第10話
アラームもかけずにゆっくりと目を覚まし、同じベッドにサクちゃんがいることに一瞬驚いた。深く眠っている彼の薄い肩を揺すって起こす。蝶の羽が開くように瞼が上がり、真っ黒な瞳がぼんやりと俺の姿を捉えた。
「おはよう。」
サクちゃんはじっと見つめてくるだけで何も言わない。
「サクちゃん?」
「…おはよ。」
寝起きで頭が働いていないらしい。サクちゃんは猫の鳴き声みたいな言葉でうにゃうにゃ何かを言いながら、これまた猫のように体を捩って布団の中を転がった。
「一瞬どこにいるのかわからなくなってびっくりしちゃった。」
滑舌が曖昧な話し方は、俺の知らない一面。男性にしては長い髪が好き放題に散らかっている。手櫛で整えようとしたが自制した。目元を擦るサクちゃんには気付かれていない。
「今何時?」
欠伸を噛み殺しながら、サクちゃんは部屋の中の時計を探す。
「十時前だよ。遅めの朝ご飯か、早めのランチ食べに行く?」
俺は、テーブルの上に置かれたサクちゃんのケータイを取ると、彼に手渡した。サクちゃんは画面を開いて少し触ると、すぐに枕元に放った。大事な連絡はなかったみたいだ。
「駅前にカレー屋があるから行こう。」
未だベッドから抜け出せないでいるサクちゃんを横目に身支度を進める。サクちゃんが昨日着ていた服は全てハンガーに掛けておいたのでシワにはなっていない。サテン地のスーベニアジャケットからは煙草の匂いがした。
「そうだ。カレー食べないと…。」
「カツも忘れずにね。」
ベッドから下りたサクちゃんに洗顔料やタオルの場所を説明しつつ、時計を確認する。今日はまだ始まったばかりだけど、もう別れのことを考えてしまう。
「これ、ありがとう。」
着替えを済ませたサクちゃんから貸していた部屋着を返された。まだ温かいそれを洗濯かごへ入れただけなのに涙が出そうになる。別れの言葉を言わないでほしい。またね、と再会を約束してほしい。
「シオ?」
準備が終わったらしいサクちゃんから声をかけられ、顔を上げた。すぐに出るからと暖房を付けていない部屋は肌寒く、彼を恋しく思う気持ちが強くなる。
「サクちゃん、何時頃東京帰るの?」
本当は、帰るかどうかを尋ねようとしていた。絶対に帰るとわかっていたから、傷付きたくなくて、わざと時間をきいたのだ。帰りたくない、なんて言うはずないから。
「何時にしようかな。」
駅前が都会のように賑わっていたなら時間を潰せるが、生憎ここは片田舎だ。カレーを食べたらカフェに行くくらいしか思い付かない。彼を引き止める術が無かった。
「…長居しても面白くないからね。」
それでも一緒にいてほしかった。叶わないとわかっていながら望んでいる。
「…シオも東京来たら?今日、仕事休みなんでしょ。夜まで遊べるんじゃない。」
シオがよかったらだけど、と付け加えたサクちゃんの顔は申し訳なさそうで、思ったままに発言してしまったことを反省しているようだった。俺は、彼の提案に驚いて声も出せずにいた。驚きの後、すぐに嬉しさがこみ上げて来た。
「いいの?」
感情のままに大きな声で返事をしたらいいものを、不安は拭いきれず、確認するように問いかけを返してしまう。遠慮がちにサクちゃんが頷いた。
「連れて行って。」
サクちゃんが、どこへでも。俺のこと連れ出して。思い返せばあの頃から、サクちゃんは俺に知らない景色を見せてくれた。今でも二人が変わっていないなら、俺の手を引いて連れて行ってほしい。
「…よかった。」
サクちゃんは安心したように笑った。俺は近所で食事をするだけの服装だったので慌てて着替えることにした。何を着たらいいのかわからず困り果てる俺を見て、サクちゃんは楽しそうにしている。サクちゃんからは何でも平気だと言われたが、さすがに仕事場でも履いているスニーカーで行くのは気が引けて、持っている中では比較的新しく小綺麗なものを選んだ。
「カレーこぼすなよ。」
都会でも悪目立ちしなさそうな、オフホワイトのパーカーにスリムジーンズを合わせた。白い服を見つめたサクちゃんが悪い顔で笑う。
「ジャンパーの前閉めたらセーフだから。」
アウターの前を合わせて、架空のシミを隠すふりをして見せた。赤いマウンテンパーカーは最近買ったお気に入りだ。
「それはダサい。」
