Chapter4 そんなロクちゃんだって好きだから
「今週土曜日に勉強会しようぜ」と林が言い出した。タバコの件についてルチアと情報共有をしようとしていたところ、奴が急に文芸部室に現れたのだ。しかしそもそもここは彼女達の部屋なので、我々が先にいるのがまずおかしいような気もする。というか他の部員をマジで見たことがない。林の幻覚だったらどうしよう。
「何だ、ついに危機感持ったのか」
正直意外だった。林は勉学を含め、努力全般が苦手な性質である。そんな彼女が自分からそんなことを提案するとは。林はへらへらと笑いながら頭を掻いた。
「まぁ、そんな感じ? ひばりん成績いいし、わからないとこ色々教えてもらいたくてさぁ」
「……私は構わねーけど、ルチアは?」
「全然いいよ! みんなで勉強するの、楽しそう!」
ルチアは手を合わせて、今にも飛び跳ね出しそうなほどの喜びを笑顔から滲ませた。天真爛漫で結構な事だ。
「場所はどうすんだ。図書館とか?」
「お馬鹿。図書館じゃ遊べないでしょ」
「お前最初に勉強会つったよな?」
「私んち、土曜日ちょうど家族みんないないんだよね。ウチにしない?」
「私はいいが……」
ルチアの方を見る。私は林と何度も遊んだし、家の場所など当然知っているが、ルチアは違うはずだ。そもそもルチアの家から林の家までは大分遠い。しかし彼女はニコニコ笑ったまま、「全然いいよ」と頷いた。
「私場所わかんないから、案内して欲しいな」
「オッケー、じゃあ学校の前集まろっか」
「いや待て、歩いて行ける距離じゃねえぞ」
私が遮ると、ルチアは不思議そうな顔で首を傾げた。
「……普通に自転車乗ってくよ?」
「え、お前自転車乗れたの?」
私がつい驚くと、ルチアは可愛らしく頬を膨らませて遺憾の意を表明した。
「もうっ! ロクちゃん私のことなんだと思ってるのかな! 自転車くらい乗れるよ! 学校行く時は乗っちゃダメって言われてるだけ!」
「……あ、あぁ、そうか。すまん」
よく考えたら、中学生で自転車に乗れないというのは、いないことはないだろうが流石に少数派だろう。いくらお嬢様然としたルチアとはいえ、ちょっと侮り過ぎだったと私は反省する。
「ひどいなーひばりん。流石にルチ公を馬鹿にしすぎだぞう」
「しすぎだぞーう!」
「いや、悪かったよ。ごめんな」
「ルチ公」も大概馬鹿にしてるだろ、と思わなくもなかったが、そもそも自分が悪いので、私は大人しく手を合わせた。しかし、やっぱりルチアが自転車に乗っている姿は、ちょっと想像が及ばない。
というか、そもそも学校の外の空間でルチアと会った事がないと、たった今気付いて驚いた。友達付き合いを始めてかれこれ1年は経つのだが、休日に一緒に遊んだ事も無かったとは。
ルチアが「そういえば」と前置きして、林に尋ねる。
「他のみんなは来るの? 吉子ちゃんとか照ちゃんとか」
「用事があるから無理だって。今んとこ私たち三人だけ」
「……まぁ、その方が助かるが」
「人見知りだもんねーひばりん」
「うるせえな」
藤と渋見(渋見照。美術部で絵が上手い)は林と同じオタクグループだが、ルチアはともかく私とは林を介して関わりがあるだけで、そこまで付き合いが深いわけでは無い。というか、どうも私は彼らに不良として恐れられている節がある。クールの追求による弊害である。
「じゃあ、11時半に校門前集合って事で」
「遅くね?」
「いや私、土曜は11時前まで寝てっからさ」
「ぐうたら女が」
「ぐうたら女で〜す。じゃあねー二人とも」
「菜乃ちゃんばいばーい」「おう、じゃあな」
帰り際、立て付けの悪い扉に苦戦しつつ、林は部室を後にする。ルチアが弾んだ声で言った。
「菜乃ちゃんの家、私初めて行くかも。ロクちゃんは近いんだよね?」
「まぁな。泊まったこともあるし」
「え、泊まったって……菜乃ちゃんちに?」
「ん? ああ」
