Chapter8 私、学校嫌いなんだ

 自己紹介で盛大にやらかして以来、私の学校生活は割と灰色だった。さもありなんではある。


 同級生は本当に必要な時以外私に話しかけてこなかったし、当時の担任だった小杉教諭も、優しさの中に腫れ物に触るような感じを滲ませていた。クラスを分かたれた林とは一応交流が続いていたが、あちらもあちらで友達が出来たために、次第に疎遠になっていった。


 とはいえ、孤独がそこまで嫌いではなかった私は、まぁこれはこれで悪くない、なんて、強がりめいたことを思っていたのだが。


 ――転機が訪れたのは、なんと二学期に入ってようやくのことである。


「なんだその髪。染めてんのか、お前」


 掃除が終わって校内をふらついていた時だっただろうか。ジャージ姿の男性教諭が、例の栗色の髪の少女に絡んでいるところを、職員室前の廊下で偶然目撃した。当時この男――石黒は私達のクラスを担当しておらず、交流を持つことはほぼなかった。不運な邂逅と言えよう。


「2年にそーゆう奴もいるけどな、違反だぞ、い・は・ん。手帳ちゃんと確認したかぁ?」

「えっ……あ……」


 少女は、その場で凍りついていた。


 怖がってたんじゃないよ、と、後に彼女は語った。ただ、初めて投げつけられた理不尽に混乱し、思考が止まっていたのだという。どちらにせよ、言葉が出なくなっていたことには変わりないが。


「……先生」


 私は、何でもないような風を演出しながら彼らに歩み寄った。少女とイシセン(当時は名前も知らなかったが)が、同時にこちらを見た。


 ……これは、善意によるものでは決してない。私は、彼女の生い立ちを母から聞かせられて知っていた。つまり、この理不尽教師に対して優位に立てる状況だったのだ。即ち是、大人の鼻を明かしてカタルシスに浸る、絶好のタイミング。邪にも私はほくそ笑みながら言った。


「その子、クォーターなんスよ。髪は地毛っス」


 イシセンは一瞬動揺し、それから少女の顔を見た。彼女の瞳の色や面差しに、私の言葉が真実だと悟ったのか、奴はバツの悪そうな顔をして、言った。


「……なんだ、紛らわしいな」


 は? と思った。思考が止まり、私もまた、彼女と同じく混乱して言葉に詰まった。紛らわしいとか言ったかコイツ?


「そうならそうってちゃんと伝えなきゃダメだぞ」


 イシセンはそれだけいけしゃあしゃあと言って、その場を去った。少女は俯いて黙っていた。私はしばし愕然とし、それからため息をついた。


「あのハゲムカつくな」


 私が小さく零すと、少女は隣で黙ったまま、力強く頷いた。その瞳は、悲しみなどではなく、怒りと屈辱に燃えていた。


 ……それがちょっと意外で、私は驚いた。そういえばさっきも謝ったりしなかったな、と私は気づき、可愛らしい容姿の中に秘められた強さに感じ入った。へっ、おもしれー女。


「あ、あの」

「ん?」


 しばらく黙って廊下に突っ立っていた私達だが、不意に少女が口を開いた。私は少し低いところにいる彼女を見下ろす。見上げる青い瞳がそこにあった。


「お、同じクラスの人、だよね。お名前、なんだっけ。忘れちゃっ、て……」


 そう言って、少女は私を見つめた。先程までの激情はどこへやら、恋する乙女のような、一途な眼差しだった。ビスクドールのような美少女にそんな視線を投げかけられ、私の心はざわついた。照れに照れた。そして、照れに照れた私は、


「わ……私は、ロックフェラー。石油王ロックフェラーだ」


 ――クソみてえなチョケ方で、のちに親友となる彼女、城端琉智空に名乗ったのであった。


***


 出会いからおおよそ1年が経った。私は、なんだかんだ変わったと思う。多分、ルチアが居てくれたお陰だ。あの、帰宅部志望で〜すとか自己紹介でのたまっていた頃の私のままだったら、私の学校生活はずっと灰色のままだったし――朝のあの時、野尻のために立ち上がったりも出来なかっただろう。


