第12話

近頃仕事が忙しいなあ、なんて思っていたら、いつの間にか年度末になっていた。工場の名前が入ったカレンダーを見ればもう三月が始まっていて、あっという間の二ヶ月だったと、単純な頭で驚いてしまう。仕事は通常通りで、だんだんと和らぐ寒さに従業員一同、春の訪れを感じていた。先輩の娘さんが四月から小学校に上がるだとが、息子が留年して大学五年生になっただとか、そんな話で賑わい、俺ももうすぐ春が来るな、と他人事のように思っていた。サクちゃんと離れてから二ヶ月。俺は彼と再会する以前と特段変わらない日常を送っている。朝起きて職場へ行き、事務所で奥さんに構われ、仕事をし、夕方アパートへ帰って来る。たまに職場の人と飲みに行くこともあった。何も変わらない毎日だ。強いて変化を挙げるなら、

「どっか刺されたんじゃないかって噂になってるのよ。ずいぶん大人しくなっちゃって…どうしたのよ?」

恋人を作らなくなった。奥さんをはじめ事務所の方々の間では、俺と別れた女の人が恨みを込めて包丁片手に現れた、なんて昼間に放送されるドラマの脚本でしか聞いたことのないような噂が囁かれているらしい。もちろん本気にしている様子はないが、俺から浮いた話が出てこないことは珍しいようで、理由を聞かれる毎日だった。

「みなさんが言ったんじゃないですか。おとぎ話みたいな恋をしなさいって。人魚姫のような純愛をって。」

そう答えると、奥さんはただでさえ大きな目を倍開くと口まで開けて驚いていた。

「…本当に本当に好きな人が出来たってこと?」

「ずっと、本当に大好きだった人がいたんです。俺、その人のことを待ってるって決めたから、泡になってもいいですよ。」

「やめてよ。朝から泣いちゃうじゃないの…。」

こんな話をする職場で良かったと思う。お節介で世話焼きが過ぎるけれど、それよりも家族みたいに温かい。そしてもう一つ、みっちゃんから呼び出された。

前に使った居酒屋で待っていたみっちゃんは、春にぴったりのブルーグレーのパーカーを着ていて、容姿だけでは春から大手アパレル会社で働く社会人になるようには見えない。俺の姿を見つけ、片手を挙げたみっちゃんは相変わらず美少年のままだ。

「仕事終わりにごめん。」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

生ビールを注文し、いくらか不安の色を浮かべた表情のみっちゃんと目を合わせる。

「…昨日、サクからメールが来た。」

驚いて大きな声を出したつもりだったが、喉の奥からは微かな息が漏れただけで、それも店内の騒がしさにかき消された。

「機種は何度も変えてるけど、キャリアメールのアドレスはずっとそのままだったから、中学のときのケータイでも探し出して俺の連絡先見つけたんじゃないかな。」

当時サクちゃんが持っていた黒いスライド式のケータイを思い出す。中学生の俺はまだ自分のケータイを持っていなかったので、彼と連絡先を交換することが出来なかったのだ。自宅の固定電話にサクちゃんから電話が来たら、と親の顔色を伺っていた頃が懐かしく、今になっても心が痛む。

「…黙っててごめん。俺、サクちゃんと会った。」

サクちゃんの行方がわからなくなってから、俺と同じく彼のことを心配していたみっちゃんに何も言わなかったことを謝る。サクちゃんとの二人だけの秘密にしたかっただとか、そういう考えは全くなかった。ただ、お互いの気持ちについて言葉にするのが難しかったのだ。駅で偶然再会したこと、翌日一緒に東京観光したこと、電波塔も水族館もサクちゃんの部屋も、行った場所の話ならいくらでも出来る。お土産話もたくさんあった。しかし、どうだったかときかれたら、俺は何も答えられない。だから、サクちゃんと過ごした二日間を黙っていることにした。

