Chapter6 俺は、本当にただのクズだから
読者諸氏は驚かれる事であろうが、私は思いの外ブラコンである。
とはいっても、私がバレンタインに兄へ毎年チョコを手作りしたりクリスマスにクソ長いマフラーを編んであげたり兄に近づく女を包丁で刺し殺すようなお兄ちゃんしゅきしゅき厄介妹というわけではない。ブラコンという言葉の一要素――コンプレックスという言葉の原義に、私の感情は近しい。親愛、心配、憧れ、劣等感、苛立ち、罪悪感――そんなものがないまぜになって、私の心の
「……あの子、本当に大丈夫なのかねえ」
だから朝食の席で母親がそんなことを言い出した時、これから始まる日曜日に胸躍らせていた私の気持ちは急速に萎んでいった。私は4枚切りのトーストを口に運ぶのをやめて俯くが、母親は構わず続けた。
「昨日も今日もバイトで、帰ってきたらずっとゲームでしょ。雲雀みたいに友達と勉強するとかしないのかしら」
柴犬色の焼き目の上で、マーガリンのかけらが溶けていくのを、私は見ていた。時刻は朝8時半前後。食卓には私しかおらず、母親はシンクで洗い物をしている。父は仕事の用事だかなんかで外出しており、兄はとうにバイト先に向かった。
「……バイトしてるんならいいじゃん」
「それだってゲーム買うお金のためでしょ。もっと有意義なことに使うならまだしも――」
何をもって有意義と言うのだろう。貯金したお金で青春18きっぷ買って旅行でもしていたら許されるのだろうか。私は群青の海岸でタマザラシと戯れるのだって十分有意義だと思う。
私は母親の話を努めて聞き流しながら、味のしないトーストとサラダをただ生存のため、無意義に口に運び、咀嚼し、嚥下した。ふらっと入った町中華で、見たくもないワイドショーがずっと流れていた時みたいな気持ちだった。
「――最近あるじゃない、そういう人達が事件起こすニュースって」
「……ッ」
私は再び食事の手を止めた。話を聞き流していたので前後の文脈がわからないが、彼女は自分の息子を犯罪者予備軍だと思っているのだと、私はそう理解した。
ざけんなクソババア私の兄さんを馬鹿にすんなと頭の中で念じながら、だけど客観的に見ればそうなのかもしれないと諦める自分もいて、私は何も言わず、その重圧にただ耐えていた。吐き出されないまま喉元に迫り上がる呪詛さえも私の心を蝕んでいるような気がした。
やがて母親はため息をついて、話をするのをやめた。これが兄に向けての溜息なのか私に向けての溜息なのかで話は違ってくるが、もし後者なのならそんな筋合いはないと言いたい。
「ごちそうさま」
私は空っぽになった皿をシンクに持って行った。母親は特に不機嫌な様子もなく「はい、お粗末様でした」と言った。どうやら前者だったらしい。不要な苛立ちを覚えてしまった。
あーだる、部屋に戻ってラジオでも聴こうかなとか思っていたら、リビングを出る時急に母親から呼び止められて私は振り返る。
「雲雀、ちょっとお使い頼みたいんだけど」
「お使い?」
珍しいな、と私は思う。小学生の頃は時々頼まれていたが、中学に上がってからは初めてではないだろうか。
「お父さんのコーヒー、ストック切らしちゃったんだけどね、お母さん10時から町内会の集まりがあって、マルシエまで買いに行ってもらえない?」
マルシエというのはここから自転車で10分、県のターミナル駅の目の前にある小規模なデパートである。その地下にこじんまりとコーヒーショップが店を構えているのだが、父はそこで買ったものしか飲まない。そもそもコーヒーが飲めない私にはよくわからんこだわりである。
しかし私にはどの粉を買えばいいかなんてわからんぞ、と思っていたら、「これと同じやつね」と空袋を渡された。
「お金は多分これで足りるから。余った分でお昼も食べてきなさい」
そう言われて1000円札も2枚渡された。まだ承諾していないのだが、いつの間にか行くことが確定になっている。母親はこういうところがある。まぁ断る理由も無かったが。
「ん、わかった」
「お願いね」
母親は笑顔で私を見送った。そのせいで、さっきまで喉元に来ていた呪詛は霧散した。自己嫌悪だけが行き場を失ったまま、私の胸に残った。
