Chapter2 お前はホントに歯に衣着せないねえ

 さて、タバコの事件からなんて事ない土日を挟んで月曜日。心地よい起床のメロディで目が覚めた。枕元のワイヤレス充電器からスマホを拾い上げアラームを止めると、時刻は午前六時半。私はベッドから起きあがろうとするが、妙に体が重いことに気づく。上半身を起こすと、びわが私の下腹部の辺りに陣取って丸くなっていた。


 眠りを妨げるのは許されない、とは言ったが、これ幸いと二度寝するわけにもいかない。その暁には、家庭内ヒエラルキーでびわを上回る母からの叱責が待っている。


「すまんどいてくれ」


 無理矢理布団を引き剥がそうとすると、びわは迷惑そうにぶやゃあと鳴きながらベッドを飛び降り、いつの間にか開け放たれたドアから外に出ていった。寝ついた時には居なかった筈だが、相変わらず自由な生き物である。


 とっととパジャマから着替えるが、コンプライアンスに配慮して詳細な描写は避ける事とする。読者のうち少女性愛を嗜まれる諸氏におかれましては、ご自慢の想像力を逞しゅうさせて鼻息荒くするのがよろしかろう。


 勉強机の上に放置された眼鏡をかけて、欠伸しながら部屋を出る。風呂場の洗面台の前で、鏡に映った制服姿の自分を眺めた。


「……相変わらず眠いツラだぜ……」


 ウェリントン・ハーフリムの奥の眼差しは深海魚のように薄暗く、セミロングに切り揃えた髪は、寝起きであることを考慮した上でもなお癖が強く波を打っていた。ルチアも癖っ毛だが、何故こうも彼我で印象が違うのだろうか。特別不美人だとまでは思っていないが、地味な容姿だと思う。ルチアのような気品は少なくとも感じられない。


 そして鼻の頭には相変わらずそばかすが浮いていた。正直そうと認めるのは悔しいが、ちょっとしたコンプレックスだ。母にも若い頃あったらしく、恐らく遺伝的なものなのだろう。そのうち消えるわよと呑気に母は言うが、それはそのうちの話であって、今の私が気にしていることには変わりない。だから私は毎朝洗顔の後、入念にスキンケアを行なう。これは自分磨きなどには非ず、血の呪縛に抗う私なりの叛逆リベリオンである。


 それからいくら梳かしても梳かした気のしない髪に櫛を通して、まぁ妥協できるレベルに仕上げてから私はダイニングに向かう。食卓に揃った三人の家族へ、私は雑に朝の挨拶を投げた。


「はよー」

「ん」「おはよう!」


 返ってきた返事は父と母の分だけであった。挨拶を一音で済ませる父も問題だが、完全にシカトの兄はもっと問題だ。


 父はそこそこ高い地位の商社マンで、常に寡黙な性質の人物である。兄に似ているようだが、兄は興が乗るとベラベラ早口で喋るので実際は似ていない。かつてサッカー少年であったという彼は今も静かに熱烈なサッカーファンであり、マジで漫画に因んで息子に名前をつけたのではないかという疑いは今も晴れない。どうでもいいが、「油田翼」と並列するとどうしても重油塗れの海鳥が思い浮かぶ。それを言ったら私も重油塗れの小鳥だが。


 朝食は昨日の夕飯だったカレーの残りである。カレー大好き。大好きなのはいいが、先に着替えたのは悪手だったかもしれないと今気づく。何せ我が校の女子制服は白のセーラーだ。着替えてしまったものは仕方ないが。


「アンタ後から着替えなさいよぉ。汚したらどうすんの?」


 母親が洗い物しながら指摘する。内省してるのだから勘弁してくれ。


「以後気をつけます」


 私は軽く済ませて、自分の分のカレーをよそいにかかった。食卓に着くと、兄が入れ替わりに立ち上がる。「ごちそうさま」をまるで感情の無い声で言って、儀式的にカレー皿を流しに持って行く。RTA動画みたいな最短距離の動きだった。


「翼、学校行く前に部屋からごみ持ってきなさい。今日プラの日だから」


 兄は露骨に嫌そうな顔をした。「クソイベ引いた」みたいな感情が見て取れる。


「何だその態度は。言われるのが嫌なら自分で全部やったらどうだ」


 父親が眉を顰めながら静かに言うと、兄は微かに舌打ちしながらリビングから消えた。ゴミの事前処理を済ませておけば回避できたイベントなのだから、そこは反省して更新に繋げてもらいたいところだ。私はゲームに当たるプレイヤーは良くないと思う。


