Chapter3 なんでこんな上手くいかねんだろ

 翌日。万全を期し、いつもよりかなり早めに家を出た。普段日直の時もこんな早くには出ないのだが、確実に山田に先行する必要があるから仕方ない。奴がちゃんと日直の仕事を覚えているかは知らないが。


 当然ルチアといつもの場所で落ち合うことはなかった。それがちょっと寂しいな、と思いつつ、かといって一緒に早起きしてちょなどと言っていたらそれはクールではない。私はすっぱり割り切って、いつもより目に見えて生徒の少ない昇降口から、教室に直行する。


 教室に入ると、山田が後ろの黒板の辺りでクラスメイトとゲラゲラ笑っているところだった。しかし私が現れたことに気付くと、彼らはどういうわけか静まり返り、呆気に取られた様子でこちらを見つめてくる。何だ貴様らと思ったが、大抵私はもっと遅くにルチアと教室に来るので、何事かと思ったのかもしれない。阿呆のように口を開けている山田とその友人の元に、私は構わず近寄った。一応話を通しておかなければ。後から行き違いになっては困る。


「おい山田」

「えっ……な、何……?」


 えらく動揺している。そういえば、直接山田と話すのはこれが初めてだった。いくら日曜夕方にお馴染みとはいえ、いきなり「おい山田」は流石に不躾だったか。しばらく様子を見ていると、山田は何故だか頬を赤らめて、挙動不審に周囲へ視線を巡らせた。よく考えると、そもそもコイツが女子と話しているのすら見たことがない。さては耐性がないな。


「お前今日日直だろ。日誌取りに行ってやろうか」

「えっ何で……?」


 何でと聞かれても困る。職員室に侵入するためだと正直に言うわけにもいかない。参ったな。てっきり「アハハ、助かるじょ〜」とか快諾してくれるものだと思っていたのだが。


「何か取りに行きたい気分だから。良いよな?」

「い、良いけど……」

「よし、任せろ」


 ゴニョゴニョと覇気のない返答だったが、とりあえず許可が取れたことに私は満足し、さっさと職員室に向かうことにした。教室の戸を閉める時、背後から山田の「う、うるせえな!」というデカい声が聞こえたが、彼らの会話には興味がないので無視した。


「失礼しまーす」


 職員室は学校じゃない場所の匂いがして苦手だと、昔ルチアが言っていた。鼻を利かせてみると、なるほど確かに、インクやコーヒー、整髪料など諸々、学校では嗅ぎ慣れない匂いが入り混じっているのを感じた。この空間は、あくまで教師のための「職場」ということなのだろう。


 イシセンのデスクは入ってすぐ手前側にある。イシセンは椅子に腰掛けて、何やらリラックスしながら缶コーヒーを飲んでいる様子であった。


「先生、日誌取りに来たんスけど」

「おう……ん?」


 イシセンは眉根を寄せて、私を見上げた。


「今日の日直は山田じゃなかったか?」


 まぁ、当然疑われるだろうとは思っていたが。私は営業スマイルを浮かべて、適当に流すことにした。


「変わってやったんス、何となく」


 するとイシセンは口の端を歪めて、何やら嫌らしい笑みを浮かべた。


「なんだお前、山田が好きなのか」


 殺すぞ。


「……違いますよぉ〜。気分っス、ただの」

「ふーん……。まぁ、良いけどな」


 何故こうもこの男は私の気分を逆撫でするのか。私が鑽打ち込んで頭蓋かち割る妄想を膨らませているとも知らず、イシセンは学級日誌を差し出してきた。そして、ついでのように口を開く。


「あとな、油田。タバコのことなんだけど――」

「私じゃないっスよ」


 先手を取って言い放つと、イシセンは動揺したのか口籠った。馬鹿め、貴様が私を疑っていることは密偵から知らされている。


「……いや、お前を疑っているわけじゃないんだよ。吸い殻が見つかったトイレ、2-3が一番近いだろ。だからウチの生徒なんじゃないかっていう意見がちょっと、昨日の職員会議で、あってな?」

