ってあげたら」

 優しく妻は微笑んだ。その笑みは、恭二の逃げ道を広げてくれた。妻は、恭二の心を全く疑っていない。その上での言葉だ。それを分かっているうえで、恭二の気持ちは、別な所にスルスルと流れていく。徐々に『気乗りはしないんだけど』と言う、形ばかりの後ろめたさから離れていく恭二の心。あくまでも、恭二の言葉を信じて妻が発した言葉なのに、この時の恭二は自分に都合の良いように、自分に理解させた。そうだ。【理解した】のではなく、【理解させた】のだった。諒子に思いを伝えた時のように、頭と体が完全にずれ出した。やっていることと、考えていることがずれている。

 一週間後の土曜日。面倒くさそうに家を出たが、準備物は見せかけで、すでに心は熊本市へ向かっていた。二時間半の間。運転をしながら、天草を、そして美咲を振り返ることは無かった。諒子への思いで、自分がこれからやろうとしていることへの疑問は、完全に塞がれていた。

 彼女の家に着くと、玄関を入るやいなや迎えに来ていた諒子と抱き合い、唇を重ねた。

 そのまま、リビングへ行くと、抱き合ったままソファに横になった。会いたくてたまらなかったに違いない。諒子の方が離れない。何分経っただろうか。やっと話が出来る。

「兄ちゃん、ごめんなさい。でも、でも……」

 後ろめたい気持ちが、諒子の眼に涙をためたのだろう。目じりからスーッと、流れ落ちていた。

「仕方ないよ。僕だって、会いたかった」

“そんな、バカな。驚いたぞ。嘘だろ、お前。自分で踏ん切りを、付けたんじゃなかったのか”

 自分の口から出る、考えもしない言葉の連続に、恭二本人が呆気に取られていた。諒子の涙を指で拭きながら口を突いて出る言葉は、恭二の思いとはまるで裏腹だった。心と体がバラバラになっているような感覚だ。別人が話しているように、少し遠くに聞こえた。

 頭の中では、思ってもいないのに、言葉が勝手に諒子の話に対応して出てくる。それも、何の違和感も無い。

「今夜、泊って行ってくれない?」

 優しく誘うように、涙の跡が残る顔で恭二を見つめた。その瞬間、恭二は

“出てしまったか、その言葉。やばいぞ。断らないと駄目だ。完全に不倫。姦淫になってしまう。リーベ・イン・ヘルツエン(※ドイツ語で【心での恋愛】。第二外国語でドイツ語を勉強して、すっかり好きになったドイツ語で、こう呼んで自分だけで楽しんでいた)のはずだったろう。いかんせん、まずい。だいたい、美咲に何て言うんだ。尊敬している人を裏切るのか”

 さすがに必死だった。

 声も簡単には出ない。しかし、やっと発した言葉は……

「そうか、明日は日曜日だね」

 そして、スーッと体と頭が分離した感覚を持った。

 土曜日を勧めてくれたのは妻だ。実は、恭二本人は日曜日を考えた。もしかすると諒子の誘いがあるかも知れない。その時に、断り切れない自分が十分に考えられたからだ。

 幼い頃から、ケンカをして妹を泣かすことで、こっぴどく怒られていた。だから、女性の涙にはめっきり弱かった。涙を浮かべて懇願されると、多分断り切れないと分かっていたので、物理的に不可能な日曜日を考えていた。しかし、土曜日の方が本当は一般的なのだ。それは分かっていた。だから、妻の提案も素直に受け入れるしかなかった。

“泣いてから言うんだもの。弱いなあ”

「やったあ」

恭二の腕の中で、諒子が両手を上げて喜ぶ。完全に拒否している恭二を後目に、もう一人の恭二が思い切りキスをしている。拒否している恭二の声は、遠い所へ押し出されている。その心の声は、流されながらも『まずいよ。断れるのか、夜』と叫んでいた。しかし、その声もだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった。

 その夜。妻には、『阿蘇の方まで行って、つい遅くなったので、ビジネスにでも泊って帰る』と連絡した。

 そして、市内の居酒屋に飲みに出た。熊本市は、さすがに人も多い。よほどのことがない限り、知った人とは会わない。安心して腕を組んだ。ここに来て、善の恭二は、完全に封じ込められた。

 一軒の店に入り二時間ほど飲んだ。二人ともいい具合に酔いが回った。部屋に着くとビールを飲み直している間に、諒子が風呂を入れた。その夜。二人は燃えた。恭二は、背徳感、姦淫の罪、不貞の悪等、いろいろな後ろめたさの観念を打ち消すかのごとく。そして諒子は、久しぶりに人肌の温もり。そして、恭二と同じく、長年思い続けて来た人との愛に、打ち震えて。

【不貞行為=民法七百七十条で、その意思にもとづいて配偶者以外の者と肉体関係をもつ場合】と、規定されている。民法で許されているのは、恭二が思っていたリーベ・イン・ヘルツエンである。以前はやった【プラトニックラブ】と言う奴だ。これなら、妻に黙って憧れていても、罪にはならない。しかも、彼女が言うようにときめくことも出来る。しかし、この【不貞行為】は洒落にならない。

 恭二が恐れていたのは、後戻りが出来ないと言うことだ。テレビでこういう問題が出るたびに、眉をひそめて非難していた。そしてその後の地獄絵図。自分では、ああ言うことは絶対しない、と高を括っていた。しかし心の隙間に、南風のようにさっと、心地よく入り込まれた。あっという間だった。

 翌朝も、むさぼるように求めあった二人。朝食を摂ることも忘れ、互いの体を愛し合った。そして午前十時過ぎ。怪しまれないように、彼女の家を出た。諒子といる間は、美咲のことは頭を掠めさえしない。思い切り、愛を確かめ合った。しかしそれも、玄関を出て車に戻るまで。車に戻ると、あの不埒なもう一人の恭二は、雲散霧消している。いつもの恭二だ。妻のことを思い出している。そして平然と家に戻った。

 あまりの豹変ぶりに、『美咲を愛しているんだろう?』と自問すると、即イエス。では諒子はどうなのか、問いかけると、こちらも愛している。諒子の愛を確実なものにできた今、

“二人を一緒に愛しているのか。そんなことが可能なのか”

 と、必死に自分を追及してみる。しかし、どの方向から攻めてみても、答えは同じ。『どちらも好き』と言う答えだった。

“困った。先に確認したように、愛の形が違うのに、どこを比べても、天秤は同じに振れる”

 妻がそばにいて、一緒に生活している時は、妻のことだけを考えている。それが出来る。ところが、いったん諒子の元に向かうとなると、妻は忘れて、諒子だけしか見えなくなる。

 男女としての愛の形は違うが、恭二自身の愛は二人に対して、同じような力量で向き合っている。今までさんざん、自分に確かめたが答えは同じ。しかし、一般的にはどう見ても【不倫】である。ここまで来たらいずれ答えは出さないと、二人……、いや三人にとって良くないことははっきりしている。その機会を得るために今はとにかく、ただ会うしかない。会って決着をつけないと、どろどろになってしまう。

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