ぱっぱと身支度を済ませて私は家を出る。母親が私の外出を察して「行ってらっしゃい!」をリビングから投げたので、一応「行ってきます」を返した。
さて、自転車で行ける距離とは言ったものの、一応歩いて数分のところに駅がある。私はなんとなく、今日は電車に乗って街の中心に向かってみることにした。小遣いは心もとないが、往復分くらいなら余っているし。
時刻表を見るまでもなく、駅を着いてすぐにカボチャ色のオンボ――失礼、ベテラン電車がやってきた。この路線はそこまで本数が多くないからラッキーだ。
空っぽのボックスシートに腰掛けて、誕プレのairpodsから流れてくるRADWIMPSに耳を傾け、乗車時間をぼんやりと過ごす。車内には結構な数の人がいた。スマホを弄っているギャル、窓の外を眺めている風体の怪しい男性、家族連れに、友達同士らしきおばさんの集団。そしてワルぶったファッションのJC(私)。それらを一緒くたにして、電車は街を駆け抜ける。連結部が踊るようにガタガタと揺れている。
なんとなくLINEを開いたら、昨日の猫耳メイドコスプレポルノがまだタイムラインに残留していて顔から火が噴き出た。慌ててあたりを見回すが、もちろん誰も見てなどいない。私は咳払いしつつ、ルチアにメッセージを送った。
"ひぶらだあばりだよ"
1分足らずで返信が送られてくる。相変わらず早い。
"やめてよ人前で変な声出しちゃった(>Д<)"
"外出中か?"
"親とイオンー"
県西部にあるクソでかいイオンモールだろうか。日曜となれば客足も多いに違いない。少し悪いことをしただろうか。反省はしていないが。
"ロクちゃんは勉強中?"
"いや電車"
"テスト期間なのに遊びに行くなんて!"
"お前がゆーな。親に頼まれマンだよ"
"やべ誤字った"
"やめてまじでお腹痛いwww"
イオンのベンチで蹲ってひぃひぃ言っているルチアを想像して私はほくそ笑む。昨日散々おもちゃにしてくれた罰だ、ざまあみろ。頼まれマンは偶然爆誕したが。
取り留めもない雑談をルチアと交わしていると、そのうち電車は駅に辿り着く。わざわざ駅員に整理券と運賃を渡して改札を通り抜ける私を、ICカードを携えた大人達が次々追い抜かしていく。ワンタッチで電車を乗り降り出来るのは便利だしクールだ。いいなぁ。つくづく中学生という身分が恨めしい。
ローカル線の乗り場を出て駅の建物を見上げると、ちょうど窓越しに新幹線が出ていくのが見えた。大人になったらいきなりアレに飛び乗って東京に繰り出したりなんかも気軽に出来るようになるのだろうか。ただ、年齢に伴って増える責任がそれを妨げるような気もする。義務は果たしたくないから権利だけ欲しい。
とっとと用事を済ませようとマルシエに入店し、エスカレーターで地下へ向かう。対して広くもないデパートなので迷うことはない。特にコーヒーショップの商品に興味も持てないので、さっさと言われた品をレジに持っていく。値段は1500円弱だった。お昼代は500円とちょっとか。サイゼでパスタでも食おうかな。
私がぼんやり昼食のことを考えていると、店員の中年女性が何やら私のことを観察していることに気づく。何だ貴様不躾にと思っていたら、その人が急に「ああっ!」などと声を上げたものだから私は肩をびくつかせた。
「ね、もしかして雲雀ちゃんじゃない? 時子ちゃんの娘さんの!」
「え? あー……」
時子というのは私の母親の名前である。まさか揃って同名の母娘がいるわけではあるまい。そういえば、この店は親戚だか知り合いだかがやっているとか、昔母親が言っていたような気もする。私が仕方なく頷くと、女性は懐かしそうに手を合わせて笑った。
「やっぱり! 久しぶりね。私のことなんて覚えてないでしょう? 昔は時子ちゃんとよく来てくれてたんだけど、最近はめっきりだったから……」
「はぁ……」
本当に覚えていない。そういえば小学校低学年くらいの頃にはよく母親に連れられてマルシエに来ていたような気もする。正直玩具屋もゲームコーナーもないこの施設は退屈だったし、好みじゃない服をあれやこれやと着せ替えられるのも嫌で、早く帰りたいなぁ、といつも思っていた。残っている記憶はそれくらいだ。
