第2話

 彼との約束は浮かれた俺の一方的な勘違いではないかと、彼に会えないうちは不安になったりもした。次顔を合わせて手を振ったとき、名前を思い出そうと眉を寄せられたら、俺は耐えらないと思っていた。そんな心配は杞憂に終わる。決まった曜日に登校していた俺を、サクちゃんが正門で待っていた。約二週間ぶりに見た彼の姿は、身なりこそ私服だが、夕暮れの教室で出会ったあのときと何も変わっていない。ダメージ加工された太めのデニムと白いTシャツ。黄色いビーチサンダルを履いたサクちゃんは夏の装いだ。同じ委員会の同級生と歩いていた俺は、遠慮がちにこちらの様子を窺うサクちゃんと目が合って立ち止まった。突然止まった歩みと、驚いて飛び出た小さな声に、並んで歩いていた友人は怪訝な顔を見せる。そして、俺の目線の先にサクちゃんがいることに気が付いて、よりいっそう表情を曇らせた。

「ごめん。ちょっと俺、ここで。」

 何か言いたげで聞きたげな四つの目を避けて、俺は塀に寄り掛かるサクちゃんの元へ急いだ。さながら飼い主に走り寄る犬のようだっただろう。

「サクちゃん!」

 近付いて名前を呼んで、胸が高鳴る。まるで友達みたいだ。サクちゃんははにかんで俺を見た。

「久しぶり。いきなりごめんね。…友達、大丈夫?」

「平気だよ。…どうしたの。」

 こうして見ると、茶色い髪からは色が抜け始めていた。まだらになった髪色が、強い西日に照らされてキラキラと輝いている。

「シオを遊びに誘おうと思ったんだけど連絡先知らないからさ、待ってた。」

「え、待ってたって…」

 そう言ってサクちゃんの顔を見れば、うっすら汗ばんでいるようだった。日が傾き始めたとはいえ、八月の屋外はとても暑い。さすがに昼頃からいたとは思えないが、少なくとも数十分は待っていたわけだ。

「中にいたら良かったのに…。」

 冷房の効きは甘いが、外よりはマシだろう下駄箱に視線を送る。サクちゃんもちらりとそちらを見て、すぐに力無く笑った。唇を結んだままの笑顔。彼のこの表情は、俺に目に悲しげに映る。

「別の友達といたら、アレかなって…。」

 アレ、が言わんとしてることはわかった。菊池たちがそうであるように、俺もきっと噂話の対象になりかねない。サクちゃんはそれを見越して、無闇矢鱈と近付くのを避けてくれた。その気遣いを無下にしてしまったのは申し訳ないが、俺はそんなの気にしない。サクちゃんのことをしつこくきかれても、何とか取り入ろうという魂胆が丸見えで話しかけられても、陰で何か言われても、気にしない。それがサクちゃんと仲良くなる為の試練とでも言ってもらって構わない。

「アレじゃないよ。いいよ、話しかけてよ。」

「…うん。ありがとう。…そうする。」

 初めての会話の際に、緊張するなんて言って笑われていたことを忘れたみたいに、今も鼓動がうるさいことを棚に上げて、サクちゃんにそんなことを言っていた。こくん、と頷いて微笑む彼からは春の香りがしそうだった。口元から溢れた八重歯が俺の目を奪う。

「居残りのときに、先生に新聞部がいつ学校で作業してるのかきいたんだ。曜日を教えてもらったんだけど、余計なことするなよって釘刺されちゃった。」

 俺は校舎を見上げた。教師の姿も他の学生の目も無かった。これに関しては普段の行いが物を言うので擁護のしようがないのだが、サクちゃんはやはり目立つ存在のようだ。サクちゃんが広報委員会にどんな迷惑をかけるのか想像も出来ないが、教師の懸念もわからなくはない。

「シオ、ケータイ持ってる?」

 サクちゃんはデニムのポケットから携帯電話を取り出した。スライド式の黒くてかっこいいやつだ。生憎、俺はまだ親から許しが出ていないので自分専用の携帯電話を持っていない。