「……なんか、あっさり決着ついちゃったね」


 昼休みの文芸部室。私の向かい側の椅子に腰掛けたルチアが、沈んだ表情で言った。中庭の方から、男子のはしゃぐ声がやけにうるさく聞こえた。


「……ついてないだろ、決着なんか」


 私が呟くと、ルチアが困ったように眉を下げる。


「でも、証拠があるんだよ?」


 昨日の帰り掛け、福野がグランドの辺りをうろついていたのを、戸出は見たのだという。その情報は瞬く間に教室中に伝播し、福野犯人説を疑う者は最早教室内に――私を除いて――居なくなった。


 それもそうだろう。碌に登校もせず、クラスの繋がりから隔絶された陰気な女子。……いかにもそういう行為をしそうだと、思われても仕方ない。私とて、客観的に見て、それを否定することは出来ない。否定する確実な証拠があるわけでもない。


「……戸出が虚言を吐いた可能性だってある」

「何のために?」

「……自分から、疑いの矛先を、逸らすため」


 それは、「私は戸出が犯人だと思う」という宣言に等しかった。ルチアが目を見開き、俯く。否定しきれない、という気持ちが、表情から見て取れた。しかし彼女は顔を上げて、私に反論した。


「……でもアイツ、昨日はすぐ帰っちゃったよ? 朝練の時はともかく、夕方に吸い殻撒くなんて無理じゃないかな……」


 私もそれは目撃している。少なくとも戸出にはアリバイがあるのだ。――しかし、私は首を振った。


「私も戸出が単独でやってるとは思ってない。交友関係も広いだろ。何人かで、グルになって、とか……」

「……でも、確実な証拠があるわけじゃないよね?」

「……ああ」

「ああ、って……」

「だ、だから、確信を持って言ってるわけじゃない。それに、戸出に限らなくても……野尻を逆恨みしてる連中は、他にもいるかもしれないだろ? 例えば、同じ陸上部の奴が、才能に嫉妬――」


 ルチアは、私のセリフを遮るみたいに首を振った。


「……少なくともそれはないよ。陸上部の女子って、今舞衣ちゃんしかいないもん」

「あ……そう……なのか……」


 初耳の情報だった。……陸上の事はよく知らないが、恐らく男女では評価基準から違うはずだ。いくら野尻に才能があるとしても、男子がそれに嫉妬を向けるとは考えにくいだろう。


「だけど、男子だって……単純に野尻が気に食わなかったのかもしれないだろ。アイツ、気が強いし、逆恨みされても……」

「ロクちゃん!」


 ルチアの声に苛立ちが滲んだ。硬直する私の手を、ルチアは乱暴に掴んで握る。


「おかしいよ! ロクちゃん、もっとちゃんとした考え方が出来る子だったでしょ? さっきから聞いてたら、ただ想像を言ってるだけじゃん! 確かに戸出だって嘘ついてるのかもしれないけど、今のロクちゃんの言ってる事もレベルとしちゃ一緒だよ!?」

「……だけど」

「だけど、何?」

「……福野は、そんな事する奴じゃない」

「は……?」


 ルチアは困惑を滲ませて、私を見つめた。


「何言ってるの……? ロクちゃん、別に福野と仲良いわけでもないじゃん……。何でそんな事言えるの?」

「……」

「……福野がさ、暗いけどホントは優しいところがあるとか、そんなのだったらまだわかるよ。でもアイツ、性格も悪いじゃん。ロクちゃんだって覚えてるでしょ? リレーの時のこと……」


 黙っている私に、ルチアは小さく溜息をつく。


「正直、私は本当に福野かもって思ってるよ。確かに戸出の可能性もあるかなって思うけど。どっちだって一緒。……だからもう、やめようよ」

「……やめるって、何を」

「この話に関わるの。もう、ロクちゃんが疑われてる訳でも無くなったし……。大体最初から、犯人を見つけたらどうしようなんて、考えてなかったんだから。……ミステリごっこは、もう、おしまい」


 最もな意見だとは思う。クラスの揉め事に、わざわざ首を突っ込む必要なんてない。だけど――。


『マジで殺してやろうかな、アイツ』


 あの後、野尻が憎悪も露わに呟いた言葉を、私は思い出す。恐らく、ギリギリの所で保たれていた均衡は間も無く破れる。次に福野が教室に現れた、その日が最後だ。周囲に築いていた壁を崩されて、福野は剥き出しの害意に晒されるだろう。