「わざわざ一番近くのトイレで吸いますかね? 流石に無理がある推定だと思うんスけど」


 私が当然の指摘を挟むと、イシセンは苦笑いした。この男が時折見せる、「全くコイツは仕方ないな……」みたいな態度が私は気に食わない。というか、我々こどもを不当に舐める彼らおとな全般が私は嫌いである。


「うんうん、それは先生もそう思う。思う上で聞くんだが、何か……その怪しい、いや怪しいとか言っちゃダメだな。クラスメイトが良くないことをしてるのを見たり、聞いたりとかは」

「無いっスねぇ。三組にそんな奴居ないんじゃないスか。みんな真面目ですし」

「うん、そうだな。先生もそう思うよ」


 イシセンはニコニコして頷き、それから急に疲れたような表情になって溜息をついた。


「全く、何だってテスト期間にこんな問題が起こるんだろうなぁ。昨日の会議、8時くらいまで長引いたんだぞ。他の仕事もあるって言うのに」

「はぁ、大変っスね。じゃあ私行くんで」


 何故だか生徒に愚痴を聞かせようとしてくるイシセンを適当にあしらって、私は彼のデスクを離れた。こっちにはやるべき事があるのだから、貴様に付き合っている暇などない。


(……さて)


 職員室を見渡す。デスクにはちらほらと空きがあった。そして室内の最奥、私が入ってきた側とは逆の出入り口のそばに、ペダル式のゴミ箱が並んでいるのが見えた。出来る限り自然な風を装ってそちらまで近づき、「可燃」のテプラが貼られたゴミ箱のペダルを踏んで中身を確認する。


「……無いな」


 中身はまだ少なく、紙ゴミなどがちらほらとある程度だったが、吸い殻らしきものは見当たらない。もう既に処分されたのか、もしくは最初からここには捨てられていないのか。


 まぁ、これについては元々望み薄だったのだ。潔く諦めよう。私はそう思って振り返る。……その時、あるものが目に止まった。手近にあるデスクの一つ。その上に設置されたパソコンの液晶に、画像ファイルが表示されたままになっている。


「……マジか」


 私は息を呑んで、そちらに歩み寄る。それは間違いなく、煙草の吸い殻の写真だった。何故こんなものを、と思ったが、何らかの報告書などを作成する上で、記録として写真に残したのかもしれない。画像は小さいが、吸い殻の一部に印字された文字は読み解く事ができた。


「TAIN RK……?」


 銘柄だろうか。念のため携帯しておいたノートの切れ端とボールペンをスカートのポケットから引っ張り出し、日誌をクリップボード代わりにしてその文字列を紙面に書きつける。その瞬間。


「何しとるんだ」

「ひゃいんッ!?」


 低い声が背後からかけられ、私は萌えキャラみたいな悲鳴をあげて飛び上がった。おそるおそる振り返ると、生活指導部の大門が訝しげな表情を浮かべて立っている。威圧感が強過ぎて、今の私には身長が5メートルくらいに見えた。今のところ敵対状態にはないが、私は原初的な恐怖にすくみ上がり、震え声で口にした。


「す……すいませぇん……私、日誌、取りに来たんですけどぉ……」

「もう持っとるじゃないか。早く教室に戻れ」


 どうやら、パソコンの画面を盗み見ていたことまでは察されていないらしい。私は「いや、すいやせんね、へへ」などと岡っ引きみたいなことを言いながらそそくさと退散しようとするが、


「退出時は『失礼しました』!」

「アッハイ! 失礼しましたッ!」


 大門氏からピシャリと指摘され、私は肝を冷やしながらそれに従った。職員室のドアを閉め、しばらく歩いたところで私はその場にへたり込む。


「こ、怖ぇ……」


 舌を噛み切るどころか恐怖で心停止するところだった。失禁していないのが不思議なくらいである。あんなのを馬乗りでシバけるリンクは凄い。


 しかし、こんなクソ情けない姿をクラスメイトに見せるわけにはいかなかった。私はウルボザ姐さんをリスペクトしているのだ。私はなんとか立ち上がり、呼吸を整えて、教室への帰り道を歩き出した。