 ただ兄の気持ちもわかる。出がけにそんなこと言われたら私だってまず面倒臭いなあと思うからだ。その程度の気持ちすら否定しなくてもいいんじゃないかという気がした。


 母親が溜息をついて、洗い物を再開する。兄が絡むといつもこの家庭はギスギスする。兄は高2だが、来年は東京の大学を受験して、この家をとっとと出て行く気でいるらしい。成績も申し分ないし、ウチは経済的に困窮しているわけでも無いから、恐らくは希望通りになるだろう。そうなれば彼はこの家から居なくなる。決して兄自身が嫌いなわけではないが、早くそうなって欲しいと願わずには居られない私だった。これは兄のためでもある。


『こうした実態について、現場からはやりがい搾取との声も――』


 誰が見ているわけでもないのに垂れ流されているテレビから、重苦しいニュースが流れている。教員の悲惨な労働環境についての特集だった。中学生に朝っぱらからなんて事を聞かせやがるんだと思いつつ、私はカレーをもそもそと咀嚼する。


「学校の先生って大変ねぇ」


 それを見ながら、母親がいかにも他人事と言わんばかりの反応を返す。


「雲雀も石黒先生に迷惑かけたりしちゃダメよ」

「ん」


 三者面談で会った時から、何故だか母親はイシセンを気に入っている。面白くていい先生ねぇ、と言っていた。大人には大人の価値判断基準みたいなものがあるのだろう。


 余りの激務によって精神疾患に陥った教師も数多いとニュースは報じていたが、あの男にそんな繊細さがあるとも思えない。いやわからんけども。実は家で毎晩枕を涙に濡らしているのかもしれんけども。しかし、仮にそうだとしても、『あの時』の事を考えると同情する気には――。


「翼も昔は学校の先生になりたいとか言ってたわよね。今はどうなのかしら」

「どうだろうな。大学には進む気らしいが、その先の事まで考えているようには……」


 両親の会話にギスりの気配を察知した私は、急いで食事を終えてリビングを出る。


「雲雀もゴミ持って来なさいよ!」

「無いから平気!」


 背中から聞こえて来た母親の声に、努めて元気よく、私は答えた。足元をすり抜けるびわに躓きかけるなどしながら学生鞄を回収し、ちょうど家を出るところだった兄にいってらをシカトされてファッキンナードと脳内で毒づき、いつもより時間をかけて歯を磨く。ルチアに「ロクちゃんなんかカレー臭いよ……?」とか言われるくらいなら私は死を選ぶ。一応鏡で制服が汚れていないかもきっちり確認した。オーケイ、異常なし。


 最後に愛用のライオンハートを纏い、鞄を片手に家を出る。


「行ってきゃーす」

「行ってらっしゃい、気つけるのよ!」

「うーい」


 これが私のモーニング・ルーティーン。快晴だったら爽やかに締められて良かったのだが、中途半端な薄曇りだった。あと玄関先でドギツい色の毛虫が這っていて変な声が出た。なんて日だ。


 私の暮らす町は日本海側の地方都市、その中心からちょっとそれた場所にある。一応新幹線も止まりはするが、県そのものの知名度が高いと言えず、いまいち華やかさには欠ける土地だ。


 踏切を渡る時、その傍らにあるこじんまりとした無人駅のプラットフォームで、兄がスマホをいじっているのが見えた。猫背なので遠目でもすぐにわかる。アレでも県内最高レベルの進学校に通っているのだから人間見た目ではわからない。そういえば私も来年は受験である。「将来のことを考えているのか」という父の問いがこちらに向くのも時間の問題だ。私は重たい何かを振り切るように、ひたすら自転車を駆った。


 通学路の途中には馬鹿でかい総合病院があり、その手前の道路に薬局が軒を連ねる。小学校の頃に林がここで盲腸の手術を受けたらしいが、私が世話になることは早々なさそうだ。とか思いつつ余所見しながら走ってたら赤信号に飛び出しかけた。早速ご厄介になるところだった。


「あ、ロクちゃんおはよう!」

「うーっす」


 さて、いつも私は、校門の50メートルくらい手前でルチアと合流する。特に待ち合わせをしているわけでは無いはずだが、ルチアは毎回この時間この位置にいるのだ。私は自転車を降りて、彼女と足並みを揃えた。


