第4話

あの日、買い出しの最中に姿を消した俺のことで学校中大騒ぎになっていた。サクちゃんと別れて最寄りの駅まで戻って来た俺は、すぐに警察から声をかけられた。名前を確認されたときは肝が冷え、すぐに状況を理解し青ざめた。そのまま学校へ連れられて教師からは散々怒られた。どこに行っていたのかときかれても正直に答えられなかった。上手い嘘をつく余裕なんて少しもなくて、優しい口調の警察官に促されて本当のことを言ってしまいそうになる。稚拙な言い訳をしようと口を開いたところで、職員室に母親が駆け込んで来た。

「大翔!アンタ何してるの!」

ここまで話が大きくなっているとは思ってもいなかった。親を目の前にして、口の中が渇いていく。既に説得力の無い弱い嘘でしか身を守れていなかった俺はもうお手上げ状態だった。

「…お友達と一緒だったかな?制服姿の男子生徒と、私服の男の子が切符を買っているところを見たって聞いていてね。」

怒気を全く感じさせない声で、壮年の警察官が同じことをきいてくる。最初から否定し続けているが、向こうは今まで何十何百の不良少年や飛行少女を相手にしてきたプロだ。俺が何かを隠していることくらいお見通しだろう。

「…武川か。」

隣のクラスの担任が深くため息をついた、俺は思わず顔を上げて、眉間に皺を寄せた教師と目を合わせてしまった。それは声にせずとも手に取るようにわかる、明確なイエスだった。

「大翔…武川くんと何かあったの…?何か、されてるの…?」

サクちゃんの名前が出た途端に、母親はあからさまに不安そうな色を声に滲ませた。

「いや、サクちゃんは…そういうんじゃなくて、あの、ちがう…んです。えっと、」

辞書に載るようなしどろもどろっぷりだ。否定の言葉が喉につかえて出てこないのは、何を言っても嘘になってしまうから。自分の不器用さに腹が立つ。

「夏休み明けから突然仲良くなって、不思議に思ってたんだ。香坂とか菊池とか、それに田島も、ただ仲良くしてるだけか?」

教師の言うことが全く理解出来ない。ただ、仲良くしているだけ。その通りだ。他に何があると言うのだろう。とりあえず頷こうとしたところで、警察官が変わらぬ穏やかな声で続けた。

「塩田くんは武川くんから何か強要されたり、暴力とか、そういうのは…?犯罪行為に巻き込まれるとか、今まで何もなかった?」

「俺たち、サクちゃんが怖くて一緒にいるんじゃないですから!」

自分で思っていたより大きな声だった。心外だ。いつもサクちゃんの勉強を見てあげてるみっちゃんも、派手な見た目のサクちゃんに冗談を言える菊池も、自分が楽しいと思う時間にサクちゃんがいた田島くんも、みんなサクちゃんが好きだから一緒にいる。平凡な背景の一部だった俺が、主人公の傍で笑っていられるのは、彼が恐怖で縛り付けているからじゃない。こっちへ来てよ、と伸ばされた手に俺がしがみついているからだ。今の今まで、サクちゃんは一度も俺たちに何かを強要するようなことなんてなかった。学校に来ない日、遅刻した日、早退した日、一緒にサボろうなんて言われなかった。サクちゃんと共に夜の土手へ行きたいと頼んだときは、早く帰れとまで言われた。補習のプリントだって、泣きそうになりながらも自力でやろうとしてた。サクちゃんが俺たちに怖い思いをさせたことなんてたったの一度だって無いのに。俺は悔しさが募って涙が出そうだった。

「お母さんは、大翔が楽しいって言うなら、学校のことにはなるべく口出ししないようにしてた。…でも、まさか大翔が…武川くんと仲良くなってるなんて思ってもいなくて…。彼のことを悪く言いたくはないんだけど、どうしても心配なの。最近帰りが遅かったり、テストの結果を教えてくれなかったり…そういうことだったのね…。」

泣きたいのはこっちの方なのに、母親が憔悴しきった顔をしている。そんな母を目の当たりにして、心が握られるように痛んだ。ああ、俺は悪いことをしているんだ、と頭の中で反省の言葉がぐるぐると回っている。

「入学したばかりの頃によく話してくれたバスケ部の子とか、ほら、同じ委員会の同級生とか、他にも気の合う友達はいるんでしょう…?今からでも遅くないと思うの。ちょっと塾に通って、二年生になればまだやり直せるわよ。元通りになるわよ。」

果たして昔の俺が是だったのか。今ここにいる誰にきいても、サクちゃんと出会う前に俺を認めて話はお終い。きっとそうだ。俺はもう、サクちゃんがいない日々を日常と呼べなくなっているのに。彼の笑い声を隣で聞く前の自分を忘れてしまってもいいとまで思っている。それを今更、そんな。

「でも、俺…、」

「先生もお母さんの意見、わかるぞ。最近、武川も来ないしな。…塩田、今なんじゃないか?」

担任の声は咎めるような厳しいものではなく、まるで頼み込むような懇願に近かった。怒声を浴びせられる方がよっぽどマシだと思った。自分が悪であるという意識がどんどん大きく膨れ上がる。悪いのは誰だ?