「いいよ。責めてない。」

みっちゃんはそう言ってくれたが、笑顔は少し悲しげに見えて、心の底から悪いことをしたと思った。

「サクから、もしシオの連絡先知ってたら教えてほしいって来た。俺、二人が会ってたこと知らなかったから、十年ぶりにいきなりどういうことだろうって不審に思っちゃって。急に何なの、って返信した。久しぶりだね、とか全く無しでね。向こうもそんな挨拶みたいな言葉はすっ飛ばして本題から入ったから。まぁ。疑うことなくサク本人なんだろうなって思ったけどね。」

サクちゃんと別れるときに、俺はあえて連絡先を教えることもきくこともしなかった。本当は離れていても連絡を取り合っていたかったし、通話をすれば声だって聞けるのだから、そうしたい気持ちはあった。でも、繫っている、いうのは安心の裏に強要を含んでいる気がしたのだ。彼の気持ちを急かすような存在になってしまいそうで、俺はあえて何も交換せずに彼の元を離れた。自分がサクちゃんの立場だったら、と考えて後悔もしたが、俺のことを意識しなくてもいい場所で、他のことに夢中になりながら改めて俺という男を、愛という不確かなものを見つめてみてほしかった。まさかみっちゃんにメールを送るとは思ってもいなかったのだが。

「十年間ずっとごめん。何も言わずにいなくなって、連絡も取れなくて、急にメールしてごめん。ってしおらしくてさ。途中から電話に変えたんだけど、久しぶりに聞いたサクの声が淋しそうで、なんか俺まで悲しくなたわ。」

人のことを想いながら過ごす二ヶ月は長いのか短いのか。俺はあっという間に感じたが、彼のことを忘れたことはなかった。待ってる、なんて言ってはみせたものの、正直サクちゃんがこの先ずっと答えを出せなくても構わないとさえ思っていた。別の誰かと過ごしていく中で、愛が何たるかに気付くことが出来たのならそれでいいし、深く考えることに嫌気がさして、面倒に思えて全部なかったことにしていても良かった。俺はただ待っているだけだ。俺がただ忘れられないだけだ。

「シオから了承を得てないからまだサクには何も教えてないんだけど、どうする?教えていいか?」

俺とみっちゃんは気軽に連絡が取れるのだから、俺からの許可なんてメッセージ一つで得られるものを、みっちゃんはわざわざ会う機会を設けてくれた。これはきっと文字と電波だけで済ませていい話ではないと感じてくれたからだろう。俺は、彼と会う度にその心遣いに感動してしまう。

「…ありがとう。いいよ。お願いします。」

気持ちが昂って頭を下げた。俺の真剣さにみっちゃんが笑う。

「なんか余計に緊張するからやめろよ。」

そう言って笑いながら、俺の肩を優しく叩いた。

「シオと飲むの久々だから、いくらサクとはいえ邪魔させたくない。俺だけ放っておいたバツとして、二人には今日の飲み会が終わるまで連絡取れないようにしてやる。」

にんまりと笑うみっちゃんは、形の良い目を三日月型に細めて、意地悪そうな顔をして見せた。

「うそうそ。電話番号と、アプリのアカウントな。今教えるから。」

「いいよ。」

「ん?」

「今じゃなくていいよ。帰りに教えて。今日はみっちゃんに会いに来てるから。」

サクちゃんと話がしたいとは思うけど、今はみっちゃんと顔を合わせているのだから、それを差し置いてまで求めてはいない。そこまで焦るなら、二ヶ月も待っていられるはずがないのだ。

「…あぁ、俺はシオがモテる奴だってことを忘れていたよ。もう、何でお前と会う度にいつもちょっとドキッとしちゃうんだよ。悔しいわ。」

頬に手をあてて、両側から挟み込むようなポーズを取り、非難の声を上げているみっちゃんは小動物のようで可愛らしい。シマリスやハムスターに見えてくる。

「振られてばっかりでそんなことないんだって。…とりあえず飲もうよ。俺、腹減っちゃった。」

その後はみっちゃんの就職の話を軸に、仕事のことや将来の話なんかをそこそこ真面目に語り合った。サクちゃんのことは頭にあったが、みっちゃんと過ごす時間は楽しく、いつの間にかいい時間になっていた。