「俺、高校行ってからって言われてて…まだ持ってないんだ。」

「そっかぁ。俺んち母さんも父さんも心配性だからなぁ。…とりあえず俺のケータイの番号教えとくわ。暇なとき家からかけてよ。シオの連絡先は…、どうしよ。」

 自分の家のリビングから、サクちゃんの携帯電話に誘いの電話を入れるなんてことがこの先あるのだろうか。両親がテーブルで週末の予定について話していて、妹が宿題もやらずにテレビを見ている、あのリビングから、俺がサクちゃんに電話するなんて。ましてや、サクちゃんが俺の家に電話をかけるなんて。

「家の電話にかけるのはちょっとなぁ…。武川ですけどぉって言ったら切られそうだな。」

「そんなことないと思うけど…、」

「あるある。実際、田島の家に電話すると田島の母さんに怒られる。だからみっちゃんか菊池のケータイに連絡入れて、どっちかから電話してもらうようにしてるんだ。」

 サクちゃんは別になんともないふうに淡々と言った。それでも目線を下げて小さな声で笑う彼は確実に傷付いている。サクちゃんはそこらにいる不良とは違うけれど、それでも彼のことを武川くんとして知っている人からしたら、見た目が派手で素行の悪い不良少年の一人に過ぎない。彼自身もそれをちゃんと感じているし、そうなってしまった原因が他でもなく自分にあるということもわかっている。それでもその生き方を変えられないのには、俺なんかには知る由もない理由があるのだろう。俺はそれを知ろうとはしないし、知りたくもない。

「…そしたら、俺も田島くんと同じようにして。菊池とは同じ小学校だったから連絡網まだあるし、親も…怒ったりしないはずだから。」

 本当は、家に電話してくれと頼みたかった。世間の目だとか親の気持ちとか、そういうのは関係ないから、いつでも好きなときに呼び出して、と目を見てあげられたら。出来なかった。サクちゃんからの電話を取り次いだ母から、何を言われるか想像しただけで胃のあたりが痛む。仲良くなれて嬉しかったはずのサクちゃんのことを、母親に向かって友達だと説明出来ないことが申し訳ない。それでも言い切る勇気が無かった。

「そうさせてもらうわ。それでさ、来週の金曜空いてる?三人で川行こうってことになって。シオも誘うって伝えてあるから、もし暇なら一緒に行かない?」

 一人で勝手に落ち込む俺に向かって、サクちゃんはぎこちなく尋ねた。中学に入ってから休みの日に約束をして遊びに行くことが減っていた。ほとんど初めてに近い遊びの誘いがまさかサクちゃんだなんて。俺は悔恨を引き摺りながらも、サクちゃんの返事を待つ不安げな瞳に引き込まれていた。

「空いてるよ。」

「ほんと?じゃあ十二時に農園前のバス停で待ってっから。チャリでもバスでもいいよ。」

 サクちゃんはあからさまに嬉しそうな顔をした。雲が晴れて陽の光が差し込んだみたいに、明るい笑顔を浮かべている。俺たちが通う中学は山あいの町にあり、山間部で暮らす人々が町と呼ぶこの地には、最低限の文化が詰め込まれていた。学校や病院、全国チェーンのスーパーマーケット、銀行や郵便局もここにしか無かった。田舎と言い切るには人口が多いが、口が裂けても都市だなんて言えない、山にほど近い小田舎だ。その為、バスや自転車で山の方へ進めば、自然が広がっている。山や森は俺たちにとっての遊び場だし、山の中に作られた道路は不良少年たちがバイクを走らせる格好のコースだった。

「…誘ってくれてありがとう。」

 そういうことはもっと弾んだ声で言うものだろう。自分を責める気持ちが周巡している。もっと気さくに、気軽に、友達の顔をして見せたいのに。

「あ、緊張してるシオだ。」

「いつもそうなんだって。」

 俺を茶化すように大きな声で笑うサクちゃんを見ていると強張っているはずの心が温かくなるような気がする。不思議な感覚だ。彼のことになると頭痛がするほど考えすぎてしまうのに、何を話しても決まって後悔と反省をするのに、自分が自分じゃないような気分になるのに、笑顔を見たときだけは何故か一緒になって笑いたくなる。