「今はおいくつ? 中学生くらい?」
「中2っス」
「あらそう、すっかり美人になったわねぇ。昔の時子ちゃんにそっくり」
おばさんの社交辞令とかいらんし昔の話とか知らねぇ〜……。正直クソだりぃなと思ったのだが、それを表に出して後から母親にチクられても嫌なので愛想笑いで「どうも」とか応答する。
大人の話のタネに利用されるのは好きではない。何だかコンテンツとして扱われているような気がする。結構大多数の子供がそうなんじゃないかと思うが、大人になるとみんなそれを忘れるのだろうか。
「翼君は元気?」
急に兄の名前を出されて、私はどきりとする。自分の事より答え辛いが、私は愛想笑いを継続しつつ、当たり障りのない応答を返す。
「まぁ、元気っス」
「そうなんだ、サッカーはまだ続けてるの?」
全く悪気もない様子で、女性が尋ねてくる。
――その瞬間、背筋が凍ったような気がした。冷たい手で喉を握られたみたいに言葉が出なくなる。女性が首を傾げて、私は何とか答えた。
「い……ッ、え。もう、やってないっスね」
「え、そうなの? 練習頑張ってたのに」
さも残念そうに女性が言う。……丸々と肉づいたその顔面に、今ほど購入したコーヒーを思い切り叩きつけて全部ぶちまけてやりたくなるのを、私は懸命に堪えた。
何も知らないくせに。お前に兄さんの何がわかるんだよクソババア。あの頃の私が、遠い記憶の中でそう喚き叫んでいる。それを後ろから羽交締めにして、私は笑った。
「……まぁ、色々あったんスよ」
また来てね、に内心でもう来ねえよと返しながら、私はコーヒーショップを後にした。クッソ激烈にムシャクシャしていた。エスカレーターの前を塞いで騒いでいる家族連れにまたイラついて、衝動の赴くまま、私はパッと目に入ったスタバに直行した。
「ダークモカチップフラペチーノのグランデにチョコソース追加エクストラホイップで」
「かしこまりました」
早口の注文に、バリスタのお姉さんが完璧な微笑で応える。やっぱ全国チェーンしか勝たん。契約外の余計なつながりみたいなものが介在しないから。商店街が滅んでいくのだってそりゃそうだろざまあみろと思う。
「店内でお召し上がりですか?」
「いえ、持ち帰ります」
――で、私はそのフラペチーノを駅のコンコースでちびちび啜っていた。増量したチョコレートとホイップクリームの甘さが荒んだ気持ちを癒してくれるが、それと同時に、冷たさのせいか冷静な思考も戻ってきた。そして私は自分の突発的な行動に呆れ果てる。
……昼飯どうしよう。コーヒーのお釣りはたった今消し飛んだところである。まぁフラペチーノで多少お腹膨れるからいいか。あれ? ていうか帰りの電車賃も使っちゃったな。詰んでんじゃん。草生える。
「あーあ……」
私は天を仰いだ。アナウンスや人々の喧騒が混じり合って、私の耳朶を打つ。
思えば朝から勝手にイライラして思考が暴走して、全然冴えない。ただの反抗期の小娘の挙動。そんなのちっともクールじゃない。それもこれも全部、
「……兄さんのせいだぞ」
私は俯いて、残り3分の1くらいになったフラペチーノを眺める。購入時はあんなに可愛くてお洒落だったのに、今はただの、ぐちゃぐちゃに混ざり合った薄茶色の半液体に成り下がっていた。もう全然ワクワクしない。人生みたい。
そんな人生みたいなフラペチーノをずぞぞとか品のない音を立てて啜り終わる。まぁダルいけど徒歩で帰れない距離じゃないし頑張るか……とか思っていたその時、私の耳朶に、聞き覚えのある旋律が触れた。
コンコースの片隅にある駅ピアノを、誰かが演奏している。時々音を外してはいたけど、穏やかに胸を打つそのメロディは――クラシックでもなければ、人気のポップスや、アニソンなんかでもない。
それは、かつて兄が私に教えてくれた、とあるインディーズゲームのBGMだった。物語の終盤、月夜の雲海と白壁のステージで流れ、強く記憶に残る名曲。とはいえ少なくとも、この駅を歩く雑多な老若男女、誰もが知るような選曲ではない。
私は、その旋律に突き動かされるように席を立ち、駅ピアノの方へと歩き出す。そして、目を見開いた。――そこには、相変わらずの猫背で椅子に腰掛け、鍵盤を叩く、油田翼の姿があったからだ。
