第6話

通勤ラッシュより早い時間帯で使う電車は座席に余裕がある。俺はデニムにパーカー、工場のロゴが入ったジャンパーを着て、昨日一昨日と同じように職場へと向かった。職場は一駅先にある町の自動車整備工場だ。入社して四年目になる。工業高校を卒業してすぐに入った工場には、すっかり馴染み、同じタイミングで始めた一人暮らしにも慣れた。料理はそこまで得意ではないが、掃除も洗濯もまめにやっている。

「おはようございます。」

工場の表口から入り、鍵開け当番になっていた先輩と挨拶を交わす。人間関係も良好だ。

「おはよう。今日も寒いな。」

「毎年、年末ってこんなに冷え込んだっけ?って疑いますよね。」

「わかるわぁ。」

たわいもない話をしながら作業服に着替え、従業員が揃うのを待つ。事務所では工場長の奥さんと事務の女性陣が談笑していて、俺の顔を見るなり、何かにやつきながら名前を呼んだ。

「おはようございます。…どうかしました?」

社長夫人である奥さんは人当たりが良く、若い作業員や事務員にも人気がある。みんなのお母さん、というキャッチフレーズがぴったりの明るい女性だ。

「羽鳥くんたちが話してるのを聞いちゃったんだけど、塩田くん、彼女と別れちゃったんだって?」

こういうところを含め、母っぽいのである。工場内では若い方である俺や、話にも登場した羽鳥ら後輩は、こういった話の餌食になりやすい。まだ二十代前半の俺に結婚のノウハウを丁寧に教えてくれたり、考えてもいない見合いの話まで持ち出してくるのだ。本人はついついやってしまう人へのお節介を申し訳なく思っているようだが、少なくともここの従業員はそんな姿も微笑ましいと感じている。

「盗み聞きですか?良くないですねぇ。」

「やだ、違うわよ。聞こえちゃったの!」

中学、高校、そして社会という環境の変化の中で、俺は少しずつ自問や思考を控えるようになっていった。謂わば、深く考え、悩み過ぎることを止めた。独りよがりになることの苦しさを身を持って知ったことで、昔と比べて人当たりが良くなったように思う。あの頃の自分は、十代前半の子供に多く見られる、思春期という時期だったのだろう。

「まぁそうですね。別れましたよ。その、またって言うのやめてくださいよ。」

人付き合いが上手くなったことで、女の人との交際も経験した。最初の彼女は高校一年の夏休み。そのときに人から愛されるという気持ちを初めて知った。愛というものが知りたくて、その後も女性と関係を持ち、今ではモテ男だの遊び人だの言われ、嗤われている。

「おばちゃんはね、塩田くんが死んでも離したくない!って思えるような相手と出会ってほしいのよ。それこそ、おとぎ話みたいな?人魚姫みたいな?」

「なんで人魚姫なんですか。」

主にからかってくるのは事務所の方々なのだが、彼女がコロコロと変わる俺のことを責めたりはしなかった。ましてや、少女漫画やテレビドラマを楽しんでいるかのような反応を見せる。俺は今日も今日とて、優しいお節介を右から左に流しながら、紙のカップにコーヒーを注いだ。

「愛のために声を失い、愛のために泡になるのよ。まさに純愛でしょう。」

「良い例え出しますね。わかりますよ。」

「ロマンチックですよね。見習った方がいいですよ。」

熱いコーヒーを冷ましながら奥さんの話に相槌を打っていたら、いつの間にか数名が加勢してきた。

「いや別に、僕だって純愛ですからね。勝手に酷い男認定しないでくださいよ。」

なんやかんやと非難され、冷めてきたコーヒーを飲み下す。今までの恋が遊びだったことなんてない。どれも相手の気持ちを受け入れて、体だけ、なんてことにもしなかった。中には面倒だと感じてしまうような女性もいたけれど、ぞんざいに扱ったり、捨てるという表現が用いられるような別れ方は一度だってない。ただ、いつも熱の低い愛し方しか出来ないのだ。自分の中にある目には見えない何かを、愛というものは超えられない。俺は、その奥にあるものが知りたかった。ぬるくなったコーヒーみたいな愛を嫌がり、暗い泥のようなそれをシンクへ流してしまうように、俺はいつも一方的に別れを告げられていた。



