第4話
あれから数十年経った。
“あの時の気持ち。何とか伝えられないかな……”
恭二の心を揺さぶった諒子の顔。今、その顔が目の前にある。目の前にすると、どうしても昔の感情が湧き上がってきた。しかも、どんどん膨らんでいく。迷いを払しょくするかのように、何とか自分に言い聞かせようとする。
“おい。俺は、ちゃんと結婚して、妻子がある。今更伝えて何になる”
ひたすら自分を戒めた。ただ、ずっと抑え込んでいた感情は、一度膨らむ始めると、もう抑えが効かない。心の中で、入道雲のように湧き上がってしまった。おまけに、恭二にとって、近寄りがたかった諒子の父も、聞けば認知症が始まっていると言うではないか。例え、ばれたとしても、彼女に気持ちを伝えることくらいは、もう、何も言えないだろう。勘当されてもいるんだし。
恭二は、妻は一生愛していく覚悟だ。妻に対しては【敬虔な愛】である。尊敬している。だから人としての道を、互いに高め合いながら命を全うしていく。そのための【愛】だ。
だが、その気持ちと諒子に対する気持ちは、種類が違う。諒子への気持ちは、単に【好きだと言う感情】である。諒子を、この手に欲しい。いわゆる独身の男が、恋人にしたい、結婚したい、と言う時の感情だ。つまり、品のない言い方をすれば、女を捕まえたいのだ。
生物の本能として、種を保存するために、自分のDNAを残すための、その相手としたい、その相手としてとらえたいのだ。ただ、本気で捕まえるつもりは毛頭無い。本気で愛してしまうのは、いわゆる不倫だ。そんなことはしない。妻が言った【ときめき】たかっただけだ。
ところが、そう言う気持ちとは裏腹に、恭二に隠れて着々と諒子に近付く準備を、心の中で始めているもう一人の恭二がいた。【ときめき】を持ったことで、久々に浮かれた心。
そこに付け入り、都合のいい理由付けをするもう一人。
”そうだ、妻は【ときめき】を持つことが大事だと言っていたぞ。彼女に気持ちを伝えたら、もっと【ときめく】はずだ!”
“言って良いことなんかあるものか。おい、おい、どうするつもりだ……”
それに対抗する善の恭二。綱引きが始まった。
突然黙ってしまった恭二。諒子は、怪訝に思った。
「どうかしたの、恭兄ちゃん」
「あ、あの」
その顔を見ると、喉まで出かかった言葉が、また、心の奥底に押し戻される。
「何。どうしたの」
「い、いや。何でも無い。ちょっと、以前もどこかでこうやって海を見た記憶があるなってね」
すると微笑んだ諒子は、いたずらっぽい目になり、
「なあに?。昔の彼女と、こうやって浜辺で、何かあったりして。ムフフ」
と、からかった。恭二は、狼狽しながら
「ばか。そんなんじゃないよ」
横でカラカラと笑う諒子を見ていた。
“そう言うお前のことなんだぞ”
顔では笑いながら、頭ではそう彼女に話しかけた。
「さ、ぼちぼち帰るか」
そう言って腰を上げた恭二を見上げた諒子。立ち上がる素振りがない。
「どうしたの?」
女性の心理には疎い恭二。楽しくなかったのかと、一瞬ドキッとした。
「もう帰るんですか」
物憂げな表情をして、視線を下に向けた。
「もう、って、日も傾いているし。風も冷たくなるよ」
「私、帰っても一人だし、もう少しいたいなあ」
上目づかいで恭二の顔を見ながら、駄々をこねるように訴えた。
”そりゃ、一人より二人の方がいいよね。でも……”
返答に窮した恭二は、つい次の約束をしてしまった。『仕事が休みの日は、することがなくて暇だ』と漏らしたことに、つい、同情する気持ちがわいてしまったのだ。その約束を聞いた途端、すっくと立ちあがると、はじけんばかりの笑顔になって
「やったあ。今日も楽しかったし、この次も恭兄ちゃんと一緒にいられる」
と、両手を上に思いきり伸ばした。その態度に、恭二は、苦笑いするしかなかった。
その日は結局、何も言わず別れた。このまま何事もなく過ぎれば、燃え上がった恭二の感情は、多分、現実の暮らしに追われて薄れ、いつの間にか諦めざるを得なかったはずだ。
善の恭二は、そうなることを願って静かに見守っていた。しかし、諒子の言葉に惑わされたとはいえ、恭二自身で感情をつなぐ場面を作ってしまった。恭二の心に隙があったのだろう。そこにまんまと誘惑の網を仕掛けられた。陰でほくそ笑む不埒な恭二。
それでもまだ、三角駅に送っていく間、恭二の心はフラフラ揺れていた。
”撤回するなら今のうちだ。『用事があったのを思い出した』って言えばいいんだ。そうだ、俺は結婚して妻子持ちだ。そんなこといけないだろう”
するとすぐに
”『可愛そうに、何もすることがなくて一人、退屈にしてるらしいじゃないか。お前が誘ってやれば、彼女は喜ぶんだ。それだけなら、なんてことはないじゃないか』”
と、もう一人の恭二が誘惑する。そうは言っても……。
心の中で悶々としているうちに駅に着いてしまった。不思議なことに、諒子と別れると善の恭二が感情を支配する。
”俺って、いったいどうしたいんだろう……。もう少し冷静になれ”
そうなると行く先が見えない恭二の感情。探し求めてもがいているが、全く闇の中だった。そんな時、車の中と言う一人の世界。一人だけの時間が、恭二に光をくれた。帰りの車の中で、恭二は、
”次で終わりだ。次に会って思いを伝えるだけで、その次に誘わなければいいんだ”
と、行く先を見つけた。
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