第5話

普通の日常と呼べる毎日を取り戻した俺は、本格的に冷え始めた冬の空の下、サクちゃんのいない学校へ通っていた。駅前の学習塾には、同じ中学の生徒が多くいて、そこでも新しい友人が出来た。何かが特別面白いわけでもなかったが、嫌になる程退屈でもない、心の動きが鈍くなるようなサイクルだ。サクちゃんは相変わらずで、ほとんど登校もしていなければ、どこかで彼の姿を見かけたという話も出ていない。家庭教師がいると話していたので勉強の方はどうにかなるのだろう。サクちゃんの好きな人。ここから離れた繁華街で遠巻きに見ていた大人の男の人。中学を卒業したら一緒に暮らすのだと嬉しそうに笑っていたのを思い出す。寒空に厚い雲が広がって、よりいっそう冷え込むような気持ちになった。サクちゃんは満たされている。いつだって人の愛や自由に満ち溢れ、恵まれている。だから惹かれたわけではないけれど、それを妬むわけでもないけれど、どうしたって眩し過ぎる。元から住む世界に差があって、生まれ落ちた星が違う。俺とサクちゃんは何ひとつ同じじゃない。彼は特別だった。


定期考査やクリスマスなどのイベントを終えて、あっという間に冬休みに入った。委員会と塾の予定以外にこれと言った用事もなく、のんびりと年を越して、長期休暇も残りわずかとなった。毎年、冬休みの終わり頃に、町では冬祭りが開催される。最後の楽しみとして、周りの友人は浮き足立っていた。いつものように塾から帰って来ると、バス停で近所に住む町内会の役員さんに声をかけられた。簡単な挨拶と、冬祭りの話を済ませると、今か今かと待っていたかのように本題を話し始める。

「大翔くん、ちょっと前まで武川医院の息子さんとよく一緒にいなかった?」

ただでさえ寒い一月の外気が一段と冷えたような気がした。俺は曖昧に笑って返事を誤魔化す。

「お昼頃ね、武川さんの家の前にパトカーが停まってたって、お蕎麦屋さんの奥さんが言ってたのよ。」

え、と漏れ出た声は小さくて震えていてみっともない。驚き以外の感情を置いて来た俺の頭の中には、サクちゃんの顔だけが浮かんでいる。

「警察官と若い男が出て来たとか、武川さんの奥さんはひどく取り乱した様子で、息子さんも大騒ぎだったとか、詳しいことは何もわかってないんだけどねぇ。大翔くん、何か聞いてたりしない?」

背筋が凍りつくような恐怖に襲われた。若い男と聞いて、真っ先に思い浮かべたのはサクちゃんの恋人だった。家庭教師をしているあの男の人とサクちゃんの間に何かあったのだろうか。

「大翔くん?」

役員さんの心配そうな声にハッとする。心配の中に少しの期待が混じっているのが、中学生の俺にもあけすけに見て取れた。

「あ、いえ…。最近は全然会ってないので知らないですね…。」

第一、若い男がイコールあの家庭教師だと決まったわけでもない。本当に空き巣や詐欺などの犯人だったのかもしれない。きっとそうだ。サクちゃんもお母さんも無事だと良いな。

「息子さんが何かしたのかもしれないしね。怖いわぁ。あの子ずっと学校行ってないんでしょう?何か悪さしそうな感じだったし、とうとう警察沙汰になった感じかしら。」

もう友達でもなんでもないのだから、どうだっていいのだ。無神経な発言に腹を立てることも、偏見を訂正することも、俺の役目ではない。そんな印象を抱かせてしまう彼が悪い。そうやって悩まないようにすると、自分で決めたのだからこれでいい。

「どうなんですかね。」

乾いた笑いひとつで話を終わりにした俺は、忘れ物をしたと嘘をついてバスを一本見送った。次発までは二十分近くもあるので隣のバス停まで歩いてみる。寒さで鼻や耳が痛むが、考えすぎてしまう頭を冷やす為に、薄暗くなって来た坂道を早足で歩き続けた。気が付けば三十分近く歩いていた。もう五分も進めば家の近くに差し掛かる。程良い疲れと、体の内側からじんわりと温まる感覚が心地良い。次の授業は明後日だ。その帰りも歩いて帰ろうかな、と思った。少しでも彼のことを考えなくていいように。