何でもない毎日に、突然過去が顔を覗かせた。年が明けてすぐのことだ。工場の正月休みが明けた途端に、一台の乗用車が整備に持ち込まれた。赤い塗装の国産車は、困った顔の持ち主とは不釣り合いだ。まだ学生のように見える運転手は初対面だが、付き添いで来たらしい男には見覚えがあった。肩書きに適当に営業、と加えられたベテランの整備士が接客を担当しているので、俺が顧客と接する機会は少ない。そんな中、事務所兼応接室へ、 手を洗いに入った俺を、懐かしいあだ名が呼び止めた。

「シオ?」

苗字とも名前とも違う、記憶の彼方に眠っていた呼ばれ方。

「…みっちゃん。」

古いソファに浅く腰掛けて机の上の資料を見ていた姿勢のまま、みっちゃんがこちらを見上げている。中学を卒業してからは一度も会っていない。在学中も、二年に上がる頃には全く会話も無くなっていたので、声を聞くのは十年ぶりだ。大人になったみっちゃんの声を聞いたのはもちろん初めてのことだったので、その音は記憶のどこにもないのだけれど。

「背、伸びたな…。」

「…久々に会った親戚じゃん。」

お互いに久しぶりが過ぎて何も言えなくなっていたところへ、みっちゃんがぼそりと呟いた俺の外見への感想は、あまりにも突飛で力が抜ける。俺も十年越しの再会とは思えないような返しをして、二人で笑った。

「まさかここで会うなんてな。」

ちょうど料金の説明が終わったので、俺は先輩から休憩をもらい、工場の外でみっちゃんと二人になった。みっちゃんの友人は作業場に運び込まれた車についてあれこれ話をしているようだ。

「驚いた。顔見たらすぐみっちゃんってわかったよ。」

「ほんと?俺、声かける前に何度か迷ったよ。」

みっちゃんは大学生になっていた。地元を離れて、隣の県の国立大学へ通っているらしい。おぼろげな記憶の中のみっちゃんは色が白くて線の細い少年だ。目の前のみっちゃんは、襟足を刈り上げ、耳と眉にかかるラインで毛先の長さを揃えたイマドキの髪型にしているけれど、どことなく美少年らしさを纏う雰囲気は変わっていない。暖かそうなノーカラーのコートの中で、笑う度に揺れる体も骨ばっていて細い。

「…シオ、なんだか別の人みたいな顔をしてたから。」

みっちゃんは笑っていたけれど、語尾に微かな戸惑いを隠している。もう十年も経つのに、俺たちはまだ、思い出話で笑うことが出来ない。

「もう二十二だよ。いつまでもダサいままじゃあね、恥ずかしいし。」

俺はそう言って目を逸らしたが、視界の端でみっちゃんが驚いていることはわかった。俺がこんな風に飄々とした態度を取ることに、昔の小さな声で笑っているだけの俺がもういないことに、驚いている。

「なんか…鼻につかない?俺のこの感じ。昔の知り合いと会うことなんてなかったから、どんなキャラだったのかわからなくて…恥ずかしいんたけど…。」

「…なんかモテそうで腹立つな。」

みっちゃんは肩の荷を降ろすみたいに息を吐いて笑った。俺は思ってもいなかったことを言われて、逸らしていた視線を赤茶の頭髪へ戻す。

「それと、昔の知り合いって言うのやめろ。…友達とか言えよ。」

今度はみっちゃんが目を逸らす番だった。上手いこと伸びている横の髪は、照れているらしい耳の赤さを隠してはくれないようで、ほんのり色付いた耳朶に俺はなんだか泣きそうになった。