「お願い、大翔まで悪い子にならないで…。」

母の頬に涙が伝った。俺は親を泣かせた。悪いのは、俺か。

「俺は、」

俺なのか。

「俺が…、」

誰なんだ。俺なのか。

「…サクちゃんは、」

誰だ。

「武川くんは、」

心が壊れてしまいそうだった。教師にも警察官にも母親にも言い返したいことは山ほどある。否定したいあれやこれは、保身の二文字の前に砕け散った。否、自分で無かったことにした。自分が、特別だと思っていたかけがえのない一人の友達を、自分かわいさに守れなかった。何が昔の自分を忘れてもいい、だよ。笑わせるな。自らの人間性の薄さに辟易した。

「…今日のことに武川くんは関係ありません。俺が武川くんを見かけて、最近会ってなかったから久しぶりだと思って、彼の用事に着いて行っただけです。武川くんは何度も帰れって言ってくれて、本当に俺だけのせいです。」

俺の精一杯だった。せめて今回のことだけは、彼の罪になってほしくなくて、弱々しい声でそれだけ伝えた。彼が、俺にだけ、と許してくれた心まで、醜い自分の苦い思い出にしたくない。俺の手のひらですくえる限りの美しさは、今日の彼だけだ。嫌になるほど都合が良くて意気地のない意思に、自身の内側から責め立てられる。

「学校内のみんな心配してたんだぞ。特に同じ班のメンバーは自分たちのせいだと落ち込んでいた。ちゃんと説明して謝るように。…もう親に心配かけるなよ。」

母親と共に頭を下げて、帰りの車に乗った。母が運転する車の中は、カーステレオから流れる曲の他に声は無い。いくつか坂を超え、家が近くなってきたところで母親が口を開いた。

「もう二度とこんな怖い思いしたくないわ。大翔に何かあったらと思うと恐ろしいの。親っていうのはみんなそうなのよ。もう絶対やめてちょうだい。」

「…ごめん。」

流石にすんなりと謝罪の言葉が言えた。親には迷惑をかけたと思う。帰宅してから同じ班の班員の家に電話をかけ、母親と二人で謝った。一段落したところで母親から学習塾についてあれこれ話を聞かされた。成績が下がったのは事実だし、放課後に決まった用事があれば彼との接触を避けられる。母親の考えることが手に取るようにわかり、それでも入塾を断れずにいた。母に言われるがまま、今後のことが決まっていく。その道筋のどこにも、彼の姿はなかった。仕事から帰った父からも叱られ、その日は疲れ切って自室のベッドに潜り込んだ。目を瞑ると思い出すのはどうしたって彼のこと。俺は、彼を悪者にしたまま終わりにしようとしている。ぎゅっと強く瞼を閉じて他のことを考えようとして、ふと別の思考が姿を現した。田島くんのお母さんも、自分の母も、親とは子を心配するものだと言っていた。彼の家はどうしているのだろう。いつだったか、両親どちらも心配性だと言っていた気がする。だからケータイを持たされていると照れていた。家が駅前の病院であること以外、彼の家庭についての情報がない。田島くんのお母さんから、親のことを言われたときには怖い顔をしていたから、親子関係はいたって健全なのだろうか。だったらあそこまで自由にはさせないとも思う。第一彼はどうしてあそこまで何にも縛られず自由にしていたいのだろう。そこで俺の胸の中に、一滴の翳りが垂れた。俺はずっと彼の美しさに憧れ、すべてを光と捉えて目を細めて見ていた。そもそも、人から後ろ指さされるような彼本人を、何も悪くないと守ることに意味なんてあるのだろうか。自業自得。残酷で冷めた過ぎる四文字が思い浮かんだとき、その有り余るほどの非情さにハッと目を開いた。心臓が駆け足に脈打っている。授業に出ない彼を、遅くまで家に帰らない彼を、悪の根幹だと自分に言い聞かせてみたときの、解き放たれたような息のしやすさは、罪悪感をはるかに上回る。そうだ、人から悪く言われる彼自身が悪いのだ。嫌なら行いを改めればいい話。そうしない彼の為に、俺がこんなに悩むことなんてない。今日の彼の笑顔を思い出さないように蓋をして塗り潰して見えないようにした。そうして無理矢理眠りに落ちてみたものの、幸せな夢なんて見られるはずもなかった。


翌日からの俺はなるべく彼と出会う前の自分を意識しながら過ごすことにした。昨日の今日で菊池たちいが心配そうにしていたけど、その少しだけ離れた距離感を利用して会話を減らした。気まずそうに廊下からこちらの様子を窺う三人の視線に気付かない振りをして。前の席の女の子と次の授業の話で盛り上がってる風を装う。そんなことをし続けていたので、当然だが放課後に菊池から呼び出された。三人は怒っているような、悲しそうな、悩みの二文字をそのまま顔に貼り付けたような表情で、俺を屋上へ続く階段で待っていた。一番上の段、踊り場からひとつ下がったところに彼が座っていた。