「社会人になったらもっと会えなくなるのかなぁ。」

店から駅までの道で、みっちゃんは深々とため息をついた。気が付けば夜だというのに寒さを感じない。もう春がすぐそこまで来ている。四月になればみっちゃんは地元も、大学生活を過ごした土地も離れ、一人近畿での暮らしを始める。職場が大阪にあるそうだ。みんな大人になっていく。学生服を着て廊下で談笑したり、夏休みに川へ遊びに行っていた中学生は、もう酒を飲んでいる。一歩先を歩くみっちゃんの色の抜けた頭を見た。この髪も今月中には黒く染まり、写真を見返して懐かしく思うようになるのだろう。

「体に気を付けてね。俺も遊びに行きたいし、またこっち戻って来るときには連絡してよ。」

せっかく会えたのだから、まだ友達を続けていたい。俺がそう思って言った言葉に、みっちゃんの足がぴたりと止まった。彼は手に持っていたケータイを操作して、こちらを振り返った。すぐに俺のポケットが震える。

「次、シオと会うときは、サクと一緒がいい。」

意志の強そうな瞳が街の光を吸い込んで、暗い色に輝いている。二つのガラス玉のような目で見つめられ、俺の背筋も伸びた。

「俺に出来ることなんてこれくらいだけど、俺はシオにもサクにも幸せになってほしいんだ。」

俺もサクちゃんも、みっちゃんに何も言わずにいたのに、心配してくれた彼に隠し事をしていたのに、俺たちに温かい言葉をかけてくれる。目の前に立つ青年の美しさに声も出せなかった。

「あ、でもお前、結構振られるんだっけ?」

唇を閉じたまま口角を上げる見慣れた笑顔で、俺の背を乱暴に叩くのは、美しくも人間味に溢れた俺の友達だった。

「…万が一のときには慰めてね。」

「よーし任せろ。」

駅に着いたが、サクちゃんからの連絡が気がかりだったので、俺は歩いて帰ることにした。歩けないことはない距離だが、近いとも言えない帰路にみっちゃんは不安そうな顔を見せる。職場の人との飲み会で終電を逃したことは何度もあるので心配しなくていいと伝え、お互いに手を振り別れた。みっちゃんの背中が見えなくなってから、ケータイを見れば、今別れた相手から数分前のメッセージが二通。サクちゃんの連絡先だとわかっていたので、開くのに少し躊躇してしまう。みっちゃんからのメッセージを確認するだけで、サクちゃんに繋がることなんてないのに。みっちゃんは俺にこれを送ったとき、同じようにサクちゃんにもこちらの連絡先を送ったはずだ。連絡手段が与えられた今、かえってどうすればいいのか迷ってしまう。こちらから動くのは違うと思うのだが、無反応なのも正解ではない気がした。まるで思春期に恋をしているみたいだ。自分を俯瞰してみて恥ずかしくなる。落ち着きを取り戻すため、家へ向かって歩き出した。だいぶ歩くと、駅前の明るさから抜ける。人気の少ない路地を歩いていると、月の明るさがよくわかった。満月ではないが太り気味の黄色が、穏やかな夜空に浮かんでいた。周りにはいくつかの星も瞬いている。春が近い柔らかな微風も相まって、月も星も甘い砂糖菓子のように見えた。斜め上を見上げながら歩いていると、突然ケータイが鳴った。振動に気が付かないこともあるので、音が出るように設定を解除しておいたのだ。画面には電話番号のみ。けれども下四桁には見覚えがある。サクちゃんの番号だ。俺は立ち止まってその数字の列を眺めた。早く声が聞きたいのに、不思議と動作はゆっくりしている。通話ボタンを押したら、今度はじっとしていられなくて歩き出した。