「…ありがとう。本当に、ありがとう。」

こんなタイミングで告げる脈絡の無い礼の言葉を、みっちゃんは黙って受け取ってくれる。

「連絡先、交換しようぜ。成人したし飲みに行こうよ。」

あの頃は持っていなかった携帯電話に、みっちゃんの連絡先が登録される。みっちゃんの言葉に改めてハッとした。もう俺たちは大人だ。学生服を着てバスに揺られていたあの頃から、随分と時間が経った。高校に通い、就職もした。それなのに俺はまだ、子供の頃の記憶をあえて避けるように、見ないふりを続けている。誰にも打ち明けられず、自分自身からも隠してきた。

「いつ空いてる?」

「…今日とかどう?」

楽になりたかっただけなのかもしれない。昔のことを知っている数少ない友人に再会し、ずっと心の中にあったことを聞いてほしいだけの、自己中心的な誘いになってしまいそうだ。

「ますますモテそうな感じがするよなぁ。」

みっちゃんは冗談混じりにそう言って、俺の仕事が終わる時刻をきいてきた。駅前で会う約束をしたところで俺の休憩時間が終わり、みっちゃんの友人も話がひと段落ついたようだった。

「じゃあまた後で。」

作業場に戻る俺に向かって、みっちゃんが軽く手を振る。いつだったか、バス停で別れた熱い夏の日を思い出した。向日葵は結局、どこへ行ったんだっけ。


ガヤガヤと騒がしい居酒屋の雰囲気は久しぶりで、自然と話し声が大きくなる。向かいに座るみっちゃんはウーロンハイ、俺は生ビールのジョッキを片手に、初めての乾杯をした。

「シオとこうやって酒飲むなんて、想像出来なかったな。」

「俺だってそうだよ。」

次々と運ばれてくる料理をつまみながら、互いの近況報告に花を咲かせた。みっちゃんは中学卒業後、あの辺では中堅クラスの高校へと進み、指定校推薦で現在通っている国立の大学へ進学したそうだ。今日はその大学の友人が、親の車をガレージにぶつけてしまい、修理の見積もりに付き添いとして同行していたらしい。

「本当に偶然だよな。キセキってやつじゃん。」

みっちゃんは歯を見せずに、広角を上げるだけの笑顔を浮かべる。中学生だったみっちゃんの姿が重なって、俺は胸を打たれた。みっちゃんも俺も、十年の時が経って見た目も中身も変わった。それでも根本にあるその人らしさは、この先も消えることなく残り続ける。消えてなくなる過去なんて無いのだ。

「みっちゃん、昔の話…してもいい?」

カラン、と溶けた氷がグラスの内側に響いた。みっちゃんは空いたグラスをテーブルの端に追いやり、メニューを開いた。

「うん。その前にもう一杯頼もうぜ。」

優しい声だった。俺が何の、誰の話をしたのか、わかっているような柔らかい声だ。きっと話している間に温くなってしまうだろうから、ビールは選ばなかった。梅酒を二つ頼み、グラスが来るまでの間を、みっちゃんは何でもない話で繋いでくれた。琥珀色の酒がテーブルに並んだところで、俺はそっと息を吐く。

「みっちゃん…サクちゃんと会った?」

ずっと呼べなかった名前。心の中でさえ呟けず、頭の中でさえ考えられなかった彼の名前。サクちゃん。春の花の名前。

「…会ってない。サクが転校してから一度も。連絡も取れなかった。」

俺はどんな顔をしていたのだろう。俺と目を合わせるみっちゃんは、努めて穏やかな顔をしている。俺を安心させたいのだ。俺があまりにも悲痛な表情を浮かべているから。

「実家の病院にも行った。お父さんはまだ働いてた。お母さんの姿は見えなかったから、サクと一緒に引っ越したんだと思ってたけど、病院の外でお母さんも見かけたから、サクだけがどこかへ行ったみたい…。」

明るく話そうとしていたらしいみっちゃんだったが、やはり苦しい思いをしていたようで、笑い声は微かに震えていた。

「何でサクの家の前にパトカーが来てたのかも、サクがどこ行ったのかも、今どうしてるのかも、俺、全部…何も知らないんだ。」

ごめん、とみっちゃんが言った。俺は残念な気持ちを抱いたが、すぐにハッとした。傷付いているのは、不安に思っているのは俺だけじゃない。みっちゃんなら何か知っているかも、と勝手に期待していた。