「一緒に帰ろうぜ。」

 そう言って歩き出したサクちゃんの後ろ姿から陰が伸びている。他より少し長い襟足の髪が汗で束になっているのが見えた。Tシャツの背中にもぽつぽつと汗の染みができていて、サクちゃんも汗をかくんだな、なんて馬鹿みたいなことを思う。

「どうした?忘れ物?」

 立ち止まったままの俺に気が付いて振り向いたサクちゃんの前髪が揺れた。ぬるくて重たい風が肌を撫でて、サクちゃんの額が夕日に晒される。初めて見たときよりも健康的な肌色に見えたのは、日に焼けたせいか、夕焼け空のせいか。

「ううん。」

「夕飯のことでも考えてた?」

「…まぁ、そんなとこ。」

 数メートル先でサクちゃんが笑った。声変わりが終わったばかりだからなのか、彼の笑い声は所々掠れている。それが特徴的で、俺の耳には心地良かった。

「みっちゃんもそうだけど、賢い奴って考えすぎなんだよなぁ。俺、なぁんも考えてないもん。あ、夕飯のことはちょっと考えてるけど。今日は多分、魚を焼いたやつ。」

「焼き魚?」

「いや、フライパンで焼く方。しゃけを美味しく焼くやつ。」

 夕飯の説明を続けるサクちゃんは幼くて、可愛かった。拙い言葉使いがもどかしいような、くすぐったいような気持ちにさせる。俺は思わず笑ってしまった。ふっ、と息を吐き出すような笑い。同性の同級生に対して、愛おしさに耐えきれず笑うなんておかしいけれど、笑わずにはいられなかった。それくらい、サクちゃんが可愛く見えた。

「シオの笑い方ってつられるな。なんか面白くなってきちゃった。」

 笑っている俺を見て、サクちゃんも苦しそうに肩を震わせている。最早、何が面白いのかもわからずに笑っていた。微妙に空いた距離を詰めることもせず、二人して膝に手をつき腹を抱える。笑い声より蝉の声の方が大きく聞こえるようになるまでしばらくかかった。息も絶え絶えにお互いの顔を見て、またこみ上げてくるおかしさを奥歯で噛み殺す。

「やばい。腹痛い。ちょっと、シオこっち見ないで。顔見ると笑っちゃう。」

 とうとう道端で蹲ってしまったサクちゃんは咳き込んだ。箸が転がってもなんちゃら、と言う年齢だと、家庭科の教師が言っていた。間違いなく今、箸なんて転がったら抱腹絶倒だ。俺はともかくサクちゃんは絶対に笑い転げる。

「よし…いったん落ち着いた。……どう?まだ緊張してる、とか言う?」

「うん。まだ緊張するよ。サクちゃんと一緒にいて、緊張しないなんて無理だから。」

「頼むから笑わせないで。」

 最後の言葉は本心で、別に笑わせようだなんて思ってなかった。それでもサクちゃんはぶり返す笑いに困らせられていた。まぁいいか。サクちゃんが笑っているならなんだっていい。いつの間にか夕焼け空に夜の色が混じり始めた。笑い続けるサクちゃんの隣に並んでバス停までの道をいつもよりゆっくり歩く。くすくすと止まない声をずっと聴いていたいな。そう思ってもバス停が消えて無くなることはなく、数分もしないうちに別れの時が訪れてしまう。

「じゃあ、金曜日。」

「うん。みんなによろしく。」

 きっと彼はバスに揺られながら、一番後ろの座席で思い出し笑いと戦うのだろう。俯いて唇を噛んで、漏れてしまいそうな笑い声を必死に隠そうとする。それが俺のせいだという、そんな嬉しさ。我ながら趣味が悪いとは思うが、その気持ちを嬉しいと言う他に手は無かった。