その日は雪が降った。小田舎の郊外であるこの地域は山や川に囲まれているが雪が降るのは珍しい。積もる程の量ではないものの、塾へ行くと皆、天候の話と翌日に迫った冬祭りの話題に目を輝かせていた。二時間の授業を終えて外へ出ると、冷え切った空気に身が震えた。はらはらと舞う雪を見ているとかえって徒歩で帰りたくなる。雪の中を歩くなんて幼い頃ぶりだったので胸が躍った。家へ続く坂道を一歩一歩前進しながら、塾でのワンシーンを思い出す。今日の話題はもっぱら雪と冬祭り。そしてサクちゃんの家の前に停まっていたパトカあーと、家から出てきた若い男の話。こんなに狭い町だ。誰かが怪我をしたくらいでも話が広まる町の中で、警察が来たなんてこと、噂にならないわけがない。自分が授業を抜け出したあの日のことを思い出す。あれが広まる速さも尋常ではなかった。ましてや今回はあのサクちゃんだ。騒ぎにならない方がおかしい。俺は夏頃まで仲が良かったということで、色々と質問されたが、ぎこちなく笑って受け流すことしか出来なかった。事実、あれからサクちゃんとは何も接点が無いので、外野が求める答えを口にするのは不可能だった。広い川に沿った土手が一旦途切れて、そこから山へ続く坂道へと繋がる。最後の橋を通り過ぎようとしたところで、向こう岸に人影が見えた。ここまで来る途中にも数人とすれ違ったので、人が出歩いていること自体は不思議なことではない。しかし、視界の隅に映った白い身体は冬の雪の中にしては薄着に見えた。見間違いかとも思い顔を上げて橋の向こうを見てみると、そこには確かに、コートもダウンも着ていない少年が立っていた。離れていてもわかる薄手の長袖シャツとジャージのようなラフなズボン。サンダルを履いているようには見えない裸足の足元。

「…サクちゃん?」

茶色い頭に見覚えがあった。サクちゃんはフラフラした足取りで、山の方へと進んでいく。川の近くも寒いが、山へ入ればもっと冷え込んでくる。部屋の中のような服装のまま、こんな雪の中を歩かせるわけにはいかなかった。今までのことを思い返して躊躇するなどといった迷いは一切なく、ただ幽霊のようにどこかへ向かうサクちゃんを引き留めることしか考えていなかった。

「サクちゃん!」

駆け足で橋を渡り、白い背中に彼の名前を叫んだ。自分の口元からは白い息が煙のように登り、何故か水中にいるかのような錯覚に陥った。これまた水の中のような素足は立ち止まらない。もう一度叫んだ。もう一度、もう一度。何度目かの叫びの末、俺はサクちゃんの背中に追いついた。伸びている襟足の奥に青白い肌が覗いている。夏に見た彼はもっと日に焼けていて、色白な印象などなかった。やっと歩みを止めたサクちゃんは、声の主を探そうと辺りを見回してから、遠くを見るように振り向いた。血の気のない顔が、生気のない瞳が、俺を捉えた。俺はその痛ましい姿に怯えて、一歩後退りしてしまう。どう見てもサクちゃんの姿形をしているのに、まるで似ているだけの人間を誤って呼び止めてしまったのではないかと思うほど、目の前のサクちゃんは別人のような表情を浮かべていた。寒そうでも痛そうでも苦しそうでもない、無の感情に染まった顔は、降りしきる雪の中で、瞬きの間に消えて無くなってしまいそうだ。思わず伸ばしていた指の先が、サクちゃんの肩に触れた。指に感じるのは布のごわつきと、服の向こうにある肉の柔さだけ。肌の温もりはひとつも無くて、唇の青さに息を呑む。こんな薄着で、どれだけ外にいたのだろう。色が抜けて明るくなった髪も湿って重たくなっている。震えてもいないことから、こうして歩き始めたのは、ついさっきというわけではなさそうだ。

