第9話
「あなたがそれで良いと言うなら、構わないわよ」
恭二は一瞬意味が分からなかった。そして、わが耳を疑った。頭の中が真っ白になった。
「あ、あの……、それって……」
驚いて思わず妻を見た。妻は画面を注視していた。
あろうことか、お許しが出た。恭二も拍子抜けだった。相当揉めるだろうと、覚悟していたのだ。あの極度の緊張は、あの必死の裏工作は何だったのだろう。ふう、と再び大きく息をついた。全身から力が抜けた。しばし、呆然とそこに座って、心は体を離れ時間の海に浮かんだ。しばらくして、現実に戻ってきた。
「じゃ、じゃあ。ひょっとして、諒子ちゃんを呼んでもいいのかい」
「もちろん」
妻は、恭二を見て微笑んだ。そして、ゆっくり視線を窓の外に向けた。
しかし恭二は、にわかには信じられずにいた。
こんなにすんなり事が運んでいいのだろうか。『あなたがそれで良いと言うなら』と言う、妻の返事の裏には、何か隠されているのではないだろうか。こんなにすんなりと承諾できるものだろうか。妻は、何かを要求するのではないだろうか。
むくむくと頭を持ち上げた猜疑心に、押し潰されそうになりながら、妻の横顔を見つめていた。すると窓の外を見ていた妻は、徐に恭二に視線を向けた。
『来た!何だ?慰謝料か?家か?』
恭二は、つばをごくっと飲み込み、心を構えて言葉を待った。
「言っとくけど、北先生は今、カナダに留学中よ」
”そうだった。去年、ハガキが来たんだ”
全身が総毛だった。冷や汗が全身から噴き出した。目の前がくらくらしてきた。
恭二を見る妻の、氷の微笑みが全身を震わせた。
”知ってたんだ……”
愕然として、言葉を失った。
”やっぱり……、そう簡単に事が運ぶはずはない……”
いよいよ来た、地獄の時間。恭二は、たくさんのおどろおどろしい罵声を浴びる覚悟でうつむいた。
「ただこれからは、相談する時は順番を守りなさい。あなたの私たちへの気持ちが本気だったとわかったから許すけど……」
すぐには意味が理解できない。おそるおそる、ゆっくり顔を上げると、そこには氷の解けた、妻の笑顔があった。
「ただ、いくつか今後の約束事を決めましょうよ」
と言う訳で、約束事が決められた。恭二は、今度こそ安堵の時間を手に入れることができたのだった。
子育ても終わり、妻も一人で自由に生きていきたいだろう。互いに干渉はしない。しかし、夫婦と言う形は崩さない。夫は『愛している。最後まで一緒だ』と言う。二人とも死ぬまで一緒だと言う気持ちは同じ。そして、どちらか介護が必要になったら、必ず介護する者に諒子は手伝う。三人の関係は、諒子はいとこのまま。そして、夜の営みの場所は、必ず母屋の二階。つまり、諒子と恭二が寝るところとなる。美咲の生活費は今まで通り、必要以上はもらわない。諒子の生活費は恭二が払う、等々の約束事が決められ、夫婦の誓約書を作った。
その誓約書で、恭二はやっと自分の突拍子もない発想が、確実に認められたことを確認した。誓約書を目の前に据え、喜びがじわっと湧いてくるのを、ゆっくりゆっくりかみしめた。
話し合いの結果を聞いた諒子は、伝えに来た恭二の首に抱きついて喜んだ。恭二をめぐって二人の女性の、修羅場は無くなった。まずは、諒子の仕事を、天草で探さなければいけない。早速、近くのハローワークに行ったり、ネットで探したりした。急ぐことはない。子どもが一人増えたと考えれば、何と言うことはない。
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