第8話

絶望は、氷のように冬のように冷たいものだと思っていた。絶望とは、熱くて痛いものだった。


暦の上では春を迎えた二月の中頃、医師の父と薬剤師の母との間に生まれた一人息子が俺だった。まだまだ寒い季節だというのに、春の花の名を付けられた。女の子に多い響きだが、俺は気に入っている。父は代々医者の家系で、実家の跡取りを長男に譲る代わりに、生家の近くに小規模ながらも設備の充実した診療所を開いてもらった。俺の実家である。父も母も、俺が生まれるずっと前から、子供に家業を継がせるよう強制したくないと主張しており、俺は今の今まで一度だって学習塾に通うようなことはなかった。元々、甥に託すつもりだったらしい。医者の一人息子として生まれ落ちながらも、俺は過剰な気負いをせずに幼少期を過ごした。これと言った病気や怪我も無く育ち、小学校への入学を控えた保育園の年長クラスで、俺はとある困難に直面することになる。俺が通っていた園では年長になると、入学準備として課題が出された。課題と言っても平仮名の練習や、簡単な計算問題を解いていく、おべんきょうの時間だ。周りの子供たちは回数を重ねる毎に容量を得て、平仮名の書き取りも足し算も引き算も出来るようになった。課題の時間をいっぱいに使ってもプリントが終わらないのは俺だけだった。平仮名や片仮名はなぞるだけなので、他の子と大差なく片付けられるのだが、計算問題になった途端、手が止まる。見かねた担任のお兄さんが付きっきりで説明してくれたものの、たった二行の問題文から、りんごの数を導き出せない。何度やっても、問題を変えても、俺が正解の花丸をもらうのはいつだって一番最後だった。担任はそんな俺に付き合ってくれていたが、花丸を描きながら不審に思っていた。就学前の子供の成長には大きな個人差がある。話し始め、トイレデビュー、文字の識別。全員が同じペースで成長するはずはない。それでも俺の学習に対する理解の遅さは異常だった。しかし、俺の親が医者であるが故、病気や障害の疑いを、易々と口に出すことも出来ずにいたのだろう。事が動いたのはその年の秋だった。自由時間、じっと絵本を読んでいた俺に、担任が声をかけてくれた。なぜか俺は、この日のこのシーンを鮮明に覚えている。

「桜くんは本当に人魚姫の絵本が大好きなんだね。何回も読んでるもんね。」

春に年長の教室へ移動して来てから、この本以外は手に取っていなかった。園庭で遊ぼうと誘われたり、遠足などで園外へ出たり、そういったことがない日はほとんど同じ本を引っ張り出して、熱心に読んでいた。俺は、人間の足を手に入れた人魚姫が甲板に立っているページから顔を上げる。

「まだ読み終わってないから。」

当事者であるはずの俺よりも不安そうな顔をした両親に連れられて、大学病院で検査を受けることになった。父の知り合いが勤めていたらしく、何かとスムーズに検査は終わり、その日のうちに結果が出た。学習障害の一種だと言われた。そのときのことはよく覚えていないが、母親が声も出さずに泣いていたことと、その背中をさする父の姿だけは記憶に残っている。就学前の子供の成長にはばらつきがあり、学習障害と判断するのは難しいらしい。小学校に上がればまた変わってくるかもしれない、障害の度合いも違ってくるかもしれない。医師はそんなことを言って母親を励ました。俺は、俺のせいで親が泣き、大人が困っているのかと思うと、途端に怖くなってきて、でも震える母親に縋ることも、母に寄り添う父親に泣きつくことも出来ず、目の前の白衣から目を逸らしていた。