「はい、」

自分の声が震えていないか心配になる。電話の相手はハッと息を呑むでもなく、いたって冷静な様子だった。

「もしもし、シオ。いつも急でごめんね。」

二ヶ月ぶりのサクちゃんの声。電話越しでも嬉しかった。

「もしもし。大丈夫だよ。」

ずっと連絡が無くてもいいと思うのは嘘ではないが、こうして声を聞いてしまっては、そんなの強がりだったと認めざるを得ない。

「みっちゃんから話聞いたよ。」

サクちゃんが電話をするまでの経緯を話そうとしたので、こちらから制した。こちらが突然の電話に驚いていないことに安心したサクちゃんは、またなんの前触れもなく話し出した。

「シオ、まだ待っててくれてる?」

ずっとって言ったでしょ。

「うん。」

「二ヶ月も待たせてごめん。」

十年間ずっとサクちゃんを想っていたんだよ。

「ううん。」

「…俺、仕事始めた。なあなあでやってた貯金とかも見直した。資格の申し込みもした。俺、シオと一緒にいたい。一緒がいいけど、シオの優しさに甘えないで生きていきたい。」

こんなときに彼のほしがる言葉が見つからない。見つからないんじゃない。サクちゃんが望んでいないんだ。

「シオ、俺はシオが好き。」

サクちゃんが俺に伝えることなんて、俺の気持ちへ対する断りの一言か、これか、どちらかしかないとわかっていたのに、たった二文字の言葉が、想像よりもずっと大きくて驚いた。

「シオがまだ俺のこと好きだったら、俺と一緒にいてもいいって言って。」

「好きだよ、ずっと。一緒にいよう。」

電話の向こうでサクちゃんが笑った。あまり聞き馴染みのない、ささやかな笑い声だった。とても可愛らしくて、胸の奥がぎゅうと痛む。幸せが噛み付いている、甘い痛み。

「…顔が見たいな。」

あまり考えもせずに口から出た言葉だった。言ってしまってから自分で笑う。月を見上げて、またおかしく思えた。ここと東京。同じ月を見ていたとしても会いには行けない。

「なんて、今言っても仕方ないね。」

もうすぐ家に着く。帰宅したらビデオ通話をしてみようか。二ヶ月ぶりにあの八重歯が見たい。

「今、言うべきなんじゃない。」

アパートの前に、星がひとつ、花が一輪落ちていた。街頭の光が銀のピアスを照らし、花弁のような白い歯が夜の闇の中に浮かび上がっている。

「サクちゃん…。」

パーカーにデニム姿のサクちゃんが、俺の家の前に立っている。電話口からも、視線の先からも同じ笑い声がする。今度はたくさん聞いてきた掠れ気味のあの笑い声だ。隣の教室や廊下から聞こえていた、憧れの象徴。

「急でごめん。」

先ほども耳にした謝罪だが意味合いが違う。俺はケータイを耳から離して、一歩ずつ彼へと近付く。近くなればなるほど表情が鮮明に見えてきて、八重歯もしっかりと見て取れた。

「…大丈夫、だよ。」

同じように返事をする。サクちゃんはずっと笑顔だ。とうとう目の前まで来た。少し低い位置にある黒い瞳を見つめる。強張った顔の自分が映っていた。

「…みっちゃんに協力してもらってた。二人で会うって知ってたから、こっち来てたんだ。メールしたのは昨日のことだけど。勝手にごめんね。」

帰り際のみっちゃんの言葉が蘇る。こんなことしか出来ない、に隠された、こんなこと、では済まされないサプライズ。俺は思わずため息をついた。怒りや呆れではなく、安心と感動が混ざったものだ。その様子に、サクちゃんは声を出して笑う。モテそうなのはどっちだよ。綺麗な顔を思い出してもう一つため息を零した。嬉しさが込み上げて来て、感情のぶつける先に迷うくらいだった。