 約束の金曜日、サクちゃんは集合に遅れた。謝りながら登場した彼は片手に黄色い花を握って、申し訳なさそうにもう片手で首筋を掻いた。行きすがら一人で泣いている小さな女の子に声をかけ、母親の元まで送り届けたのだと言う。女の子は母親と喧嘩をし、家を飛び出したものの、途中で心細くなり泣いていたらしい。お礼だと言って、女の子は庭で育てているヒマワリの花を手折ってくれた。そこまで話して、俺たちに大輪の花を見せたサクちゃんは心なしか嬉しそうだ。

「まぁ、女の子のお母さんは俺と女の子が手を繋いでるの見て、真っ青な顔してたけどね。申し訳ないことしちゃった。」

 ヒマワリを持ったまま川を目指すサクちゃんは先頭を歩いている為、顔が見えない。笑っているようだが、誰も何も言わなかった。俺はサクちゃんが来るまでの間に、昔馴染みの菊池と田島くんはもちろん、みっちゃんとも話をし、それなりに仲良くなっていた。ちらりと横目で菊池の顔を伺ったが、微笑んですらいなかった。そうだよな、笑えないよな。この町で武川くんは、町医者の一人息子で不良少年。それ以上でも以下でもない。田島くんの親も、泣いていた女の子のお母さんも、俺も、サクちゃんが今どんな顔で笑っているのかを知らない。だから、笑えないよな。

「ヒマワリの種って美味いのかなぁ。」

 振り向いたサクちゃんはいつも通りだった。田島くんが返事をして、サクちゃんが微笑んで、普段の空気に戻った。ハムスターが主役のアニメのテーマソングを口ずさむみっちゃんにつられて、サクちゃんも適当な歌詞を充てている。逆さまになったヒマワリは嘘みたいに黄色い。


 中学生の遊び場として有名な川だが、今日は貸し切りだった。休日は家族連れがちょっとしたバーベキューを楽しむような川は、いつも穏やかなせせらぎに満ちている。河原に着いた俺たちは早速履いていたスニーカーやサンダルを脱ぎ散らして、浅瀬へと走った。冷えた山の水が足の指の間を通り抜けて心地良い。魚影が素早く逃げていく様子が見えた。足首までの涼やかさを満喫したところで、みっちゃんが徐に川から上がり、服を脱ぎ始めた。膝丈のデニムの下には体育で使う紺色の水着を着ていた。

「泳ぐ気満々じゃん…。」

 茶化すでもなくまじまじと呟いたサクちゃんの一言がなんだか面白くて俺たちは笑った。普段は騒いでいるサクちゃんや田島くんをため息まじりに嗜めているようなポジションのみっちゃんが、神坂、と書かれたワッペン眩しいスクール水着を着込んで来たことも意外だった。笑われているみっちゃんだけがついて行けないと言うような怪訝な顔で四人を変わるがわる見ている。

「…泳ぎに来たんじゃないの?」

 いっそふざけてくれた方がいい。真面目にきき返すみっちゃんに笑いが止まらない。サクちゃんは水着を着ているわけでもなさそうなのに、浅瀬に座り込んでしまった。特徴的な笑い声が谷に響いている。少し前までは廊下の奥から、階段の下から、隣の教室から聞こえていた彼の笑い声がこんなに近い。二人きりの帰り道でお互い少し離れたまま笑い転げそうになったあの夕焼けを思い出した。贅沢をしている気分だ。サクちゃんの笑うと高くなって、音域の限界で擦れる声をすぐそばで聞いている。

「泳ぎに来たよな。俺も脱ご。」

 サクちゃんはすでに濡れて重たく湿ったハーフパンツを一度絞ると、黒いTシャツを手早く脱ぎ捨てた。河原に投げた服を、既に水着姿のみっちゃんが拾って畳んでいた。サクちゃんは、まだ着替え途中の菊池に向かって川の水を蹴り上げてははしゃいでいる。真っ白ではないサクちゃんの背中はまだ細く、木々の枝を思わせた。