 その途中、人の増え始めた昇降口で、見知った顔を見かけた。陸上部顧問の高儀と、その部員の野尻だ。汗を拭いたばかりのようで、さっぱりとしたショートの髪が肌にまとわりついている。朝練の後だろうか。遠目ではあったが、むすっとした顔で高儀に何か諭しているのがわかった。


「ああいうのはちゃんとビシッて言わなきゃダメじゃん、アイツら調子乗るよ?」

「……でも」

「でもじゃなくて! 莉子ちゃんの優しいとこ、私は好きだけどさ……。悔しいでしょ、あんな好き勝手言われたら。いくら先生相手でも、あんなのセクハラだし――」


 莉子というのは、高儀の下の名前である。人が良く親しみやすい人物とはいえ、教師にちゃん付けとは流石ヒエラルキー最上位といったところか。あまり苛めてやるなよ、と思いつつ、私はその場を通り過ぎた。


「ほら取ってきたぞ。悪いが他の仕事はそのまま頼む」

「あ、ああ……うん……」


 山田に日誌を手渡すと、彼は相変わらず挙動不審な様子でそれを受け取った。それから、ゴニョゴニョと口の中で何か言葉を咀嚼し始める。用事は済んだので立ち去ろうとしたのだが、


「あ、あのさ!」


 ひっくり返ったような甲高い声で呼び止められた。振り返ると、山田はわざわざ席から立ち上がって、時々椅子に引っかかったり何もない所に蹴躓きながらこちらに歩いてくる。私が首を傾げていると、山田はまだしばらくしどろもどろしていたが、やがて意を決したようにこちらを見た。


「あ、油田が日直の時、お俺が日誌取りに、いい行くからっ」

「はぁ……」


 彼なりの誠意という事だろうか。こっちが無理矢理仕事をもぎ取ったようなものなので、誠意を向けてもらう必要も最初ハナっから無いのだが。普段のひょうきんな様子からは想像も出来ないその様子に、私は小さく笑った。


「……義理堅い奴だな」


 それだけ言うと、山田は真っ赤になって口をパクパクさせ、自分の席へ逃げ帰っていった。周囲の女子がそれを見てクスクス笑っている。私みたいなただの一般同級生にこの調子では、クラス1の美少女城端琉智空を落とすなど夢のまた夢であろう。頑張れ山田。


「おはよ、ロクちゃん!」「えっホントにいるんだけど」

「おう、おはよ。……ホントにいるとは何だ」


 ちょうど私がいつも登校する時間に、ルチアと林が姿を現した。ルチアの方はいつも通りだが、林はやや困惑している様子である。彼女には今回の作戦について何も聞かせていないのだから当然だが。


「ね、言ったでしょ。早く起きちゃったから先に行くって連絡くれたもんね」

「ん? あぁ。悪いな、一緒に登校出来なくて」


 そういう話にしてあるのか。やや強引だが、私は彼女の機転に話を合わせる。


「ううん、いいよ全然。そういう気分の日もあるもん」

「ふーん……」


 林はちょっと何か聞きたげに私達を見たが、やがて「まぁいっか〜」と笑った。こざっぱりとした奴である。


「あぁ、そうだ。これ、ありがとな」


 ピンク色のレインコートを、包んだビニール袋ごとルチアに渡す。一応昨日帰った後、目立った汚れは落として乾かした。母親は「アンタそんな可愛いの買ってたの!?」と驚き、借り物だと聞くと残念そうな顔をした。母親はよく私に女の子らしさを求める。ルチアがうちの娘だったら喜んだだろうと思う。嫁に貰おうかな。