「桜が心配するようなことは何も無いよ。」

病院からの帰りの車で、父はそればかり口にした。俺はそもそも、自分自身に起きていることを理解しきれていなかったので、真剣な声に対しても曖昧に返事をするしかない。計算問題が出来ないことや、絵本を読むのが遅いことがそんなに大きな問題なのだろうか。泣き疲れた母親は、早くに寝室に籠ってしまい、その日の夕飯は出前になった。俺はピザを食べた気がしているのだが、父は天丼だったと言う。あの日夕飯の話で小競り合いが出来るくらい、今となっては深刻な思い出でもなくなった。結局、俺は町の公立小学校へ入学した。事情を知っている担任も、俺一人の為に授業のペースを変えるわけにもいかず、いつもぼうっと教師の話に耳を傾けるだけの俺を、申し訳なさそうに見るだけだった。もちろん授業についていけるはずもなく、教科書の文字を追っているだけで終業のチャイムが鳴ってしまう日や、教師の話を必死に聞くだけでノートが真っ白なままの日が続いた。俺は次第に授業に出るのが苦痛になり、一日の主な時間を図書室で過ごすようになった。担任から話を聞き、週に四度、父が手配した家庭教師の女の人がやって来て、俺の理解に合わせて授業をしてくれるようになった。なので、俺の通学の目的は図書室へ赴くことだけになる。本を読むのは相変わらず苦手だったが、嫌いではなかった。時間はかかるけれど、物語を読むのは面白かったし、何ヶ月もかけて一冊の本を読み終えたとき、俺にも出来る事があるのだ、みんなと同じなんだ、と実感出来た。特別じゃない。そう思っていたかった。体育や図工などの授業には参加する俺を、子供心に狡いと思う同級生も少なくなかったが、“そういう子”だと理解されてからは、周りもそれなりの態度を見せる。

「サクは走るの速いし、絵も上手いから算数なんか出来なくても大丈夫だよ。宿題、一緒にやろう。」

それなり、の中で最も心地良かったのが、高学年に上がってから同じクラスになったみっちゃんだ。俺の障害のことはきっと知らなかったはずだが、大袈裟に避けるでも、全部知ろうと無駄に懐くでもなく、ただの友達としていつの間にか隣にいた。花屋の息子で、テストの点も良く、どことなく小綺麗ななりをしていたので、親からの評判も上々だった。それなのに、俺と仲良くするようになってからは、嫌な噂話を囁かれたりもした。それでもみっちゃんは俺と一緒に時折図書室に隠れたのだった。

「桜は変なんじゃないよ。特別なの。」

母はよくそう口にする。俺を慰めているのではなく、自分に言い聞かせているみたいに。家の中はあたたかだった。手のかかる子供に苛立ちも絶望も見せず、どこにでもいる家族のように、みんな笑っていた。でも、俺はそれが息苦しかった。俺みたいなのが生まれて来ちゃって本当は迷惑しているくせに、あの日泣いていたくせに。医者の一人息子がこの有り様で、恥ずかしいと思ってる?特別だって言えば聞こえが良いと思ってる?父親が、俺が医者になりたいと言ってくれたらいいと、密かに願っていたこと。母親が、俺を良い大学に入れたいと、本当は期待していたこと。俺は知っていたから。俺は、両親が俺に笑いかける度、後ろめたさに襲われる。そうして家にいることも苦しくなった。

「サクラ、子供がそんなにあれこれ考えるものじゃないよ。もっと気楽にしていなよ。」

そんな俺の面倒を見てくれたのが、新しい家庭教師のお兄さんだ。お姉さんは大学卒業と共に家庭教師を辞めてしまった。泣きながらお別れを言いに来てくれたお姉さんと離れるのは悲しかったし、新しい先生に不安もあったが、父の友人の息子、ということで俺の障害についても理解があり、勉強を教えるのも上手かった。問題集を開くだけでなく、俺の悩みや不安の吐け口として、ただ話し相手になってくれる日もあった。先生は俺の親から承諾を得て、俺を夜へ連れ出してくれた。車の助手席で、カーステレオから流れる先生の好きな曲に耳を傾ける。時折先生が口ずさむ、アルバムの六曲目のサビは、愛を歌っていた。二人きりの車内でなら、先生の前でなら、俺は思っていたことを口にすることが出来た。

「母さんが俺を特別だって言うのが嫌だ。俺は特別なんかいらなくて、普通がいいのに。」

「うん。」

「父さんが自由でいいよって笑ってくれるのが苦しい。本当は俺に何かを期待しているのに。」

「うん。」

知らない匂いのシートにもたれて、俺は先生に様々な話をした。アレが嫌だ、コレが嫌だと、もうすぐ中学生になろうという男子が、まるで幼児みたいに泣いた。あの日、本当は病院でこうやって泣きたかった。怖さや不安でいっぱいだったと、母のすすり泣きをかき消してまで、声を上げて泣きたかったのだ。