 そんなの、私は、嫌だった。


「……私がどうにかする」

「え……?」

「なんとか穏便に話を済ませられないか、やれるだけの事はやる。……まだ、策は無いけど」

「な……ッ」


 青金色の瞳が揺れた。動揺を滲ませながら、ルチアが私に食ってかかる。


「な、何で!? おかしいよ!」

「……私一人で勝手にやるよ。お前は無理に付き合ってくれなくていい」

「馬鹿ッ! そういう事言ってるんじゃないよ!」


 ルチアは私を睨みつけながら、ヒステリックに言い募る。


「それは本当にロクちゃんがやらなきゃいけないの!? せめて、先生に頼むとか……!」

「先公ごときに何が出来るってんだよ? 大体そうなったら担任イシセンは絶対話に関わってくるだろ。下手したら余計悪化する」

「ッ、だけど! そもそも福野が本当に犯人の可能性だって全然あるんだよ!? だったら自業自得じゃん!」

「わかってるよ! でも私は、福野が傷つけられるところなんか見たくない!」


 ルチアは唇を噛み、反論の声を上げようとして、口を開きかけ、やめた。私の手を握ったまま、親友は俯く。


「――私、学校嫌いなんだ」


 ややあって、ルチアが呟いた。


「男子はうるさいし、部活はつまんないし、勉強はできないし、担任はキモいクソ野郎だし……」


 桜色の唇から、ぽつり、ぽつりと言葉が漏れて、部室の机に落ちる。私はそれを黙って見ている。


「……でも、ロクちゃんがいてくれるから毎日楽しいの。いつも寝る前に、明日も学校行くの楽しみだなって思える。……他の嫌な事なんて全部どうでもいいくらいの友達が、私にはいるから……」


 ルチアが私を見つめた。不安に揺れる眼差しが、また、私の心をざわめかせる。


「……ロクちゃんは、違うの? 私がいるだけじゃ、不満?」

「不満じゃねえよ」

「だったら……!」

「……けど、福野を見捨てたままじゃ、私は……お前と素直に笑ってやれない」

「……ッ」


 ルチアが私の手を離す。それから、力無く笑って、言った。


「……ロクちゃんは、まっさらで綺麗だね」


 私が黙っていると、ルチアはさらに、投げつけるように言葉を続けた。


「みんなとは全然違うね。私とも」


 私は首を振って、文芸部室の隅に目をやった。やっぱり掃除はしていないようで、だいぶ埃が溜まってしまっている。


「私は……メンタルが弱いだけだよ」


 ルチアは俯いたまま席を立ち、黙って文芸部室を出て行った。ドアが開け放されたままのせいで、男子の騒ぐ声が余計うるさくなった。絶縁したカップルみたいだ、とか、ズレた思考が私の脳を過った。


 放課後まで、結局私はルチアと一度も口を利かなかった。彼女は私に一言も言わず部活に行ってしまい、私は教室に一人残された。最初は「なになに、痴話喧嘩?」などとふざけていた林も、私の表情からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、心配そうな顔で「一緒に帰る?」と提案してくれた。私はそれに従った。


「……その、二人の問題だし、あんまり詳しくは聞かないけど。早く仲直りしろよなっ」


 別れ際、私の家の玄関前で、林は自転車に跨ったまま、無理に明るく演出したような声で言った。私は曖昧に笑って頷いた。林はちょっと気まずそうな顔をして、小さく別れを告げる。


「じゃあ、ね」

「おう、またな」


 最後まで後ろ髪を引かれるような様子で、林はペダルに足をかけ、私の前から走り去った。それを見送って、私は玄関扉の鍵を開けた。両親が帰っていないことは、車庫に車が無かったからわかった。


「ただいま」


 儀式的に言って二階に上がる。階段でびわが私の足元をすり抜けていった。私を素通りして、リビングに続くドアをジャンプして開け、中に滑り込む。誰もいないんだがな、と思いながら私は階段を登り、荷物を自分の部屋に投擲して、兄の部屋のドアをノックした。


 ドアを開けてまず、あれ?と思った。兄は珍しく液晶に向かっておらず、ベッドに腰掛けて本を読んでいた。ほとんど冊子か、映画のパンフレットみたいな、薄手の本である。読書の邪魔をしてはいけないような気もしたが、私はなんとなく、その隣に座った。ページを捲る音だけが、静かに、薄暗い部屋の中に響いていた。