ルチアが目を丸くして、私は首を傾げた。林とは母親同士も仲が良いから、割と普通にそういう事があったのだが。
「……そんな珍しいか?」
「え……あ、ううん……」
ルチアは少し顔を曇らせて、俯いた。落ち込ませた理由が分からず困惑していると、彼女はすぐに顔を上げて、期待の眼差しで私を見つめた。
「ところで! 何か成果はありましたか、ロクちゃん隊員」
「せめて油田隊員にしてくんねーかな」
私は苦笑しつつ、昨日からスカートのポケットにしまいっぱなしだったメモを取り出して、長机に広げた。ルチアがそれを覗き込んで、眉根を寄せる。
「……TAIN RK……?」
「職員室に吸い殻は残ってなかったんだが、ライネ――違う、大門のPCに写真があってな。これはそいつに印字されてた文字列だ」
「煙草の銘柄……とかなのかな」
「かもな。ただ、『TAIN RK 煙草』で検索しても何も情報が見当たらなかった。そっちはどうだ?」
私が尋ねると、ルチアは「よくぞ聞いてくれましたぁ……」などと言いながら鞄を漁り始めた――のだが。得意げな笑みが次第に曇り、焦燥の表情へと変わっていく。
「あれ、無い……。ちょ、ちょっと待ってね!」
「お、おう」
ルチアは自分の鞄を、長机の上でいきなりひっくり返した。教科書やノート、チョコレートの包み紙、ファンシーな柄のメモ帳や、ポーチなどが雪崩のように長机に広がる。文庫本のカバーが弾みで外れ、少女漫画チックな表紙イラストが晒される。まるでルチア自身がひっくり返されて、中身が溢れ出たみたいな様相だった。
「お前、横着すんなよ……」
「だって無いんだもん! なんでぇ? 昨日見つけて鞄に入れて、そのままにしてたはずなのにぃ……」
ルチアが泣きそうな声を出すものだから、流石にちょっと可哀想になり、一緒に探してやることにする。ブランドものらしき筆箱を開けてみると、その中から一際、異質な存在感を放つものを見つけ出した。
「……これか?」
「あっ! それそれ! そうだ、無くすといけないから筆箱に入れたんだった!」
「それで見失ってたら世話ねえぞ……」
ルチアはそれを私の手から受け取って、私の目の前に誇らしげに突きつける。
「じ、じゃーん!」
「いや今見たが」
「あぅ……ロクちゃんの意地悪……」
それは、透明なファスナー袋に包まれたタバコの吸い殻だった。踏まれたり、濡れたりした跡は見受けられず、比較的綺麗な状態だ。「GUDANG GARAM」という文字が表面に印字されている。
「昨日部活行く時に、体育館のトイレで見つけたんだ。洗面台のそばに落ちてた」
「体育館のトイレ……ああ、あそこか」
私達には馴染み深い南棟から、昇降口を挟んで反対側へ進むと、吹奏楽部室や武道館のある東棟に至る。体育館があるのはその途中だ。なるほど、ルチアならちょうど部活前に確認できるわけである。
体育館のトイレは経年劣化で薄汚れ、不潔な印象が強く、おまけに全て和式のため、ほとんど生徒には利用されない。しかし、グランドからも侵入できる裏口がある事から、外で活動する運動部の連中が切羽詰まった時などに時々使うらしかった。
「これも女子トイレから出てきたのか?」
「うん。……女子運動部の人が犯人、ってことかな」
「……どうだろうな。余り使われない分目立たないわけだし、隠れて吸うにはうってつけだろ。そう考えると部活はあんまり関係なさそうだ」
「うーん、なるほど」
「……あと、一回目と銘柄が違うのも気になるな」
TAIN RKにGUDANG GARAM。一文字も一致しないし、そもそも写真で見たものとはデザインが違う。ルチアがおお、と感嘆の息を吐いた。
「ホントだ。じゃあ、一回目とは別の人?」
「かもな。流石に中学生が二種類も煙草買わねえと思うし……」
しばらく考え込む私達だが、ルチアが何か思いついたように手を合わせた。
「……あ、ねぇ、この名前、ネットで調べたら何か出てこないかな」