「桜は早く大人になっちゃったんだね。」

先生は大人の指先でそっと涙を拭ってくれた。俺はその指に招かれるようにして、先生の腕の中で、先生の胸を濡らした。

「もっとゆっくり大人になりな。俺、待ってるから。」

何を、とは言わなかった。でも俺は、先生が待ってるという言葉に希望を感じた。そして俺は、先生に優しく触れられることで、もうひとつの親を悲しませる“特別”に気付いたのだった。

あるときみっちゃんがクラスの女の子から、好きだと告げられていた。みっちゃんは人前でそんなことを言われたことが恥ずかしかったようで、礼だけ言うと逃げるように帰ってしまった。その話を先生に伝えてみたら、女の子には悪いけど、と前置きをしてから少し笑った。

「初恋は叶わないって、よく言うからね。」

あの女の子の初恋はみっちゃんだったのか。好きな人、という明らかな区分を知ったのは、園児の頃だったように思う。保育園、幼稚園の先生に初恋を捧げる男児は多い。俺もそのうちの一人だった。人魚姫の絵本を読みながら、担任のお兄さんが王子様に似ていることに胸を躍らせていた。俺は男だけど、男の人が好きだ。家庭教師の先生との距離が近付くほど、自分自身のことがはっきりとわかるようになった。

「そうじゃないかと思ってた。…俺もそうだから。」

小学校の卒業式の後、お祝いにと家まで来てくれた先生と、俺の家族で食卓を囲んだ。食後に部屋で談笑していたところで、俺はいつもみたいに弱った声で先生を呼ぶ。勉強のこと、学校のこと、友人のこと、家庭のこと、何でも話して聞かせていたのに、恋愛について二人で話すことは一度もなかった。俺は、先生の指や視線や声色が、まるで俺のことを好いているみたいだったから、あの日初恋が砕け散った女の子みたいに、好きだと言ったのだ。今になって考えてみれば、性別に関係なく、大学院生のもうすぐ三十路に差し掛かろうという大人が、中学生にもなっていない子供に、愛情とも違った感情を抱き、それを本人の前で口にするなど真っ当ではない。たとえ純愛であったとしても、大人は子供に何かを要求するようではいけない。先生は俺のことが好きだったのではなく、年端のいかない少年が好きだった。俺は先生好みの少年になっていく。髪を茶色く染めた。校則を破った。不良少年と後ろ指をさされる俺を抱きしめて、未完成の身体に触れる大人は、俺から見えないところでほくそ笑んでいたのだから。

両親は俺のことを心配し、ときには叱ったが、その度に先生は俺を庇った。障害のことを口にすると、母親は特に気を落とし、俺のことを先生に一任するようになった。

「桜の自由を尊重してやってください。あの子、まだ子供なんですから。」

先生の決まり文句。親を黙らせる魔法。俺の心を惑す秘密の言葉。俺は、先生が俺に自由の素晴らしさを教えてくれたと思い込み、先生が俺を守ってくれていると軽率な勘違いをしていた。先生は、自分で仕掛けた罠にかかった子供に、何食わぬ顔で手を差し伸べ、優しい顔で飼い殺そうとしていただけだった。そんな狩人の本性は目に見えないうちにどんどんと膨れ上がり、ある日突然、銃口をこちらへ向けた。俺は、先生の授業があるからわざわざ中学へ行くことはないと唆され、また俺自身も学校という集団生活に多少なりとも息苦しさを覚えていたので、半ば甘えの姿勢で学生服に袖を通さずにいた。

「桜ももうすぐ十三歳だね。」

いつも通り、先生は俺の部屋で問題集とノートを交互に見ながら、何でもない話をする。俺は卓上カレンダーに目をやった。まだひと月も先の話だ。

「まだだよ。俺、二月生まれだよ?」

他の誰かと間違えているのはないかと疑い、少し不機嫌な声色になったのを笑われる。先生は笑顔のまま、俺の茶色い髪を撫でた。先生が好きだと言った色。先生が褒めてくれた色。俺を不良少年へと変えた色。