「シオ、ごめん。俺のせいで。」

「サクちゃん?来てたの…?」

彼の制服姿が久しぶりで、口をついて出たのは何気ない一言でしかなかった。真っ黒で綺麗なままの学ランは、前のボタンが全て開けられ、中には暗い色のトレーナーを着ている。夏服のときはもっと派手で目立つ色ばかりだったのでなんとなく見慣れない。あと一週間もすれば、それもまた日々の光景として馴染んでいくのだろう。俺はもうその日々を送ることなんてないだけれど。

「どうしてもシオに会いたくて来た。ここなら絶対会えるから。」

腰を下ろしていた彼はそっと立ち上がると一段ずつ階段を下って来る。他の子たちよりも汚れの少ない上履きがゆっくりとこちらへ向かって来るのを見て、自分が俯いていることに気が付いた。

「もう前にみたいに戻るのって無理かな。五人で一緒にいることって出来ない?…嫌になった?俺のこと、もう友達だって言えない?」

視界には青いゴムの爪先が映っている。武川、と書かれた文字はバランスが取れていて、そういえば彼は意外と整った字を書くのだと思い出した。

「あの日、学校戻ってから先生にも親にも怒られたって聞いたよ。警察まで来たって。俺のせいだ。本当にごめん。もう巻き込んだりしない。絶対しないから。しないからさ、また、」

「もう無理だよ!」

彼は静かだった。今までもずっと、特に二人でいるときは大きな声も大振りな反応も見せない、静の空気の中にいる穏やかな人だった。そんな彼の前で聞かせたこともない大声を出した。顔を上げたら、そこには傷付いた表情を隠し切れずに俺を見つめるサクちゃんがいた。もう無理だよ。言葉は止めどないし、取り消せない。

「もう、もう…俺…サクちゃんのことで悩みたくない!」

サクちゃんが息を呑むのがはっきりとわかった。まるで何かの死に立ち会ったような顔で、言葉を探しているのか、唇を震わせている。昔は隣の教室で聞いているだけだったサクちゃんの笑い声。いつの間にか肩が触れる近さで、息の揺れまで感じられるようになった。掠れ気味の高音が心地良くて大好きだった。笑い声だけじゃない。サクちゃんは光そのもの。すべてが美しくて、大好きだ。そこで初めて、この感情を恋と呼んでも良いのだと知った。俺の初恋は、気が付いた瞬間に黒く塗り潰されて幕を閉じる。好きだけど、愛しいけど、それ以上に苦しかったから。もう、サクちゃんのことで頭と心が満ちてしまうのが怖かった。すべての悪いことをサクちゃんのせいにしてしまう日がきっと来る。もう来てしまった。

「俺のこと、もういやだ?」

振り絞るような声で、そんなことを言わせているのは紛れもなく自分で。小さく開いた口元からは、相変わらず花びらのような八重歯が覗いている。笑っているときに見えるそれの方がもっとずっと可愛らしいのに。

「…嫌だよ。もう、苦しくていやだ。」

情けない声は、それでもサクちゃんの耳に届いた。サクちゃんは唇を引き結んで、本当に本当に悲しそうで苦しそうで痛そうで、何より、子供みたいな顔を見せた。

「心の底から楽しんでくれているのかと、俺は勘違いしていた。ごめん。ごめんね。俺、シオが笑ってくれるのが嬉しかった。俺だけだったね。ごめんね。シオは好きな所へ行って。俺のいないとこへ。」

歯を見せずに笑うサクちゃんはあまりにも儚い。本当に楽しかった。サクちゃんといる毎日が満ち足りていて、自分の居場所になっていた。テストの点数も、志望校も、遠い未来の自分も、どうでもいい。俺はサクちゃんが笑っている、その笑顔の隣にいたいのに。

「シオ、ごめんね。」

「サクちゃん、」

嘘だよ、と言えなかった。そばにいてほしいと言えなかった。未来を全部あげてもいいと、たった十二年しか生きていないちっぽけな俺の、しょうもない告白を捧げられなかった。

「シオは賢いから、きっとちゃんとした人になれるよ。…みんなちゃんとしてるけどさ、シオはその…偉い人になれるよ。」

地位も名誉もいらない。サクちゃんと一緒にいたい。言えなかった。俺はこれから学習塾に通う。そこそこの高校へ進学して、サクちゃんが思うような偉い人にはなれなくても、普通に生きていくだろう。そこにサクちゃんはいない。


そうして俺はサクちゃんのいない冬が訪れた。バスケ部の明るくて面白いクラスメートと、同じ委員会の同級生と仲良く学校生活を送り、放課後は週に三度、学習塾に通った。新しい日常は優しく俺を受け入れ、俺もそこに慣れていった。初めからそうであるように過ごす。菊池たちとは話すことも無くなり、まるで他人のようになった。最初のうちはお互いにどことなく歪な雰囲気だったものの、今では元からこうであったようにすれ違っている。これが正しい自分自身なのだと決めてからは楽だった。元に戻れたと思っていた。


年が明けた。珍しく雪が降った。毎年恒例の冬祭りの前日、俺はサクちゃんとキスをした。

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