どうせ同じ星の下
入江 怜悧
第1話
美しい君の名が、春に咲く花と同じ響きをしていることが、自分にとっては小さな幸せだった。たったそれだけのことが嬉しかった。
俺がサクちゃんという同じ学年の生徒を知ったのは、中学に入学してすぐのこと。彼の名前は人の声で聞かされた。初めまして、を彼の口から聞くことが出来ていたらと、今になって思う。
夕焼け空を切り取って窓枠に貼り付けたみたいな光景だった。夕陽を浴びて真っ黒に陰った木々が天へ伸び、遠くの雲はオレンジシャーベットみたいに淡く霞んでいる。薄暗くなってきた教室の中、電気も付けずに机に向かっていた生徒が十二歳のサクちゃんで、その姿を眺めていたのが同い年の俺だ。塩田という苗字から、シオと呼ばれていた俺は、きっとそんなあだ名でさえも耳にしたことがないであろうサクちゃんを、廊下から見ていた。夏休み中の校内には、吹奏楽部の演奏と、外から聞こえてくる運動部の声が響いている。それ以外に音らしい音も無く、サクちゃんのいる教室の中はいっそう静かそうだ。俺は校内広報委員という、謂わば新聞部のような委員会に属していて、その日も活動の後に廊下を歩いていた。先輩から預かったクリアファイルを片手に、茹だるような暑さの中を下駄箱目指して歩く。どこの教室にも灯りはついていなかったのに、何故か一組の教室に人影が見えた。窓際の前の方の席に座っている影は、俺の気配に気が付くこともなくじっと机上に視線を落としている。俺は俯く彼の名前を知っていた。机の上にある何かを見ている彼の、額の白さ知っていた。入学からしばらくした初夏のある日を思い出す。
あぁ、あの子が。二階の窓から見下ろした校舎裏はアニメ映画みたいに綺麗な木漏れ日が広がって、柔らかな緑色に染まっている。校舎の壁に背を向けて立っている新入生の顔ははっきりと見えないが、ミルクチョコレートを思わせる柔らかい茶髪とその向かいに三年生らしき男子生徒が二人。二人とも笑顔を浮かべているが、楽しい放課後のひと時だとは思えない、初夏の爽やかさに似つかわしくない空気を漂わせている。面倒なことには巻き込まれたくない。でも、興味がないと大人ぶって目を逸らすことも出来ずに、眼下の光景を眺めていた。見たまんまの高みの見物だ。生憎話している内容までは聞こえて来なかったが、何を言っているのか、言われているのかは察しがつく。入学早々問題児認定された彼が、年季入りの問題児に目を付けられた、と言ったところだろう。少年漫画や学園ドラマで見たことがある。新入生は髪色と服装こそ派手に見えるが、その体躯はまだまだ子供のままで、今から殴り合いにでもなったら勝ち目はなさそうだった。それに彼は、夜の公園で暴れたり、力に物を言わせて何かを奪ったりするような不良ではなく、ただ学業に不真面目なだけだ。殴る蹴るの喧嘩で名を馳せているわけでもないのだから、強面の先輩たちに呼び出されていること自体がお門違いな気もしてきた。夜中にこっそりアイスを食べるくらいの悪いことしかして来なかった俺からしたら、不良少年たちのルールなんて分からないのだけれど、壁に体を預けた彼のこともよく知らないのだけれど、なんだか茶色い頭に同情してしまう。別に誰かを傷つけたわけでもないのに。
「ねぇ!撮ってるの?」
本当に突然だった。甘そうな茶色が動いて、白い額がこちらを向いた。地毛が黒であると言う動かぬ証拠のような真っ黒い瞳が二階の窓から顔を覗かせていた俺を見ている。氷を飲まされたみたいに体の芯が冷えた。片手に委員会で使用していたデジタルカメラを持ったままなことに今になって気が付いて、それを慌てて隠すわけにも行かず、強張った顔のまま彼と見つめ合うしかなかった。じっと目を合わせていたように感じたが、先輩たちがこちらを見上げようとする初動にハッとする。すぐさま窓から離れた。こっそり見ていたことも、もちろん撮影などしていないがそんな勘違いをされるのも非常によろしくない。恐らく顔を見られてはいないだろう。それでも手のひらには嫌な汗がじっとりと滲み、借り物のカメラを手落としそうになった。廊下に立ち竦んだまま、しばらく階下に耳を澄ませていたが、怒声などは聞こえて来なかった。深呼吸をして恐る恐る窓に近付き、そっと下を覗く。校庭へ続くコンクリートの道にグレーのパーカーを羽織った背中が見えた。先輩の姿は無い。何事もなかったのだろうか、そうだといい。名前しか知らない彼の、まだ日に焼けていない肌の色が何故が胸に焼き付いていた。
