Chapter1 ミステリごっこに興味、ないですか?

 連休の余韻も抜け切らぬ5月の半ば、事件は、唐突に始まりを告げた。


「全校集会やるぞ。体育館に集合」


 いつもより早く教室に現れた担任――石黒が、いつも通りのガラガラ声で生徒達に告げると、教室が俄かに色めきたった。皆が非日常の予感に浮き足立つのを肌で感じた。


 椅子から立ち上がりざま、我が親友、ルチアがこちらを振り返って「何だろうね」と小声で言う。私は答えを返す代わりに、洋画風肩すくめポーズで首を横に振って、ぞろぞろと教室を出ていくクラスメイト達に従った。


 不満の声はそこまで多くなく、どちらかといえばこれ幸いと雑談を繰り広げている生徒の方が多かった。そんな喧騒の中に埋もれつつ、私達はレミングスのように体育館を目指す。


 女子で一番出席番号が若い私は、集会の時一番前になる。隣はなんて名前だったか忘れたが、ニキビ面の男子の一人。この描写は別に伏線じゃないので彼のことは忘れていい。特に会話などするはずもなく、私はただ、この位置目立つからやだなと思っていた。やがて生徒達の喧騒が収まり出した頃、生活指導の大門と、高儀が我々の前に立つ。


「今朝、校内でタバコの吸い殻が見つかりました」


 体育館に集まった全校生徒を前に、高儀が緊張した面持ちで告げると、生徒達の間にざわめきが走った。「タバコ?」「やば」「本当に吸う奴いるんだ」……そんな声が聞こえた。私も、床のワックスの剥げかけた部分を眺めるのをやめて、高儀の声に耳を傾けることにする。タバコの吸い殻。治安が良いとは言えないこの東條中学校だが、そう聞くことのない単語だった。高儀は何か続けようとしたが、体育館中に伝播した囁きの波に声をかき消され、哀れにも皆の前でオロオロしている。


「オイ静かにしろォ!」


 大門が咆哮、いや一喝すると、シン、と、まさしく水を打ったように生徒達が静まり返った。大門氏は歴史担当、ライネルみたいなコワモテの巨漢で、白髪混じりの男性である。これは完全な偏見だが、生徒を気軽にぶん殴れない今の風潮に日々苛立ちを覚えていそうな気がする。


「え、ええと……吸い殻が見つかったのは、2階南棟の女子トイレで――」


 生徒と一緒に静まり返っていた高儀が、大門に促され、慌てて話を再開する。頑張って欲しいな、と思うのは、彼女が去年――要は私たちと同じタイミングで配属されたばかりの新任教師で、生真面目そうな顔をした若い女性だからだろうか。とはいえ、煙草による成長への害だとか、そういう事についてはもう既知だし興味もなかったから、彼女のありがたいお話は殆ど聞き流していた。ごめんね先生。


 しかし、2階南棟といえば、我々2年生の教室がある棟ではないか。しかも女子トイレ。これは案外、近くに犯人が潜んでいるかもしれない。中学生の身分で、隠れてタバコを吸っている奴が身近に。それは、なかなかに刺激的な感覚だった。


 ルチアだったらどうしよう、と思いながら振り返ってみる。彼女は、お行儀よく体育座りをしながら、高儀をじっと見つめていた。やがて私の視線に気づいたのか、嬉しそうに手を振ってくる。やっぱこいつは無いな、と思いつつ、私は苦笑して手を振り返すのであった。


  この男は高儀と同じタイミングで別の学校から赴任してきたのだが、見た目にも華やかな高儀とは対照的にどうもパッとしない。数学教師なのにどういうわけか常にジャージ姿で、無精髭を生やした顔からはあまり清潔感が感じられなかった。大門などとは異なり不真面目さに寛容……というか無関心な面があるため、特に男子生徒からは割と親しみを持たれている印象を受けるが。