玄関で笑い合うのがたまらなく幸せだ。夜までのタイムリミットは頭の端に追いやって、今はサクちゃんとの楽しい思い出で満たしたい。
高層ビルに囲まれた外の景色は、新幹線の窓自体を狭く感じさせる。乗り換えの為に降車した主要駅は、平日の昼間だと言うのに人が多く、意識的に真っ直ぐ前を向いていないと、いかにも慣れていない観光客の落ち着きのなさが露見してしまう。サクちゃんに案内されるがまま、都会の街を歩き回る。目的があって訪れたわけではない東京なので、とりあえず有名な観光地を巡った。電波塔の上からの景色にシャッターを切りながら、二人で写真を撮ろうとは言い出せなかった。
「向こうも見てくるね。地元の方角だって。」
ケータイ片手に展望台をうろうろする俺を、サクちゃんは子供を見るような眼差しで見送った。
「はーい。俺ここでアイス食べてるね。」
いくら室内とはいえ、一月にソフトクリームを注文したサクちゃんに驚いていたら、不満そうに舌を出された。アイスを食べるサクちゃんを置いて、写真を撮る。周りには同じようにカメラを構えていたり、遠くに見える建物や眼下に広がる街並みに感動している客がちらほらといて、自分だけが浮ついているのではないと安心した。満足するまで景色を眺め、軽い足取りでサクちゃんの元へと戻る。売店の横で壁に背をもたれて立つサクちゃんに、中学生の頃の面影を重ねた。すっかり変わったのに、どこからどう見てもサクちゃんで、当たり前のことに不思議な気持ちを抱いた。
「シオ。」
俺に気付いたサクちゃんが体を起こして手を振っている。伸びた髪と重たそうな銀のピアス。腕の動きに合わせて襟足が揺れて、うっすらと蛇のタトゥーが見えた。売店でソフトクリームを買ってもらった女の子の手を、母親がしっかりと握っている。子供がサクちゃんをまじまじと見ているのを、止めさせるように手を引いたのがわかった。俺は、彼がサクちゃんだと知っているから何とも思わず受け入れたが、他人から見れば怖いと感じる外見だな、と気付かされた。
「東京来たって感じの写真撮れたよ。」
「そりゃ良かった。」
俺よりもサクちゃんの方が満足そうで、その表情に、俺は満ち足りていくのを感じた。せっかくの東京に来ても、結局はそんなこんなで呆れる。
「飯食って、他に行きたいところとか、見たいものとかあれば夜までに全部回ろうぜ。」
新幹線の中で色々と調べてみたのだが、これと言ってピンと来るものは見つけられなかった。
「サクちゃんがいいと思う場所に行きたい。俺にも見せてよ。」
サクちゃんは、自分で考えろよ、と文句を言いながらも、何かを調べてくれているようだ。歩きながらケータイを操作しているので、人にぶつからないようそっと腕を引きながら後に続いた。
「うわ、びっくりした。シオの手か。」
途中、自転車とすれ違い、自分が車道側に出ようと移動したところで、サクちゃんが画面から顔を上げた。
「ずっと掴んでたけど…驚かせてごめんね。危ないからちょっと止まる?」
「マジ?全然気付かなかった。わるいわるい。」
調べ物は済んだようだが、行き先は教えてもらえなかった。見たことない密度の路線図に目を丸くしているところを笑われ、逸れないようサクちゃんの背中で翼を広げる鳥の姿を追った。数十分の移動の末、到着したのは海に程近い水族館だった。
「水族館…。何年ぶりだろう。」
「…俺の好きな場所。」
連れて来てくれたサクちゃんなのに、恥ずかしそうにしている。たしかに水族館によく行くイメージはない。それでも彼の好きな場所に、俺を連れて来てくれたことが嬉しくて、理由を聞こうとは思わなかった。サクちゃんは慣れた様子でチケットを二枚買い、ペンギンの写真が目を引く片方を渡してくれた。半券を切られ返されたそれを、大切に財布にしまう俺を、じっと見ていたサクちゃんは何も言わない。人の少ない館内は全体的に薄暗く、水槽の向こうから広がる青白い光で満ちていた。自然と話し声が小さくなり、いつの間にか二人とも黙って歩くようになった。銀色の鱗が青く見える水の中を刃物のように泳いでいる。大きな水槽の前で立ち止まり、天井まであるアクリルの向こうを見つめた。海で見かけたら死を覚悟してしまうサイズのサメが悠々と泳ぎまわっている。
「ちょっと怖いね。」
「ずっと水槽の中で暮らしてるから、今更人を襲ったりしないんじゃない。」