それからしばらくは先輩の影に怯えたりもしたが、顔を見られていないこともあって何か被害を被ることもなかった。体育祭もだんだんと近付き委員会の仕事も忙しさが増す。放課後は毎日のように新聞制作に精を出し、充実した学生生活を送っていた。たまに校内で彼の姿を見かけたが、いつも仲の良いグループの中心にいて、俺から声をかけることも、向こうから何か言ってくることもなかった。向こうはすっかり有名人だが、彼は俺のことなんて知らないのだろう。あの一瞬で顔を覚えているとも思えない。俺は密かに彼がこの先も先輩から呼び出されることの無いよう、祈っているだけだった。
彼はいつも数名の生徒と一緒にいた。慕われる性格なのか、彼の周りにはいつも人が集まっていたが、常に隣にいるのは三人だけだ。三人共、優等生とは言えないが、悪い噂だらけの不良でもない。田島くんと菊池はそれぞれ陸上部とサッカー部に所属していて、俺と同じ小学校だった。みっちゃんは駅前の花屋の息子らしい。気が合うのか、彼を入れた四人でいるのをよく見かけた。菊池とはよく遊んだ仲なので詳しい話を聞いてみたいとも思ったが、なんだか彼に取り入ろうとする女の子たちの姿が浮かんで頭を振った。たまの登校日に廊下ですれ違うくらいでいいんだ。そう言い聞かせている自分を見ない振りしている。気になっているくせに。そう嗤うもう一人の自分がいるのも確かだけれど、彼のことが気にならない人なんているのだろうか。あの派手な出で立ちや、飄々とした態度や、遠くにいてもわかる大きな笑い声に、惹かれない人がいるものか。若葉の影を額に落とした、無垢な顔を思い出す。彼が俺を見上げていた、あの黄緑色の窓の外を思い出しては、次はいつ学校に来るのだろうなんて考えている。
彼は体育祭にも参加せず、定期考査も修業式にも姿を見せることはなかった。月に何度か教師の怒号を耳にしたが、その翌日も欠席したり、逆に何食わぬ顔で授業を受けたりしていたらしい。同じクラスではないので詳しいことは分からないが、教師も諦め半分になってきたと噂されている。そのまま夏休みに入り、俺は彼と廊下すれ違うこともなくなった。本当にそれだけの関係だったのだ。なので、長期休暇中の校内で彼の横顔を見たとき、思わず立ち止まってしまった。同じクラスでもない彼の顔を、彼に気付かれぬよう眺める機会など無いに等しく、俺は開け放たれたドアを挟んで、ただ静かにその頬や額を見ていた。整った顔立ちをしていると思う。妹が好きでよく見ている男性アイドルとはまた違うものの、女子たちの注目の的になるようなルックスであることは確かだ。不良と呼ばれる出で立ちに相応しくない穏やかな垂れ目と、剃りすぎていない眉、しっかりと通った鼻筋と、小さな口。二つの瞳と目が合った。
「あ、」
気が付いたらサクちゃんがこちらを向いていた。思わず飛び出た小さな声は残念ながらサクちゃんに届いてしまったようだ。
「なに?」
俺よりも低い声。彼の声が俺だけに向いているのはあの日以来で、声の低さに怒気が含まれているのかも察することは出来ない。
「俺?俺は居残り。」
狼狽る俺に気を使ってくれたらしいサクちゃんは、こちらが何も言わないので自分の話をしてくれた。居残り、という言葉がよく似合っていて、俺は少し緊張から脱する。
「あ…お、俺は委員会の仕事やってて、もう帰るところ…。たまたま人がいたから、誰かなって。」
サクちゃんと会話を交わしているこの瞬間が非現実的で、夢の中で喋っているみたいだ。
「おばけかと思った?」
「…ちょっと。」
「マジかよ、怖いのダメ系?」
いつも周りにいる友人たちと喋っているかのような気軽さで、初めて会話をする俺と話している。俺はうるさい心臓の音にかき消されないよう、なるべく声を張った。
「委員会って何やってんの?あ、もしかして生徒会の人?」
「違うよ。広報委員会っていう…新聞部みたいなとこ。カメラで写真撮ったり、部活に取材行ったりして新聞作ってんの。」
