第7話

地元の冬祭りが始まるらしい。たわいもない連絡を取り合っていたみっちゃんから、そんなことを伝えられ、俺はケータイを触る指を止めてしまう。

『俺、年末実家帰ってないから冬祭りのタイミングで地元戻ろうと思うんだけど、シオもどう?』

みっちゃんからのメッセージに既読を付けたものの、すぐに返事が出来ずにいた。みっちゃんは俺が最後にサクちゃんと会った日のことを知らない。雪の降る河川敷で凍えたまま歩いていたサクちゃんを見ていないし、サクちゃんの八重歯が俺の頬に噛みついたことなんて知る由もない。

『仕事だから帰れなさそう。冬祭り、楽しんで。』

少し考えたが行くのはやめておいた。みっちゃんと再会して、僅かではあるが過去と向き合えるようになってきた。それでも、最後を思い出す度に胸が苦しくなってしまう。

『仕事じゃしゃあない。頑張って。』

猫のキャラクターが親指を立てているスタンプが送られてきて、思わず微笑む。みっちゃんは地元に帰って、菊池と田島くんとも会うらしい。その際、俺の話をしてもいいかときかれたので了承した。そういった確認をしてくれるところがみっちゃんらしくていいな、と思った。俺も棒人間が頭を下げるスタンプを送信し、会話を終える。欠伸のついでに癖で頬を掻いた。甘い痺れが広がったのは、頬なのか心なのか。

「…サクちゃん。」

部屋の中で消えていく彼の名前に返事は無い。当たり前のことなのに何故か息が詰まる。会いたい。忘れなくていいとわかってしまってから、俺はサクちゃんのことばかり考えてしまう。会って、俺の目を見て、俺のことを変な奴だと笑ってほしい。八重歯を覗かせた笑顔を俺に向けてほしい。俺はカレンダーを確認した。冬祭りは明後日。


雪は降らなかったものの、暗い空の下はひどく冷え込んでいた。俺は仕事帰りの服装のまま、緩やかに流れる川を見つめている。いつの日か歩いて帰った河川敷に、俺は一人で立っていた。来てしまった。みっちゃんには何も伝えず一人で来た。親にも帰省は伝えていない。帰省と言うほど離れて暮らしているわけでもないが、頻繁に帰ってもいないので実家に寄ってもよかったが、そんな気分ではなかった。俺は駅から家までの道をあの日のように歩いてみる。会えないとわかっているのに、俺の瞳は、薄着の背中を探してしまう。サクちゃんを見つけて走った橋に差し掛かる。向こう岸に人影は無く、ただ冷たい土があるだけだった。わかっていたのに、裏切られたように肩を落とす。サクちゃんを抱き締めた場所を明確に覚えていた自分を嘲笑し、汚れたスニーカーで立ち止まった。このまま進んでも山の中へ入っていくだけだ。引き換えそうとしたところで、鼻先にぽたりと冷えた水を感じた。雪が降ってきた。積もるとも思えない量の降雪に呆れて笑ってしまった。あの日と同じ情景にサクちゃんがいない。俺はしばらく、雪が地面に落ちて消えていく様を見つめていた。そんなことをしてもサクちゃんが現れるはずもなく、足の裏から冷えが上ってきたのを感じ、駅へ戻ろうと歩き出した。歩きながら、冷たい指先で頬を撫でる。皮膚の熱で溶けた雪の亡骸以外で、頬が濡れていた。大人になった男が、雪降る土手で泣いている。遅い時間なので他に通行人の姿は見えないが、自分の様子を俯瞰して情けなくなった。泣いたってどうにもならないのに。会いたいなんて気持ち、抱いてるだけではどうしようもないのに。駅が近づいてきたので、必死で涙を止めようと試みるも、結局改札口でも鼻をすすっていた。帰宅ラッシュと終電前の中途半端な時間なので、利用客は少ない。成人男性の泣き顔を人様に見せびらかすようなことがなくてよかった。改札を通ってホームへ繋がる階段を上る。上ろうとした。反対側の階段に、若い男の背中が見えた。黒い髪と赤いスカジャン。背面には翼を広げた鳥の刺繍が施されている。見覚えはない。でも、歩き方が、足の運び方がまるで、まるで自分にとって都合の良い夢のようで。