「何読んでるの?」

「エッセイ」


 私が問うと、兄はこちらを見もせずに答えた。


「誰の?」

「インターネットの人」


 インターネットの人ってなんだよ、と思ったが、そこまで突っ込んで聞くと流石に機嫌を損ねられる気がしたから、私は黙っていた。


 やがて兄は洋ゲーのキャラが描かれた栞を本に挟み、ぱたんと閉じて、私を見た。


「……何?」

「え?」

「え? じゃねえよ。何か用があって来たんだろ」

「……いや、別に。ゲームとかやってるかなって思ったから、見に来ただけだし。珍しいよな、本読んでんの」


 私が努めて明るく言うと、兄はふん、と鼻を鳴らした。


「同じ事ばっかやってたら思考が凝り固まる」

「……ふーん」


 黙ったまま足をぱたぱたと動かしていたら、やがて兄が溜息をついた。


「……なんかあったの、学校で」

「……え?」

「そんな顔で帰ってこねえだろ、いつも」


 その言葉に私は動揺する。いつも液晶しか見てないと思ってたのに、観察されていたのか。頰が熱くなって、私は彼から目を逸らした。


 目を逸らしたまま、呟くように私は言った。


「……友達と、喧嘩して」

「あの……林ってやつ?」

「……いや、別の友達」


 兄はずっと私を見ていた。相も変わらず無感情な目だった。別に、これ以上話す必要なんてない。無いのだが、誰かに気持ちを吐き出したくてたまらなくて、私は口を開いた。


 今までのことを、初めて私は、ルチア以外と共有した。言葉にしてみて、ただのお遊びだった犯人探しが、こんな深刻な事態にまで発展していたことに驚いた。


「……福野の事、私は助けたい。でも、ルチアはそうじゃないみたいで。それで、喧嘩っていうか……。呆れられた、みたいで」


 そこまで言って、私は言葉を切った。泣きたくなっていた。私は何をやってるんだろう。変なカッコつけをして、親友に見限られて。……それでも、何とかしたいのは本当なのだ。


「……私、どうしたら」

「俺さ」


 兄はベッドから立ち上がった。本棚の隅にさっきまで読んでいた本をしまって、こちらを見る。その眼差しが冷たくて、私は凍りついた。


「完ッ全にその、ルチア? って奴と同意見なんだけど。お前に何が出来んの?」

「……ッ、でも、大人に頼ったって」

「無駄に決まってんな、確かに」

「じゃあ……!」

「じゃあじゃねえよ。大体お前、一人で何とかすれば友達は巻き込まれないみたいに思ってるらしいけどさ、巻き込まれるに決まってんだろ。お前、ああいう連中の事舐めすぎ。確かに脳みそ足りねぇ歩く生ゴミみてぇな奴らだけどさ。だからこそ何だってやる。ゴブリンと一緒だよ。連中の考え方なんて俺達が理解出来るもんじゃない」


 兄から、こんなに冷ややかに言葉をぶつけられたのは初めてで、私は混乱していた。追い打ちをかけるみたいに、兄はさらに続けた。


「どうしようも出来ねえ事があんだよ、現実がっこうには。『殴ってもいい存在』って一回定められたら誰にも変えられねぇ。その福野ってヤツはそれになったんだよ。自分がそうならなかっただけ良かったって思え」

「そんな事……!」


 なおも反駁しようとする私を、兄は深いため息をついて黙らせ、それから吐き捨てるように言った。


「お前さ……。俺のこと、まだ哀れんでんの?」

「……ッ!」


 冷たい怒りを帯びた眼差しに、私は息が詰まった。そんなつもりじゃなかったのに、兄にそう思わせた自分が憎くて、私は逃げるように兄の部屋を飛び出した。ベッドに飛び込んで、掛け布団を抱きしめて、私は情けなくも嗚咽していた。何もかも失ってしまったみたいな気分だった。


「雲雀ー! お風呂入っちゃいなさーい!」


 やがて、階下から母親が呼ぶ声がした。こんな気分でも、生活は無慈悲に続いていくのだ。


 空っぽの心を抱えて、私はキョンシーみたいに風呂に入り、夕飯を嚥下した。母親が心配して声をかけてきたが、私は無気力にそれを流した。翌日はいっそ欠席したかったが、私の体は腹が立つくらい万全だった。僅かに残ったプライドが仮病を許さず、私は淡々と通学の準備をした。


