4-a

 入っていいですよ、という声がインターホン越しに聞こえて、私は玄関の扉を開けて中に入る。

「おじゃましまーす……」

 光の他に誰もいないことは知っていたが、何となく遠慮がちな声を出す。

「雨坂さん、こっちです」

 階段の上から光が手招きをしていた。

「あ、うん」

 光はこれまでに見たことのない服を着ていた。家で過ごすにはちょっとお洒落すぎるという具合のものだ。短くてゆったりとした袖のブラウスに短めのフレアスカートを合わせていて、よく似合っている。かなりかわいいが、階上にいるせいでちょっと見えそうになっていた。何となく目を背ける。

「光の家に来るのも久しぶりだ」

「私としては初めてですけどね」

 光の言う通り、光が記憶を失ってからこの家に来るのは初めてのことだった。

「というか本当に一人暮らししてるんだ。驚いた」

「そっちもそうじゃないですか。まあ、親戚の家に行くこともできたんですけど」

 階段を上がり、光に招かれるまま部屋に入る。

「あーでも、あんまり配置とか変わらないかも。なんか安心した」

「家具の配置はそりゃあ変わりませんよ」

 不躾な感じがするが、人の部屋に入るとどうしても中を見渡してしまう。

「本とかは全部そのまま? 新しいのとかって買ってる?」

 光はベッドに腰を下ろした。シーツまでよく伸ばしてある。ベッドのみならず、光の部屋はとても丁寧に整頓されていた。

「買ってないですね。本の内容も覚えていなかったので。これは記憶喪失の得した部分ですね」

 私もカバンを床に置いて、クッションの上に腰を下ろす。視線は本棚に向けたままだ。

「全部面白かったりするのかな」

「面白かったり面白くなかったりです。本を選ぶセンスはあんまりなかったのかも」

「えー私がすすめた本とかもあるのに」

「どれですか?」

「何か面白くない方だったらやだしやだ」

「えー教えてくださいよ」

 やだー、と私は言い続ける。

「じゃあ当てましょうか」

 本棚から目を離して光を見る。反対に、光は視線を私から本棚に移していつになく真剣な表情をつくった。

 おもむろに光が立ち上がって、一冊の本を人差し指で抜き出す。

「これとか」

「……合ってる」

 やった、と光が言う。こっちは何となく悔しい感じがする。

「ちなみに面白くなかった方です」

「え」

「嘘です」

 そう言って、光は再びベッドまで戻った。

「面白かったですよこれ。多分一番ってくらいに」

「というかよく分かったね」

「分かりますよ。やっぱりこういうのって傾向みたいなものがありますから」

「なんか把握されてるみたいで恥ずかしいね」

「いいじゃないですか、面白い方だったんですし」

 まあそれは、と私は言う。

 妙な沈黙が流れる。別にそれを嫌ったわけではないが、何となく聞きたいことがあって私はそれを口にする。

「そういえば、今日なんで休みだったの?」

 今日は平日だった。私は普通に学校にいった後、こうして光の家まで来ている。

「創立記念日だったんですよ。それで学校が休みだったんです」

「いいなー」

「でしょ」

 それからまた沈黙があった。これまで昔の話をするときは私の家でしていたから、何となく勝手が違う感じがして落ち着かない。光も何も言ってこない。これは、どうすればいいんだろうか。

「雨、降ってますね」

 ふと、光がそんなことを言った。

 意識すると、確かに結構な雨音が室内にまで響いている。これまで気がつかなかったのが不思議なぐらいだ。確かに天気は怪しかったが、家に入る前はほとんど降っていなかった。

「外すごいんじゃない」

「確かに。どんなものなんでしょう」

 光は立ち上がってカーテンを開けた。雨が窓を塗りつぶすような勢いで降っている。これだから梅雨はよくないのだ。

「すっごい降ってる。折りたたみで何とかなるかな? 落ち着けば良いけど」

 あー、と光は言った。聞いたことのない声音だった。光はカーテンを握ったまま窓の外を見ていて、表情は見えなかった。

「雨がすごくて、今日はその、予報でも結構すごいんです。全然止まないっていうか、もうすごくて、だから」

 光は続ける。

「泊まっていきませんか」

 え、という声が漏れた。

「今日は金曜日で、明日もその……休みですし」

 光はまだ窓の外を見ている。

「……じゃあ」

 雨の音がうるさかった。

「そうしようかな」

 光がカーテンを閉める。雨音が少しだけ遠ざかって、私はもっと別の何かに耳を傾けようとする。

「じゃ、その、布団とか、出してきますね……!」

 光はカーテンを投げるようにして振り向き、足早に部屋から出て行った。結局、最後まで表情は見えずじまいだった。

 光が部屋を出たあと、もう相手がいないのに、うん……という返答が口から漏れた。私は一人になった部屋でただ呆然と座っていた。

 カーテンが揺れている。遠くで雨音が鳴っている。

 部屋からは、入ったときには感じなかった知らない匂いがした。


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