「あっ、うん。大丈夫だった? 小さいから、ちょっと濡れたんじゃ……」

「いや、問題ない。マジで助かったよ」

「え、何? いつ借りたの、合羽なんて」


 首を傾げている林に、私は状況を説明した。


「昨日遅くなったから、家までチャリで送ったんだよ。そしたらちょうど降ってきたからさ、その時に借りた」

「二人乗りとか不良じゃーん」

「学校に漫画持ってくるやつに言われたくねー」


 それから数分後、イシセンが教室にやってきたので、ルチアと林は自分の席に戻っていった。その間際、ルチアが小声で尋ねてくる。


「何か、見つかった?」

「あぁ。一応な。放課後にまた話す」

「うんっ。じゃあ、また文芸部室ね」


 私達は密やかに笑い合って、その場は別れた。……そして、午前の授業時間は何事もなく、昼休みになるのだが。


 いつものように雑談をしていた私たちのところに、何やら憮然とした様子の戸出がやってきた。私が狼狽しているのをよそに、彼女は琉智空に告げる。


「さっき部長から連絡きたんだけどさ。今日、ってか、火木は練習全員参加しろだって」

「えぇっ……」


 ルチアが絶望的な顔をした。本校の吹奏楽部員は割と熱血として有名である。だからこそ逆に、テスト期間は練習自由参加、というのが少々意外だったのだが。戸出は苛立たしげに、琉智空にぼやいた。


「ダルいよね、テスト期間なのにさぁ」

「うん……」

「まぁ、そういうことだから。頑張ろ」


 野尻のグループに戻っていく戸出の背中に、ルチアが深いため息をついた。ひどく落ち込んでいる風の親友に、私は自分の落胆を隠しつつ、明るい声を出した。


「しょうがないんじゃないか? 大会……いや、コンクールか。近いって聞いたし」

「……でも」

「部長って3年だろ? 最後の年に賭けたいんじゃないのかね、知らんけど」

「……そうだね」


 私自身はそれに参加する気にはならないが、何かに打ち込む事自体は何ら非難されるべきことではない。顔も知らない部長を責めるのも酷だろう。


「とりあえず、今日は私だけで何とかしとくからさ。ルチアは部活、頑張ってこいよ」

「……うん」


 精一杯の励ましに、ルチアは暗い顔のまま頷く。「……どうせダメ金も取れないのに」と小さく吐き捨てた事については、深掘りしなかった。


 5限目は体育の時間。高儀が担当するリレーの授業である。チーム競技であるである以上いくつかの班に分かれるわけだが、ルチアが野尻班に先取りされてしまったので、私率いる班は精彩を欠いた連中ばかりになってしまった。


 メンバーは私と林と藤(藤吉子。林の友人でオタクグループの一人)の三人。私含め、揃いも揃ってスポーツに関心のない奴らだ。特に林など、昨年の体育祭の前には大量のてるてる坊主を製造し、自室の窓で逆さにぶら下げていたような女である。ちなみに半分はいきなり家に呼びつけられた私が、完全無給で作らされた。効果は全く無く、当日はカンカン照りの快晴で暑いくらいだった。


「こんなことなんかより他にもっと学ぶべきことがあると思いませんか、なぁ兄弟!」


 林が隣に体育座りして、私の背中をバシバシ叩いてくる。いてえよバカ。


「勝手に同類にすんな。別に無意味な授業ではないだろ? 運動はしないと不健康なわけだし」

「クッソー、いつも斜に構えた事言いやがって。いや私だって運動の必要性は認めますよ? でもそれが内申点に関わってくるのは間違いだね! 私みたいな運動音痴への迫害だ! レイシズムだーッ!」

「うるせえなこいつ。野尻に言ってルチアとトレードして貰うか」

「それはやめてくださいマジで」


 私を運動音痴連合に引き入れることは諦めたのか、林は藤のほうに向かっていく。今度は随分盛り上がっているらしい。仲間が増えてよかったですね。


 ルチアはといえば、トラックで野尻から走り方のアドバイスを受けているところだった。笑顔で振る舞ってはいるが、時々困ったようにこちらに視線を向けてくる。彼女とてスポーツに関心があるわけではない。ありがた迷惑に感じながらも、友人である野尻を相手に直接は言えないのだろう。申し訳ないが今の私にできることはない。とりあえずサムズアップを返すと、彼女が頬を膨らませるのがわかった。


