Chapter7 油田って結構、いいヤツだよね

 私が城端琉智空という少女を初めて目にしたのは、入学初日のことだった。


 読者諸氏もおおよそご経験のこととは思うが、年度が変わって新たなクラスが編成された日というものは、大抵の場合自己紹介の儀式が行われるものである。


 出席番号が不幸にも1番だった私は――しかも1年1組の1番だ――儀式の先駆けを務める羽目になってしまって憂鬱だった。せめて読み方が「ゆだ」だったら番号は後の方で、小学生時代のあだ名も石油王じゃなくイスカリオテになっていたかもしれないのに。


「油田雲雀っス。よろしく」

「あ、ちょっと待って、油田さん」


 端的に名前だけ言ってさっさと席に座ろうとした私を、当時の担任教師が人好きのする笑顔で押し留めた。小杉とかいう名前の、太った中年女性である。穏やかで取り立てて特徴もない人物だったと記憶しているが、単にあまり関わりを持たなかったせいで、パーソナリティに触れられなかっただけかもしれない。


「……何スか?」

「名前だけだと寂しいじゃない。他にも何か、油田さんのこと教えて欲しいわ。やってみたい部活とか、ない?」

「部活……したくねっスわ。ま、帰宅部志望?」

「……そ、そう……」


 小杉は色々諦めたらしく私を座らせ、次の生徒に自己紹介を促した。後ろの席の男子が、気まずそうに、名前と趣味嗜好などを述べ始めた。


 ……思い出しててむず痒くなってきた。藤や渋見が私を怖がるのも、そりゃそうだろって感じだ。


 自己紹介はそれ以降滞りなく続いた。他の生徒達の入部希望だの趣味だのドスべり一発ギャグ(私が言えたことではない)だのには興味が持てなかったので、ほとんどは聞き流していたのだが、たった一人だけ、私の目を惹いた女がいた。


 ……いや、彼女に目を惹かれていたのは、決して私だけでは無かった。一見すると小学校低学年にも見えるほど小柄で、髪の毛が茶色い。さらに瞳が青い。でもって、とんでもない美少女である。彼女の容姿を褒め称える囁きが、ちらほらと教室から聞こえた。それを一身に浴びた少女は目に見えて赤くなり、俯いた。


 どこ小の奴だろう、とまず思った。少なくともウチの学校には居なかったはずだ。もしいたら、仮に一度も同じクラスになっていなかったとしてもわかるだろうから。


「……しっ、城端、る、琉智空です。部活は――」


 震える声で少女が言った。まず、すげー名前だなと思った。名が体を表している。中学上がる時に後付けしたんじゃないかとかあり得ない事を考えた。


 しかし、しばらく待っても続きのセリフが出てこない。随分緊張しているらしい。教室中が静まり返って、彼女の事を見守っていた。少女はしばらく口をぱくぱくしていたが、


「――すっ吹奏楽部に入りたいですよろしくお願いします」


 そこまで一気に言って、勢いよく席に座った。そして捕食者に狙われた栗鼠のように、縮こまっていた。


「城端さんのお名前、『るちあ』って読むのね。今風で素敵ねぇ」


 小杉が微笑みながらそう言うと、少女は余計小さくなって、喜びもせずに俯いたのだった。


「どうだった、クラスの子達は。上手くやっていけそう?」


 その日の帰宅途中。後部座席に座った私に、運転席の母親が尋ねた。


「……まぁ、ぼちぼち」


 私は入学祝いのスマホをいじりながら答える。その時、栗色の髪の少女の事をふと思い出した。母親は学校にほど近いスーパーでパートをしている。何か知っているかも、と思ったのだ。


「……そういや、なんか外人みたいな子いたわ」

「あら、あの子と同じクラスになったの!」


 母親が急にテンションを上げたので、私は驚いて顔を上げた。


「あのきれ〜いな子でしょう? 背が小さくて、茶色い髪した」

「あー、うん」

「最近中学校のそばに越してきたらしくてね。結構なお嬢様らしいわよぉ。お祖父さんがヨーロッパの人だったとかで、クォーターなんだって」

「ふ……ふーん……」


 思った以上に情報が出てきたので、私はドン引きしていた。田舎の情報網怖ッ。


「仲良くなれたらいいわねぇ」


 母親はそう言ったが、正直そこまでを期待していなかったので、私は無気力に「……ん」とだけ答え、スマホいじりを再開したのだ。


***


「終わったー……」


 放課後。私の机に突っ伏して、ルチアが長い溜息をついた。


 今日は中間テスト当日であり、1限から5限までが全て基本5教科のテストで埋まっていた。母親によると昔はテスト日が二日間に分かれていて、午前中で学校が終わるなんていうシステムだったらしい。どうしてこうなった。教育改革が憎い。