「まぁ、お前らみたいな年頃になると、そういうのに憧れるのもわかるけどな。なぁ油田あぶらだ


 不意に名前を呼ばれて、私はうんざりしながら顔を上げる。教壇の上から降ってくる見飽きた眼差しに、私は溜息をついた。


「……なんで私に聞くんスか」


 分厚い唇が愉快そうに歪んで、私は反応を返したことを後悔した。欠伸でもしてシカトすりゃよかったのだ。私の苛立ちに構う様子もなく、担任教師は顔を上げて、話を続けた。


「成り行き次第では今後、持ち物検査なんかもする事になるから。あんまり先生に手間かけさせんなよぉ?」


 そうして朝の会は終わる。今から持ち物検査を強行するなんて事がなくて助かった。何せ私の鞄には、今日友人に返す予定だったCDが収まっていたからだ。ジャケットには思いっ切り初音ミクが描いてあるから、リスニングの学習用CDだなんて言い訳も通せない。内心安堵しつつ、私は鞄から筆箱その他を引っ張り出すのだった。


 それから、変わり映えしない一日が過ぎていく。一時間目が始まるまでの5分間は、教室中たばこの話で持ち切りだったが、昼休みの頃には皆そんな話題を忘れ去っていた。中学生には話すことが一杯あるのだ。


「ねぇ、ロクちゃんはどう思う?」

「んー? 何が?」

「タバコだよ、タバコ!」


 しかし、ルチアはそうでもないらしい。栗色の長いふわふわの髪に、青金色ラピスラズリのくりくりの瞳。彼女の容姿を表現しようとすると、どうしてもファンシーなオノマトペが多くなる。絵本から抜け出してきたようなこの美少女にとって、朝のニュースは、その他雑多な話題を押しのけるほどに魅力的なものだったようだ。


 私達は教壇に隣り合って座っている。大体、私とルチアは昼休みを教室で過ごしていた。給食でも同じ班にはなるが、距離も離れているし、特に仲が良くもない他の連中もいるから、二人で雑談をするのは基本的にこの時間になる。


「別に吸うのは勝手にしたらいいと思うけど、学校に捨てるのは最悪だよね」

「まぁね。それも含めてってことじゃないんですかい。悪いことしちゃう俺アピールみたいな」

「いい迷惑だよ。持ち物検査ってイシセンがやるんでしょ、最悪」


 ルチアは忌々しげに顔をしかめる。彼女は生来の男嫌いだが、特に担任に対してはそれが顕著である。まぁ奴に関しては、性別以前に人間性に色々問題があるので、仕方ない部分もあるだろう。


「ロクちゃんなんか、特に念入りにチェックされるんじゃない。アイツ、前からロクちゃんに目つけてるしさ」

「……勘弁してくれ」


 イシセンは――さっきもそうだが――他の女子生徒と比較しても明らかに高頻度で私に絡んでくる。理由はよくわからないしわかりたくもないが、1年ちょっと前に私が一泡吹かせてやった事がきっかけになっているのだと思われる。「おもしれー女」みたいに捉えられているのであればクソ喰らえだと言いたい。


 ところで、先程からルチアが私を呼ぶところの「ロクちゃん」という渾名について、読者に解説する必要があるだろう。そもそも、私の下の名前は「雲雀ひばり」という。「琉智空るちあ」というソシャゲのキャラ(光属性/回復タイプ)みたいな名前に比べれば平凡だが、まぁ個性的と言えば個性的だ。少なくとも同じ学校にこの名を共有する者はいない。にも関わらず、一文字も掠っていない渾名が私を指すものとして定着してしまっているのは、私の苗字が、石黒も呼んだ通り「油田」であるからだ。


 小学校の頃私は、この苗字をネタに「石油王」という渾名をつけられ、男子連中から揶揄われていた。最初は不満だったが、最終的には「石油王ロックフェラー」などと自らネタにして名乗っていた事もある。細かい過程については省くが、これが「ロクちゃん」の起源だった。


 閑話休題。私はふと、先程から引っかかっていた事を口にする。


「女子トイレに捨てられてたのは気になるな。犯人は女子か」

「でも、吸ってそうな子パッと浮かばないよね」

「戸出とか?」

「わっ、ばか!」

「てッ」


 ルチアが私の頭をしばいて、慌てふためきながら周囲を見渡す。当の戸出――戸出愛有といでめありは、楽しげに仲間達と談笑している。彼女は、2-3における女子のヒエラルキー最高位、野尻舞衣のじりまいの懐刀である。可愛らしい部類の容姿をしているが、性格はかなりキツめで、ちょっと耳を疑うくらい強めの毒を平気で吐く少女だ。