「……油田さんって、ずっと城端さんのこと見てるよね」


 不意に穏やかな声がかけられて、私は振り返る。ジャージ姿の高儀が静かに微笑んで、私を見下ろしていた。


「あっちの班、指導してやらなくていいんスか」

「うーん。陸上部エースの野尻さんがいるからね。あんまり私の出る幕無いというか」


 なんて言いながら、高儀は寂しげに笑う。それでいいのか、体育教師。


「……別に、ずっと見てるわけではないっスよ。他の奴だって見ますし」

「でも、仲良しでしょ」

「……まぁ、そうスね。親友の部類には入ると思います」

「……親友か。私にはそんな人居なかったな」


 高儀は私の隣に座って、野尻班の方を遠目で見つめた。ちょうど野尻が走り出したところである。流石、エースと呼ばれるだけあって異次元に速い。それはともかく、生徒に人気の先生が急に吐き出してきたネガティブな感情に、私は戸惑う。


「……センセ、友達多かったでしょ。いい人ですし」

「そんなことないよ。私、学生時代ずっと陸上に打ち込んでたんだけどね。鬼の先輩だって評判で。みんなに怖がられてた」

「……へぇ」

「でも、その時はそれでいいと思ってたんだ。……全然良く無かったけど」


 高儀の眼差しが、憂を帯びて細まった。ポニーテールに結えられた髪が、5月の風に吹かれて揺れる。……私は、昨日の朝のニュースを思い出していた。教員を取り巻く悲惨な現状。やりがい搾取。精神疾患。イシセンはともかく、真面目で一生懸命、さらにまだ年若い――14歳の私が言うことではないが――彼女は、かなり多くのものを抱え込んでいるのではないだろうか。


「……あの、センセ」

「何?」

「……何か辛いことがあったら相談してくださいね。いや、私にではなく。然るべき機関などに」


 私が真面目腐ったことを言うと、高儀はちょっと驚いた顔をして、それから吹き出した。


「大丈夫だよ。他の先生方もいい人ばかりだし、家族もいるし。……あなたみたいな、優しい生徒もいるから」

「……ども」

「……でもね、二人乗りはやっぱり、ちょっと良くないと思うなぁ」

「ふえっ」


 虚を突かれてまた萌えキャラの声が出た。しまった、親友の話は伏線で、本題はそれか。虫も殺せないような顔してこの女、出来る。


「……見てたんスか」

「バッチリ見てたよ。気づいてなかった?」

「……いや、アレっスよ。ルチアの門限が迫ってて、だから仕方なく? それもまた私の優しさの発露って事で見逃して貰えませんかね」

「そうかなぁ。本当に優しい人は、もし転んで、城端さんが大怪我でもしたらって考えるんじゃない? 天気も悪かったでしょ。まず城端さんの親御さんに連絡して、多少遅れても一緒に歩いて帰って、二人で謝るとか。そんな事も出来たんじゃないかな」


 一分の隙もない完璧な正論である。流石は生活指導。私とて正直、自分のカッコよさに酔っていた節が無いとも言えない。反論の余地は全くない。


「……以後、気をつけます」

「うん、わかってくれたならいいよ」

「……き、気をつけますので。他の先生にチクるのだけは勘弁していただけますか」

「あはは、わかったわかった。いいよ、秘密にする」


 指を唇に当てる「ヒミツ」のポーズで高儀は笑い、敗北感に打ちひしがれている私へ、非情にも必殺の第二撃を叩き込んだ。


「油田さん、クールな子だと思ってたけど、可愛いとこもあるんだね」

「うっぐ……」


 鮮やかに命中クリティカルヒット。見る見る熱くなる頬を隠すように、私は丸めた膝に顔を埋めたのであった。


 ――で、放課後。私は例によって文芸部室にいた。ルチアが戸出と部活に行ってしまったため、夕方までしばらく一人でテスト勉強でもするかと思って来た訳だ。そこに林が後から現れて、私の向かいの席で新刊の漫画を読み出した。勉強しろよ。