「あれ、ロクちゃんカッパは?」

「私のキッチンでタニシ茹でてる」

「そっちじゃないなぁ。夕方雨降るよ?」

「マジか」


 見ると、ルチアはご愛用の折り畳み傘を学生鞄に挿していた。ふわふわフリルでベージュの、いかにもルチアらしいやつである。傘は消耗品と捉えて100均のビニール傘を使い潰している私とは対照的だ。


「まぁ、最悪止むまで待てばいいだろ」

「ずっと止まなかったらどうするの?」

「貴様を倒して傘を頂くまでだ」

「ほう……私に戦いを挑むとは……」


 二人ケラケラ笑いながら、コイツも変わったな、と私は思う。最初会った頃のルチアはもっとなんというかこう、砂糖菓子みたいなゆるふわ少女で、少なくとも今のようなくだらないノリに付き合ったりは出来なかった。私や林とつるんでるうちにこんな風になっていった訳だが、これが適応なのか精神汚染なのかは意見の分かれるところである。


「……そういえば」

「ん、何?」


 金曜の夜から気になっていたことを、私は口にする。


「金曜日のLINE。アレ、本気マジなのか?」


 ミステリごっこ。それは、二人で吸殻を捨てた犯人を捜さないか、という提案であった。昨日は結局その後、「考えとく」と無難な返信をしたのだが。


本気マジだよ」


 本気マジの目でルチアはそう言った。本気マジっぽいな。


「ふむ……」


 正直、興味はメチャクチャある。学校で起きた小さな事件の真相を、友人と二人、力を合わせて追い求める。それって何だか非日常的、漫画みたいでそそられるではないか。


 しかし、残念ながらここは現実で、法治国家の教育機関である。仮に犯人を見つけ出したとしても、そいつが床に空いた穴にボッシュートされてこの世から消えるわけではない。しかも学校でタバコを吸うような輩だ。恨みを買えば、今後の平穏な学校生活が脅かされることも十分に考えられる。校内で悪漢に狙われているという状況も退廃的でクールではあるが、そうなれば、私だけでなく、ルチアの身にも危険が及び兼ねない。少々大袈裟な懸念かもしれないが。


「ロクちゃんが協力してくれないなら、一人でも探すから」


 私が黙っているからか、ルチアが頬を膨らませてせっついた。この少女は結構頑固である。そして私は彼女のこういう変な芯の強さが結構好きだ。


「けど、だな。何でこの件にそこまで拘るんだ? 犯人が誰にしたって、結局のところ私達には関係ないだろ」

「関係ないって……。ロクちゃんが疑われてるんだよ?」


 そう言えばそんな話だったなと今思い出した。褒め上手なルチアちゃんのお陰で正直どうでも良くなっていたが、校内に吸い殻を放擲するような輩だと認識され続けるのは確かに少し不愉快だ。


「……つまり、アレか。私のために言ってくれてるのか」

「……」


 私が視線を逸らしながら言うと、ルチアは俯いて黙り込む。その反応が、質問の答えを示唆している。


「なんだぁ、可愛いやつめ」

「や、やめてよぅ!」


 照れ隠しに片手で頭をぐしゃぐしゃ撫でてやる。びわにやったら確実に噛みつかれる撫で方だが、ルチアはどちらかといえば犬寄りなので問題ない。


「しょうがないな。私も協力させて頂きますよ」


 私がそう言うと、ルチアは乱れた髪を直しながら目を輝かせた。


「わわっ……ホント?」

「ホントホント。しかし、探すったってどうするんだ」

「それは……検討中です」

「考えて無かったのかよ」

「な、なので、本日の放課後! 作戦会議を行いたいのですがっ!」

「放課後……部活はどうすんだ」


 部活、と口に出したその時、ややルチアの表情が曇ったような気がした。本当に「気がした」のレベルでしかないが。すぐにその表情は、悪戯っぽい笑顔に上書きされて見えなくなる。


「やだなぁ、ロクちゃんったら。今日からテスト期間ですよ? 吹部も練習は自由参加なのです」

「ん……? あぁ、そういうもんなのか。すまん、ピンと来なかった」

「万年帰宅部だもんねぇ」

「まだ二年目だ、二年目」


 しかし、テスト期間。言われてみればそうである。だとしたらそんな事してる暇もないのでは? とチラリと思ったが、それは言わなかった。だって勉強より作戦会議の方が楽しいに決まってるだろ?