 鞄を携えて階段を降りた時、ブレザー姿の兄が玄関を出ていくところを見て、私はたまらず彼に駆け寄り、声をかけた。


「兄さん!」

「……」


 兄は黙ったまま、こちらを振り向いた。昨日こちらに向けた怒りはそこには無かったが、かと言って他の感情も読み取れなかった。いつもの無表情だ。


「……昨日は、ごめん」


 絞り出すように私が言うと、兄はしばらく黙ったまま私を見て、それから首を振った。それの意味するところを掴みかねている私を置いて、兄は玄関から出ていった。


「喧嘩でもしたの?」


 後ろから現れた母親が、呑気な声で言った。


「……まぁ、そんなとこ」

「ふーん。翼も何か言えばいいのにね、黙ってないで」

「……私が悪いから」

「……そう?」

「いってきます」


 私は話を強引に切り上げ、ドアノブに手を掛けたが、母親は何故かその場を動かなかった。何か、心配そうな眼差しを私に向けて、彼女は尋ねてくる。


「……アンタ酷い顔してるじゃない。本当に大丈夫?」


 ……そんなに顔に出ていただろうか。私は動揺を隠しつつ、首を振った。


「……ッ、べ、別に……」

「本当? 昨日からずっとじゃないの」

「……いや、何でもないから、マジ。行ってきます」


 私は早口で言って、足速に玄関を飛び出した。母親が寂しげにこちらを見ていた気がしたのは、気のせいだということにした。


 いつもの場所にルチアは居なかった。わかっていたはずなのに、溜息が出る。私は平静を装いながら、道の隅っこを自転車で駆け抜けた。


 教室に入ると、ルチアがもう席に座って本を読んでいた。私の登校に気づいたのか、ルチアは一瞬こちらを見て、それから気まずそうに視線を逸らした。その反応だけでも、少し私は安堵していた。完全に嫌われたわけではないのが、表情でわかったからだ。


 福野の姿が見えない事も、少なからず、私の心を落ち着かせた。今日も欠席なのだろうか。「その時」がやって来るとしても、それは今すぐにではない。席についてからしばらくすると、野尻が教室に現れた。


「雲雀、おはよ」

「お、おう……おはよ……」


 野尻はいつもの爽やかな笑顔を浮かべていた。昨日見せた害意の片鱗は消え失せてしまったようで、それが逆に、恐ろしかった。


「……今日は朝練、無かったのか」

「え、何でわかったの?」

「汗をかいてない」

「おおー、流石名探偵」


 おどけたような調子で言って、野尻は拍手などしてみせる。私はため息をついて、彼女を見上げた。


「……なんだよ名探偵って」

「いやいや、昨日のアレ見たらみんなそう思うから」

「……んな大した事でもないだろ」

「そこはアレ言ってよ、あの、なんだっけ、前ドラマで見たんだけど……えれめんたりいとかいうやつ……」

「うっせバーロー、さっさと席着け」

「お、江戸川だ」


 しっしっ、とばかりに手を振ると、野尻はくすくす笑いながら自分の席に向かった。彼女の内心に静かに渦巻いているであろう怒りを思うと、また、私の気分は沈んだ。


 しばらく物思いに耽っていると、突然、誰かが私の席の前に立った。顔を上げると、小柄な男子がそこに立っている。……山田だった。仏頂面である。何の用だろう、と思いながら見ていると、急に学級日誌を私の前に突き出してくる。


「ん!」


 山田が言った。言ったというか、そういう音を出した。カンタくんかお前は、つーか日誌を私にどうしろと言うんだ、などと思っていたら、その時私は思い出す。……今日は私が日直だった。昨日色々あり過ぎて忘れていたのだ。私はちょっと決まり悪く思いつつ、山田から日誌を受け取った。