あのサクちゃんに自分の話をしている。こんなの聞いても面白くないかな、と心配になりながらも、問いかけに応えようと必死だった。サクちゃんは椅子の背もたれに半身を預けて、小さな子供みたいに素直に相槌を打ってくれる。とても話しやすかった。
「…なぁ、あぁ…えっと、ごめん。なんて呼んだらいい?」
何か話そうと開いた口を二、三度開閉して、諦めたように俺に名前を聞いた。驚きで手にしていたクリアファイルを取り落とす。その様子にサクちゃんも驚いて笑うので、俺もつられて笑った。笑いながら深呼吸を試みた。器用に心を落ち着かせることなんて出来なくて、喋り出しの声はやっぱり震えてしまった。
「
今、彼の耳に俺の名が届いた。彼が俺の名前を知った。それだけのことで嬉しく思ってしまう。頬が赤く染まっていたら笑えないと思いながらも、体温が上がるのを感じた。
「シオ、か。俺が佐藤だったら面白かったのになぁ。」
そうだね、と返事をしながら、彼の名前を心の中で繰り返した。武川というこの地で有名な苗字と、美しい花の名前。彼に似合っている。
「俺、武川桜。」
「うん。」
「知ってるって顔してる。まぁ、そうよな。」
「…うん。」
問題児としてなを馳せていることを自慢げにするでもなく、どちらかというと少し寂しげな顔をして刹那に目を逸らされた。
「それでさ、シオ。新聞部でさ、俺が先輩に絡まれてるのを校舎から見てたって言う人いなかった?」
どんどん暗くなっていく部屋の中で、サクちゃんの影だけがやけにはっきりして見えた。俺だけだと思っていた。あの日のことを次の日まで覚えているのは自分だけで、奔放な彼にはもうその瞬間だけの出来事で終わっていると、そう思うようにしていたのに。本当は覚えていてほしかったし、気にかけていたらいいのに、と望んでいた。
「校舎裏に呼び出されて、先輩たちがチームに入れとかなんとかやかましくて、断ったら手出して来そうな雰囲気だったんよ。めっちゃ面倒でさ。そしたら二階にいた人がカメラ持ってたっぽくて、声かけちゃったんだよね。実際撮ってたかは知らんけど、助かったーって思って。新聞部ってカメラ使うんでしょ?思い当たる人いない?」
「…たぶん、俺…だと思う…。」
嘘じゃないのに、本当のことを言っている気にもなれない。事実なのに、自分の都合のいいように嘘を並べ立てているような気分だ。
「え、マジで?」
「…うん。…うん、俺。」
罪の告白をしているわけではなく、むしろ感謝の対象になろうとしているだけなのに、どうしてこんなにも怯えているのだろうか。サクちゃんが何か言ってくれるまでの間が恐ろしかった。
「すげー偶然だな。シオだったんだ。」
「五月頃だよね?三年生っぽい先輩二人に囲まれてた。資料室側の階段の近くで、武川くんはたしか…グレーのパーカーを着ていた。二階から見てた俺に、撮ってるのって聞いて…それで、」
「そうそうそう!そうだった!やっぱり撮ってた?」
嘘だと思われたくなくて、あの日の光景を必死になって伝えた。
「撮ってないよ。見てただけ。」
「あ、そうなの。よく覚えてんね。」
関心して微笑むサクちゃんの声にハッとした。我ながらよく覚えている。鮮明に覚えていて忘れられない自分自身が恥ずかしかった。
「ありがとうね。助かった。」
彼の名前が春に咲き誇る花と同じな理由がわかった気がする。彼の一言が、笑みが、まるで薄紅の花弁が開くように鮮やかなのだ。夏の盛りの教室が、春風が吹いたように、花が咲いたように明るくなった気がした。後から、俺はこれを恋と呼んでも間違いではないと思った。落ちたのではく、訪れた恋。しかし、今はその衝撃を恋だなんて思う余裕も無く、ただサクちゃんの声を忘れないようにするだけだった。
「それと、サクちゃんでいいよ。武川くんって先生に呼ばれてるみたいでやだ。」
「いいの?」
「いいの、って。シオ、面白いな。」
「…サクちゃん。」
「はーい。どう?呼べる?」
何度も頷いた。初めて呼んだ彼の渾名は、あまりに親しみやすくて逆に不安になる。そんなに近い距離にいるとは納得し切れない存在を、こんな軽々しく呼べてしまう。嬉しさと違和感を両方抱きながら、声には出さずに何度も何度も呼んだ。