「あぁ、そうだな。ちょっと見てみるか」
スマホをカバンから引っ張り出し、「GUDANG GARAM」をChromeの検索窓に打ち込む。結果はすぐに現れた。私の見つけた方は、一部分だったのがよくなかったのだろうか。
「グダン・ガラム……インドネシアの会社らしいな。日本じゃガラムって呼ばれるらしい」
「へぇー。なんかかっこいい名前」
「わかる。魔術師みてえ」
「私はドラゴンだと思った。滅びの竜グダンガラム」
「いいセンスだ」
「へへへ」
さらに調べを進めてみる。画像検索のタブを流し見ると、ある一つの写真に目が止まった。明らかに、ルチアが拾ってきたものと同じものだ。
「ガラム・スーリヤ……。これじゃねえか?」
ルチアが私のスマホを覗き込んで歓声を上げる。
「ホントだ! どんなタバコなの?」
「えーっと……?」
「ガラム・スーリヤ」に検索ワードを変えてみると、レビュー動画や紹介ブログなどが次々とヒットする。喫煙者が喫煙者向けに発表したようなものらしく、ほとんど意味はわからないが、なんとなくわかりそうな部分を抽出してみる。
「最高クラスの……タール値? よくわからんが、体に悪い度みたいなもんだろ。えーっと……あとは、なんか、周囲の迷惑になるとか書いてあるな。相当匂いが強いのか。……あと、日本じゃあんまり流通してないらしい」
「えー。そんなの、中学生が吸うかなぁ? もしかして、先生がやったとか……」
「だったら最悪だが……でも不良のやることだし、親の煙草盗んだりもしてるんじゃ――いや、だとしたらアレだな。二種類以上吸う事もあるっちゃあるのか。やっぱ単独犯なのかも」
考え込む私だが、ふと、ルチアがちょっと不満げな顔をしてこちらを見ていることに気づく。
「どうした?」
「……あのっ。そういえば、まだお褒めの言葉を頂いていないのですがっ」
「……あー」
そういえば労いの言葉一つかけていなかった。私は苦笑して、ルチアの頭を撫でてやる。
「よしよし、よくやったぞ」
「むふぅー」
子供扱いしないで、と怒り出すかと思ったが、これでも満足そうな様子である。単純な奴。
「……あ、つーかさ、私も褒めてもらってねえよな?」
撫でるのは継続しつつ冗談めかして聞いてみると、ルチアは唇を尖らせた。
「えー、でもメモ取ってきただけだし……」
「あー、そういう事言うのか? こっちは危険を顧みず職員室忍び込んでんだぞ?」
「冗談だよう。ロクちゃんもよしよし、頑張ったね」
ルチアはニコニコしながら、小さな手で私の髪を撫でる。そうやって私達はしばらく頭を撫で合っていたのだが――私ははたと気付き、手を下ろした。ルチアが首を傾げる。
「……これ拾ったのって部活前なんだよな?」
「え? うん」
「で、落ちてたのは洗面台の下」
「う、うん」
「私達、放課後に持ち回りで校内の掃除やらされてるだろ。当然あそこだって例外じゃない。そんなわかりやすい場所にあるものが、何でその時に見つからなかった? 」
「あっ……」
ルチアが声を上げて、口を抑える。
「……掃除の時間から、私が見に行くまでの間に、あそこに捨てられたんだ」
「そういうことだな」
「……じゃあ、タバコ吸ってる悪い人と、うっかり鉢合わせとかしてたかも……」
青褪めるルチアに、私は首を振った。
「……そうとも限らないかもな」
「へ……?」
「あのトイレ、確か換気扇がついてないだろ。お前が行った時、ドアはどうなってた?」
「両方閉まってた」
「つまり密室なわけだ。元々かなり匂いが強いらしいし、多少時間は経ったってそれが残ってそうなもんだが。タバコらしき匂いは?」
「……しなかった」
「……あくまで可能性だけどな。他所から持ち込まれたんじゃないか、その吸い殻」
ルチアが息を呑んだ。リアクションがいちいち大きいので、こちらも喋り甲斐がある。ミステリの探偵役になった気分で、私は続けた。
