第9話

不快な柔らかさが俺の身体を包んだ。同意の無いセックスは時間だけを浪費して、いつの間にか終わっていた。見慣れた広いリビングは、まるで荒野みたいに寂れて見える。俺は、母親の膣の中で初めてを済ませ、白濁した精液は体外へ排出されることもなく、セックスとも呼べない苦しみだけを置いていった。狂ったように笑う母親を下から見上げる。俺がおかしいから、医者である父の跡を継げないから、男なのに男が好きだから、先生とキスとその先に手を出そうとしたから、普通じゃないから、母さんは怒っているんだ。こんなことするんだ。萎えた性器に触れる、母親の汗ばんだ指先。アイメイクが涙で流れ落ちて悪魔のような双眸になっている。ごめんなさい。呟きは声にならず、吐き気を催す胃の中へ落ちて溶けた。普通に生きていくことがこれほど難しいなんて思わなかった。したいように生きていきたい。窓の外の夕暮れに焼いて殺されたい。俺は目を閉じた。このまま死んでしまってもよかった。


仕事から帰ってきた父親は、団欒の居間で起こった惨状を目の当たりにして言葉を失った。放心状態の母に向かって激昂する父をぼんやりと見ていたら、窓の外で雪がちらついていることに気が付いた。一人になろう。寒くてもいい。絶望はきっと氷のように冷たい。次第に口論へと発展していく両親を置いて、ふらふらと外へ出る。上着どころか靴も履いていない。コンクリートの冷たさと固さが足の裏に刺さるが、人の肉の柔らかさより何倍もマシだ。行く宛もないのに、どこかへ向かいたくて家から遠くへ歩く。どれくらい歩いたかわからないが、川のせせらぎを耳にしてふと立ち止まった。いつの間にか山へと続く河川敷まで来ていたようだ。ここへ来るまで誰かとすれ違っただろうか。こんな真冬の雪の中、裸足で歩く姿は、さながら亡霊のよう。あぁ、本当に死んでしまっていたらいいのに。顔中びしょびしょに濡れていて、涙が出ているのかもわからない。泣いたってどうしようもない。誰が慰めてくれるの。寒さを超えて頭の中がぐらぐらと熱くなる。指の感覚もなく、吐く息に色も無くなった。それでも身体中の血液が沸いているかのように熱を持ち、あちこちがじんじんと痛む。熱い。劫火の中を歩いているような熱。そんな地獄の中で、誰かに名前を呼ばれた。声は聞こえているのに、立ち止まることも振り向くことも出来ない。熱さ以外、何も感じなくなっていた体に、久しぶりにあった友人の体温が触れた。涙を拭われ、抱き締められ、もう聞きたくもないと思っていた愛なんてものを伝えられた。精一杯の拒絶も意味を成さず、腕の中でまた泣いた。頭痛が酷くなる。本当に、本当に変な奴。シオから愛をもらったら、なんて都合の良い想像をした。シオの言う、好きも愛してるも、きっと本物じゃない。本物なんてないんだ。俺を好きになってしまったこと、それを愛だなんて思わないでほしい。きっと嘘になる。俺のことなんて忘れて。そう思いながらシオの頬に噛み付いた。忘れたくない。忘れてほしくないと、心の奥では叫んでいた。