「あー、やっぱ調律者すこだ……」

「うるせえ、せめて黙って読め」


 私が苦言を呈すると、林は唇を尖らせる。


「えー、部屋の主にそんな口効く?」

「主は顧問だろ」

「へへ、そうだった。ところで今日ルチ公は?」

「部活だよ。練習が強制になったらしい」

「あらら、テスト期間なのに大変だねえ」


 それからしばらく林は漫画に集中していたが、ふとをこちらを見て、首を傾げた。


「……で、なんでひばりんはここに?」

「来ちゃ悪いか?」

「いや大歓迎。でも一人で勉強なら家でも出来るじゃん」

「……いや」


 一瞬、ルチアと立てた作戦のことを話そうか迷った。林は共通の友人だし、面白い事が好きだ。話せば快く協力してくれるだろう。……だがなんとなく、ルチアと二人の秘密を軽々しくバラすのは不誠実な気がした。


「……びわが邪魔しに来るからな」

「びわ? あっ、あの猫ちゃんか! 元気?」

「元気すぎて困る」

「そりゃ良かった」


 びわは元々捨て猫だった。当時小6だった林と私が、通学路で衰弱していたのを偶然発見したのである。林は母親が猫アレルギーだったため、結果的に私の家族が引き取り保護する事となったのだ。最初は死にかけていたびわは、獣医の手腕もあって1ヶ月も経つとすっかり元気になり、父のスーツの上にゲロを吐き、母の花瓶を床に叩き落として破壊し、私のベッドを占領して寝るなどの背信行為を重ねている。


「帰りはどうすんの?」

「帰り? いや、考えてねえが……。ルチアと合流出来れば一緒に帰るかもな」

「ふーん、そうなんだ」


 またしばらくの沈黙。なんだかんだ気心が知れている相手だ、気まずくはない。ただ私が勉強に勤しんでいる向かいで真剣な顔をして漫画を読んでいる事には少々ムカついた。


「……さて、帰るか」


 読み終えた漫画を学生鞄にしまって、唐突に林が言い出す。


「帰んのかよ……。お前何しに来たんだ」

「え? 漫画読みにきた」

「それこそ家でやれよ」

「まぁまぁ、そういう気分だったのよ。あ、部室は使ってていいからね」


 そう言って林は、私に手を振って部室から消えていった。本当に帰りやがった。なんなんだあの女。


 ……まぁ、やかましい奴が居なくなった分、集中はできる。私は数学の教科書を開き、連立方程式と向き合う作業を再開した。


 ――チャイムの音が鳴り響く。ふと顔を上げると、時刻は既に17時を過ぎていた。昨日に引き続き、少々長居し過ぎたらしい。私は荷物をまとめて、部室を出た。


 帰り掛け、一応経路にあるトイレを確認してみたが、やはり吸い殻らしきものは見当たらない。やはり、二度目は無いのだろうか。「TAIN RK」だけで犯人を特定するのは厳しいぞ、と思いつつ昇降口から出た時、背後からつんざぐような高い声がして、私は肩をびくつかせた。


「――でさぁ、舞衣がめちゃくちゃ指図してきて超ウザくて! たかが授業なんですけど!」

「アレでしょ、自分が陸上部だからドヤりたくて仕方ないんじゃない?」


 大声で笑いながら現れたのは、クラスメイトの戸出だった。私は、別にその必要もない気がしたが、慌てて物陰に隠れてしゃがみ込んだ。あと一人傍らにいるのは、見知らぬ女子だ。同じ吹奏楽部員だろうか。……話題に出た舞衣というのは、他ならぬ野尻舞衣、だろう。陸上部となれば彼女しかいない。


 コンクリートの向こう側で、二人の話し声が遠くなる。……戸出はイケ女子グループのナンバー2であり、野尻ともよくつるんでいる印象があった。実際はよく思っていなかったのか、或いは、単に今日の授業での態度が気に入らなかっただけか。どちらにせよ自分が当事者でもないのに、気絶しそうな程の圧迫感がのしかかってくる……。