「サクちゃん!」

人違いだったら、なんて迷いはいっさいなかった。咄嗟に叫んだ名前は、みっともなく涙の色をしている。男はピタリと足を止め、ドラマのような間など空けずに、すんなりとこちらを振り向いた。ウルフカットの襟足が、数学的に美しい円を描く。長めの前髪の向こうに、優しく垂れた目が二つあった。急に呼ばれた驚きで小さく開いた口元には、桜の花弁。

「…サクちゃん、」

会話をするには遠過ぎる距離にサクちゃんがいた。怖いのか寒いのか、サクちゃんの元へ向かう足は震えている。

「…何してんの。…泣いてたの。」

低くなったサクちゃんの声。俺はサクちゃんに駆け寄って、記憶にない体を掻き抱いた。言葉にならない声が、嗚咽となって漏れる。

「シオ。」

サクちゃんの声で名前を呼ばれて、彼を抱く腕に力が籠る。嬉しさが背筋を駆け上り、指先が痺れた。喉が引き攣って返事も出来ない。

「また、シオだね。」

サクちゃんとの日々が思い起こされた。校舎の二階から、階下のサクちゃんを見ていた五月のこと。あの一瞬を自分だけが覚えているのだろうと思い込んでいた。夏休みの暗い教室。また会おうと笑ってくれた約束を、彼は忘れてしまっているだろうと心配していた。そして今、俺はサクちゃんがあの日のことを覚えているのだと気付いて、いっそう感動した。

「また俺でごめん。」

サクちゃんが小さく声を上げて笑った。耳元で響く柔らかい掠れ声に新たに涙が湧き上がる。

「…ちょっと苦しいんだけど。」

サクちゃんの手のひらが、俺の腕を二、三度叩く。俺はあからさまに名残惜しそうな態度で、そっと体を離した。正面からサクちゃんを見つめる。身長は俺より少し低く、痩せた肩のラインは不健康そうだ。長い髪から見え隠れする両耳には、たくさんのピアスが並んでいる。首筋にはタトゥーも見えた。

「久しぶり。」

まじまじと見つめられて居心地が悪いのか、半笑いで目を逸らすサクちゃんは、当たり障りのないことを言う。

「うん。久しぶり。」

どこにいたの、何してたの。ききたいことは山ほどあるが、そのどれもが、サクちゃんを目の前にしているという現実に言葉という形を保てない。

「よく俺だってわかったね。」

「わかるよ。」

食い気味の返答に、サクちゃんがまた笑う。もう一度抱き締めたくなったが、自分の拳を強く握って我慢した。

「…会えて嬉しいんだけど、俺もう行かなきゃ。東京、戻らないと。」

サクちゃんは階段の上を見て、困ったように眉を寄せる。ホームには、もう列車が到着しているようで、サクちゃんはそれをしきりに気にしていた。東京に戻る、と言った。サクちゃんは今、東京にいる。小田舎から新幹線で二時間弱。きっとこれを逃したら、サクちゃんは帰れない。

「じゃあね。」

何も語らずに別れの言葉だけを残して、サクちゃんは階段を駆け上る。涙が乾いた頬に熱が戻ってきた。じんわりと熱いのは、あの日を思い出したからか。今、焦っているからか。

「行かないで!」

子供のような大声で、サクちゃんの背中を呼び止めた。行かないで、もう離れないで。置いていかないで。

「…そばにいて…。」

そばにいて。サクちゃんは立ち止まったまま振り向くことはなかった。俺は、数段先にいる背中に手を伸ばしかけて、そっと腕を下ろした。ホームからドアの閉まる音が聞こえる。発車メロディーがやけに大きく響き渡り、彼が帰る為の最終列車は何食わぬ顔で田舎の町を後にした。