「わからないよ。突然このアクリルを破って襲いかかってくるかも。」
「陸上なら人間の方が有利だろ。」
当然のことを返されて思わず言葉を失うと、冗談を言っているのだと思っていたらしいサクちゃんが、信じられないという顔でこちらを見上げた。目が合って、同時に吹き出す。
「お前、ずるいぞ。」
笑いを堪えようと苦しんでいるサクちゃんに見覚えがあり、あの日の原因もたしか自分だったことを思い出した。
「俺、サクちゃんの笑い声が好き。」
昔からずっとそうだった。今になって言うことではないけれど、今、言いたくなった。予兆もなくそんなことを言われたサクちゃんは笑うのをぴたりと止めた。眉間にシワが寄る。機嫌が悪くなったのではなく、悩んでいるようだ。俺は黙ったまま、彼の口が開かれるのを待った。
「…へぇ。」
サクちゃんは、返事とも相槌ともつかない声を残して、サメの水槽から別の部屋へ向かってしまった。慌てて追いかけて移ったエリアは、前の部屋よりもいっそう暗い。床には順路を示すランプが埋め込まれている。足元の照明と水槽の光以外に灯りはなく、少し先を行くサクちゃんも影としてでしか捉えられない。このエリアはクラゲばかりが飼育されている。暗さと照明の効果で幻想的な空間だ。偶然、俺たち以外には誰もいなかった。一番奥に、一際大きい円形の水槽があった。水槽を照らすライトは色とりどりに変わり、その前まで来てやっとお互いの表情が見えた。
「変なこと言ってごめん。」
怒っていないとわかっていながらも、サクちゃんが笑っていないと不安になる。
「別にいいよ。」
横目でこちらを見た黒い瞳は、すぐに水槽に戻された。ループするカラフルな照明が、サクちゃんの横顔を彩る。目の前の水槽では、無数のクラゲが光の中を漂い、半透明の体はライトの色に染まっていた。作り物みたいだ。サクちゃんは浮いては沈むクラゲを見つめたまま、しばらくじっとしていた。俺はそんなサクちゃんをこっそり見ていた。顎を引いて少し上目遣いになった双眸に、クラゲと同じように色が映っている。睫毛も頬も前髪も、誰かがキャンバスの上に描いた絵のようだった。
「サクちゃん、」
振り向き様にピアスが鈍く光った。
「手、繋いでもいいかな。」
青色に包まれたサクちゃんが泣いているように見えて、その手を掴んで離したくないと思った。深い海の底を思わせる濃い青に息が苦しくなる。彼が口を開けたら、唇の端から水泡が溢れそうだ。二本の脚も声もあるのに、このまま暗い水の中へ爆ぜて溶けて消えてしまう妄想が、俺の手首に絡みつく。サクちゃんの返事を待たずに俺の左手は、サクちゃんの右の指先に伸びていた。握るでも掴むでもない、掻くように触れるだけ。水槽の奥から、青を塗り替えるようにマゼンタが広がった。
「繋いどいて。」
サクちゃんから指を絡められた。俺は頷くだけで声は出さず、触れた指を強く握り込んだ。周りに誰もいなかったが、人目があってもこうしていた。サクちゃんは俺の手に縋るように、握る右手に力を込めている。微かに震えているのがわかった。
「ここさ…今も世話になってる人に初めて連れて来てもらった場所なんだ。付き合ってるとか、好きだとか、そういう気持ちはまったくなくて、兄貴みたいな人。本当に優しくて、いつも面倒見てもらってるのに、俺…あの人に何も言ってない。上京の理由も、障害のことも。…このキャプションあるでしょ。魚の解説が書いてあるやつ。俺、これを必死に読んでたの。子供でもすらすら読めるのに、俺、何度も通ってやっと全部読めた。…なんでもない普通の人のふりしてさ、あの人にも本当のこと隠してさ、結局全然普通じゃないの。」
燃えるような赤い光の中で、サクちゃんは静かに語った。血の色に照らされたクラゲが、皮肉のようにゆるやかな動きを見せている。俺は手を握り返すことを相槌とした。
「シオのこと、ずっと覚えてたよ。…こうして会って、あの頃の俺がシオに懐いていたのがよくわかった。シオは、俺を否定しないってわかるから。こんな俺でもいいやって甘えてるの。」
謝ろうとした声が震えていて、もうこれ以上何も言わなくていいと、彼の言葉を遮りたかった。
「ごめんね。」
指の間が冷たい。サクちゃんの手が離れ、二人は一人と一人になった。向かい合うサクちゃんにかける言葉も、抱き寄せる勇気もなく、友人同士にしては近過ぎる距離は縮まらない。