「ひばルチはよーっす!」

「菜乃ちゃんおはよ!」「なんだひばルチって」


 自転車を所定の位置にブチ込んだあたりで、林が私達に合流した。林との遭遇は完全なランダムイベントで、発生確率的には体感4日に1回くらいだ。ここで会わない場合、コイツは別の友人達と教室に向かっている。林は明るい性格のお陰か交友関係が広く、クラス内外に知り合いが多い。なんなら趣味の全く合致しない野尻なんかとも楽しそうに話しているところをたまに見る。そのくせ所属する部は部員不足に喘いでいるのだからよくわからない。


 とりとめもない会話で盛り上がりつつ、私達は昇降口まで歩く。ルチアは人見知り寄りだが、私の紹介で知り合った林とはすぐに仲良くなった。なんなら私より林の方が趣味が近いため、話題によっては私が置いてけぼりになる事も多々あって、そういう時は少し寂しい。


 と、不意に何者かが私の肩のあたりにぶつかって押し退けた。痛くはないが、少し驚く。


「っと……すまん」

「……」


 横に広がって歩いていたこちらにも責はある。そう思って謝罪したのだが、彼女――そう、女子だ――は、私を一瞥する事すらもなく、漆黒のショートボブを踊らせながら、足早に昇降口へ去っていった。


「……何アレ、感じ悪い」


 ルチアがその背中を睨みながら悪態をついた。


「まぁまぁ、通行の邪魔してたこっちが悪いよ。……しかし相変わらずだね、福野さんは」

「……そうだな」


 今ほどぶつかった女子、福野未緒は2年から同じクラスになったのだが、有体に言うと謎が多い。クラス内におけるどのグループにも所属せず孤立しており、さらにはかなりの頻度で学校を休む。話しかけても大体の場合は沈黙を貫き、自分についてのことを一切語らないため、大体のクラスメイト、そして担任のイシセンすら、ほとんどいないものと見做しているかのように彼女を扱う。


「……お前にすらも謎多き女か、福野は」

「うーん、そうだね……」


 林は額を抑えて険しい顔をした。


「あの子と同小って友達はいるけど、仲良かったとは聞かないな。なんか、少林寺の教室に通ってた……? らしいとは聞いたことあるけど」

「へー、意外だな」


 てっきりインドア派かと思っていたが、拳法少女だったのか。なかなかギャップの効いたキャラクター造形じゃないか。


「……私、やっぱりあの人嫌い」


 ルチアが今度は憎々しげに吐き捨てて、林がギョッとした。ルチアは躊躇いなく人を褒める、とは言ったが、逆も然りだ。私はもう慣れたものだが、林はそうでも無かったらしい。


「る、ルチ公……」

「……気持ち悪いもん。何考えてるかわかんないし、虫みたい」


 雰囲気が重苦しく沈んだことを察してか、ルチアが慌てる。


「……ご、ごめんね。こんな事、言っちゃダメだよね」

「……しょうがねぇよ。そもそも価値観も何もかも違う同年代が雑多にかき集められてんだから。教師はみんな仲良くとか言うけどな、そんなもん最初から無理な話なんだ。合わない奴の一人や二人どうしたっている」

「……さすがひばりん、斜に構えてる」

「やかましい。だからな、嫌いな奴が一致しなくたってそれは仕方ないし、矯正しろなんて言わんさ」


 ルチアはじっとこちらを見つめていたが、やがて、小さな手を組んで微笑んだ。


「……ロクちゃん、やっぱりカッコいいね」

「……うむ」

「照れまくりで草」

「やかましいっての」


 何となく雑談を再開する気にもなれないまま、私達は昇降口までたどり着く。靴を履き替えている最中、急にルチアが、小声で問いかけてきた。


「ねぇ、ロクちゃん」

「ん?」


 ルチアは俯いたまま、内履きの靴紐を指で弄う。学校指定の白靴下に包まれた足の指が、所在なさげに、もぞもぞと動いていた。


「ロクちゃん、『嫌いな奴が一致しない』って言ったよね」

「ああ」

「……じゃあロクちゃんは、アイツが好きなの?」


 人に対して「好き」。そんな小っ恥ずかしい言葉を臆面なく使って、ルチアは問いかけてくる。


「……お前はホントに歯に衣着せないねえ」

「ご、ごめん」

「いいけどさ」


 私は玄関口を見遣る。そこには、馬鹿でかい木の板に、若さがどうの、心がどうのと言った暑苦しい校訓を掘り込んだ謎のオブジェが掲示されている。


「……嫌いじゃない。けど、好きってのも違うな。ただ……」


 私が福野に抱いている感情の正体。それはもう、私の中でははっきりしていた。あの陰の差した空気には、一番身近な人が重なる。


「あいつは、兄さんに似てるんだ」

「……ロクちゃんの、お兄さん?」

「うん」


 ルチアは不思議そうに私を見つめた。確かに、クラスメイトの少女に対して、自分の兄に似ているなどという言種は奇妙である。


「もちもちしてっと置いてくぜ」

「あ、ま、待って……!」


 別に、兄のこと、家庭のことをルチアに話したくないわけではない。しかし、少なくともそのタイミングは今ではないだろう。さっさと歩き出す素振りを見せると、ルチアは慌てふためいて靴を履き替えた。