「お疲れさん。どうよ、出来の方は」


 労いに頭を撫でてやりながら私が問うと、ルチアはくすぐったそうに笑った。


「いつもよりは手応えアリ。へへ、ロクちゃんが教えてくれたからかな」

「そりゃよかった」

「ロクちゃんはどう?」

「まぁいつも通りじゃねぇの」

「うー!それでも私よりはいい点取るんでしょ! ずるいよー!」


 唇を尖らせるルチアの頬っぺたを、両側からつまんで揉みほぐす。びわの肉球みたいな柔らかな感触である。ルチアは間抜けな顔で、嬉しそうに抗議の鳴き声を上げる。その時、


「ひばりーーーん!」

「あばばばばば」


 何者かが私の肩を掴んで激しく揺さぶった。視界が攪拌されて変な声が出る。振り返ると林である。


「何すんだこの野郎コラ」

「いや何でも。テストどうだった?」

「もっと普通に聞け……。まぁ、ぼちぼちってとこだな」

「ルチ公は?」

「私は結構いい感じだった! 菜乃ちゃんは?」

「ムハハ、みなまで聞くな」

「勉強会とか言って遊んでるからだろ」

「えー、ロクちゃんだってメイドへぶぅー!」


 私はルチアの両頬を、掌でぎゅーっと挟んで黙らせる。教室でその事を言うんじゃない。つーか何話引っ張る気だ、猫耳メイドを。


 林は藤達と約束があったらしく、先に教室を後にした。ルチアの部活が休みだったため、私は例によって彼女を家まで送っていくことにする。タバコの吸い殻の捜索も継続していたが、やはり成果は得られない。当然、教師が発見したなどという話も聞いていなかった。


「……犯人、飽きちゃったのかなあ」


 ルチアが眉根を寄せながら言う。私はその隣で自転車を引きながら空を仰いだ。どこからかキジバトの鳴き声がするが、姿は見当たらない。


「まぁな。2回目が不発に終わったわけだし……もう大した騒ぎにはならねぇって悟ったのかも」

「……うーん。元の場所に戻せば良かったかな、吸い殻」

「そしたら今度はお前に疑いがかかるかもしんねーだろ」

「うーん、そっか……」


 私達は揃って溜息をついた。結局、本当に喫煙者がこの学校にいたのか、単に愉快犯の犯行なのか、それすらも不明瞭なままだ。中学生の身分で出来ることなど知れている。すると不意に、ルチアが期待の眼差しを向けてきた。


「ロクちゃんの推理力でなんとかなったりしない?」

「……推理力って」

「水曜日の会議の時、カッコよかったよ? 本当に探偵みたいだった」

「……む……」


 カッコいい、と言われると無碍に出来ない。手元にある情報は少ないが、無理矢理にでも結びつけてみることにする。


 まず、「TAIN RK」が見つかったのが2-3付近の女子トイレ。で、ガラム・スーリヤが体育館。犯人が全く無作為にこの2ヶ所を選択したと考えるとお手上げなので、何らかの意味や理由があると仮定してみる。とすると――。


「うちのクラスの……運動部の女子の、誰かしら、に、恨みがあるヤツがやった、とか?」

「……なんかふわふわしてる」

「しょうがねえだろ、これくらいしか思いつかねえよ、今の情報量じゃ」

「……運動部の女子って、舞衣ちゃんとか?」

「……まぁ、そうだな」


 野尻は決して嫌な奴ではないが、「そこまで?」ってくらい気が強い。前の福野の時もそうだが、自分の正義に反するものにはとりわけキツく当たる少女だ。野尻を快く思わないどこかの誰かが、彼女を陥れようとして犯行に及んだ……なんて可能性は、まぁ、無くはない。完全に逆恨みだが。


 ……犯人の候補として、私の中に思い浮かんだ顔がある。戸出だ。彼女はどうも、友人として振る舞いながら野尻を疎んでいる節があるらしい。動機としては十分だろう。


 理由はもう一つ。戸出の、何かと匂いに気を遣うという性癖だ。匂いの強いタバコを好んで吸う人間が身近にいる事で、それが醸成されたとは考えられないか。


 ――全く無根拠な推定に見えるかもしれないが、私は知っている。


 ……とはいえ、野尻が標的であると確定したわけでもないのだ。2-3で運動部の女子というだけなら、候補はまだまだいる。私は、不確かな憶測を思考の隅に追いやった。


 しかし、本当にその通りの動機があるのだとしたら、あまりに陰険、というか、回りくどいような気もする。陥れる、というよりかは、本当に嫌がらせの領域でしかない。それが戸出かどうかはともかく、そんなことをする奴が同じ学校の中にいると思うと、あまりいい気分ではなかった。