「…何してるの。」

サクちゃんは何も言わない。俺のことをじっと見つめているだけ。振り向いて顔を合わせたときから気付いていたが、目の縁が真っ赤に濡れている。血の気の引いた顔の中で、そこだけが赤く目立っていた。

「泣いてたの…。」

サクちゃんの肩がゆっくり上下している。もう息も白くならないほど冷え切った身体が、それでも呼吸をしているとわかる唯一の揺らぎだ。俺は着ていたダウンのジャンパーを脱いで、中途半端にこちらを向いた肩にかけてやった。そこで初めてサクちゃんは目線を動かし、今羽織ったジャンパーを見た。俺は下に厚手のセーターを着込んでいたが、それでも雪の降る夜の土手は寒かった。こんな夜に、裸足で出歩くなんて普通じゃない。

「サクちゃん…、寒かったでしょ。」

返事のないサクちゃんにかける言葉が見つからなかった。それもそうだ。俺から一歩的に離れていって避け続けて、久々の再会が今だ。こんな状況じゃなくたって、気さくに会話なんて出来るはずもない。情けないが、俺の方も黙り込んでしまった。

「…シオ、」

雪のせいで輪をかけて静かだった二人の沈黙を、先に破ったのはサクちゃんだった。久しぶりに聞いた声は記憶の中よりも掠れてざらついていた。泣き叫んだ後の濁りと苦みが滲んでいる。たった二文字の俺のあだ名が、どうにも痛々しく耳に届いた。

「なんでいるの。」

「…何でって…。」

二言目は攻めるような口調だった。振り絞るように発した言葉には、どこか諦めたような棘も感じられた。

「何でシオなの…。」

サクちゃんが笑った。眉が寄って、垂れた目元から力が抜ける。小さな口が少しだけ開いて唇が戦慄いた。雪と同じ白色の八重歯が見え隠れして、深いため息の後、また唇の奥に隠れた。サクちゃんは泣きながら笑った。

「…俺で、ごめん。」

そう言って返すのが精一杯だった。本当は冷えた頬に伝う涙を拭ってやりたかった。本当は冷たくなった身体を腕の中に抱き寄せたかった。どうにかしてその涙を止めたいと思うのに、どれも出来やしなかった。

「ちがう。ちがう、ごめん。シオでよかった。シオがよかった。」

サクちゃんは泣きながら必死に話すので、息が乱れ始めている。不規則な呼吸音が俺の気持ちを急かした。

「俺もう全部だめになっちゃった。…なくなっちゃった!」

「サクちゃん、サクちゃん!」

震え出した肩を両手で掴んだ。寒気からではない震えはどんどん強くなっていく。

「俺はただ!特別でもなんでもないのがよかった!自由にしていたかった!もう全部無い!やだ、もう嫌だ!返せよ!返せ!」

強く握った拳で、サクちゃんは自分の太ももを叩いた。感情的になるサクちゃんを見るのは初めてで動揺したが、そんなことより千切れてしまいそうな叫びを何とか止めようと必死だった。

「…みんな愛してるっていったのに。」

最後の一言は驚くほど静かだった。二人でいるときのいつもの穏やかなサクちゃんのようだった。それでも紡いだ言葉の節々に絶望の震えが隠れていて、俺は力のこもった拳を上から握った。手の甲も指も氷のように冷たくて自分の手のひらの熱で火傷でもしてしまいそうだ。サクちゃんは両目から涙を流したまま、それを拭おうとも止めようともせず、荒い呼吸に身体を任せるだけだった。

「俺は、」

強く風が吹いた。何も考えずに言ってしまいそうになった言葉の続きが喉の奥でぴたりと止まった。今、何て言おうとした?俺はサクちゃんを愛しているよ。本当の気持ちは声にならず、積もらない細雪のように消えていった。