「…もう結構暗くなって来ちゃったけど、サクちゃんまだ帰れないの?」
「あぁ、もうこんな時間。プリント終わるまで帰れないんだよ。数学がマジでやばくて。」
落ち着かない心を鎮める為に、それでもさよならするには惜しくて、たわいも無い話を振った。サクちゃんは椅子から立ち上がると俺のすぐ目の前まで歩いて来て、教室の電気をつけた。人工的に明るくなった部屋の中で、すぐ近くにサクちゃんの茶色い髪が見える。俺より少しだけ背が高い。伸びた襟足には所々暗い部分がある。自分で染めたのだろうか。
「プリント…難しいの?」
「いや、多分すげぇ簡単なんだと思う。シオとかならすぐ解けるやつ。小学校の問題って言われたもん。」
無断欠席ばかりのサクちゃんとはいえ、こんな時間まで居残りせざるを得ないほど、勉強が出来ないとも思えない。噂では、休みの日に図書館にいたなんてことも聞いたことがある。
「俺、マジで数字に弱いんよねぇ。医者の息子なのに笑えないんだけどさ。今やっと半分解いて、脳みそ休ませてたとこ。」
すぐそこでサクちゃんがけらけらと笑っている。明るい中で、こんなに近くで見たから気がついた。笑うサクちゃんの口元に八重歯を見つけた。前歯から右奥へ行ったところ、牙と呼ぶほど鋭くない、本当に桜の花弁みたいな小さな歯が覗いている。
「…俺も別に得意じゃないけど、よかったらプリント見ようか?」
「え、いいよ、悪いよ。俺、ホントに馬鹿だから教えててイライラすると思う。みっちゃん…あ、友達ね、あいつに諦められたから。数学の先生もお手上げって感じでさぁ。シオの手には負えないぜ。」
サクちゃんのこういうところが変わっていると思う。居残りさせられてる不良生徒なのに、課題のプリントを俺にやってもらおうとは思わないのだ。あくまで教えてもらおうとしている。自力で解こうという意思がある。自嘲的に笑っているサクちゃんに胸が痛んで、俺は意を決した。
「サクちゃんが嫌じゃなかったら、やってあげる…。帰りたくない?」
「か、えりたい…けどさ、いや…悪いって。シオだって帰るところだったんでしょ。」
同い年の男子生徒を渾名で呼ぶのにも躊躇して緊張するような意気地無しだけど、ここで折れる気は全く無くて、自分でも意外だった。引き下がろうなんて思ってない。
「いいよ。早く終わらせて一緒に帰ろ。ずっとやってたんでしょ、帰ろうよ。」
「え、あっ…うん。帰りたい…。」
思ってもみないことが口をついて出てしまった。課題を終わらせてあげるだけでいいのに、何を口走ったのか、サクちゃんの返事を聞いてもしばらくは気が付かなかった。サクちゃんが困ったように笑ったのを見て、俺は後悔の念に駆られた。それでも平然を装ってサクちゃんの席へ向かう。親からもよく言われていた。突拍子もないことをしたり言ったりするから驚く、と。あまり自覚はなかったが今まさに納得した。こういうことだったのか。
「シオって意外と変な奴?」
「俺も今、結構びっくりしてる。…一緒に帰ろうっていうのは、その…別にいいから。とりあえず、終わらせようって意味で、」
「あ、そこ?それはいいよ、一緒に帰ろうぜ。そこじゃなくて、なんか…仲良くなりたい!って感じがあんまりしなくて。」
「えっ、」
驚きの声と共に振り向いた。サクちゃんは笑っている顔がデフォルトなようで、笑顔の上に少し困惑したような表情を乗せている。俺は言われた言葉の意味を捉えて変な汗をかいた。仲良くなれるものならなりたい。その気持ちが前へ前へ出ないようにしていたのだが、その態度が気に食わなかったのならどうしよう。
「いい意味でね。俺も仲間に入れてよ!みたいなのが無くていいなぁって思った。別に俺は気の合う奴らと仲良くしてるだけだからさ、チームだとかグループだとか思ってないし、一人のときの方が多いし?シオは無理に仲良くして、ってぐいぐい来ないから、その…なんかいいね。」
特徴的な笑い声が俺たち以外誰もいない教室に響いている。俺はサクちゃんから褒めてもらえたのだと理解するのに不自然なまでの時間を要した。嬉しくて恥ずかしくて、少し後ろめたくなった。俺も、サクちゃんがあまりよく思っていない奴らと同じ気持ちがあるのに、上手く隠せただけで喜んでもらえたことに罪悪感が募る。隠すのが上手かったわけでもない。サクちゃんという存在に近付けなかっただけだ。仲良くなりたいと彼を困らせた知らない誰かの方が余程勇気があった。