「例えば、家とか他所の喫煙室で、灰皿に残ってたやつを適当に見繕って、学校にばら撒いた……とかな。隠れてタバコ吸ってる奴なんて、最初からいなかった……或いは、一回目の事件に便乗したか」
「……な、何でそんなことするの?」
「さぁ。面白いからじゃねえの? 私達だって面白いから犯人探しやってる訳だしな」
「そ、そうだけど……」
「……しかし、そうなると容疑者候補が増えちまうんだよなぁ……」
「……あぁ、確かに……」
私とルチアは天井を仰いで、同時に溜息をついた。蛍光灯が、頼りない光で私達を照らしている。
「タバコを吸ってそうな奴……なら何となく類推できるんだけどな」
制服を着崩して廊下を闊歩し授業をサボるようなモノホンの不良もこの学校にはいる。単に喫煙者というだけなら、候補になるのは、数としてそこまで多くはないそいつらだ。しかし、愉快犯的にタバコを校内にばら撒きそうな奴となると……。
「オタクの男子とか全員候補になっちゃうよね……」
真面目な顔でルチアがそんなことを言うものだから、そのド偏見ぶりに私は吹き出してしまう。
「お前それヘイトスピーチだぞヘイトスピーチ。つかお前もオタクじゃんよ」
「……私はあんなおっきい声でソシャゲの話しないもん」
「へいへい、そうですね」
ぶすくれるルチアを、私は笑って流した。
しかし、二度目があったということは三度目以降が今後起きる可能性もある。それにその「二度目」の発覚はルチアにより防がれたのだから、犯人が何らかの動きを見せる可能性もあるだろう。
「……まぁ、今は様子見しかねぇな」
「そんなっ! 犯人を野放しにするんですか、警部!」
「熱いのは結構だがな。冷静な判断が捜査の肝要だぜ、新人」
「くっ……!」
「ひとまずだな。今はテス勉しようぜテス勉」
「急に現実に引き戻さないでよぅ……」
ルチアはしょぼくれた顔で、長机に散らばりっぱなしの私物を片付け始めた。
それから、何の問題もなく土曜日が訪れてくれれば良かったのだが。翌日木曜日に、ちょっとした事件が起きた。煙草とは全く無関係な、クラス内での出来事だ。
その日は体育があった。火曜日に引き続きリレーの授業である。班分けも継続する訳だが、一つ問題があった。前回欠席していた福野が、今回は出席していたのだ。福野未緒。クラスメイトにも関わらず遭遇率の低い、謎多き女である。
「福野さんをどこかの班に加えてもらいたいんだけど……」
高儀が皆の前で言うが、全員が静まり返った。予想できた空気だ。もうちょっと上手いやり方は無かったか、と思わなくもないが、このクラスの事情など知るはずもない高儀を責めるのも酷だ。当の福野も、全ての感情を失っているかのような無表情で沈黙するばかり。大の大人が中学生の前でオロオロし始めたものだから見ていられなくなり、結局私が名乗り出た。林はともかく藤が若干苦い顔をしたが、気にしない事にする。どうせ40分の付き合いだ、我慢してくれ。
授業が始まる。今日も前回と引き続き、交代でトラックを走るらしい。林のお陰でなんだかんだ和気藹々としている当班だが、私から一人分スペースを空けた隣でずっと福野が黙っているものだからいまいち盛り上がり切らない。藤が「あなたが呼んだんでしょなんとかして」と言わんばかりの視線を向けてくるので、私と林で色々話を振ってみたのだが――
「福野、一昨日は病欠だっけか? 今は平気そうだな」
「……」
「福野ちゃんって体育好き? 私はぜーんぜん好きじゃないんだけど……」
「……」
「福野って家で音楽とか聞くのか?」
「……」
「福野ちゃん、あの雲ソフトクリームみたいだね! じゅるる!」
「……」
――この有様である。兄と同じ雰囲気を感じるこの少女と、できれば仲良くなりたい――ルチアが嫌がりそうだが――という気持ちは少なからずあったのだが、当人が完全無視を決め込んでいるのだからどうしようもない。藤から「頑張って」という眼差しを感じたがお前も手伝ってくれと言いたかった。