 そこから放課後までは特筆すべきこともなかったので割愛する。担当だった廊下の掃除を終え、私はルチアと合流した。さて作戦会議、とは言ったものの、教室には居残ってテス勉する奴がそこそこいる。出来れば人気の無いところが望ましい。場所のアテはあるのか立案者に尋ねたところ、「えへへ……」との答えが返ってきた。だろうなとは思っていたが。


 と、そこに偶然、救いの手が授けられる。


「ひばりん、帰り明苑堂みょうえんどう寄ってかない? メイジの新刊買ってくんだけど」


 学生鞄をぶら下げた林である。明苑堂というのは通学路の途中にあるローカル大型書店だ。コーヒーショップのチェーンも併設され、長時間でなければ持ち込み学習もできる。また、林とは同小だという話を既にしたが、家も比較的近場だ。林が部活に行かない日は、時折途中まで帰宅を共にしていた。


「悪い、今日は先約があってな」

「ごめんね菜乃ちゃん、今日はロクちゃんと勉強してから帰ろうかなって」

「あらら、正室が言うんなら仕方ないね」

「私は大名かよ」


 ルチアが首を傾げる。「せいしつ」が変換できなかったらしい。修行が足らんな。教室を出て行く林だが、その途中、急に振り返った。


「あ、テス勉ならうちの部室自由に使っていいよ。多分誰もいないから」

「え、いいのか?」

「うん。顧問もすっごいたまにしか様子見に来ないし、そういうの緩いんだよね。先輩も普通に友達呼んでたし」

「サンキュー、いい側室を持った」

「ふふん、いつかおいえ乗っ取ってやるぜ」


 手を振って林と別れる。ルチアが首を傾げて、私に尋ねた。


「……菜乃ちゃんって、文芸部だよね? 部室なんてあるんだ」

「あぁ、大した部屋じゃねえけどな。行くか」

「うんっ」


 連れ立って教室を出る時、イケ女子グループの野尻と戸出が話す声が聞こえて、何となく振り返る。


「え、舞衣今日も部活行くの?」

「自主練だけどね。やっぱちょっとでも走らないと鈍るからさー」

「すご、もうアスリートじゃん」

「へへっ。マジでオリンピック狙ってるから、私」


 熱心なものだ。勉学については不真面目な部類の野尻だが、陸上競技に賭ける思いの強さは普段の言動からもわかる。私には恐らく永遠に理解出来ないであろう感情だが、少し羨ましいような気もした。


 さて、金曜に引き続き北棟に向かう。私の隣をちょこちょこついて歩きながら、ルチアが問いかけてくる。


「ねぇロクちゃん、文芸部って、どんなことするの?」

「あぁ……」


 知らなくても無理はない。そもそも、文芸部は目立つ活動をする部活ではないし、影が薄かった。私も、林が入部したと聞いて初めてその存在を知ったくらいだ。部員が少ないと嘆いてはいるが、そもそも表立った勧誘をしているところすら見たことがないし、そりゃそうだろって気がする。


「アレだ、基本、図書委員の部活版……って林は言ってたな。基本的に、部員が選んだ本を全員で読んで感想を言い合ったりするらしい」

「へー、面白そう!」


 ルチアの「面白そう」には本当に「面白そう」の気持ちが篭っていた。私がこれを聞いた時は、なんかパッとしない活動だな、と思ったのだが。ルチアは読書好きなので、そのせいかもしれない。