「嬉しくてどうしたらいいのかわからないよ。…ねぇ、抱きしめてもいい?」

「もう許可なんていらないでしょ。」

サクちゃんはそう言って控えめに両手を広げた。花弁が開くときのような美しさ。俺は本物の花に触れるときよりもいっそう弱い力でサクちゃんの体を抱き寄せた。あまりにもそっと触れるので、サクちゃんの方から強く腕を回された。

「…本当に好きってことが何なのかずっと考えてた。普通じゃない俺には一生わからないんだと思ったけど、わからなくて悩むのが普通なんだって。それが普通で、それが本当に好きだと思う気持ちなんだって。だから、俺はシオが好き。悩んでもわからなくても、シオのことを愛してる。」

言い終えてから恥ずかしくなったのか、俺の肩に顔を埋めてしまったサクちゃんが愛おしい。首筋に這う黒い蛇に唇を寄せる。

「サクちゃんはずっとかっこよくて綺麗で、特別だよ。特別って、サクちゃんは嫌かもしれないけど、俺からしたらどうしてもそうなんだよ。人と比べて、とかじゃなく、俺にとっての特別。」

「…実はね、タトゥーも全部消そうかなて思ってた。シオと一緒にいるのに相応しくなりたくて。…どうしても出来なかった…。もう俺の一部になってて…。でも、シオにとっての特別になれるなら、このままでもいいのかな。普通になりたいなんて口だけのわがまま言ってるみたい。…あぁ、言ったそばから甘えてるね。」

この二ヶ月、サクちゃんはたくさん迷ったのだろう。仕事のこと、自分のこと、過去のこと。俺は、眉を寄せて曇った表情になったサクちゃんを、今度はこちらから強く抱いた。

「全部愛してるから、サクちゃんはそのままでいて。自由でいて。」

サクちゃんは目を見開いた。空の星さえも写しそうな綺麗な黒。

「…知らないよ。俺のこと、甘やかして後悔しても知らないから。」

嬉しさを隠しきれていない赤い頬が、夜でもよくわかって、俺も嬉しくなってしまった。だらしなく緩んでしまいそうな顔に力を込める。

「甘やかしてなんかないよ。愛してるだけ。」

「俺だけ特別ってこと?」

「そういうことで。」

二人、抱き合ったまま大きな声で笑い合う。

「じゃあ、シオも俺の特別。」

特別、という響き。平凡だった俺を、彼のいる世界に引き上げてくれた。普通で面白味のない、どこにでもいる男。そんな俺が、特別に美しいと思う相手から、特別だと言われた。俺が、サクちゃんの特別。

「え、ちょっと、?」

頬が涙に濡れていた。後から後から涙が零れて、サクちゃんの服も濡らしてしまう。止めようにも止まらない。困ったように笑うサクちゃん口元には、もうすぐ咲き始めるだろう桜の花弁が見えた。結局今の今まで、サクちゃんの美しさを言い表せる言葉を知ることは出来なかった。自由だけが、何とかサクちゃんに相応しい。

「ごめん、なんかあまりにも幸せで。」

サクちゃんの細い背中から腕を離して、空いた手で涙を拭った。多少は明瞭になった視界に、春の美しさがいっぱいに広がっている。

「いきなり泣くなよ。…やっぱりシオって、」

あぁ、お決まりのセリフが飛び出すな、とすぐに勘付いた。息継ぎの隙間を唇で塞いでみる。あの雪降る土手で、サクちゃんからもらった初めてのキスを、上書きするようにキスをした。