「ロクちゃん?」


 その時、鈴振るような甘やかな声が、私の耳朶を打った。それは重苦しい思考を溶かして浮かすように、私の胸に染み入っていく。


「……ルチア」


 親友が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。ああ、そういえば、戸出とルチアは同じ吹奏楽部だ。一緒のタイミングで出てきても何も不思議ではない。そのつぶらな瞳と、幼げな面差し。彼女の存在を足掛かりに、私は自分の"軸"を再び握り締める。コイツの前で、ダサい奴ではありたくない。


「……私が隠れてるってよくわかったな」

「なんかそんな気がして。……なんで隠れてたのかはわかんないよ?」

「……何となくだ、何となく」


 私は立ち上がって、スカートについた砂利を払った。ルチアが学生鞄を胸の前に掲げて、天使のように微笑む。


「……一緒に帰ろ?」

「おう」


 私とルチアは連れ立って、自転車置き場へと歩き出した。その道すがら、何となく私は尋ねてみる。


「……戸出は、一緒じゃないんだな。さっき見たが」

「……ん」


 ルチアは、私から視線を逸らし、吐き捨てた。


「……嫌いなんだよね、アイツ。キャーキャーうるさいし、香水キツいし」

「……そうか」


 嫌だった。ルチアがではない。望み通りの解答が得られて安堵し、それどころか溜飲を下げてすらいる私自身がだ。だって、それでは戸出と何も変わらない。自分が結局は彼らと同じ、一介の十四歳ジュブナイルでしかないのだと、私自身の言葉が、私に突きつける。


「ロクちゃん、大丈夫? なんか顔色悪い……」

「……いや、大丈夫だよ。ごめんな」


 ルチアがまた、心配そうに私の顔を覗き込んだ。ダメだ。コイツにこんな顔させちゃいけない。私は無理矢理自分を奮い立たせて、前を向く。


 自転車置き場へ辿り着いた辺りで、ルチアがちょっともじもじし始めた。何かを期待しているような眼差しで私を見つめ、そして、躊躇いがちに口を開く。


「……ロクちゃん、あの」

「どうした?」

「……また、乗せてもらえたらな、なんて」

「……あー」


 昨日の二人乗りは、どうやら、ルチアにとって素晴らしく尊い経験になってしまっていたらしい。彼女は、あの行為が高儀に見られていたことを知らない。親友の期待を裏切る罪悪感に苛まれながら、私は無理に笑った。


「……すまん、ちょっとな」

「あっ、い、いいんだよ、全然! 今日は時間に余裕もあるし、そもそも遠回りさせちゃうから!」

「いや、その、そういう訳じゃなくてだな……」


 ルチアが首を傾げる。「先生に言われたから」なんて正直に答えるのは、いくらなんでも情けない。私はしばし頭を悩ませて、こう言った。


「……お前に怪我させたくないから」


 ルチアは一瞬キョトンとして、それから真っ赤になって俯いた。……勿論感情の一つとして間違いでは無いのだが、何だか騙しているような気がして、胸が痛んだ。今日の私はダメだ。一欠片もクールじゃない。


 自転車を引きながらルチアを家まで送り、そのまま昨日と同じルートで帰宅する。珍しく、母親は家にいなかった。私は2階に上がり、兄の部屋のドアをノックする。


 返答が無いので不文律ルールに従いドアを開ける。こちらに背中を向けてゲームに勤しんでいた兄は、一瞬こちらを見て、しかしおかえりも言わず、また画面に視線を戻した。私は彼に歩み寄って、その隣にぺたんと座った。兄の方を見ると、胡座の中でびわが丸くなって欠伸をしていた。このもふついたテロリストは何故か、一番世話をしない兄に一番懐いている。そのほのぼのした風景を羨ましく思いつつ、私は尋ねる。


「……母さんは?」

「買い物」


 兄は端的に答えた。テレビの液晶の中で、壮麗な自然を背景に、青い服の英傑と、人馬の怪物ライネルが死闘を繰り広げていた。そういえば私も今日、職員室でライネルと遭遇したばかりであった。なんてタイムリーな。こうやって改めて見ると、やはり大門とは顔がよく似ている。


