第7話
一か月後。妻に詮索と言う徒労をさせないために、恭二は諒子に、天草に来てもらうことにした。しかし、狭い天草では、幹線道路も、山道も、知り合いの業者や職場の仲間が通る。また、あまりに田舎に行ったのでは、かえって目立ってしまう。近所の知り合いしか通らない場所へ行くと、いかにも怪しいと言う、その地区の人の目がある。そこで二人は、旧本渡市近隣の【黒崎海岸】で会うことにした。
『いいアイデア』が浮かんだのだ。恭二は多趣味で、写真も良く撮っていたので、その日は『タイドプール(※潮間帯と言う、満潮と干潮の最上線の間の海岸。その場所に生物が住んでいる)で、海岸の生物写真を撮る』と言う理由をつけて、家を出て来た。
秋の海岸は、さすがに人は少ない。干潮に合わせたので、あまり時間がない。
諒子の車に乗ってすぐに座席を倒し、唇を重ねた。一ヶ月分の思いと、これでひょっとしたらこの可愛い愛とも、お別れかもしれないという哀惜の念を込めて、息もできないほど、長く唇を重ねた。
「恭兄ちゃん。私ね、時々考えるんだ」
「何を?」
「こんなことって、していいのかな、って……」
恭二の腕枕で、向き合っている諒子は、恭二の少し延びた顎髭を触りながら、ボソッとしかし、さらっと言った。
恭二は微笑んでそっと髪を撫でる。柔らかいフレグランスが堪らない。多分ムスクを含んだ香りだろう。甘く、セクシーで、誘われる。フレグランスは嫌いではない恭二。自身もメンズの、フレグランスを三十年愛用している。
「そう思うよね……」
諒子の視線は髭だが、真剣に見つめているわけではなかった。無造作に動く指がそれを物語っていた。
「実は僕も、そう感じ始めていたんだ」
恭二の返事の先を欲しがるかのように、指が止まった。
「君だけがほしい、って言わなきゃいけないんだろうけど……」
「だろうけど、って、どういうこと?」
少し驚いたように、諒子は訝しげに恭二を見た。その視線の切っ先は鋭い。
「どういうことなの、恭兄ちゃん」
「君も今のままじゃ、何となく宙ぶらりんで、不安でしょ?」
「それはあるわ……」
向き合っていた顔を、天井に向けた。それまでのソフトなトーンの甘えた声は姿を消し、いきなり大人の女性の落ち着いた口ぶりだった。その時初めて諒子の中に、女を見た気がした。
“ヤバイ。こりゃ、いよいよ美咲との修羅場を想定している。そのつもりなのか”
諒子に押され始めた恭二。どちらかを取ってくれ、とでも言いたいのか。
「兄ちゃんって、奥さんとは別れないでしょ?」
“き、来た。その言葉!”
「そ、そうだね。ちょっと……」
さすがに、面と向かっては言い難くて口ごもる。それでも、ここは大人の恭二が、彼女をリードするべきだろう。
唾を飲み込んで、腹を決めた。
“諒子ちゃん、泣くなよ”
「やっぱり、彼女とは、最後まで、一緒にいたいなあ。一生を約束した仲だし」
「でも、私も兄ちゃんがほしい」
間髪入れず、サラッと言った。
だいたいこういう場面は、テレビドラマや映画などでも、女性の方が泣き崩れる場合が多い。その方が絶対視聴者を引き付ける。この時でも彼女は、多分泣くのではないかと予想して相当な覚悟で言ったのだ。それが聞こえたのかどうかも、分からないくらいの速さで、こうも簡単に言葉を返してくる。
「ほしい、って。諒子ちゃん、意味わかってるよね」
返事はなく、黙ってうなずいた。半分冗談で尋ねてみた。
「じゃあ、僕を略奪するのかい」
まさか、ここはうなずかないだろう。否。なんと諒子はうなずいた!