「あとは書く方もやってるみたいだな。図書室に冊子みたいなやつ置いてあるの見たことないか?」

「あ、ある。もしかしてあれ、文芸部の人が?」

「ああ、まぁ不定期らしいが」

「へー。じゃあ、菜乃ちゃんも小説書くの?」

「書いてるぞ」

「どんなの? 読んでみたい!」


 本当に読んでみたそうに言うから困る。知り合いの書いた小説なんて基本「読めたら読むわ(読まない)」くらいで済ませるもんじゃないのか。


「……なんつーか、変な話書くんだよな、アイツ」

「変な話?」

「ファンタジー……いや、シュールレアリズム……的な? なんかこう、読んでて頭おかしくなりそうな感じの……」

「へー」


 正直、説明が難しい。アイツは快活で根明なヤツだが、夢の中にいるような意味不明かつ複雑怪奇な物語を手掛けるから不気味なのである。他の部員からはすこぶる評判が悪いが、顧問はものすごい才能だと絶賛しているそうだ。「あれどういう意味だ」と以前聞いたことがあるが、全然要領を得ない答えが返ってきて謎が深まった。


「部室にも置いてあるらしいし、興味があるなら読んでみろ。……着いたぞ」

「お、お邪魔しまーす……」


 部室には、前情報通り誰もいなかった。長机に備え付けられた椅子の一つに座り、その隣にルチアを招く。ルチアは、興味深げにキョロキョロと室内を見回していた。ふと長机の上をなぞると、うっすら埃が積もっている。人を招く前に掃除しろよ。


「さて……作戦会議とは聞いたが、お前、何か案はあるのか? まさか全校生徒の持ち物検査するわけじゃないだろ」


 私が切り出すと、ルチアは真面目くさった顔で頷いた。


「うん。まず……学校にいる間、トイレ、それから人目につかない場所とかを空いた時間に見回って、吸い殻が残ってないか確かめようと思うの」

「んー……けど、アレだ、それは二回目以降があること前提だろ? 犯人が前の全校集会で懲りて、もう校内に吸い殻は残さないようにするかもしれんぜ」

「うん、確かにね。その場合は……」


 ここでルチアは何故か言葉を切った。そして両手を合わせて、目を閉じる。


作戦失敗ですMission Failed……」

「嘘だろ、オイ……」

「だ、だから『会議』って言ってるじゃん! ロクちゃんも考えてよ!」

「ワガママ娘め。しかし、そうだな……」


 私は黙考する。仮に2回目が無かったとしたら努力は徒労に終わる。せめて、1回目の事件の吸い殻を回収できれば……。


「……1回目のやつ、今はどうなってるんだろうな」

「大門先生とか高儀先生が保管してたりしないかな? 生活指導の」

「保管する理由が無くないか?」

「……犯人探しの手がかりになるかもしれないし」

「教師もそこまで暇じゃないだろ。マジで犯人探しがしたいなら1回目の後に持ち物検査すれば済んだ話だ」

「むむ、たしかにかーに……」


 そもそも、教師が保管していたものを勝手に持ち出せばそれはそれで問題にはなる。あまり事を大きくしたくはない。


「じゃあ、職員室のゴミ箱に残ってたりしない?」

「んん……どうだ? まぁ、可能性としちゃある、か?」


 今のご時世大体の学校がそうだろうが、東條中は校内全域禁煙で、喫煙室があるわけでもない。他の吸い殻とまとめて捨てられた、なんてことはないだろう。だとしたら行き先はそこくらいしかない。


「……じゃあ、ダメ元ではあるが、一応職員室のゴミ箱を漁ってみるか」

「……言っといてなんだけど、そんな事出来るかな?」

「とりあえず明日、やれるだけやってみるさ。早くしないとゴミ捨て場に持ってかれるだろうしな」

「ろ、ロクちゃんがやってくれるの? ていうか職員室、何の用もなしに入れないよ?」

「日直が日誌取りに行くだろ? 早めに学校来て、その仕事だけ代わってやればいい」

「あ、そっか。……明日の日直って誰だっけ」

「山田じゃなかったか?」


 山田というのはちびまる子ちゃんの山田である。……いや、そんな訳ないが、大体ちびまる子ちゃんの山田だと思って貰って差し支えない。小柄で頭が弱く、ひょうきんな少年である。イシセンから成績をいじられて、ヘラヘラ笑っている姿が印象深い。


「山田かぁ……」


 ルチアが、休憩中に毛虫の話をした時と全く同じ顔をした。ちなみに山田は、昼休み中などに時々彼女をチラチラ見ている。私が睨みを効かせるとすぐに目を背けるが。ルチアにほの字なのだろうか。しかし当の麗しの君は、名前を言っただけでこの反応である。哀れ、山田。