その福野は無表情で、ずっと一定の方向を見続けていた。その視線の先にいるのは、どういうわけか野尻である。クラスの女王である彼女に、何か思うところでもあるのだろうか。
視線の先で野尻が走り出した。やはりとてつもなく速い。林は完全に諦めモードで、藤と推しウマ娘の話をし始めた。
「野尻はすごいな。陸上部のエースらしいからな」
「……」
福野は黙っている。その視線は、戸出にバトンを受け渡した野尻を追っている。なんか今の自分ってイシセンみたいではないか、と私は気づき、一人落ち込む。
「……なぁ福野、」
「だまれ」
その時、福野が初めて明確に言葉を発した。低く小さな声だったが、何故だかはっきりと耳に届いた。私は凍りつき、近くで盛り上がっていた二人も静まり返る。どちらに沈黙を要求したのかはわからないが、私は何故だか兄に拒絶されたみたいな気がして泣きそうになった。そんな私達には最初から全く興味がないとでも言うように、福野は変わらず、野尻を目で追い続けている。藤が忌々しげに溜息をついた。
「次、油田の班!」
「あっ、おう……」
野尻が私達を呼んだ。私はジャージについた砂を払いながら立ち上がり、藤と林がそれに続き、福野がやや遅れて、それについてきた。
出走順は最初が藤、次が林、それに私が続いて最後が福野になった。ジャンケンで決めたのだが、福野がジャンケンに参加しなかったため、福野の順番はこちらの独断で決めた。
「……はぁ」
さっきのダメージを若干引き摺りながら私はトラックに立った。その遥か先に福野が立っている。高儀がホイッスルを吹く音が聞こえて、トラックの後ろの方で藤が走り出した。正直お世辞にも速いとは言えない。
やがて藤が林にバトンを受け渡すが、こちらは輪をかけて遅い。遅過ぎる。野尻と比べたらザシアンとヌオーくらいの差がある。その野尻が「菜乃がんばれーっ!」と叫ぶのが聞こえ、女子の幾人かがそれに続いた。公開処刑か? もう十分頑張っているんだろうからやめてやってくれと思う。実際こちらに向かってきた時にはもう、大した距離でもないのに砂漠を三日三晩歩き続けたみたいな顔になっていた。そりゃあてるてる坊主も逆さにするだろうな。
半死半生で差し伸べられた手からバトンを受け取って走り出すと、後ろで林が地に膝をつく音がした。スポーツに熱意があるわけではないものの、高儀の面目も考え全力疾走で福野の方を目指す。とはいえ、正直私もそう速い方ではない。野尻から激励が飛んでこない程度ではあるが。
やがて福野との距離が詰まってくる。福野は相変わらず上の空で何処かを見ている。本当にバトンを受け取る気があるのか不安になっていたところ、
福野が猛然と走り出した。
「おい、ちょ、待てよ……!」
泡を食って図らずもキムタクになりつつ、私は福野に追い縋る。テイクオーバーゾーンの走り方ではない。完全にトップスピードの全力疾走で、しかも普通に私より速い。そういえば、こいつは少林寺の教室に通っているのだった。こう見えて体育会系だ。そりゃあ私よりは速いだろうな、と納得するが、今はそんな場合ではない。
「クソ……ッ!」
このままゴールまで逃げ切られそうな勢いだが、そんな事態になっては私がバトンを握りしめたままポカーンと突っ立っているめちゃくちゃ間抜けなやつになってしまう。私は両足の筋肉を酷使し、人生でも前例のない加速で福野に肉薄、バトンを掴んだ手を彼女に向かって伸ばす。
――刹那、福野の手が蛇のようにしなり、私の手から乱暴にバトンを奪い取った。
「……ッ!」
その勢いで、私は前方につんのめり、思いっ切りグラウンドの砂の上に転倒した。眼鏡が吹っ飛ばされてトラックに転がる。ひとまず間抜けを晒すことは免れただろうか、と、私の脳をややずれた思いが過る。
「ロクちゃん!!」