「帰ろう。」
水槽の照明が青に戻る前に、サクちゃんは早足に出口へと向かってしまった。俺は来たときと同じように、その後ろ姿を追った。水族館を出てからもずっと黙ったままのサクちゃんに、行き先を尋ねることも出来ず、知らない電車に揺られる。行きに使った新幹線の停車駅は通り過ぎた。もちろん聞いたこともない駅名がアナウンスされ、サクちゃんがこちらを振り向いた。次で降りるようだ。もう手は繋いでいないが、腕を引かれるように続いて降りた。田舎者のイメージする東京よりも、落ち着いた街並みの住宅街が広がっている。駅から少し歩くと、自分の住むアパートよりも古めかしい二階建ての建物が見えてきた。ベルト通しに引っ掛けたキーリングを外したサクちゃんが、何も言わずに外階段を上っていく。一番奥の部屋の前で、二本ある鍵の片方を選び、解錠した。
「…上がって。俺んち。」
久しぶりに声を聞いた。しばらく黙っていたせいなのか少し掠れた声は、泣くのを我慢しているように聞こえて、違うとわかっていながらも、慌ててドアの内側へ入った。
「おじゃまします。」
部屋の中に、当たり前だが人の気配はなく、生活感も薄い。先に靴を脱いだ家主のサクちゃんは、壁のスイッチを押し、ワンルームにあかりを灯した。
「よかった。ついた。」
自宅に電気が通っていることに安堵する様子に首を傾げる。
「俺、今無職でさ。ちゃんと料金払ってたか不安になっちゃった。」
今までの沈黙を誤魔化すみたいに、早口で話すサクちゃんの、自慢にならない告白を聞いていた。
「来月出て行こうと思ってて。更新料払えないからさぁ。」
サクちゃんは冗談を言うときの明るい声で、切実そうなことを話した。
「シオはしっかり者だから、こういうだらしない感じ嫌でしょ。」
サクちゃんの笑顔は、俺がそんなことないよ、と彼の自虐を否定するのを待っている。俺が彼のことを何ひとつ悪く言わないとわかっていて、理想の答えを求めていると気付いた。サクちゃんに対する優しい言葉なら、悩まなくても出てくるのだから、わざと自分を下げるような真似しなくていいのに。俺は悲しくなりながらも、彼の望む返事をする。
「嫌じゃないよ。」
安心したのに傷付いたような微笑みが、よりいっそう彼を惨めな気持ちにさせている。
「…シオは何でも許してくれるね。」
ふっ、とサクちゃんの目が暗く翳る。急に嫌な胸騒ぎがして、先程からやけに笑顔なサクちゃんから視線を逸らせない。
「ね、…愛してるって言って。」
一声が、一言が、一文字が、薄氷に包まれたみたいに冷えていた。その氷を溶かさず飲み込んでしまったように、喉の奥が痛む。肺も胃も不自然にじくじくと疼き、彼から発せられる不穏で甘い空気に毛穴が膨らんだ。
「…言ってよ、シオ、俺のこと好きでしょ。愛してるって言ってよ!」
言ったところでどうなるのだ。散々伝えてきた。愛してると、この感情に付ける名前を愛しか知らないと、声が枯れるまで言ったつもりだ。それを頑なに認めなかったはサクちゃんの方ではないか。今更俺に求めるなんてひどい、という気持ちが無いわけではなかったが、それよりも悲しさに襲われる。どうして、という苦しさに悩まされる。哀感と疑念。俺は何も言わずに、大きな声を出したサクちゃんを正面から見つめた。
「…シオならいいと思うの。」
瞳に影を残したまま、サクちゃんは八重歯を見せて微笑んだ。総毛立つほどに美しい。手のひらに汗をかいた。無様に抱き寄せて力強く腕の中に閉じ込めたくなる衝動を、ぬるついた手を握ることで耐える。
「抱かれても、いいと思うの。」
爪の先ですら触れられない距離が、サクちゃんの一歩で詰まった。すぐ近くに、煙草と、ソフトクリームを思い出させるバニラの香りが漂う。生唾が無遠慮に喉を滑り落ちた。
「…俺とセックスしてよ。」
結局サクちゃんは、俺からの言葉を待たずに、言いたかったことを最後まで告げてしまった。抱いてほしいと媚びるには、あまりにもあどけない口調で。その微笑は官能的でありながら、そこはかとない恐れを滲ませている。
「サクちゃん、」
俺はまだ、愛してるって言ってないでしょう。
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