「まぁ、勝手に仕事忘れたりしてそうだし、丁度いいのかな……」

「ハハ……まぁ、そうだな。とりあえず、当面の作戦はこれで行くか」 

「うん。……でも、いいの? 危ないところだけ任せちゃって……。もし先生に見つかったら……」

「その時は潔く舌を噛み切るさ」

武士もののふの覚悟じゃん」


 さて、当面の予定はこれで決まった。時間にはまだ余裕があるため、一応名目通りテスト勉強をすることにする。私は教科書とノートを広げたが、ルチアは部室を漁って、過去に発行された文芸部誌を読み耽り始めた。ちなみに彼女の成績はそこまで良くない。


「おい、勉強しなくていいのか?」

「……待って、これ読み終わってから」

「……まぁ、いいけどな」


 部誌の向こう側で、ルチアがくすくす笑った。何だよ。


「……ロクちゃん、意外と真面目さんだよね」

「意外ととは何だ、意外ととは」

「だって、悪ぶってるって言ったらアレだけど……。ロクちゃん、普段は不良寄りの感じだから」

「……否定はしないが」


 私は別に勉強が好きなわけではない。一番の理想は「勉強全然してない風なのにめちゃくちゃ成績がいいヤツ」になる事――兄がそれに近い――なのだが、そんな才覚を自分が持ち合わせていないと言うことに、私は小学生の頃気付かされた。だとしたら残されたルートは、勉強全然しなくてその結果成績が悪いヤツか、勉強ちゃんとやってその結果成績がいいヤツしかない。私は後者を選んだ。クールになれないなら堅実に振る舞った方がいいじゃないか。


 ルチアは真剣にページを捲り、時々クスクス笑ったり、「えっ……」と声を上げたりなどしている。そんなに感情を動かして貰えるなら部員も作家冥利に尽きる事だろう。こっそりその横顔を撮影して、LINEで林に送ってやる。数分後、「A0印刷して部室に貼るわ」との返信があった。それは本人から許可を取ってくれ。


「ねぇ、菜乃ちゃんの書いたのってどれ? みんなペンネームだからわかんない」

「『まもるくん』って奴だよ」

「まもるくん……あっ、見つけた! これか!」


 これは、好きな音楽家の楽曲にちなんだ命名らしい。私はよく知らないが。林の作品を読みながらみるみる眉間に皺を寄せるルチアを眺めながら、私は黙々とシャーペンを滑らせ続けた。


 結局ルチアが勉強を始めることはなく下校時刻が迫る。帰り掛け、作戦通り学校中のトイレ、体育館裏などを念入りに捜索したが、タバコの吸い殻らしきものは見つからなかった。まぁ、昨日の今日だ。そう上手くはいかない。昇降口に戻ると、雨こそ降っていないものの、空には厚い雲がかかっていた。既に日が傾き始めているためか、辺りは薄暗い。


「……あ、やべ。今日遅くなるって言い忘れたな」

「え、もうそんな時間?」


 ルチアが校舎の時計を見上げ、「え……」と、絶望的な声を出した。時刻は5時48分。幼げな顔が、みるみる青褪める。


「ど、どうしよう……。時計、ちゃんと見てなかった……!」

「そんなに慌てることか? 帰ってから謝れば……」

「ま、ママにきつく言われてて……私が帰る前には家にいろって……」

「……厳しい親だな」


 私とて一応年頃の女子であるため、帰りが遅ければ多少は怒られる。しかし、こんな反応をするほど恐ろしい目に遭うわけでは無い。……このまま暗い顔で彼女を家に帰すのは少々忍びないだろう。私には一つ、妙案があった。


「お前の母親、帰ってくんのっていつも大体何時?」

「6時……」

「家までどんくらい?」

「え?」

「歩きだろ。いつも何分で帰ってる?」

「15分ちょいだから……うう、走ればなんとか……」

「よし、分かった」


 小さな手を取ると、ルチアは驚いて私の顔を見る。その頬が、わずかに朱に染まるのがわかった。青くなったり赤くなったり忙しい奴だ。


「チャリの後ろ乗せるから、道案内だけ頼むわ」


 自転車での移動時間はだいたい徒歩の約1/3らしい。そうスピードは出せないが、ギリギリ間に合う計算にはなるだろう。


「え、で、でも……」

「二人乗り、初めてか?」

「そ、それもあるけど……。家、全然違うとこでしょ? 遠回りさせちゃうし……」

「馬鹿、5分10分伸びたとこでそう変わんねえよ。とにかく行くぞ」

「え、えぇっ……!」


 私はルチアの手を引いて、自転車置き場への道を走り出した。繋がれた掌から伝わってくる温度が少しずつ高くなる気がしたが、私もこっそり頬が熱くなっていたのは秘密だ。何も手を取る必要はなかった。とはいえ今更手を離すわけにもいかず、自転車置き場まで私達はずっとそうしていた。