「ちがう、ごめん。謝らないで。」

俺は焦って声が大きくなってしまった。みっちゃんは驚いて目を丸くして、それから少し笑った。

「俺なら何か知ってるかも、と思って話してくれたんだろ?でも俺も全然知らないんだ。小学校からずっと一緒だったのに、何もわからない。」

「俺、自分だけが悩んでるんだと勝手に思い込んでた。俺だけがかわいそうみたいに、そんな風に孤独に酔ってた。…みっちゃんだって苦しかったはずなのに。ごめん。」

謝るのは俺の方だ。あのときからずっと、ごめん。自分可愛さでサクちゃんから、みんなから離れたくせに、今でも忘れられなくて、みっともなくてごめん。

「…どうしてサクが、シオと仲良くなったのかわかった気がする。」

みっちゃんは一口だけ梅酒を飲み下す。

「シオは人の気持ちの真正面に立つから。真っ直ぐだから、あぁ今シオは、俺のことをちゃんと考えてくれてるってわかる。それが心地良いんだ。」

昔と変わらない、昔より大人っぽいみっちゃんの笑顔に、黙っていたことが引き出される。酒と、彼の優しさが過ぎる笑みのせいにして、全て言ってしまいたい。

「…俺、ずっとサクちゃんのことが忘れられないの。自分から逃げておいて、今でもずっと、多分この先もサクちゃんのこと覚えてる。…サクちゃん以上に好きだと思える人に出会えなくて、サクちゃんの言う愛が何なのかを知ろうとするばっかり。そばにいても離れていても、どうしてサクちゃんのことを想うと、こんなにも苦しいんだろう。」

両手でグラスを持ち、俯いて泣き言を零す俺は、側から見れば失恋でもしたかのようだ。みっちゃんは黙って俺の情けない言葉の羅列を聴いている。

「…好きだったんだ。ずっと。今でも。俺にとっての特別だった。」

グラスの中で氷が溶け、濃い茶色にじわじわと混ざっていくのが見えた。波のように広がる境界線が、泣いているときの視界のようにぼやけている。つられて涙が溢れそうになった。

「こんなにお前のこと想ってくれてるやつがいるってのに、サクの奴どこで何してんだよ。」

みっちゃんは少し眉を寄せて、怒っているようにも、泣くのを我慢しているようにも見える表情で俺を見ていた。

「シオ、ずっと苦しかったんだな。好きな奴がいきなりいなくなって、十年間もずっと考えてたんだ。他の誰がお前の片想いを笑っても、俺は絶対笑ったりしない。」

俺よりも小さくて細いみっちゃんが逞しく見えた。俺はありがとうを言うのが精一杯で、言葉に詰まる様子を笑ってもらうしかなかった。サクちゃんのことで、お互い何かわかったことがあれば連絡すると約束し、その日は解散となった。

「その苦しみを超えるような恋があったら、それはそれでいいんだからな。」

別れ際、みっちゃんは俺の方は見ずにそう告げた。無理に忘れなくてもいいけれど、一生覚えてなければいけないわけでもない。もし俺が新しい恋と出会ったなら、そこで愛を知ってもいいのだと、みっちゃんは言ってくれた。

「ありがとう。」

「まぁ、そんな簡単な話じゃないのはわかってるんだけどさ。せっかくモテそうなんだからもったいないことすんなよ。」

みっちゃんは乱暴に俺の背を叩いた。痛がる俺の姿を見て声を上げて笑っている。

「じゃあな、また会おうぜ。」

駅のホームで手を振り別れた。細身な背中が車内へと消える。

「みっちゃん!」

後ろ姿え彼の名前を投げかけた。コートの裾を翻して、みっちゃんが振り返る。

「ありがとう!」

本日何度目かのありがとうは、駅構内に響いた。みっちゃんは恥ずかしそうにはにかんだ。

「こちらこそ!」

ドアが閉まり、友達を乗せた列車は駅から離れていく。そっと頬に触れてみた。あの日のキスを思い出す。きっとずっと苦しい。それでもいい。俺はずっと苦しい恋をしている。サクちゃんに恋をしている。

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