「……悪い。忘れてた。取りに行ってくれたのか」

「ん」

「……ありがとな」


 私が大人しく礼を述べると、山田は何故か頬を染めて、目を逸らしながら、ボソボソと呟く。


「……いや、もともと、そういう約束、だったし……」

「……そうだったか?」


 私が首を傾げると、山田は何故かすごく傷ついたような顔をしながら、自分の席に戻っていった。何なんだ、よくわからん男だ。


 イシセンがいつものように教壇に上がり、私に号令を指示した。まぁこの精神状態で、コイツに余計な注意をされずに済んだのは助かった。サンキュー、山田。


 それから普段通りの一日が始まった。ぼんやりしていたせいで黒板を消し忘れ、野尻にせっつかれるなどのアクシデントはあったが。


 昼休みになったらルチアに謝ろうと、私は授業中、彼女の背中を見ながら考える。福野の事よりも今はそれが先決だ。親友なしで学校生活をやり過ごせるほど、私は強くない。後のことは、それから考えたらいい――。



 ――だが、そうは問屋が下さなかった。



 3時間目を終えた後の休憩時間。黒板を消し、汚れた手を叩いていると、騒いでいたクラスメイトが急に静かになった。何かと思って振り返り、私は驚く。


 福野未緒が、教室のドアのそばに立っていた。


 福野は一瞥もせずに私をすり抜け、真っ直ぐに一番最前列の、所定の席に座った。福野にあてがわれた、いつもは空白の場所。それを、私を含むクラスの全員が注視していた。私は動揺し、頭が真っ白になっていた。そうだ。別に、福野が後から教室に現れた事はこれが初めてではない。何故私は、それを忘れていたのだろう。


「出た、疫病神」


 戸出が囃し立てるように言った。それを合図にしたかのように、荒々しく野尻が立ち上がる。野尻は真っ直ぐに福野の席に向かい、彼女の机の上を、激しく両の拳で叩いた。福野は一瞬びくりと肩を動かし、それからゆっくりと野尻の顔を見た。「何が何だかわからない」という顔をしていた。


「……お前さぁ、どのツラ下げて来たワケ?」


 ドス黒い感情を滲ませて、野尻が言った。その低い声の響きに、私は脚が竦んだ。福野は相変わらず黙りこくったまま、野尻を見ていた。


「よく当たり前みたいに顔見せられるよね。人にあんな嫌がらせしてくれといてさ」


 福野の唇が微かに動いた。私には、「なんのこと」と言ったように見えた。野尻の顔が、憤怒に染まった。


「とぼけてんじゃねえよッ!!」


 野尻のしなやかに引き締まった腕が、福野のセーラー服の襟を捉え、強引に立ち上がらせた。福野がよろけ、その拍子に倒れた椅子が、静まり返った教室の中で派手な音を響かせた。


「お前さ、ほんと、マジで……。いつまで私に付き纏う気なの……?」


 明らかな暴力が、この教室の中で行われようとしていた。しかし、野尻を止めようとする者は誰もいなかった。私も例外では無い。止める以前に、物理的に立っていられなかったのだ。黒板の縁を掴んで、私は、不甲斐なくもその場にへたり込みそうになるのを、なんとか堪えた。


 目の前の光景が、もう、に重なっていたから。


「愛有が、グランドウロチョロしてんの見たんだよ!! オメェだろ、学校に吸い殻捨てたのも、タバコの箱、私の鞄に入れたのも!!」

「の、じり……」


 私は、何とか声を出した。野尻はこちらを振り返り、私を睨みつけた。


「……何?」

「待てよ……。まだ、福野だって、決まった訳じゃ……」

「ハァ?」


 野尻は眉根を寄せる。戸出が席に座ったまま私の方を見て、唇を尖らせた。


「雲雀ちゃん、私が嘘ついたって思ってんの? ひど」

「ち、違う! でも、グランドに居たからって、犯人だとは……」

「いや何言ってんの、マジで。決まりでしょ。部活にも入ってないヤツが放課後にグランドにいんのがまずおかしいじゃん」

「……何か、事情があったのかも……」


 余りにも苦しい私の弁護に、野尻は溜息をついて、それから福野の方に向き直った。福野は野尻に襟首を掴まれたまま、無表情を貫いていた。


「……直接聞けばわかるでしょ。コイツに。……なぁ。お前じゃないんだったら、何とか言ってみろよ!」


 福野は答えない。野尻は舌打ちして、更に近くに、福野の顔を引き寄せた。


「私さ、全国目指してんだよ、本気で。これで大会出場出来なくなったりしたらさ、マジでどうしてくれんの? お前のクソ親が責任取ってくれるワケ?」


 野尻の声は、怒りに震えていた。当然の事だ。野尻は、目の前にいる少女が犯人だと信じ切っている。そして誰も、それを否定する材料を持っていない。否定できるのは福野本人くらいだが、当の彼女は沈黙を貫いていた。まさか、本当に福野が――。