町中を探し回っていた父に見つかり、その日は無事家に帰り着くことが出来た。家が安寧の場所ではなくなった俺は、壁の向こうに感じる人の気配にも小さく悲鳴を上げそうになる。父は母を有名な精神病院へ通わせた。体裁を気にしたのか、息子のことを思ってなのか、父は俺を家から離した。交通の便を考慮して、俺は東京の中学へ転入した。東京近辺に親戚はおらず、俺は平日をアパートで一人過ごしていた。週末、病院での業務を片付けた父が新幹線でやって来て、遅い夕食を一緒にとる。俺が唯一、一人ではない時間だった。学校へはほとんど行かなかった。父の考えの中では、この生活が最善だったのだろうと予想はつくが、十代の俺にとって最適だったとは思い難い。通信制の高校を選び、出来る限りの努力はしたが、結局何かを見つけることも出来ず、俺は父の前から姿を消した。一人でいるのは怖いのに、他人の愛の匂いも受け入れられず、自分が何者なのかわからなくなる。俺は、俺の形をした身体があるだけなのではないか。父と母が作った人形のような何かなのではないか。器用に動かせる指の節がバラバラに崩れていく夢を見る。この身体は俺のものだ。ピアスの穴が増え、身体中に蛇が這う。再生のシンボル。アンダーグラウンドな界隈を覗いて、友達も出来た。自分がゲイであることを隠さずにいたので人も寄ってきた。男も女も、誰も受け入れられなかった。記憶の中に、先生と母親の笑顔が浮かんで、その度に頭がぐらりと重くなる。誰とでも仲良くなれるのに、誰かのものにはなれなかった。

「サク、お前仕事どうすんだよ。俺んちに入り浸るな。」

二十歳を超えて大人になった。俺はネットで知り合った、同じくゲイの男と仲良くなり、恋愛云々から離れた関係としてよく会っていた。

「探してますよ。でも、こんな男をどこが雇ってくれるって言うんですか。」

吸い慣れた煙草を人の家の灰皿で消す。男は滝沢さんという二十七歳、保育士だ。資格を持っているだけで、今は近所の児童館で職員をしている。他にも何やら教育系の資格を持っているらしく、俺がこうして居候紛いの長期滞在をしていても、口だけの抗議で済ませてくれるくらいには稼いでいるようだ。

「前の工場はピアスもタトゥーも問題なかったんだろ。同じような条件のところあるんじゃないの。」

テーブルの上に落ちた灰を、整った爪に覆われた指がそっと摘んで灰皿に戻した。几帳面な男だ。

「ピアスもタトゥーも許されてたのに、ゲイはダメだったもん。」

俺が笑って言ったことに、滝沢さんはわかりやすく不満げな顔を見せた。二週間前まで働いていた工場は、こんな見た目の俺を雇ってくれた。未だに足を引っ張る学習障害も受け入れてもらい働きやすい環境だった。上司も後輩も良い人ばかりで、二年勤めていたのだが、退職まではあっさりしていた。どこで聞いたのか、俺がゲイであることが社内に知れ渡った。上司から呼び出されたとき、なみなみの不安の中に、それも受け入れてくれるだろうとおかしな自信のようなものを浮かべていた。まったくおかしな自信だ。計算や文章の読解が苦手な俺に無理をさせまいと、優しく対応してくれた上司に退職を勧められる。三ヶ月分の給料を前払いされて、結婚指輪も同情してくれるような最後だった。俺、女の人も、男の人とだって愛し合えないから心配いらないのに。誰のことも好きになったりしないのに。

「もうしばらくここに置いといてくださいよ。家事はするし、滝沢さんが人呼ぶときは出ていくからさ。」

「当たり前だろ。この前狙ってた男、お前と会ってからお前の話しかしなくなった。ふざけんなよ。俺の相手を盗るな。」

「絶対俺のせいじゃないじゃん。」

ゲラゲラと笑う滝沢さんは、俺がどうして上京してきたのか、昔のことは何も知らない。教えたくないと言ってから何も聞いてこないので彼の想像に任せている。仕事にも表れているが、彼は特別面倒見がいいので、俺みたいなぼろぼろの獣を放っておけないのだろう。

「就活もそうだけど、実家帰るなら髪くらい切ったら?伸びすぎじゃない?」

滝沢さんが俺の髪を一房掬って左右に振った。首筋に触れてくすぐったい。

「えぇ、別にいいっすよ。誰にも会わないし。」

「親には会うだろ。」

会わないんだよ。心の中で呟いた。先週のことだ。新年の挨拶に混ざって、数年ぶりに父親から連絡が来た。去年、母親が死んだそうだ。葬儀の類は全て終わり、納骨も済んでいる。自分と会わなくてもいいから墓参りだけはしてやってくれないか、という内容のメールを無意識に保存していた。死因は癌らしい。別に行こうが行くまいが、父がそれを知ることはないのだが、俺はすぐに新幹線のチケットを取った。俺に絶望を教えてくれた女を、今でも母さんと呼んでしまうのはなぜだろう。