私は呆然として、兄の姿を見つめていた。彼がピアノを弾けるなんて知らなかったから、その驚きもある。だけどもう一つ驚いたのは、彼の傍らに、見知らぬ女性が一人、立っていたためだった。
年齢は分からないが、私とさほど変わらない身長からしておそらく未成年ではないか。膝丈のオーバーオールを着て、ほんのりミルクを溶かしたようなコーヒー色の髪を二つ結びにまとめている。彼女は目を閉じて、兄の奏でる旋律に耳を傾けていた。
やがて一ループ分を弾き終えて、兄は演奏をやめた。二つ結びの女性が目を開けて、微笑みながら小さく、拍手をする。
「すごい、上手じゃないですか」
「……こんなん、大した事ないです。ナナミさんが弾けって言うから」
「私は『ピアノがありますね』って言っただけですよ?」
兄は相変わらずぶっきらぼうだが、女性の方は笑顔で、気に病む様子もない。それなりに親交が深いことが窺えた。まさか、彼女だろうか。いやでも、お互いに敬語だぞ。どういうことだ。
兄はため息を一つついて、その顔を不意に、私の方へと向けた。心臓が跳ねて、でも逃げ出す間も与えられずに兄が口を開いた。
「……ひー?」
「あら?」
訝しげな声で、兄が私の名を呼ぶ。それに釣られて、女性の方もこちらを見る。
「う、うっす」
私はぎこちなく笑いながら、二人に歩み寄った。
「あっ! もしかして妹さんですか?」
女性がパッと顔を輝かせて、手を合わせた。兄が「そうです」といつも通りの無感情な声で言う。女性がこちらに目を合わせて、にっこりと微笑んだ。一見して、この人メッッッチャクチャにモテるだろうな、とわかる愛らしくて優しい微笑みだった。私も危うく恋に落ちるところだった。
「初めまして。私、
「……ていうか、先輩」
「あ、そうなんだ……。油田雲雀っス、どうも」
明らかに年下の私に敬語を使い、丁寧に頭を下げてくれるあたり、礼儀正しい人である。私の中での好感度がグンと上がった。
……てか、なんだ、彼女じゃないのか。こんな素敵な人が義姉になるならいいかなって思ったのに。いやその前に、今兄さん先輩って言わなかったか。
「……あの、失礼ですが、七生さん、おいくつで」
「23ですよ。よく幼く見られますけど」
兄より6つも年上だった。ていうか未成年ですら無かった。マジかよ。
「……す、すいません、別に、失礼な意図があったわけでは」
「いえいえ、お気になさらず」
七生さんはくすくす笑って、楽しそうに続けた。
「雲雀さんは、お話に聞いた通りですね。大人びた妹さんです」
「お……っ」
一番効く言葉を初対面の、しかも成人女性にぶつけられて、私は俯き、にやつきそうになるのを必死で抑えた。ていうかお話に聞いた通りって。に、兄さんてばっ、私のことバイト先でそんな風に話してるんだ。そうなんだ。ふ、ふーん……。やば、嬉しッ……。
「……大人ぶってるって言ったんですけど」
しかし兄がそれを無慈悲に訂正し、私の喜びは急速に萎んでいく。ざけんなクソナードが。七生さんがいなかったら張り倒してやったのに。私が睨みつけるのを無視して、兄はしれっと言った。
「ナナミさん、電車来てます」
兄の視線の先、駅を南北に貫く市内軌道線のホームに、一つ目の路面電車が姿を現している。七生さんが、「はわわっ!」と漫画みたいな声を上げた。
「ご、ごめんなさい、私行きますね!」
「あ、はい」
七生さんは大慌てで、路面電車の乗車口へ駆け出していく。可愛らしい人である。年齢のわりに「少女」って感じだ。彼女は一度こちらを振り向き、あの、可憐な笑顔を見せて、大きく手を振った。
「翼くん! 今日は送ってくれてありがとう!」
「……いえ、
兄の返答が、彼女まで聞こえたのかはわからない。七生さんを乗せた電車は乗車口を閉じて、静かにモーターを唸らせながらホームを去っていった。それを見送って、私は兄に尋ねた。
「兄さん、勤務時間中じゃないの」
「客来ねえしやる事ねえから帰っていいって、小此木さん――店長に言われた。ナナミさんも」
どんな店だよ。
「……ひーこそ何でいんの」