「…帰れなくなっちゃったよ、シオ。」

不安そうにこちらを見下ろすサクちゃんだけが本当で、あとの景色は全て嘘みたいな夜だった。


五段の階段をゆっくり下りて俺の正面に立ったサクちゃんは、わざと恨みがましい表情を作って俺を睨むふりをした。

「ごめん。」

「思ってないくせに。」

間近で見るサクちゃんの八重歯が愛おしい。ピアスもタトゥーも見慣れないのに、彼の一部だと思えば美しいものだと感じた。

「…なんで引き止めたの。」

サクちゃんは少し俯いて、何も期待していないみたいな口ぶりで言った。蛍光灯の下で銀色のピアスが星のようにきらめく。

「あの日、そばにいたいって言えなかったから。」

風が吹いて散ってしまうなら、もういっそ枝ごと手折ってでも手に入れたいと思った。

「いいんだよ。俺のことなんて忘れて。忘れていいよ。」

頼み込むみたいにそう言って笑うのが不快だ。

「忘れられるわけないでしょ。」

だって俺、今でもずっと、

「サクちゃんのこと好きなんだよ。」

サクちゃんは俺の方を見ないように横を向いた。黒髪にタトゥーが透けている。蛇の模様だ。大きなため息が聞こえて、サクちゃんの横顔をじっと見る。吐く息が震えているようだった。

「十年経ってもずっと…」

目尻にきらりと水の玉が浮かんで、流星みたいに零れて落ちた。次から次へと涙が溢れて、サクちゃんはそれを拭おうともしない。俺は指の背で綺麗な雫を掬った。溶けた雪のようだ。

「シオって変な奴だよ。」


「お邪魔します。」

俺は帰りの電車を逃した、否、俺のせいで乗れなかったサクちゃんを連れて家へと戻ってきた。遅い時間だったが、職場にメールを送る。体調不良という嘘で翌日の仕事を休むことにした。サクちゃんもどこかへ連絡している。タクシーでも使えば東京へ戻ることも可能だが、そうする気はないようだ。俺はサクちゃんにききたいことがたくさんあったが、そのどれもを口にすることは出来ずにいた。お互い大した会話もせずにシャワーを済ませ、服を着替えて就寝の準備を進める。上裸のサクちゃんの胸にも背中にも、そして濡れた髪を拭くタオルを握る手首にも、蛇のタトゥーが彫ってあった。

「あぁ、これ?蛇だよ。」

「かっこいいね。」

「お、タトゥー賛成派?」

身近な人で刺青の類を入れているのを見たことがないので、賛成も反対もないのだが、サクちゃんの肌の上を這う四匹の蛇は美しいと思える。サクちゃんだから、という幼い頃から変わらない単純な物差しに一人で呆れた。

「…ピアスもタトゥーもさ、この身体が俺のものだってわかるから、いいでしょ。…俺は、俺のものだから。」

サクちゃんはひそめた声で呟いて、そっと胸のタトゥーに触れた。

「触ってもいい?」

返事を待つより先にサクちゃんを抱き寄せた。一瞬強ばった体は、笑っているのか、穏やかに震えている。あの頃は電話の一本にも怯えていた。それが今、一人暮らしの部屋で、素肌のサクちゃんを腕の中に閉じ込めている。現実ではない気さえしてきて、俺はこっそりと唇を噛んでみた。ちゃんと痛い。夢じゃない。

「…シオは覚えてないかもしれないけど、」

サクちゃんのくぐもった声が、遠慮がちに話を切り出した。

「忘れたことなんてないよ。」

「話聞けよ。」

クスクスと笑われて、揺れた髪がくすぐったい。サクちゃんは少し身を捩って俺と目を合わせようと顔を上げた。

「シオに聞いてほしいことがまだ残ってたんだ。…それと、シオにだけ聞いてほしいことが増えたの。」

許しを乞うような、不安の色が飽和した瞳。凛々しい眉が垂れて、それでも無理に笑顔を作る。あの頃と変わらない、不器用な笑い方が十年の時を経て、余計に痛々しく映る。

「これ聞いたら、こんな風に触れたいなんて思わなくなるかもしれない。十年も覚えていてくれたシオの気持ちが全部消えちゃうかもしれない。俺のこと、きっと嫌になるよ。」

それでも、サクちゃんは一息ついてから、今一度じっと俺を見据えた。優しい垂れ目は揺るぐことなく、俺の瞳を捉えている。

「それでも、シオに聞いてほしい。」

「うん。全部知りたい。聞かせて。」

いっそこの夜が全て夢だとしても良かった。今まで一度も、夢にだってサクちゃんが現れることはなかったから。そう思いながらも、サクちゃんの背に回した腕には力がこもる。まばたきのあいだの暗闇に、彼が消えてしまわないように。朝日と共に泡になってしまう、そんなおとぎ話をなぞらないように。

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