「シオ、」

呼ばれ慣れた愛称が耳慣れない声色で囁かれる。消えてしまいそうな声は、何とか俺の耳まで届いたのに、あまりに苦しくて返事が出来ない。吸っているはずの息が体内に巡らないで、肺に重く留まっているみたいだった。意図的に瞬きをする。なるべくゆっくり、時間をかけて。そこで上着を脱いだことで身体が冷えてきたことに気が付いた。俺のダウンを着たサクちゃんは薄着のときから変わった様子はなく、もう何も感じていないことをしみじみと思い知らされた。涙も凍ってしまいそうな冷たい頬に手を伸ばしていた。あれほど躊躇っていたのに、気付けば指先は氷みたいな涙の粒を掬っていた。今なら言ってしまえる気がする。謝罪も告白も全部。罪も愛も、雪に混ぜて、指の先で溶かしてしまえると、そう思った。冷えた身体を凍て付いた心ごと抱き締める。同じくらいの身長。冬の匂いで満ちた髪。肌の奥に僅かに微かに残る体温。俺の腕の中に、光を閉じ込めた。サクちゃんを抱き締めて、強く離せずにいた。雪の中に春の花があった。

「俺は、愛してる。サクちゃんのこと、ずっと好きだった。今も好き。忘れられないの、サクちゃん。好きだよ。」

一息で言い切った俺の告白は、聞き間違うことも出来ないくらい、はっきりと響いてくれた。全てだった。この先のことも、ずっと未来のことも、何も考えていない。二人しかいない星に降り立ったような静寂の中、俺はサクちゃんを抱き締め続けた。俺がもっと大人だったら、もっと特別な何かだったら、サクちゃんのように眩しかったら、そう願っても言葉も好意も取り消せやしない。俺は俺のまま、サクちゃんのことを好きでいるしかなかった。腕を解くことも、冗談にして笑うこともしないで、サクちゃんのかたちを感じていた。

「そんなのいらない…。嘘はもう嫌だ。」

力無く胸のあたりを押し返される。怖い夢から覚めたばかりの子供のように、俺の気持ちを否定した。怯え切った二つの目が弱々しく俺を睨み付けている。光の無い瞳の奥に、縋るような希望の色を見出してしまうのは、俺の望みに過ぎないのだろうか。

「嘘じゃない。」

「嘘だ!シオは俺と何も出来ないくせに!好きとか、そんなの…嘘ばっかりだ!」

「…キスしてよ。嘘じゃないから、好きだから、キスだってできるよ。サクちゃんだからしたいよ。してよ。」

本当にキスがしたかったのかもわからない。したくないなんてことはなかったから、素直な欲求だったのかもしれない。口付けを乞う俺の眼差しに、サクちゃんは言葉を失った。サクちゃんの恋人が、サクちゃんに何をして、何を言ったのか、俺には知る由もないけれど、俺もサクちゃんのこと、キスだってなんだって出来るくらいに好きだよ。不思議と後悔はなかった。恥じらいも罪悪感も持たず、ただサクちゃんに嘘だと言われたくない、そんなことだけが頭の中を占めていた。積もることのない雪のような儚くて脆いたった一つの真実だ。

「そういう好きじゃないよ。シオのそれは、きっと違うよ。」

未だ腕の中にいるサクちゃんの顔は見えない。焦っているような声が珍しくて、なんだか笑ってしまいそうだった。

「キスしてほしいような好きだよ。それ以外のなんでもない。俺、サクちゃんのことが好き。信じて。応えてくれなくていいから、恋人になってほしいんじゃない。ただ好きなだけ。本当にそれだけ。」

見返りなんて求めていなかった。ませた同級生同士の交際を羨ましくも思わない。ただ、本当にサクちゃんのことを愛している俺が、嘘じゃないと信じて、泣かないでほしいだけなのだ。自分のことは何も望んでいない。キスだっていらない。俺の気持ちを伝える為の言葉の綾だった。