 野尻達が集まっている場所はちょうど私達の斜向かいの窓側だ。私の発言に気づいた様子はないし、まぁ気づかれないだろと思って私も発言したのだが、ルチアは大袈裟に安堵してみせた。


「やめてよ。怒ると怖いんだからっ」

「流石にこの距離で聴こえんだろ」

「……あの人一応吹部なので。その辺ご配慮頂けますと」

「ん……? あぁ、言われてみりゃそうか……すまん」


 そういえば、ルチアと戸出は同じ吹奏楽部に所属しているのだった。半分冗談ではあったが、耳に入れば少々面倒なことにはなっただろう。不用意だったと私は反省する。


「そもそも、管楽器奏者が煙草を吸うのも妙だな」

「まぁ、戸出さんはパーカスだけど……」

「えっなんて?」

「あ、パーカッション。打楽器ね」

「……あ、ああ、なるほど。急にすげえ罵倒したのかと思った」

「ち、違うよ! ……それは置いといてもあの人、普段すっっごく匂いに気遣ってるし」

「ほー、そうなのか」


 あまりあのグループとは関わり合いを持たないから知らなかった。確かに、近くを通るとフローラルな香りが強めにするとは思っていたが。私も香水は使うが、戸出はそれがだいぶ濃い。あと、罵倒において「くせぇ」という表現を多用する。それは関係ないか。


 私と関わりを持ちがちなのは、野尻のグループの対局、向かいの壁側に机を固めてボカロ曲談義に花を咲かせているオタク女子グループの方である。今「だろうな」と思った方には暗黒微笑で中指を立てさせて頂こう。ルチアはといえば、タロット占いという小洒落た特技と可愛らしい容姿のお陰で野尻と戸出達のイケ女子グループから寵愛され、趣味的にはオタク女子グループと被るためにそちらとも話が合う。中立的な立場だった。


「別のクラスの子かもしんないね」

「そもそも女子と決めつけるのも早計だな。男子が捜査を撹乱するためにやった可能性だってある」


 私がそう言うと、ルチアは小首をかしげる。こういう仕草が、コイツには腹が立つほどよく似合う。


「男子にそんな知恵あるかなあ?」

「おい、私よりヤバい事言ってんぞお前」

「え、そうお?」


 ルチアは可愛らしい眉をひそめてみせた。やっぱりこの女は、お人形さんみたいなツラしてどこか螺子が外れている。


 それから何事もなく午後の授業も終わり、放課後。なんだかんだずっと一緒に過ごしている私とルチアだが、ここからはそうもいかない。単純に、ルチアだけが部活動をやっているからだ。


「ロクちゃん、またね」

「おう、またな」


 別れ際、ルチアは毎回ものすごく寂しそうな顔をする。また明日が来ればすぐ会えるし、なんなら夜にもLINEでやりとりをしているのにだ。私が帰り際にトラックに轢かれて異世界転生を遂げた場合は今生の別れになるわけだが、まさかそんな事を心配しているわけではあるまい。


「琉智空ちゃん、早く行こ。遅れたらまた部長キレるよ?」

「あ、うん……。じゃあね、ロクちゃん」

「おう、じゃな」


 戸出に急かされて、ルチアは私に手を振り、教室を出ていった。心なしか普段以上に小さく見える彼女の背中を見送って、私は教室を見回す。生徒はちらほらと残っているが、目的の人物は見当たらない。となると……。


「部室か」


 用事は来週に回して帰ろうかと思ったが、どうせ風の向くまま気の向くまま、気楽な帰宅部の身分である。私は荷物をまとめて、教室を出た。窓からグランドを見やると、ちょうど陸上部が部室から出てきたところだった。スクールクイーン野尻の所属する部である。朝の全校集会で登壇した高儀はその顧問を務めており、そのせいか、野尻は彼女によく絡んでいた。舐めているのか、懐いているのかはいまいちよくわからない。そもそも両者の境界自体ひどく曖昧な気もする。


 向かうは北棟。美術室、図書室をはじめ特別教室が集まっているエリアで、目指す文芸部室はその片隅にある。北棟はまだ改築が終わっていないため、南棟に比べ老朽化が目立つ。渡り廊下を越えると、まるで時間を遡ったような錯覚を覚えた。