「乗りぇよ」


 二人分の鞄を籠に突っ込みサドルに跨りつつ、ハードボイルドなバイカーを意識して私は言うが、照れを引きずってちょっと噛んだ。後輪の荷台を軽く叩くと、ルチアはそこにおずおずと座った。


「ちゃんと捕まってろよ」

「う、うん」


 ルチアが私の腰にぎゅっとしがみつく。ペダルの重さから自転車からの非難を感じたが、黙りやがれ私があるじだと構わず踏み込む。


 校門を抜ける前に教師に見つかったらまずいことになっていたかもしれないが、幸運にもそうはならなかった。学校の前をすり抜け、ルチアの道案内に従いながら住宅街を進む。途中見知らぬ爺さんとすれ違い、視線こそ感じたものの彼がこちらを咎めてくることはなかった。見覚えの薄い街路を走り続けて数分ほどした頃、ルチアが言った。


「あそこ!」


 進行方向の先に、白を基調にした瀟洒な邸宅が姿を現す。ウッドデッキのある庭先には緑が溢れ、ラベンダーの花が咲いて、風に揺れているのが見えた。周囲を見渡してもこんな洒落た家は他にない。この辺だけ空間を丸ごとヨーロッパから移植したみたいだった。赤煉瓦のロードスフェンスに取り付けられた表札には「城端」とある。本当にルチアの家らしい。すげえ。イメージそのまんま過ぎる。


 玄関に続く石畳の小道の手前で、私は自転車を止めた。ルチアが安堵の息を吐く。


「……良かった。間に合ったみたい」


 家の手前にある車庫には2台分のスペースがあり、そこには何も停まっていなかった。ルチアの体温が体から離れる。私から鞄を受け取ると、ルチアは胸に手を当てて、何やら熱っぽく私を見つめた。


「……あの。すごい、ドキドキした」

「悪い、乱暴だったか?」

「そ、そうじゃなくて……」


 ルチアがゴニョゴニョと、口の中で何事か呟く。私は首を傾げるが、その時ふと、手の甲に冷たい感触があった。


「……げ」


 「夕方から雨だよ」というルチアの言葉を思い出す。タイミングが良いんだか悪いんだかわからない。


「わわ……ロクちゃん、カッパ持ってないんだよね?」

「多分今は風呂沸かしてる」

「それはもういいから! ちょっと待ってて!」


 ルチアが駆け出して家の扉を開く。そしてそれが閉まり切らないうちにまた飛び出してきた。手に何か持っている。


「これ、使って」


 差し出されたのは、ピンク色のレインコートだった。それとルチアの顔を見比べて、私は問う。


「いいのか?」

「い、いいよ。明日返してくれれば」

「……おう」


 私がレインコートを受け取ると、ルチアはまたちょっと赤くなって、顔を背けた。


「私の……まだ、小学生用のやつだから、小さいかもだけど」


 ルチアは客観的に見ても背が低い。たぶんその辺の1年よりもさらに低い。私はそこも彼女の魅力だと思っているが、本人的にコンプレックスなのは何となく察しているから、触れることはしない。ルチアだって私にそばかすの話はしないのだから。


「助かるよ。サンキュ」

「……うん」


 私は、レインコートを広げて羽織った。ピンク色はちょっと恥ずかしいが、今は彼女の気遣いが有難い。夕方遅くにびしょびしょのセーラー服で帰ったりなどしたら、母親に何を言われるか。


「あ、鞄は? そのままで平気?」

「まぁ、防水仕様だし問題ないだろ。じゃあ、明日また、学校でな」

「うん。……送ってくれてありがとう」

「良いってことよ。じゃな、ルチア」

「またね、ロクちゃん!」


 ルチアに見送られながら、私は城端邸を後にした。道を曲がる前にふと振り返ると、まだ彼女が手を振っているのが見えた。そこまでしなくていいよと私は苦笑する。


 学校のあたりまで戻ってきた頃、不意に雨足が強まってきた。ルチアのレインコートで隠しきれなかった腿と手首を、激しく雨粒が叩く。


「……確かに、ちょっと小さいな」


 私はこっそり呟いて、一人微笑む。遠雷が耳に届いて、ペダルを漕ぐスピードを少し早めた。

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