「い、いや。ちょ、ちょっと待って……」
恭二は、言葉を整理する時間がほしいくらい、展開が早い。
”せめて、そこはせめて、考えてよ。早すぎるだろう”
「それは……、それは、その、返事を少し考えてみようか……?」
わざと言葉の感覚を空けて話すが、諒子は聞いているのかいないのか、うつむいたまま動かない。さらに、手を握ってきた。その無言の返事に、恭二は怖い展開を想像した。
“泥沼に入り込むかも知れない。離婚訴訟かもしれない”
テレビで、『別れる、別れない』と言う裁判で、何年も続いていると言う報道。
『大変だろうな、当事者は』と、遠くの出来事のように見ていた。内心『モテる人達は大変だ』と、不憫にさえ思うこともあった。しかし目の前に、確実にその悪夢が、近づいて来ているかもしれない。自分には全く縁のない、他人事だと思っていたのに。
「ま、マジかい。マジにそう思うの」
明らかにこわばった顔の恭二に向かって、ニコッとした諒子。握っていた手をパッと離した。
「冗談よ。兄ちゃん夫婦を、私みたいにしたくないもの」
その言葉にハッとして、今度は恭二が泣きそうになった。
“『私みたいに』って。俺は、彼女を弄んだのか。そんな軽い気持ちで、三十年以上思い続けていたのか。違うだろう。彼女と結婚さえ考えたはずだろ。一回、きつい思いをして離婚している彼女だ。俺だけ、美咲との幸せを失いたくないと言うのは、それこそ彼女の体が目的だった、と罵られても反論はできない”
「諒子ちゃん、これだけは言っておくよ。僕は、君も、そして妻も好きなんだ。何回自問しても、何回愛情を確かめても、君と妻への思いは同じなんだ。分かってくれるかな、こんな、あり得ない愛の形」
おたおたする恭二に諒子は、意外にも冷静に、黙ってうなずいてくれた。
「ありがとう。僕が君に、軽い気持ちで近づいたんじゃないことだけは分かってくれるね」
「それは分かってる。だって、兄ちゃん。小さい頃と同じだから」
と、再び恭二の手を握って来た。右手を開いて、恭二の指を数え始めた。そして、裏返すと、手相を見るように、皺を一つ一つなぞっている。いつの間にか、夕陽が差していて、別れの時間を知らせている。
「そろそろだね」
恭二の言葉にうなずきはしたものの、一向に起き上がる気配は無い。しかし、今回はこのまま帰るわけにはいかない。もしこのまま別れてしまったのでは、今回の逢瀬は、時間つぶしにしかならない。少々荒くなった息を整え、意を決して諒子を見た。
「どうする、僕達。このまま、ずるずる会っていていいのかな。僕は、君に幸せになってもらいたいんだ」
「どう言うこと?」
手を離して、恭二の方を向いた。そして
「別れるって言うの」
今度は少しキツイ口調だった。
「あ、いや。あ、あの」
言葉に詰まって、もはやうろたえる恭二だった。自分と諒子のとことで、はっきりした道筋が立っていない恭二にすれば、当然かもしれない。
自分から『別れよう』と言うのは、寂しい。悲しい。つらい。だから諒子から言ってくれるなら、仕方ないと、諦められる。高校の時『フラれるのは男の方じゃないとだめだよ』と、同級生の女の子が教えてくれた。しかし、しかし、だ。実はそれも口にしてほしくない恭二。『彼女の愛を失いたくない』のだ。ひどくわがままなのはわかっているが、三十年追いかけて愛をつかんだ今だからこそ、彼女を、そして彼女の愛を失いたくなかった。
「でも、私に幸せになれって言うことは、誰かと一緒になれってことでしょ」
諒子は、投げやりな言い方で顔も見ない。諒子の言葉に突き放されていくばかりの恭二。
結婚ばかりが幸せではないことは、重々承知だ。だから、誰かと結婚してほしいと思わないし、そもそも言える立場でもない。ただ、幸せにはなってほしいのだ。しかし諒子の立場からすれば、『ただ幸せになってほしい』などと言う曖昧な言い方では、どの方向にしても踏ん切りがつくはずはなかった。うまく言えないもどかしさに、しばし口ごもっていると、離していた手を再び握って来た。しかも、今度は両手だ。
『私の気持ち、分かってくれるでしょ。お願い』
と言わんばかりに、少し強く握ってきた。ただ、顔を見せてはくれない。
『あなたの考えは聞かない。私の強い気持ちは、この握りしめた手で表しているから』
諒子の無言の圧力に、恭二はすでに後悔の思いで潰されそうだった。しかし何と言っても、元々種をまいたのは恭だ。何とかまとめるしかない。
ただ恭二は、この窮地に陥っても、得意のぬらりひょんの性格が顔を出した。これまでの生活で苦しくなった時、ぬらり、といつのまにかうなぎのようにすり抜けてきた。このピンチから抜け出す技をして、周囲から彼を呼ぶニックネームになった。ふと浮かんだ逆説的発想。
“この際、二人を一緒に愛することが出来ないかな”
へたすりゃ、大げんかが始まっても仕方ない、と言う危機的状況で、とんでもない発想をした。開き直りに近い『美咲も諒子も、どちらも失いたくない。そうだ、これを二人に相談しよう』と言う結論に達した。
結論を導き出すのは早かった。
「諒子ちゃん……」
うつむいた諒子の顔を上げ、再度、唇を重ね、髪を撫でた。その間、久しぶりに自分の頭でしっかり心を見ることができた。そして覚悟できた。
“美咲にこの気持ち通じるだろうか。一生愛していく。これは、絶対だ。ただ、その途中で違う愛の形を見つけた。この気持ちは、自分をワクワクさせてくれる。つまり【ときめかせてくれる】そのことは大切だと、美咲も言ってくれた。違うのは、そこに【不貞行為】と言う、法的に認められない行為が発生していることだ。しかし、どちらにも真剣だ。これをどう伝えるかだな”
一般的に考えれば『マジか』と言うところだろう。しかし、恭二はまじめな気持ちだ。
だから、本心から二人とも失いたくなかった。だからこそ、美咲に本気で相談してみようと思った。
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