「ひーさ」

「え?」


 兄が画面を注視したまま、唐突に口を開いた。兄は私を昔から「ひー」と呼ぶ。ここまでに明らかになった私の呼称を全て答えよ(各2点)。


「最近遅くね、帰り」

「ああ、うん。学校でテス勉してるから」

「……ふーん」


 兄が操作する英傑リンクの動きは、見惚れるほどに洗練されていた。僅かな隙を縫って顔面に弓の速射を放ち、必殺の猛進を危なげなく回避して反撃を叩き込む。恐るべき怪物の頭上に表示されたHPバーが、みるみるうちに削られていく。


「兄さんは勉強しねーの?」

「夜の方が集中できっから」

「……ふーん」


 やがて画面内の怪物が断末魔の咆哮を上げ、黒紫色の煙となって、消えた。コントローラーの操作音が止んだ。リンクは剣を鞘に納め、その場にただ、何事も無かったかのように立っていた。


「……やる?」

「え」


 何かと思ったら、兄がこちらにコントローラーを差し出していた。意図が読めずに私は戸惑う。困惑の表情を意に介さぬかのように、兄は重ねて言った。


「やる?」

「……いや、これ、兄さんのデータじゃん」


 私はこのソフト、というか、ハードごと、このゲームを兄と共有している。本当は自分の分が欲しかったのだが、「同じもの二個も買ってどうすんの! お兄ちゃんと交代で遊びなさい!」と、母ににべもなく断られてしまったのだ。この世の理不尽を噛み締めた、小2の頃の出来事である。


「DLCも全部終わってるし。ちょっと触られても進行度変わんねえよ」

「……でもな」

「やんねーの」

「……やる」


 私はコントローラーを手に取った。ハイラルの大地に立つ事は久しく無かったのだが、やはり広大なフィールドは、歩き回ったり、パラセールで滑空するだけでも楽しい。少しだけ、澱んだ気持ちが晴れてくるのを感じた。


 そういえば、ルチアの家にはゲーム機が一つもないと聞いた事がある。彼女もこのゲームが好きだが、その知識を全てネット上の実況動画で補完していた。ストーリーはともかく、ゲームの内容の話にはついていけないから寂しい、なんて笑っていたっけ。


「てっ」


 突然、画面外から飛んで来た一筋の電光が、私の操るリンクに直撃した。カメラを回転させると、トカゲの魔物リザルフォスの群れが、こちらに向かって走ってきている。いつの間にか、彼らの領分を侵してしまっていたらしい。


「爬虫類がよ……」


 私は楽しい散歩を妨害された事に気分を害し、退魔の剣マスターソードを引き抜いた。神聖な蒼白い光が荒野に閃き、私はその輝きにうっとりする。本来は特定の場所でしか真の力を発揮しない武器だが、DLCで追加されたクエストをクリアすると、今のように常に力が解放された状態になるらしい。私も自分のデータで挑んだが、余りの難易度の高さに投げ出してそのままになっていたのだった。


 こいつがあれば百人力……と思いきや、連中はこちらを翻弄するように跳ね回り、剣戟は幾たびも虚しく空を斬った。ちょっとしたブランクで、目に見えて腕が落ちている自分に絶望する。兄は私のプレイスキルを貶すでもなく、かといってアドバイスも与えず、画面を見ていた。


「つかこいつら、HP減ってなくね?」

「攻撃の間が空くと回復すっから」

「マジかよ……」


 こちらには、真の力を取り戻した退魔の剣があるのに。兄のように鮮やかに戦う事は、私には出来ない。私はやがて負け戦を悟り、Bダッシュでその場を敗走した。魔物達はこちらを見失い、戦闘BGMが止んだ。ひどく惨めな気分だった。


「……なんでこんな上手くいかねんだろ」

「中身が追いついてねえから」


 私のぼやきを、兄は一刀両断で切り捨てる。私が小さく唸ると、びわが愉快そうににゃあと鳴いた。

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