「…シオって本当に、」

サクちゃんが鼻を啜って顔を上げた。下まつ毛に溜まっていた涙が流れ落ちていく。風が吹き付けて、雪がまるで桜の花びらのように舞った。サクちゃんが小春日和の昼下がりのような優しさで微笑んだ。花弁によく似た八重歯から目が離せない。息が出来ないくらい、寒さをすっかり忘れるくらい美しくて驚いた。どんな花も、星も敵わない。俺はすぐ近くにあるサクちゃんの笑顔をじっと見つめる。続く言葉を聞きたいのに、このままずっと時が止まってほしいとさえ思った。潤んだ瞳が二度、瞼に隠され、再び姿を現したとき、サクちゃんの口が開いた。

「変な奴。」

夏の盛り、放課後の教室。流されてしまった向日葵。特急列車。

「俺のこと、全部忘れてね。シオに俺なんかもったいないよ。」

近付いてくる悲しげな顔に思わず目を閉じた。頬にぬるくて固くて、涙が出そうなほどに優しい痛みが広がる。

「好きって、嘘じゃないって言ってくれてありがとう。」

目を開いたとき、もうサクちゃんは腕の中にいなかった。振り返ると土手を降りて行く背中が遠くに見えた。温もりも何も残っていないダウンを両手に抱えて、サクちゃんの後ろ姿をぼうっと眺める。片手をそっと上げて左の頬に触れてみた。サクちゃんが甘噛みをしたらしい肌には、歯形も残っていない。俺は呆然と立ち尽くしたまま、初めてのキスから指先を離せないでいた。キスとも呼べない別れの戯れ。もう二度とサクちゃんに会えない気がした。夜にはすっかり止んでしまった雪のように、サクちゃんはひっそりと姿を消した。俺にファーストキスだけを残して。俺は頬に残る甘い痺れを、一生忘れることはないだろう。


サクちゃんは冬休み明けに転校して行った。どこへ行ったのかは誰も知らなかった。駅前の病院では、サクちゃんの父親が以前と変わらず働いていたし、見かける頻度は減ったものの、母親もまだこちらで暮らしているらしい。人々はサクちゃんが逮捕されて少年院に入っただの、勘当されただの、好き勝手に噂話に花を咲かせていたが、俺が中学を卒業する頃には、全く昔話になっていた。俺は塾まで行かせてもらったのにも関わらず、結局何をするにも中途半端で、一駅先の工業高校へ通うことになった。お世辞にも賢いとは言えない偏差値の高校で、就職に役立つ資格を取れるだけ取って、卒業の半年前には近くの自動車整備工場の内定を貰った。そのまま卒業と同時に実家を出た俺は、日常を消費するだけの毎日の中に、なんとか意味を見出しながら生活を営んでいた。充実した日々だったが、いつ死んでもいいような暮らしだった。

「大翔って、ほっぺ触る癖あるよね。私だけが知ってるのかな。」

工場で働き始めて一年が経ったある日、高校の同級生から何の気なしに言われた一言。つい最近再開して、交際に発展した女の子だった。四人目か五人目の彼女だったと思う。頬を触る癖を指摘され、怒られているわけでもないのに嫌な汗をかいた。腹の奥に暗い闇が広がって熱を持ち、その日は彼女を手酷く抱いた。何かを塗り潰したくて、彼女の甘ったるい嬌声を下品な水音でかき消そうとした。二日後、別れを切り出された。いつもそうだ。長くは続かない。未練がましくずっとさめざめ泣いていたらいいのに。そうも出来ず、かと言って綺麗に忘却の彼方へ置き去ってくることも叶わずにいる。笑ってしまうほどみっともない失恋の引き摺り方だ。追い求めも忘れもしない、宙ぶらりんな思い出を美化して取っておく。二度と訪れない春を、土の中で待つ汚い虫けらだ。もういいや、と何度自分に言い聞かせただろう。もういいや、明日も早い。今の今まで、一度だって夢の中にも彼が現れることはなかった。

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