「…帰って来たらカレー作ってやるよ。」

滝沢さんはこういう人だ。俺の曇った表情で色々な背景を察してくれた。

「カツが乗ってたら走って帰って来ちゃう…。」

「サクの皿には五切れ乗せてあげよう。」

一人っ子の俺にとって、滝沢さんは兄のような存在だ。大丈夫。帰る場所はある。愛に化けたりしない友情がある。


雑多な都会の景色が流れて、二時間もしないうちに十年ぶりの駅に降り立った。喪服でもなんでもない派手なジャンパーのまま、メールに記載されていた寺へ向かう。道中で花屋に寄った。真冬だというのにショーケースには向日葵が並んでいる。

「何用ですか?」

店員に声をかけられたが、墓前に供える花の総称を思い出せない。

「ヒマワリを二輪ください。」

「冬なのに珍しいでしょう?他には?」

「だけでいいです。」

ラッピングも断って、透明のフィルムに包まれた二輪の向日葵を硬貨と引き換える。バスに乗り目的地に着いた。幼い頃、両親と墓参りに来たような気がする。この墓が、父の実家のものか父のものなのかはわからない。俺の苗字でもある二文字が彫られた墓石の前に立って、持ってきた向日葵を供える。線香も持ってこなかった。デニムのポケットに煙草が入っている。俺は一本取り出して火をつけた。ねぇ、母さんが特別だって言って育てた息子はこんなんだよ。医者の息子に生まれたのに計算で躓いてさ、文章だって人並みに読めやしない。男なのに男が好きで、まったく普通じゃないでしょ。普通じゃないし、特別でもないでしょ。俺は母さんから与えられた絶望をね、今でもずっと覚えてんだ。愛なんて全部嘘だって教えてくれたね。一生恨むよ。一生許さないよ。それでも、俺を生んでくれてありがとう。フィルターギリギリまで吸った煙草を墓の前にそっと置いた。罰当たりなんだろうけど、どうでもよかった。あとは東京に帰るだけだ。カツカレーが待ってる。


「だから、明日はどこかでカレーが食べたいんだけど。」

サクちゃんはベッドに腰掛けたまま、壁際で脚を伸ばして座る俺を振り返った。俺はサクちゃんの話を聞きながら、レパートリーの少ない相槌を打つだけだった。やけにニコニコしているサクちゃんは、笑うことで傷口を隠す。俺は彼に合わせて上手く笑うことが出来ない。抱き締めたいと思うだけだ。

「話はおしまい。」

サクちゃんは膝を抱えて座り直した。俺の部屋着に包まれた背中は何も言わない。

「聞かせてくれてありがとう。」

俺は壁から体を起こすと、サクちゃんの隣に腰を下ろした。サクちゃんの口から語られる彼の過去は、想像を絶するものだった。気軽に受け止めて、無責任に慰めることなど出来やしない。こうして隣にいることだって正しい行動なのかわからずにいる。