兄が無表情で、当然の疑問を私にぶつけてくる。彼の前で強がっても仕方ないので、私は正直に答える事にした。どうせ大人ぶってるだけってバレてんだしな、ケッ。
「……母さんにお使い頼まれて。電車で来たんだけど、うっかりお金全部使っちゃって……。タチオウジョウ! みてーな?」
「……バカ?」
「ぅぐ……」
兄が憐れむような眼差しを向けてくる。屈辱的だったが、やったことが馬鹿の所業なのは事実なので受け入れるより他にない。兄は小さくため息をついてから、再び口を開いた。
「昼は?」
「へ?」
「昼は食ったの?」
「……まだ」
「じゃあ奢るから」
「えっ」
私の返答を待たずに椅子から立ち上がって歩き出す兄を、私は慌てて追いかける。兄は歩きながらこちらを振り返り、私に問いかけた。
「サイゼでいい?」
「……うん」
何故行きたい店が重なるのだろう。兄妹だからかな。そんな事を考えながら、私は兄について歩く。駅を挟んで反対側のビル、その最上階にサイゼがある。
「……兄さん、ピアノ弾けたの」
「弾けない」
私が先程から抱いていた疑問をぶつけると、兄は相変わらず端的に答える。……いやいや。
「弾いてたじゃん」
「……商品のキーボード、ちょっと触っただけ」
ちょっと触っただけであれだけ演奏できるようになるものだろうか。必要最低限のことしか教えてくれない兄に頭を悩ませているうち、私達はサイゼに辿り着く。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
にこやかに問いかけてくる店員に、兄は無言で指を2本立てて応えた。いきなりピースしたみたいでちょっとシュールだったが、兄も店員も気にする素振りはない。私達は、窓際の二人掛けの席に案内されて座った。
「何にすんの」
「……えっと……ミラノ風ドリアかな……」
奢りだからって「ひーねぇ、リブステーキ食べた〜い☆」とか抜かすわけにもいかないので、とりあえず私は安定択を取った。兄は頷きもせず、お冷を持ってきた店員に、私の分を含め数点を注文した。入店前から決めていたらしい。相変わらずRTAみたいな生き方である。
日曜日なので客入りは多い。注文の品が到着するまで多少は時間がかかるだろう。私はお冷をちびちびと啜りつつ、窓の外を眺めている兄に話を振った。
「……七生さんって、いい人だね」
「……まぁ」
「てか、ナナミさんって呼んでなかった?」
「あだ名。店長とか常連もそう呼んでるから」
「へー」
兄に交友関係が広い印象は無かったから、その情報がなんだか意外で、それと同時に少し、寂しくなる。きっと私の見たことのない表情を、七生さんや、バイト先の人に、兄は見せている。
「大学生? バイト仲間っつってたけど」
「院生。修士」
「へー。何の勉強してんの?」
兄は何か、眩しいものを見た時みたいに目を細める。
「機械工学。ロボット作りたいらしい。店でもよく家電の修理やってる」
「……そうなんだ」
そんな技術をお持ちなのか。そういえば兄のバイト先はリサイクルショップである。お店で重宝されて、研究室では夢に向かって日々頑張っている。そんな人なんだろうな、という気がした。
……私は少し躊躇った後、口を開いた。
「……兄さん」
「何?」
「兄さんって、どう考えてるの。その、将来とか」
兄は窓の外に視線を向けたまま、しばらく黙っていた。やがて、今までに聞いたことのない声色で、彼は言った。
「……ひーも聞いてくんの、そういう事」
怒りと、失望と、寂しさの入り混じった声。私は慌てて、足りなかった言葉を補う。
「ち、違う! 別に責めようとか、追い詰めようとか、そういうのじゃない……。ただ……」
私はまた、俯いた。朝方に聞かされた話を思い出して、気分が重く沈む。
「……母さんが、私に愚痴るから。兄さんがそういうの、どう思ってるのかわかんないとか、なんとか」
兄が舌打ちした。その後に「……クソババア」と毒づいたから、それが私に向けてのものではないとはすぐにわかった。
「……正直、考えられてないのは、ある」
しばらくの沈黙の後、兄が呟いた。