 北棟の片隅にひっそりと、教室札も掲げずに佇んでいる文芸部室のドアをこっそり開く。立て付けが悪くて、少し動かすだけでもガタガタ音がした。部室の中には、椅子に腰掛けて本を読んでいる、何やらもっちりしたシルエットがある。


「林」

「お、ひばりん」


 呼びかけるとそいつが顔を上げた。ひばりんとは私のあだ名だ。みんな好き勝手に私を呼ぶ。


 林菜乃はやしなのは前述したオタク女子グループの一員で、三つ編みに丸眼鏡。自己紹介で「ナノなのにラージサイズ」というキャッチコピーを自ら称し一笑い取ったのだが、その通り全体的に丸っこい体型の少女である。付き合い自体は保育園時代に遡り、ルチアより長い。中学1年では別クラスだったこともあり、やや距離は離れたが、それでも気の置けない間柄には変わりない、と、私は思っている。


「こんな田舎までよう来なすった」

「全域田舎だろ。一昨日借りたCD返すわ」

「おっ、もう聴いてくれたんだ」


 差し出したCDを、林は嬉しそうに受け取る。例の初音ミクのやつだ。


「どうだった?」

「だいぶ良かったよ。ジャケットがゆめかわ系だからそういうのかと思ってたが、激し目の曲も収録されてるんだな。特に二曲目刺さった」

「あー、やっぱり。アレ、厨二病のひばりんは好きだろーなって思ったんだよね」

「厨二言うな。……てかお前一人か、今日」


 林は「いやァ~」などと言いつつ、室内を見回す。普通教室の半分もない手狭な部屋が、さらにパーティションで二つに分たれている。文芸部の敷地はその手前側だけだ。向こう側は写真部の部室らしい。


「みんな本業の方行ってんだよね」

「そっか、確かお前以外掛け持ちだったな」

「そうなのよ。新入生も来なかったし、うちの代で終わりかな……」


 そう言って項垂れる林だが、急に顔を上げたかと思うと、爛々と輝く両眼で私を見つめた。その気迫に私はちょっと引く。


「ひばりん今フリーでしょ。どうですか、入部」

「いや、同学年だろ。お前の代で終わりになるの変わんねえじゃん」

「来年の勧誘活動にもブレーンは多い方がいいじゃないのさ。それにこうやって部室で一人にされると寂しいのよ……。おねが~い、ルチ公も誘ってさ」


 ルチ公とはルチアの事である。正直その呼び方はどうかと思うが、本人が可愛いと喜んでいるので私からは何も言えない。


「私はともかくアイツは空いてないぞ」

「吹部は流石に掛け持ち厳しいかなあ」

「じゃねーの。いつも遅くまで練習してるし」


 ルチアは部活の話をあまりしない。2ヶ月ぐらい後に大会、というかコンクールがあるらしいとは風の便りに聞いているが。ちなみに本校はどの部活も強豪とはお世辞にも言えず、吹奏楽部も然りだ。地区大会より先に進んだ話は聞いたことがない。


 そういえば、ルチアが楽器を演奏している姿も見たことがないし、大体何を担当しているのかも私は知らない。今も管楽器の音が学校中に鳴り響いているが、この中にアイツの奏でる音もあるのだろうか。


「てか、アレだよね。ひばりんも度胸あるよね」

「あん?」

「だって、周りみんな何かしら部活入ってるじゃん。私だって、ひばりんから聞いて初めて強制じゃないの知ったんだよ?」

「ああ……」


 一年の頃、当時の担任に呼び出されて説得紛いの事をされたのは覚えている。「生徒手帳にそんな規定はない」「入ったところで真面目に活動をする気は一切ない」の二点でゴリ押しした結果諦めて貰えたのだが。これについては自分は間違っていないと今でも思うし、後悔はしていない。母親が何かと塾を勧めてくるようになったが、自助努力の成績で無理やり納得させた。