「わかってるよ。待ち遠しいな、と思ったの。もう大人になるからね。」

先生がいたずらに耳の裏に指を滑らせた。くすぐったくて無意識に手のひらから逃げようとした頭を、しっかりと捕らえられる。目が合って大人しく瞼を閉じた。

「まだ大人じゃないでしょ。大人はハタチから。」

先生とのキスは日常的で、俺は当たり前のように受け入れ、話を続けた。

「そうだね。でも俺にとって、桜が大人になるっていうのは、もうすぐなんだ。」

「どういうこと?」

腰に回された手に抗うこともせず、先生の胸へ体を預ける。下から先生を見上げると、また目が合った。キスを受け入れようと目を伏せたところで、先生の手に力が篭ったのを感じた。視線を戻せば、いつになく真っ直ぐな目でこちらを見つめる先生の顔が近くにあった。

「せんせ、」

「ねぇ、」

先生の密やかな声が吐息と混じって耳の奥を震わせる。快楽ではない何かが体を強張らせた。

「ちょっとだけ早く、大人になっちゃおうか。」

湿った舌先が耳の縁をなぞったようで、聞き馴染みのない水音が、頭の中へ侵入してきた。俺は驚いて離れようとしたが、椅子の上に置いた手を握られ、どうすることも出来ない。

「桜、愛してるよ。だから、」

大人しくしてよ。狩人の銃声が俺にだけ聞こえた。俺は先生の手が服の下で動いている様子を感じながら、どうしたら良いのかわからず混乱の中にいた。怖い、という正直な嫌悪と、愛してる、なんて言葉に絆されそうになっている興味。先生は聞こえの良い優しそうな単語を囁いている。俺はそのどれにも返事が出来ず、ただ反射的に漏れる声だけが、やけに大きく聞こえた。何度目かのキスの後、先生は俺の体を支えるようにして立たせると、早急にベッドに押し倒した。怯えた表情の俺を眼下に、先生は普段と同じような笑顔で嬉しそうにしている。

「待って…!」

「大丈夫だよ。そんな顔されたら悲しいよ。桜も俺のこと愛してるでしょ?嘘じゃないよね?」

先生のことは好きだ。優しくて大人で俺のことをよく理解してくれる。

「嘘じゃない…。」

名前を呼ばれ小さく頷くと、唇を塞がれた。この先、何をするのかわからないほど子供ではなかったが、待ち望んでいたわけでもない。先生が愛してると言ったから。抵抗という選択肢が消えた理由はそれだけだった。先生は俺の服を脱がせ、下着だけの格好にさせると、腹を空かせた犬みたいに全身を舐めた。

「…先生、」

いつもの涼しい顔を少しだけ赤く熱らせた先生が、俺の膝の間から顔を上げる。

「あいしてるっていって…。」

先生の優しい愛の言葉は、俺の母親の悲鳴によってかき消された。あの日、俺の恋は初恋ではないのに終わってしまった。


動揺した母親の通報により、警察沙汰となった先生と俺の関係は、外部へと流出することなく、お互いの親による示談という形で幕を閉じた。あの日、いつもなら薬局で仕事をしているはずの母親は、体調不良を訴え早退していたのだ。当事者である俺よりもずっと疲弊した母親は、まるで自分が被害にあったかのようにため息ばかりついていた。

「都合が良かったから桜を狙っただけなのよ。」

母親は俺を抱き締めて、まるで俺が望んだ言葉を選んだみたいな口ぶりでそんなことを言った。

「俺、先生のこと好きだったよ。先生も愛してるって、嘘じゃないって言った。」

俺は母の腕から離れて、怒りを滲ませた声で言い返した。先生の言葉を否定されたことが気に障った。

「桜!目を覚ましなさい!」

母は俺の肩を掴んで激昂する。俺は初めて聞く母の叫びに、思わず身をすくめた。それから母は、俺が知らない話をつらつらとした。親だけが聞いた警察の話は、俺の感情をあっけなく裏切る。先生にとって俺は、先生の性癖を満たすのに都合の良い少年に過ぎず、俺を自由という餌で懐かせていただけだった。俺のことを愛していたのではなく、俺が少年だっただけのことだ。先生の愛してるは本物ではなかった。俺にとっては悲しく、母にとっては嬉しい報告を全て聞き終え、二人きりのリビングは沈黙に包まれる。声を出さずに涙を流す俺の腕を、笑顔の母が優しく引いた。いつも身なりに気を遣っていた母の、赤い唇が耳元に寄せられる。俺は先生の体温を思い出した。

「桜、愛してる。」

母の口紅が、耳にべたりと付いた。

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