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 冬の気配はもう完全になくなろうとしていた。

 光が記憶を失ってからちょうど一年か、と思う。

 金曜日の朝だった。いつものように制服を着て、トレンチコートを更に着込んで、私は学校に向かう。そこで友人と話したり授業を受けたり眠ったりする。部活に入っていないので放課後の予定はない。校門から出ると鉛色の空が見える。

 もう下校の時間だった。日常はスキップ機能のように過ぎていく。

 代わり映えのしない通学路を来たときとは反対に歩いていく。冬も終わるというのにまだ寒い。手袋をしてくれば良かったと思う。

 下校する学生たちの姿が目に入る。はしゃいで馬鹿をやって、仲睦まじい。

 ああ、と思う。

 そして、寒い、とだけ思おうとする。他に何も考えないためだ。記憶喪失のこと、その原因のこと、それにまつわる後悔といったものについて。考えても切りがないし、しょうがなかった。それらはすべて分からないし、解決しないことなのだ。

 寒い。雪もなく、ただ寒いだけの通学路を歩く。

 一年で随分持ち直した、と思う。時間は本当に色んなものをかき消すのだ。泣くことも、そして何とかしようとすることもなくなった。少なくとも、今はまっとうに生きることができている。

 このまま何事もなかったかのように生きていくのだろうか。それは喜ばしいことのように思える。しかしそれは、どうしても、

 ふと、スマートフォンが鳴った。

 特に何を考えるでもなくスマートフォンを取り出して確認する。デフォルトから変えていない背景に通知が表示されている。

 光から一件のメッセージ、と書かれている。


 今日会えませんか?


 え、と思う。

 現実味がまるで欠けていた。欠けたまま、大丈夫、と返す。既読はすぐについた。返信もすぐに。

 最寄りの喫茶店で待っている、ということだった。

 スマートフォンをポケットにしまい込んで、すぐに来た道を引き返す。色々なものが私の足を震えさせていた。期待するものや、怖れているものがあった。

 時間が癒やしてきたもののことを考える。

「……光」

 指定された時間には余裕があったが、足は勝手に急ぐばかりだった。



 喫茶店に入り、店内を見渡す。客は多くなかったので光はすぐに見つかった。窓際の席に精巧な人形のように座っている。背もたれに掛けてある大きなモッズコートは、光が昔から好んで着ているものだった。

「待った?」

「いえ全然」

 長い髪の前で光は手を振る。ふわふわとうねうねが両立したような綺麗な髪はずっと昔から変わらない。私の深い紺色の髪とは大違いだった。何となくの気恥ずかしさから、髪を手ぐしで整える。

「むしろ思ったより早くて驚きました」

 コートを脱いで、光の正面の席に腰を掛ける。店員が注文を取りにやって来て、適当にホットコーヒーを頼む。光も同じものを頼んだ。

「久しぶり、だよね」

「そうですね、久しぶり、です」

 それは心ない会話のように聞こえた。久しぶりであることは本当で、本心だが、心は今そこにはない。

「今日は髪、編み込んでないんですね」

「あ、うん」

 確かに随分前に会ったときは編み込んでいた。それも今は関係のないことだ。

「そう。前は、してたね……」

 気まずい沈黙が流れて、その間に注文していたホットコーヒーが運ばれてきた。私がコーヒーに口をつけると、光はミルクを注ぎ始めた。

 ミルクピッチャーが空になると、光は視線を上げて真っ直ぐに私を見つめた。

「今日はお願いがあって来たんです」

 願い、という言葉が頭に響く。

「……もう随分前のことになりますが、ちょうど一年前のこの日、私は突然記憶を失いました」

 その話題だろうと思っていた。思っていたのに、胸が痛くてしょうがなかった。

「それで、記憶を失ったとき、雨坂あめさかさんはお見舞いに来てくれたと思います」

 人から雨坂さんと呼ばれるのは久しぶりだ、なんてことを思う。

「うん。行ったね」

「それでそのときに、私は光の昔からの友達だった、って言っていたと思います」

 光は視線を落として、滔々と話し続けた。用意してきたかのように言葉は淀みなく繋がれていく。私はそこに曖昧な相づちを返していく。

「おそらくですが、相当仲が良かったのではないかと思います。家やスマホから、色々と出てきました。写真が沢山ある。メッセージは誰よりも多く交わしている。おそらく雨坂さんからプレゼントされたのではないかという物もいくつか出てきました」

 私は曖昧に頷いて、逃げるようにコーヒーに口をつける。

 光もコーヒーを一口だけ飲んで、静かにカップを置いた。

「雨坂さん、私が記憶喪失になってすぐの頃、よく会ってくれたじゃないですか」

「うん」

「相当困惑されていたと思いますし、過去の私の話題も出しづらかったと思います」

 それでも、と光は続けた。

「私が私自身のことについて聞いたとき、雨坂さんはすごく丁寧に話をしてくれた。あれがすごく、嬉しかったんです」

「そっか、うん……」

 様々な思惑があった。こうして感謝をされることに心を痛めるぐらいには、そこには見苦しいものがあったはずだ。

「ですから、お願いです」

 光は出し抜けに頭を下げた。

 思わず困惑して、あの、という言葉が漏れる。

 そして光は言った。


「雨坂さんが知っている綴光のことを、私に話してくれませんか」

 

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