「……あの家は出てえけど。その後どうするかとかは、わかんねえ。今のバイト先も、人に恵まれてるだけで……。社会に出たら、俺は、本当にただのクズだから」
「そ……」
そんなことない、と言おうとして、言えなかった。だってその励ましには何も中身がない。そんなの、無責任だ。
「……ただ」
兄はまた、言葉を切った。私は彼の横顔を見つめた。その頬に少し、赤みが差している気がした。
「……音楽で、食っていけるように、なれたらなって」
それは、初めて彼の口から聞いた、少なからず前向きな言葉だった。私が驚いて押し黙ったのを否定と捉えたのか、兄は俯く。
「……だから言いたくなかった」
「い、いや、違くて! 引いたとかじゃなくて……。だって、そんな……音楽活動、みたいなの、してる感じなかったから。さっきピアノ弾いてたのも、びっくりだし」
「……ずっとやってただろ、打ち込み」
「打ち込み……?」
私が首を傾げると、兄は信じられないものを見るような眼をして、溜息をついた。
「……何で知らねぇんだよ。
「え、あ、もしかして、アレ……」
私は、兄が部屋で何かしらのソフトを操って作業をしていたことを今更のように思い出す。まさか、音楽を作っていたとは夢にも思わなかったのだ。私も音楽は好きだけど、自分で作るなんて遠い世界の出来事だと思っていた。一番身近な人間に、そんな技術があったなんて。
「……言えばいいのに。父さんとか、母さんにも」
「……言ったら、意味無くなる」
「意味無いって、何で」
「……復讐だから」
あまり耳にしない言葉に、私はどきりとする。兄の暗い瞳に、一瞬、燃えるような感情が揺らめいた。それは情熱の紅色ではなく、憎しみの暗紫色をしていた。私はその色に魅入られて、言葉を失う。
「……アイツらの目に見える所で結果なんか出したくない。俺は、アイツらの知らない場所で、目もくれないような領域で……この世界に許容されたいから」
それだけ吐き捨てるように言って、兄は沈黙した。私は、彼が初めて、自分の胸に秘めたものを言葉にしてくれたことに感じ入って、ちょっと泣きそうになっていた。そして、私はやっぱり、この兄さんのことが大好きだと思った。
重油に塗れた翼を広げて懸命に空を飛ぶ海鳥の姿は、確かに美しく見えるだろう。両親はきっと、兄にそうなることを望んでいる。だけどそれは当然大いなる苦痛を伴うだろうし、その姿を滑稽と嘲笑うものだっている。
だから兄は飛ぶのをやめた。その代わりに、海の底深くに見つけた輝きを目指すことを選んだ。その選択が誤りだなんて、私は思わない。思う権利も、ない。
「……言うなよ。つか、忘れろ」
横目で私を睨みつける兄に、私は頷く代わりに、微笑んだ。
「……こっそり応援するだけなら、いいよな?」
兄は一瞬息を呑んだ。それから目を閉じて、小さく溜息をつく。
「……いいんじゃねえの」
私の気持ちが、少なからず届いたような。そんな気がして、私は「にへへ」と、だらしなく笑った。
それから、店員が料理を続け様に運んできた。もしや大事な話をぶったぎらないように待っていたのか、と疑ってしまうような完璧なタイミングである。
私の目の前には信頼と実績のミラノ風ドリア。兄の方はと言えば、ウインナーのピザとパルマ風スパゲッティと小エビのサラダを注文していた。食い過ぎじゃね、と思っていたら小皿をこっちに渡してきて、「サラダ好きなだけ取っていいから。ピザも」と言われた。正直フラペチーノをキメたばかりの腹にピザは重かったが、折角の好意なのでありがたく受け取ることにする。
「……どういう曲作ってるのかって、聞いてもいい?」
「……作ってるっつーか。今はゲーム音楽のアレンジくらいしか出してねえけど」
「十分凄いよ。兄さんのアレンジ、私も聴きたい」
「……自分で探せば。つべにあるから」
「えー」
口を尖らせる私に、今度は兄が尋ねてくる。
「……ひーこそ、考えてんの、将来の事」
「う……」
まさか父より先に兄に聞かれるとは思わなかった。私はしばらく唸った後、ふと思いついた言葉を口にする。
「……プロゲーマー、とか……」
兄の眼差しが冷たくなる。私は引かなかったのに、ひどい。
「……何だよ、人の夢馬鹿にすんなよ」