 その時、福野が口を開いた。「私じゃない」という言葉を期待していた。――しかし、そうではなかった。かと言って、罪を認めもしなかった。


「――じゃくしょーのくせに」


 福野は、か細く、しかし、教室の誰もの耳に届く声で、そう言ったのだ。


「……今何つった、お前」


 静かに、野尻が呟いた。福野は黙っていた。教室内に冷たく流れた沈黙は、野尻の引き攣った絶叫によって破られた。


「殺す――ッ!!!」


 野尻が、拳を振り上げる――。



 しかし、それが福野に届くことはなかった。



 福野が――。



 襟を掴まれながらも、野尻より遥かに速く振り抜いた腕で――野尻の鳩尾を、貫いた。


 野尻の唇からうめき声が漏れた。彼女の体は前方に吹き飛ばされ、黒板に激突した。衝撃で黒板消しとチョークが教壇に落下し、石灰の煙を舞い上げた。女子連中が悲鳴を上げた。



「テ、メ――」



 野尻がその瞳を逆襲に激らせ、福野を睨めつけた、が――それはすぐに、恐怖に歪んだ。



 福野が――小さな身体からは考えられないような力で、自分の机を高く、振り上げていたからだ。



「……じゃま」



 福野はそれだけ小さく言って、横様に、机を放り投げた。その質量が、容易く窓ガラスを破り砕いた。悲鳴のような音をあげて、破片が水晶のように飛び散り、5月の陽の光を乱反射して煌めく。遥か下の中庭から、机が墜落してひしゃげた音がやかましく届いた。階下の1年生が騒ぎ立てるのがわかった。



 それを合図に、2-3は恐慌状態に陥った。福野という怪物の出現に誰もが恐怖し、悲鳴を上げて、我先にと教室の出口に向けて逃げ惑った。



 福野はそれを一瞥もせず、先程までの激昂が嘘のように怯えている野尻を見た。



「や……やだ……」



 震える唇で、野尻が言った。それを意に解さぬかのように、福野は、傍に倒れていた椅子を、軽々と持ち上げた。その目は、野尻の――スカートから伸びた、日焼けした両脚を、捉えていた。それが意味するものに、あまりにもあからさまな、ドロッドロの悪意に、私は戦慄した。



 いつか、林に聞かされた言葉が、頭の中に響く。なんか、少林寺の教室に通ってたとか、どうとか。



 いや、ダメだろ。



 それは、ダメだろ。よく、知らないけどさ。身につけた力で人を傷つけちゃダメとか、そんなの、一番最初に教わることなんじゃないのかよ……。



 その時。



「やめて、福野さん」



 凛とした声が、教室に響いた。



 ――ルチアだった。この異常な状況下で、彼女は逃げ出していなかったのだ。


 その体が、小さく震えているのがわかった。それでも彼女は勇敢に、福野へと歩み寄った。


「もう、やめて。あなたじゃないのは、わかったから」


 なおも、ルチアが言った。福野は椅子を振り上げたまま、ゆらりと、彼女の方を見た。


 それは、静謐な光景だった。割れた窓ガラスから差した陽光が、ルチアを神聖に照らし出していた。まるで、聖女と怪物の対峙のようで――。



 その、瞬間。



 福野未緒かいぶつの双眸が、激情に燃え上がる。



 私の体が、ようやく動いた。



 弾かれたように立ち上がり、恐怖で硬直したルチアの方へ駆け寄る。振り下ろされる凶器の前に踊り出て、私は、抱き締めるように親友に覆い被さる。



 刹那――



 鈍い音と共に、頭部に激しい衝撃が走る。一瞬、視界が真っ赤に染まったような気がした。



「ロクちゃんッ!!」

                「雲雀!!」



 二人の友人があげた悲痛な声が、最後に耳に届いて。


 そのまま私の意識は、暗い、闇の底へと沈んでいった。

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