 それから何となく会話が途絶え、私達は黙ったまま二人、住宅街の中を歩いた。


「……いつも送ってくれてありがと」


 別れ際、城端邸の外壁の前で、ルチアが照れ笑いしながら言う。それから、何故かちょっと申し訳なさそうに眉根を寄せた。


「ごめんね、逆方向なのに」


 私は笑って首を振った。こっちが勝手にやっているだけなのだから、別に気にすることはない。


「どうせ帰ってもやる事ねえしな。それにお前、お菓子とかちらつかされたらホイホイついて行くだろ」

「そんなチョロくないもん!」


 そんなやり取りを交わした後、ルチアは手を振って、ドールハウスみたいな白塗りの家へと帰っていった。私は自転車に跨り、来た道の逆側へと走り出す。


 ペダルを漕ぎ、夕暮れ前の心地よい風を浴びながら私は気付く。思えば、我々がそこまで犯人探しに固執する理由もないのだ。一応イシセンが私を疑っていたとは聞くが、奴からもその後コンタクトがあるわけではない。とうに疑惑は忘れ去られたとでも考えるべきだろう。


 ……迷宮入りは少々後味が悪いし、ルチアが納得するかは分からないが、もう、手を引いてもいいのかもしれない。過程としては十分楽しんだしな。


 そんな事を思いつつ。細い道から国道に出掛けた時だ。ちょうど車がこちらに曲がって来たので、自転車ごと脇に退いた。白の軽自動車である。


 運転手がこちらをちらと見遣り、私と目があった。ちょっと驚くほど綺麗な3、40代の女性だが、何やら不機嫌そうな表情を浮かべている。目礼する私からすぐに視線を外して、軽自動車は住宅街の中へと去って行った。


 何か……既視感のある表情だ。私は記憶を反芻し、すぐにそれに辿り着いた。


『……何アレ、感じ悪い』

『……どうせダメ金も取れないのに』


 ネガティブな感情を、言葉にして吐き出している時のルチア。今の女性の表情は、それに余りにも似ていたのである。


「……ルチアの、母親か?」


 何となく呟いてみたが、わざわざちゃんと確認するような事でもないし、そんなの悪趣味だ。私は走り去る軽自動車に背を向けた。


 時刻は18時を回った頃。なんとなく小腹が空いたし、テスト終わりの自分へのご褒美も兼ねて、マックに寄っても良いこととする。土曜日に昼飯を食ったのと同じ店舗である。適当に軽めの注文をして、窓際のカウンター席に適当に腰掛ける。


 キャラメルラテをちびちび啜っていると、私の隣の席に誰かがすとんと座った。白のセーラー。東條中の制服である。何気なく、その顔をちらりと伺って私は驚く。


「……野尻」


 つい声に出してしまう。ショートヘアのクラスメイトが、シェイクのストローを咥えたままこちらを振り向いて、目を丸くした。


「……油田じゃん」


 野尻は髪が汗でほんのりと濡れていた。トレーにはシェイクのみならずてりやきバーガーまでもが鎮座している。夕飯前には重い気がするが……と思っていたら、思考を読まれたか野尻が眉根を寄せた。


「……これから塾あるから。家帰るの9時過ぎとかで、お腹空くし」

「あ、ああ……。悪いな、不躾に見たりして」

「いいけど。……てか油田、三角チョコパイとか食うんだ。なんか意外」

「ああ……うん」


 昔ルチアにも同じことを言われた気がして、私は苦笑した。私は案外甘いものが好きである。むしろ人一倍くらいに好きな方だと思う。不節制で太るほどダサい事はないので、ある程度欲求を抑えてはいるが。


「部活帰りか?」

「まぁ、一人で自主練だけど。男子連中ほんとやる気ないわ。……てか、油田帰り遅くない? 帰宅部だよね?」


 てりやきの包み紙を剥きながら、野尻が首を傾げる。面倒なところに気付かれてしまった。


「ん……まぁ、家まで送ってたから」

「え、誰を?」

「……ルチア」


 私が正直に答えると、野尻は笑った。


「ホント仲良いよね。そこまでしないでしょ、普通」

「……まぁ、そうかもしんねーけど。不安だろ。アイツ、なんかふわふわしてるし」

「あー、ちょっとわかる。琉智空ってアレだよね。庇護欲? みたいなの、そそられる」


 野尻は親しい女子を名前で呼ぶ。それはルチアも例外ではないが、私が呼ぶ時と野尻が呼ぶ時には、なんとなくニュアンスが違うような気がした。


「野尻は、テストどうだった?」


 何気なく共通の話題を振ってみると、野尻は首を振る。


「全然。一応塾行ってんのに効果ないわ。油田は成績いいよね、確か」

「まぁ、多少は……だけどな。……塾ってあそこか、明苑堂の近くの……」

「いや、あんなちゃんとしたとこじゃないよ。親の知り合いがやってる……なんつーの、個人経営、みたいな? 講師のオバサンが最悪でさ、問題集だけバサって渡してそのあと自分はずーっとスマホ弄ってんの」