「まぁ最悪文芸部は入んなくても、ひばりんどの部でもやってけるんじゃない? 運動神経もそんな悪くないし」


 そりゃあシャトルラン5回で音を上げるお前よりは悪くないだろ、と思いながら、私は溜息をついた。


「出来る出来ないじゃなくてそもそもダリぃんだよ。縛られたくない」

「ひばりんカッケー!!!マジ憧れっスわ!!!」

「馬鹿にしてんなァ……」

「してないしてない」

「つーか、お前も何でそんな薦めてくんだよ。人の勝手だろ」

「だって、ルチ公可哀想なんだもん」

「はァ?」


 何でそこでルチアが出てくるのか。首を傾げる私に、林は「だって」と笑った。


「ひばりんが部活始めれば、一緒に帰る名目ができるでしょ」

「アイツだって他に友達くらいいるだろ」

「帰りはいつも一人だって聞いたけど」

「え、マジか」


 ルチアは家が比較的学校に近い。徒歩通学だったはずだ。練習が長引けば、季節によっては暗い中を歩いて帰ることにもなるだろう。付近で不審者情報はあまり聞かないが――。


「ほら、ちょっと心配になってるじゃん」


 ニヤつきながらつっついてくる腕を叩き落とし、適当に会話を終わらせて私は部室を出る。……あいつが妙な事を言うせいで、ルチアのことが気になってきた。吹奏楽部室に様子を見に行こうか、とまで思うが、流石にそれは引かれる気がするし、大体他の吹奏楽部の連中に知り合いがいない。私はさっさと家まで帰る事にした。アイツだってもう中学生だ。一人で下校するくらい平気だろ。……多分。


 自転車チャリンコで片道10分。遠いと言えば遠いくらいの位置に、猫と私と母と父と高校生の兄が暮らしている。私が車庫の隅に自転車を停めると、帰宅を察知したのか、家の中から足音がした。


「たーだいまぁ」


 玄関扉を開けると、案の定母親が出迎える。母親について特に述べるべき事は無いと思う。私にとっては適度に親愛と安息の対象であり、適度に苛立ちの対象でもある、ごく普通の母親である。林からはよく美人だ美人だと言われるが、長年この女性を母親として生きてきた私にはよくわからない。開け放たれたドアの向こうから味噌汁のいい匂いがした。


「おかえり! ちょっと遅かったじゃない?」

「友達と話してて」

「そう? あ、もうお風呂沸いてるから入っちゃって。翼にも言ったんだけど、降りてこないから」

「うい」


 翼というのは兄のことである。私は階段を上って自室に向かうが、その前に何となく、一つ手前にある兄の部屋をノックしてみた。


「兄さーん?」


 返事はない。拒まれさえしなければ入ってもいいというのが私と兄の不文律である。私はドアをゆっくりと開けた。部屋の中は不気味なほどにだだっ広く清潔だ。兄は余計なものを所有しないし、不要になったものは容赦なくバイト先のリサイクルショップに持っていく。兄はその部屋の片隅に備え付けられた勉強机で、ヘッドフォンをつけたまま、ダークブルーのノートパソコンに向かっていた。ゲームをしている風ではない。画面には、緑や水色の棒みたいなものが、途切れ途切れにいくつも並んでいる。何のソフトだろう。もっと近くで見ようとした時、兄がヘッドフォンを外して、振り返った。


「……何?」


 聞きなれた掠れ声が言った。兄は怜悧な美貌の持ち主だが、私と同じ漆黒の癖毛、しかも伸びっ放しのそれが重たくそれを隠し、さらに目つきが異常に悪い。多分ルチアが魔法攻撃したら一撃で死ぬ。私は相変わらずの兄の様子に微笑みつつ、尋ねた。


「母さんが風呂入れって言ってるんだけど、先いい?」


 兄は首を振った。PCの方に向き直り、マウスを操作してソフトを閉じる。


「入る」

「……あ、そう」


 正直さっさと汗を流したかったのだが、入ると言われてしまったからには仕方ない。私は兄の部屋を出て自室に向かう。パソコンで何をやっていたのかは気になるが、まぁそのうち聞けばいいだろう。