 水面を掬おうと背を丸めると、彼の身体を左右に分けるように背骨がくっきりと浮かび上がった。肉が付いていないせいで華奢に見えるが、俺よりも肩のラインがしっかりしている。その骨張った肩から腕、脇腹へと、水滴が流れて落ちていく。揺れる川面に反射した光が焼けた頬に不揃いな模様を映し出し、その眩しさに彼は目を細めた。俺は笑うのを忘れてサクちゃんを瞳に映した。こうして見ると、普通の男子中学生と変わらないのだと悟る。体格の良い田島くんよりは細身で、青白い肌のみっちゃんより血の気を感じる。年の離れた兄がいるクラスメートが女の子の身体について下世話な話をしていた。風呂上りに見ていたドラマでは男女がベッドの上にいた。そういうものにも反応してしまうのは、恥ずかしいけれど本当のことだ。誕生日を迎えていない十二歳の男子中学生は大概にしてそういうものだと思っていた。俺はサクちゃんの何も纏っていない上半身を見て、ほっと安心した。もしサクちゃんに対して少しでも欲を抱くようなことがあったら。そうじゃなくて本当に良かった。俺は今一度、まだまだ頼りない少年の背中を見て、安堵するのだった。そんな不安が胸を過ぎる時点で、と、その頃の自分は思いもしなかった。

「なんだよシオ、余裕そうじゃん。」

 まだ靴しか脱いでいない俺に向かって、サクちゃんは手のひらいっぱいの水を放った。弧を描いた川の水は俺の胸あたりにぶつかって服と肌を盛大に濡らす。いきなりのことと水の冷たさに驚いた。

「シオ、夏なんだから。」

 サクちゃんの手の中には次弾が装填されていて、俺が何か言い返す前にそれを浴びせようとしているのは明らかだ。無邪気に目を輝かせているサクちゃんの後ろから、菊池が水を蹴り上げた。菊池の笑い声とサクちゃんの情けない悲鳴が谷を駆けていく。どれほど馬鹿だっていい。夏なんだから。


 どんなに慣れ親しんだ場所であっても暗くなった山中は危険だ。小さな頃からそう言われて来た地元の子供は、日が傾き始めると川遊びをやめる。度胸試しだと言って夜の山へ入る高校生は少なくないが、俺たちは素直に帰路につくことにした。濡れた服を乾かし、替えの下着を身につけたので帰りもバスに乗ることが出来る。待ち合わせをしたバス停までの下り坂を、昼間よりもゆっくりと歩いた。水中にいたせいで体が重たい。明らかに減った口数も、それはそれで心地が良かった。辺りはまだ明るいが、古ぼけたバス停はなんだか少し不気味で、雨よけの小屋の中では誰からとも無くつまらない冗談を言い合った。菊池たち三人は山の麓でバスを降り、停めていた自転車で帰っていった。

「じゃあ、またね。」

「うん。じゃあまた。」

 菊池と田島くんはともかく、みっちゃんに手を振りながら、自分が遠くから眺めていた輪の中にいるのだと実感する。不思議な感じがした。同じように三人を見送るサクちゃんの手にヒマワリの花はない。枯れないように川の水に茎の先を付けていたのだが、いつの間にか流されてしまっていた。砂利の上から姿を消した夏の花を、中学生の男子とは思えないほどに悔やんでいたのが印象的だった。

「サクちゃん、本当にいいの?」

「うん。今日はシオと歩きたい。」

 サクちゃんの家は駅の方なので、最寄りのバス停はみっちゃんと同じなはずだ。それでもサクちゃんは何故か俺と帰ると言って市街地行きのバスには乗らなかった。俺の家の近くを走るバス停までは少し距離があり、サクちゃんが帰るには遠回りになってしまう。