「馬鹿にしてんのはそっち。お前、それなら出来るかもとか思ってんだろ」
「うっ……」
図星を突かれて目を逸らす私に、兄は溜息をついて、言った。
「……別に、何だって出来るんじゃね。ひーなら」
「んぇ」
突然飛んで来た誉め言葉に、私の頬はみるみる熱くなる。「ありがと」と小さく呟いたけど、それが兄に聞こえたかどうかはわからなかった。
――で、食後。10.5分目くらいの腹を抱え、体重の増加をうっすら懸念しながらビルの外に出ると、兄が何やら財布を探り始めた。何か落としたのかな、と思っていると、500円玉を1枚、こちらに差し出してくる。
「電車代。余ったら返して」
兄はぶっきらぼうに言った。てっきりこれから一緒に帰るものだと思っていたので、私はちょっと動揺する。
「……兄さん、帰んないの? なんか用事?」
「まぁそう。あと、時間稼ぎてえし」
「……ふーん」
なんとなく、気持ちはわかる。両親のいる休日に家で過ごす時間は、可能な限り減らしたいのだろう。
私が電車代を受け取ろうとしないことを訝しんだか、兄が眉を顰める。その顔を後ろ手しながら覗き込んで、私は軽薄に微笑んだ。
「……ご一緒してもいいですか、何つって」
「……」
兄はしばらく黙ったまま、いつもの無表情で私を見下ろし、そして、500円玉を財布にしまい直しながら、また、ふっと溜息をついた。
「……好きにすれば」
相変わらず勝手に歩き出す兄を、私はちょっと早足で追いかける。いっそ手なんか握っちゃおうかな、なんて考えたが、兄がずっとポケットに手を突っ込んでいるのでそれは叶わない。
そういえば用事って何だろう、と思っていたら、道すがら通り掛かった店で、兄が鯛焼きを奢ってくれた。別に食べたいとも言っていないのだが、いきなり無言で店に入り無言で私の分も買って出てきたのである。何でさっきから私に色々食わせようとするのだろうか。ふれあい動物園のポニーだと思われているのだろうか。
「……ありがと」
「ん」
私達は同じ鯛焼きを並んで食べながら歩道を歩いた。その横を、車がビュンビュン通り過ぎていった。結構大きめの鯛焼きで、尻尾まで餡子がみっちみちに詰まっている。で、その餡子の甘さがまた丁度いい。
「……美味いね」
私は率直な感想を口にした。夕飯入らなくなりそう、というサブ感想についてはとりあえず保留にした。兄は小さく頷いて言った。
「今日ナナミさんに教わった」
ああ、わざわざ歩きで帰ったのはそのためか。
七生さん、兄さんに随分親しくしてくれてるんだな。ぶっきらぼうで冷たい印象の兄に、鯛焼き屋の話を振るとは。そして兄もそれをちゃんと覚えている辺り、良好な関係を築いている事が窺える。
「……次バイト行ったら、お礼言っといてよ」
色々な意味を込めて、私は言った。兄は鯛焼きを頬張りながら、小さく頷いた。
その時ふと私は、昨日から兄に言いたかった事があったのを思い出す。
「兄さん、帰ったらスマブラやろうぜ」
兄は、何だこいつ急に、という目で私を見下ろした。自分でも話題の転換が唐突だと思ったが、今思いついたものは仕方がない。
「……いいけど」
「あと、今日はアイテムありにしていい?」
そこそこやりこんでいるはずの私が、昨日あれだけアイテムという不確定要素に翻弄されたのだ。そのルールなら、もしかしたら、私でも兄に一矢報いられるかもしれないではないか。そう思ったが故の提案である。
渋られるかと思ったが、兄はすんなり頷いた。
「……あら珍しい」
揃って帰宅した私達に、母親が目を丸くする。
「帰りに偶然会ったから。コーヒーこれでいいよね?」
根掘り葉掘り聞かれると面倒だ。私は適当に流しつつ、買ってきたコーヒーを母に手渡した。
「え? ……ああ、うん。ありがとね」
「うい」
不思議そうに見ている母をよそに、無言で階段を上る兄を、私は追いかける。その足元を、びわが軽やかに擦り抜けていった。よーし、スマブラやるぞスマブラ。今日は負けないぞ。
――で。
『Game Set!!』
負けた。10戦して全敗だった。
私にプロゲーマーは無理だ。
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