「みんな、サクちゃんと友達になりたいんだよ。…魅力的だから。……俺だってそうだよ。ごめん。俺だって菊池とかに憧れる。」
白状するみたいに、俺はサクちゃんから顔を背けて本当の気持ちを告げた。
「やっぱりシオって変わってんなぁ。」
サクちゃんは隣の席から椅子を拝借すると、自分の机の前に置いた。俺が座る席だろう。俺は勝手に座った。サクちゃんの言葉を待ちながら立っているのは何だか出来ない気がした。
「魅力的だから、って。そんなこと言える?面白いよ。シオ、さっきから言葉選びがロマンチックだもん。」
「ロマンチック…?」
向かいに座ったサクちゃんは、背をもたれた格好で俺を見ている。偉そうにも見えるその態度に傲慢さは一切なく、落ち着きのない子供のようだ。
「それは言い過ぎか。でも、慎重に言葉を探してる感じがする。丁寧に話してくれてるんだなって思って、なんか…いいなぁって思うんだ。距離の測り方も、他の誰とも違う。」
「…臆病なんだよ。サクちゃんと話すの緊張するし。」
「もっと仲良くなったら、緊張しない?今日一緒に帰ったら、大丈夫になる?」
笑顔が薄くなって、代わりに心配そうな顔が浮かんだ。吊り気味の眉が寄せられて唇が引き結ばれている。不安な感情が手に取るようにわかってしまった。意外だった。サクちゃんは飄飄としているから、特定の感情が表情に浮かぶとは思っていなかった。
「俺、特別でもなんでもないからね。シオが緊張するような相手じゃない。普通だから。」
返事に迷う俺を急かすように言葉が続く。小さな子供が、話を聞いてほしくて必死になっているようだった。
「不思議と特別に感じるんだ。特別かっこよくて、特別きれいで…特別自由な感じ…。…また、変なこと言ったかな。」
「…変、だよ。シオって変。」
声を出して笑っているのに泣きそうな顔にも見える、目の前の男の子は本当に綺麗だった。風に吹かれる枝葉のような揺らぎ。
「俺、シオと仲良くなろう。仲良くなるから、俺と喋るとき緊張しないでね。」
「無理だよ。ずっと緊張する。」
「なんでだよ。」
そう言って笑われても仕方ない。きっと俺は明日も明後日も同じ気持ちになるし、この先も口先だけで彼と会話することなんて出来ないだろう。未だにあの木漏れ日の窓を思い出すくらいには、君は特別なのだ。
その後も学校の話をぽつりぽつりとしながら、俺はプリントを進め、サクちゃんは律儀に俺の手元を見ていた。問題は本当に簡単だった。小学校でやった単元の計算問題と文章題が数十問。裏表のそれは、時計の針が半周しないうちに片付いてしまった。すぐに終えてしまった俺のことをサクちゃんは褒めてくれたが、過剰なまでに称えるような真似はせず、俺の優秀さに感嘆すると言うよりは、自分の不甲斐なさを責めているみたいだった。医者の息子、というプレッシャーを少なからず感じているのだろうか。
「やっと帰れる!シオ、ありがとう!」
「うん、お腹空いたね。明日、プリント提出するの忘れないようにね。」
結局サクちゃんとは、正門を出てすぐのバス停で別れてしまった。町の中心部へ向かうバスと、郊外へ向かうバスでは停留所が違う。
「夏休み中はあんまり会えないかもしれないけど、新学期からよろしくね。」
「うん。またプリントとかあったらいつでも呼んでいいからね。出来るやつは手伝うから。」
「みっちゃんの負担が減るわ!よろしく!」
バスはすぐに来てしまい。乗り込んだサクちゃんに手を振る。サクちゃんも両手を大きく振っていた。バスの乗客や運転手に見られていると思うと、恥ずかしくなる盛大なお見送りだ。それでいて、誰かに見せびらかしたいような夜の始まりだ。サクちゃんの笑い声を思い出しながら歩く帰り道は、心無しか明るいような気がした。ただ日が延びただけだと、人が聞いたら呆れてそう言うような幸福に包まれていた。
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