「…聞いてくれてありがとう。…シオは相変わらず優しいね。」

「優しくないよ。どんな言葉がサクちゃんのためになるのかわからないんだ。」

サクちゃんの話を聞いてから、自分の感情のままに彼に触れるのを躊躇うようになった。言葉で足りない部分を埋めるために抱き寄せるなんて、そんな真似は出来ない。

「シオは優しいよ。優しくて真面で、」

「変な奴、でしょ。」

サクちゃんが笑って、八重歯が見えた。

「…もう俺のことなんて忘れな。。こんな話まで聞かせておいて今更だけど、シオが求めてること、俺は何も叶えてやれないの。」

「俺、何もいらないよ。ただサクちゃんのことが好きなだけ。ずっと、それだけだよ。」

触れたい、とは思う。肌の温かさに安心したい。でもそれは、体を繋げたいという欲求とが遠いところにいた。

「好きなのに何もいらないの?キスも?セックスも?」

サクちゃんは子供のような目で俺に問いかける。俺はよくよく考えたが答えは変わらなかった。

「うん。いらない。…俺、本当に好きな人とは何したらいいかわからないんだ。」

話しながら自分の情けない発言に思わず笑ってしまった。わからないことばかりだ。

「サクちゃんと最後に会ったとき、愛なんていらない、嘘なんて嫌だって言われたの覚えてて、それからずっと愛が何なのか知ろうとしてたんだ。今もしてるんだけど、もしサクちゃんが手伝ってくれるなら、唯一それがほしいかな。」

何もいらないと言っておきながら、俺の指先はサクちゃんの手の甲に触れようとしている。

「ずっと…。」

サクちゃんが小さく呟いた声が俺の耳にも届いて、多少の恥ずかしさを覚えた。本当のことだから否定も出来ない。

「俺、シオが思ってるような奴じゃないんだよ。シオから良いことを言われると申し訳なくなる。愛さなくていいのに。」

俺だってどうしてこんなにもサクちゃんに固執しているのかわからない。憧れよりもずっと重たくて、恋と呼ぶには可愛げが無い。俺の中では、愛と名付けることで落ち着いている。

「そればっかりはどうしようもないよ。もう愛しちゃってるし。」

ここから先は水かけ論、押し問答になる。サクちゃんもそれを察したのか返事はしなかった。

「寝よっか。明日カレー食べに行こう。」

「カツ乗ってるヤツな。」

「全国チェーンの店だから、好きなのトッピングしなよ。」

部屋の電気を消そうと立ち上がり、狭い室内を見渡した。今まで腰掛けていたシングルベッドは、大人の男が二人で横になるにはサイズも寝心地の足りていない。

「俺、マジで野良犬くらい寝る場所選ばないから気使わなくていいよ。」

既にサクちゃんは床に座っている。俺が引き止めた客人を、お言葉に甘えて、とフローリングに寝かせるわけにはいかない。

「下心とかいっさい無いから、一緒に寝る?」

サクちゃんはしばし動きを止めて、頭を働かせているみたいだ。俺も前言撤回などはせず、電気のスイッチに指を置いたまま返事を待った。

「何もしないから、は、何かするときのセリフなんだよな。」

サクちゃんは楽しそうに微笑みながら、三日月のカーブに腰を下ろす妖精みたいに、軽やかにベッドに移動した。

「…抱き締めたいと思ってることは白状しておくね。」

「正直かよ。」

二人で寝転がるには狭過ぎるベッドに並んで横たわる。暗くなった天井には何も見えず、どこに意識を向けたらいいのか悩み、無駄に息を潜めてしまう。サクちゃんはこちらに背を向けているので、、俺は気付かれないと思い、後ろ姿を見つめていた。着古した白いパーカーの奥には、背骨に沿って黒い蛇が棲んでいる。彼が彼である印。緩やかに上下する体を見ていたら自然と睡魔が訪れた。音を立てずに欠伸をひとつ。寝返りを打たないように、慣れない向きで目を瞑った。

「シオ、」

突然の呼びかけに驚いたものの、瞼は落ち切り、声も出せなかった。

「俺、シオの気持ちに今は何も返せないけど、…シオが俺のこと愛してるって言ってくれるのは不思議と嬉しいんだ。他の人なら絶対そんなことないのに。」

サクちゃんの声がいっそう深い眠りへと誘う。

「…抱き締めてもいいよ。」

俺の返事が無いことで、こちらが眠っていると思ったらしいサクちゃんは、笑いを含んだ声でそんなことを言った。俺はもう指すら動かせなかったので、声を聞いて満足するだけだ。マットレスと掛け布団が揺れて、サクちゃんが身じろいだことが体に伝わる。おそらく向かい合っているであろう俺たちの間に、まだ知らない愛がぴったりと収まるだけの隙間があった。

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