ルチアが遥か後方で、悲痛な声を上げるのがわかった。何とか起き上がって振り返ると、裸眼視力0.2の世界の中、ルチアがふわふわの髪を躍らせて、こちらに駆けつけてくるのがぼんやりと見えた。
「だ、大丈夫? 怪我してない?」
「あ、ああ……大丈夫……だと思う……」
砂まみれにこそなったが、奇跡的にどこも擦り傷などはない。吹っ飛ばされた眼鏡にも傷一つなく、むしろ私はそっちに安心した。
「ひ、ひばり……カヒュッ……ハァハァ……だ……だひ、だひょ、だじょ……ぶ……?」
「……お前の方が大丈夫じゃねえだろ」
林が遅れてこちらに駆けてきた。全力疾走したばかりの体に鞭打たせたようで逆に申し訳ない。
「あいつ……ッ!」
ルチアが、怒り、いや、それを通り越して、憎悪の籠った目で前方を見た。視線の先には、ゴール付近にぼんやりと立っている福野がいる。今にも福野にビンタでも叩き込みに行きそうなルチアを、私はとりあえず宥めすかそうとしたのだが、
「お前マジで何やってんの!!??」
野尻の怒声が、グランドどころか近隣にも響き渡るかのような勢いで轟く。いつの間にか彼女は、福野のそばにまで走り寄っていた。
「急に学校来たと思ったら意味わかんねえ事しやがって、それで目立とうとか思ってるわけ!? そういうのマジでキモいんだけど!!」
ほとんど無意識で私の体が動いた。体の砂を払って立ち上がり、野尻と福野のもとに駆け寄る。背後で私を呼ぶルチアに手だけ上げて応え、私は二人の間に割って入った。
「……野尻、そのくらいにしとけ」
野尻が異常者を見る目で私を見た。気持ちはわかる。福野が急にこんな行動に出た意味は私にもわからないし、そもそも被害者側である自分が福野を庇い立てするのもおかしな話だと思う。福野は、何か呆然としたような表情で、私達を見ている。まるで、「どうして怒られているのかわからない」とでも言うように。
「は? 意味わかんないんだけど……! 油田、こいつに転ばされたんだよ、わかってないの!?」
「わかってるよ。けど、怪我もしてないし……」
「いやおかしくない!? 怪我してないとかの話じゃないじゃん! 普通リレーであんな事しないでしょ!? 頭おかしいよ、コイツ!」
頭おかしい、という言葉が、まるで自分に向けられているような気がした。なるほど、確かに私は頭がおかしいのかもしれない。福野の姿を、今の光景を、「あの時」に重ねるなんて……。
その時、福野の唇が、震える声を紡いだ。
「―――」
その言葉に、私は、息を呑む。野尻は一瞬呆然とし――それから、燃え盛るような憤怒の形相で福野を睨め付けた。
「……テメェ、マジでいい加減にしろよ!!」
私が止める暇もなく、野尻が福野の胸ぐらを掴み、腕を振り上げる。
「野尻さん、やめて!」
その時、遠くから声がした。高儀だった。野尻が、今にも福野に殴り掛からんとする姿勢のまま硬直して、振り返る。高儀は息を切らして私達の方に駆け寄り、野尻と福野を引き剥がす。
「莉子ちゃん、でもコイツ……!」
「わかってるよ。野尻さんは優しいから、友達があんな目にあったら、怒るよね」
友達というほど仲は良くないが、そこは訂正しなかった。そもそも、今の私にそんな精神的余裕はない。
「でも、暴力は振るっちゃダメだよ。野尻さん、県大会も控えてるでしょ。記録会あんなに頑張ったのに、台無しになっちゃったらどうするの」
「……ッ」
優しく諭すような高儀の声に、野尻は唇を噛んで俯き、「……ごめん」と小さく言った。
「福野さん、ごめんね、私がちゃんと教えてなかったからからもしれないけど。リレーは団体戦だから、あんな事はしちゃダメ。油田さん――あと、班のみんなにもちゃんと謝ろう」
福野は黙っていた。その眼差しは、高儀の方を見ていなかった。福野が見ているのは、顧問に肩を抱かれて俯いている野尻の方だ。もちろん、私に対する謝罪の言葉――求めていたわけでもないが――が出てくることもない。