「…変な奴…。」

どこかで今年初めての桜が開花した。どこで蕾が開いたのか知らないけれど、どうせ同じ星の下、どこかで静かに花弁を開いているのだろう。




蝉がうるさく鳴いている。木陰はそれなりに涼しいが、やはり夏の昼下がりは暑くて敵わない。俺は今、シオと二人で母親の墓参りを済ませたところだ。シオの恋人にしてもらってからもうすぐ半年。夏が始まるのと同じくらいに、俺はシオの住む土地へ越してきた。交際を始めてからしばらくの間は、お互い離れて暮らしていた。俺はシオに面倒を見てもらいたくなくて、一定の貯金をしてから一緒に住もうと決めていた。シオは不安そうな顔をしていたが、これは俺が決めたことだ。俗に言う遠距離恋愛中は、こまめに連絡を取り合って、しれなりに恋人らしい関係を保っていたように思う。そして工場での勤務を続け、目標の金額まで貯まったとことで仕事を辞めた。入社の際に話をしていたので、退職の手続きは手早く済んだ。シオが住んでいたワンルームで二人暮らしはさすがに手狭だったので、新しく部屋を借りることにした。男二人のルームシェアは難しく、部屋探しは難航したが、何とか条件に合った部屋を借りることが出来た。シオは変わらず自動車整備工場に勤め、俺は酒屋でバイトをしながら資格の勉強をしている。

「俺みたいなガキが少しでも楽になれるように、カウンセラーになりたいです。」

貯金の為に居候させてもらった滝沢さんの家で、オフモードの家主に向かって今後の抱負を口にしたのは春先のことだった。年度末に申し込んだのは、カウンセリングの資格試験のものだ。滝沢さんが子供相手に仕事をしているのを見て、俺のように過去のことで悩んでいたり、今まさに苦しんでいる子供がいるのなら、そんな子供の力になりたいと思うようになった。臨床心理士だとか、公認心理士になるには、大学の心理学部で規定の単位を取得しなくてはスタートラインにも立てない。さすがに最初の挑戦でそれは高望みが過ぎるので、一般的な資格らしいカウンセラーの資格を取ろうと思ったのだ。

「いいじゃん。職場に資格持ってる奴いるからおすすめの参考書聞いとくよ。」

滝沢さんも賛成してくれているようだ。

「それと、俺、地元の近くに引っ越します。好きな人と一緒にいることにしました。」

「いいじゃん。…って、え?」

話の流れで相槌を打ったらしい滝沢さんは、一人で慌てている。俺はその様子に笑いが込み上げてしまった。

「本当に本当にお世話になりました。俺に愛を教えてくれたのはあいつだけど、滝沢さんもそうだと思ってます。俺、滝沢さんに出会えて良かったです。」

滝沢さんは下ろした前髪の奥から、じっと俺を見つめている。何だか緊張してしまう。

「俺も、サクに会えて良かったよ。俺、姉と妹の女兄弟に囲まれて育ったから、サクみたいな弟がほしかったんだ。お節介ばかり言ってたかもしれないけど、このまま居座ってもいいと思うくらいには、良い奴だなって思ってた。サク、幸せになれよ。兄ちゃんはずっとお前の味方だから。」

一人っ子の俺が兄を望んでいたように、滝沢さんも弟をほしがっていたそうだ。初めて聞いたので驚いたが、滝沢さんの笑顔が、本当の家族が見せるそれのようで胸が詰まる。

「ありがとうございました。」

「こちらこそ。」

こうして俺の十年近くに渡る東京での生活は幕を閉じた。


「帰りに何か食べていこうか。何がいい?」

バスの中でシオがきいてくる。遠くへやっていた意識が戻ってきた。

「…カレーかなぁ。」

「カツは?」

「もちろん乗せるよ。」

俺は、二人が持っている鍵のかたちが全く同じであることを思い出し、一人でそっと微笑んだ。一緒にいるとうことは、お互いの存在が特別であるということ。

「シオ、」

愛しい、特別な名前。

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どうせ同じ星の下 入江 怜悧 @reiri00

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