 翼、という爽やかな名前の響きとは程遠く、兄はかなりのインドア気質である。休日ともなれば、食事の時以外ずっと部屋に籠って、今のようにパソコンで何かしているか、ゲームで遊んでいるか、音楽を聴いているかしていた。両親――特に母親はそんな彼の姿を快く思っていないらしいが、私は正直別によくねと思う。それで学生の本分に支障が出ているとかならともかく、兄はずっと学内成績上位をキープし続けている秀才だ。なら何も問題ないではないか。趣味と勉学の両立、あっぱれなことだ。


 自室に至るドアが開いていたのでもしやと思ったが、案の定、ベッドのど真ん中に先客がいた。茶虎猫のびわである。数年前に貰われてきたばかりの新参だが、既に私より立場は上だ。部屋に帰り着いたらすぐベッドに倒れ込むのが私の習慣だが、彼の安息な眠りを妨げることは許されない。


 仕方なくカーペットにゴロンと寝転び、手近なIKEAのサメのぬいぐるみを抱き寄せる。部屋の隅にはペット用ベッドも用意してあるのだが、使っているのを見たことがない。「ペット用」というところが気に入らないのだろうか。何にしろ私のなけなしの小遣いは儚くドブに消えたというわけだ。トホホ。


 制服をハンガーにかけるのが面倒で、スマホを鞄から取り出す。そしてなんとなくルチアにメッセージを送ってみた。


"部活終わった?"


 数分経たずに通知音が鳴り響く。ルチアは反応が早いのが良いところだ。林は「後で返信しようとして忘れた」なんてことをよくのたまう。


"今終わったとこ!つかれたー"

"お疲れ。気つけて帰れよ"


 了解です! のスタンプが送られてくる。返事代わりだろう。とりあえず元気が良さそうで安心したが、こんな母親みたいな感情を抱いている自分に苦笑する。


 それからしばらくして、新たなメッセージがタイムラインに現れる。


"イシセンに捕まった><"


 おいおい。少なくとも表向きは品行方正なルチアに何の用があるというのか。友達と陰口でも叩いていたのだろうか。


"何言われたんだ?"

"タバコの話。最悪。アイツロクちゃんのこと疑ってるみたい"


 私は溜息をついた。わざわざ話を振って来たのはそういう事か。


"石黒先生、私のことそんなふうに思ってたんだ……"

"ロクちゃん、泣いてるの……?"

"いや、完全な真顔"

"ですよねーw"


 やや間を置いて、ルチアが続ける。


"でも、想像したらちょっといいかもって思っちゃった"

"何が?"

"ロクちゃんがタバコ吸ってるとこ!"

"そうか?"

"ロクちゃんって声もハスキーだし大人っぽいもん。ハマってる"


 大人っぽい! なんと甘美な響きであろうか。テキストで言われたのが惜しい。何なら録音して音声データを送って貰いたい。私は嬉しくて、尻尾の代わりに両足をぱたぱたしながら「うへへへへぇ」などと不気味に笑った。こんな姿を見られたら評価取り下げを受けそうだ。


"実際私だったらどうする?"

"ロクちゃんはポイ捨てなんてしないよ。吸うだけならともかく"

"そうは言い切れないだろ?"

"『迷惑行為が結局一番ダサい』って前言ってたじゃん、自分で"


 そういえばそんな事を嘯いた気もする。自分のポリシーとはいえ、文字列にされるとちょっと恥ずかしい。


"何でそんな事覚えてんだよ"

"カッコ良かったから"

"よせよ"


 軽く流した風のメッセージを返しながら、実際耳まで熱くなっているのは秘密だ。ルチアは躊躇いなく人を褒められる少女だが、テキスト上になるとその傾向がより強くなる。全く困った子猫ちゃんだぜ、と思いながらサメに顔を埋めていた私だが、


「雲雀!!! お風呂!!!」


 突然階下から響いてきた大音声に心臓が止まりかける。母親だ。入ってねえじゃねえかクソ兄貴。前言撤回、ちっともあっぱれじゃねぇ。びわが僅かに瞼を開けて、「うるせえな……」という顔をした。違う、私じゃない。


「あーい!」


 私は叫び返しつつ、いそいそと着替えをかき集め、今の私めちゃくちゃダサいな、と落ち込みながら風呂場へと急ぐ。そのおかげで私は、ルチアからこんなメッセージが届いていたことに夕食後まで気づかなかった。


"ねぇロクちゃん''

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