高儀はそれからも優しく福野を諭していたが、彼女が一言も言葉を発しないため、やがて諦めの溜息をつき、授業の指導に戻った。この判断を責めることはできない。
そして何事も無かったかのように、次の班の順番がやってくる。私は福野とのコミュニケーションを諦め、林と藤の会話を聞いていた。その間も、福野は絶えず、野尻の方を眺めていた。
『――まいちゃん』
あの時、福野が悲しげに発したのは、確かに野尻の名前だった。私はその意味をずっと考えたまま、放課後を迎えた。
「……やっぱり、おかしいよ」
家までの道すがら、自転車を引く私の隣で、ルチアが呟いた。
ルチアとは、昇降口で待ち合わせした。待っててくれなくてもいいよ、とルチアは言ってくれたが、私は敢えてそうした。今日は、彼女と一緒に帰りたかったからだ。
「……私が?」
「違う! 福野、何でロクちゃんに一言も謝らないの? 着替えの間も、ずっと黙ってた……」
ルチアはお嬢様めいた容姿の割に、嫌いな人間を容赦なく呼び捨てにする。福野についてもそうだ。私は彼女のこういうところも、嫌いではなかった。
授業が終わるまでずっと沈黙を貫いていた福野だが、次の時限になるといつの間にか、自分の鞄ごと姿を消していた。早退したのかと思っていたが、保健室にいる姿をクラスメイトの誰かが目撃したらしい。
「つーかアイツ、チテでしょ」
昼の時間、教室の喧騒の中で、戸出が嘲笑混じりに発した言葉が、それだけ浮き上がるように私の耳に届いた。それが誰を指し、何を意味しているのかを理解した途端、私は急激に食欲がなくなった。砂の味がする給食はどうにか食べ切ったものの、ルチアはずっと私を心配してくれていた。
「……それどころじゃなかったんじゃねーかな」
「それどころじゃないって、何が?」
「私の兄さんがそうなんだけどさ。一つのことに集中すると他のものが何にも目に入らなくなるんだよ。アイツは多分そういう状態だった」
「……よくわかんないよ。福野は何に集中してたの?」
私は黙っていたが、ルチアはそれ以上聞いてはこなかった。答えはわかっている。福野は、何故だか野尻舞衣に執着している。何か、確執のようなものが二人にあったのだろうか。その理由は全くわからないし、そこを突き詰める権利が私にあるとも思えない。
「……ロクちゃん、なんか変」
ルチアが私の顔を覗き込みながら、不安そうに言った。
「……私はいつも変だろ」
「いつもと違う変だよ。なんか……優しい」
「なんだよー、私普段優しくないのかよー」
「違……ッ、そうじゃなくて! ……ごめん、うまく言えないんだけど……」
ルチアは私から目を逸らし、俯いて、ぽつりぽつりと、まとまらない気持ちを少しずつ口に出すように、呟いた。
「ロクちゃん、いつもはもっと大人っぽくてカッコいい女の子なのに……。今はなんか、普通に、みんなと同じみたい……」
「……」
結局そうなんだよ、と言いたかった。大人っぽくてカッコいい私はただの
「……ごめんな」
自分が情けなくて、口からついこんな言葉が出た。ルチアに、ダサいところは見せたくなかったはずなのに。俯いていたから、彼女がどんな表情で私を見ていたのかはわからなかった。
――その時不意に、ハンドルを握る手に暖かいものが触れる。
「……だいじょうぶ」
顔を上げると、私の手に、ルチアの小さな手が重なっていた。彼女は優しく微笑みながら、私を見てくれていた。
「そんなロクちゃんだって、私、好きだから」
蜂蜜を溶かしたホットミルクみたいな、甘やかな声でルチアが言った。気恥ずかしくなるくらい直球のその言葉が嬉しくて、申し訳なくて、私は泣きそうになる。ルチアの家に辿り着くまで、私達はずっとそうやって、掌を重ね合わせていた。
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