「どうせ早く帰ってくるなんて思ってないだろうしさ。」

 サクちゃんはリュックを背負い直すと、緩やかな坂を下り始めた。俺は嬉しさが表に出ないようぐっと頬を引き締めてその背中を追った。

 二人きりになった帰り道で、サクちゃんはどうってことない話を絶え間なく続けていた。俺はサクちゃんが話すすべてのことに興味があったので、笑いどころのわからない日常のあれやこれをいたく真剣に聴いていた。彼が飽きずに語る諸々は、俺に聞かせたいとっておき、ではなく、彼自身がそうしないとやっていけないと、半ば義務のような苦々しさを感じさせた。深く追及する権利も勇気も無い俺は、頷いたり相槌を打つくらいの返事をするのに精一杯だ。そんな微暗い雰囲気であるにも関わらず、彼の口から語られる日常の話は、俺にとってはどれも新鮮なものだったので、このまま静かな帰路が長く続いて終わらない、そんな幻想を抱くなどしていた。なんともくだらない夢のような幻想だが、そんなことを考えてしまうほどには、二人だけでゆっくりと歩く田舎道は素敵なものだった。あのサクちゃんと並んで歩く姿を誰かに見られたらどうしようと、心配しないこともなかったが、その日は不思議とどうでもよかった。昔から良くしてくれる自治会の会長にも、優しい近所のお姉さんにも、誰に見られても胸を張っていられる。だって俺は、サクちゃんがただの不良少年じゃないと思っているし、彼がヒマワリ片手に俯いた背中の奥で、本当は笑えていなかったのだとわかっていたから。

「シオって不思議な奴だよな。」

 出会ってから数回しか会っていないのに、何度も同じようなことを言われた。サクちゃんは俺のことを変だとか、変わっているだとか言う。俺は今までの人生、至って普通の、謂わば面白みも何の変哲もない、ただの少年として生きてきたつもりだ。中学生にして髪を染めたり、学校を抜け出したりする方がよっぽど不思議だと思う。

「シオには、全部言っちゃいそうになる。余計なことも全部、伝えて…一緒に考えてほしいって、そんなふうに思うんだ。…いい迷惑だよな。」

 でも、と、サクちゃんは少し黙ってからずっと前を見ていた優しい垂れ目をこちらへ向けて、俺と目を合わせてそっと息を吸った。

「でも、シオが嫌じゃなかったら、いいよって言ってくれたらさ…いつでもいいんだ。俺の話を…その、余計なことをいろいろ…聞いてくれねえかな。ごめん。」

 最後の一言を告げたときのサクちゃんの笑顔は、笑顔という類にまとめてしまって良いのかも曖昧だ。下手くそな頬の揺らぎは不器用でぎこちないくせに、世界中にどこに咲く豪奢な花々にも勝るほどに美しかった。彼の名が先だと言って、そこに薄紅の花を咲かせたようだった。

「…俺なんかでいいなら。」

「シオだけだよ、こんなの。」

 思わず立ち止まってしまった。少し前を行くサクちゃんも、歩みを止めてこちらを振り返った。サクちゃんはいつも俺の視線の先で俺を振り向いて見ているな。不安そうな顔が、少しずつ暗くなる空の下で夕日の影に隠されている。上手じゃない笑顔。

「変なことばっかり言ってごめん。…あんまり気にしないで。疲れてんのかな。おかしなこと言ってるね。」

「いいよ。俺、変な奴だし。変なこと言っても大丈夫。全部聞くよ。」

 サクちゃんは刹那に驚いたような顔を見せてから、くしゃりと情けなく微笑んだ。

「そういうのが変なんだよなぁ。」

 空っぽになってしまった両手の指を組んで、落ち着かなさそうに手いじりをしている。サクちゃんは恥ずかしそうに前を向くと、俺が着いて来ているかも確かめずに歩き始めた。俺はハッとして彼の横へ急ぐ。

「…なんでちょっと嬉しそうなんだよ。」

「サクちゃんが嬉しそうだから。」

 そこでサクちゃんは何かを言おうと口を開いたが、すぐに閉じてしまった。もう一度俺のことを変な奴だと言おうとしたのだろう。堂々巡りになると思って口を噤んだに違いない。さっきまで延々と話していたサクちゃんはすっかり黙ってしまったが、しばらくするとまたぽつぽつと話し始めた。そうしていないといけないように、何でもない話を続けるサクちゃんが、俺に聞かせたいと言った、何でもなく無い色々を、いつか聞かせてもらいたい。そう思うことしか、今の俺に出来ることはなかった。

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