「うっわ……それムカつくな」


 私は顔を顰めた。嫌いなタイプの大人だ、非常に。野尻は興が乗ったのか、声のトーンを上げて続けた。


「でしょ? あとなんか、一緒にやってるヤツが勉強全然ダメなんだけど……ずーっとそいつにネチネチネチネチ言ってて……」

「……親に言って見切りつけた方がいいんじゃねーか」

「言ったんだけど聞いてくんなくて! 安く教えて貰ってんだから我慢しろとかさぁ――」


 それから、案外会話が膨らんだ。ほとんど周囲の大人や教師への愚痴がメインである。何となく近寄りがたかった野尻だが、根底の部分では、私と通ずるところが案外あるのかもしれなかった。


「……そういや油田ってさ、よくイシセンに絡まれてるけど、嫌じゃないの?」


 てりやきバーガーの包み紙を畳みながら、野尻は眉根を寄せて私の顔を覗き込む。私は苦笑して首を振った。


「嫌に決まってんだろ、後からダルいから言わねーだけだ」

「大人だ。嫌味とかじゃないけど、よく平気だよね。私だったらおかしくなってるかも」


 野尻は忌々しげに溜息をついて、まるであの男が目の前にいるかのように、窓の外を睨みつけた。


「絶対、学生時代全然モテなかったタイプだよね。教師だからって女子に馴れ馴れしくしてさ。愛有とかに絡まれてニヤニヤしてんの、キモ過ぎだし……この前も莉子ちゃんに結婚がどうとか言っててさ。お前が口出す権利ねーだろって思った」

「……あー。言いそうだな、いかにも」

「莉子ちゃんも莉子ちゃんだよ。もうちょっと強く出ていいのに」


 私は、以前野尻が高儀を叱責していたのを思い出す。あの時にも何かあったのか尋ねてみると、野尻は少しバツの悪そうな顔をした。


「……うちの部の男子にさ、何か彼氏がどうとかでからかわれてて。莉子ちゃんも困り笑いしてるだけで何も言わないもんだから、ちょっと、ムカついちゃって」

「生徒相手だと複雑なんだろうな。モンペとかいるだろ」

「そうかもしんないけど……」

「……まぁ、みんながみんな、お前みたいに強いわけじゃないよ」

「んん……」


 野尻はちょっと身じろぎして、残りのシェイクを啜った。


「……前からさ。琉智空とか菜乃にも言われてたんだけど」


 空になった紙コップを揺らしながら、野尻が私を見つめる。


「うん?」

「油田って、アレだね。結構、いいヤツだよね」


 野尻が爽やかに笑う。そのままスポーツ飲料の広告に使えそうなその笑顔に魅せられて、少し反応が遅れた。


「……何だ、急に」

「……言っていいのか微妙だけど、正直ね、最初は嫌いだったんだよ。なんか……私、っていうか、うちらみんなの事見下してるみたいな感じがして」


 私としてはそんなつもりはないが、そう思われても仕方ないような態度を常日頃とっていた自覚は、なんとなくあった。私は何だか申し訳なくなって、俯いた。


「……そう見えたなら、謝る」


 すると野尻は私の肩を小突いて、ケラケラ楽しそうに笑う。私は困惑して彼女を見た。


「そこそこっ! この子そういうとこあるんだーって最近気づいたの。意外とメンタル弱いよね」

「うぐ……ッ」


 「メンタル弱い」と書かれた巨大な槍が私の体をブチ貫いたような気がした。血反吐を吐きそうになりながら、私は苦し紛れの否定を口に出す。


「……べ、別に弱くは……」

「だってそうでしょ。先週未緒ちゃんがやらかした時も――」

「……未緒ちゃん?」


 口に出してから福野のことだと気づく。ちゃん付けは意外だ。対して仲がいいようには見えなかったが。


 野尻の方を伺うと、凍りついていた。自分の言った事に自分の耳を疑っているようだった。野尻は唇をぎゅっと噛み締めて、それから急に、席を立った。


「……ごめん。塾の時間、近いから」


 事務的な声だった。先程まで伺えた感情がどこかに消え失せてしまったようで、私は動揺する。


「お、おう」

「……ま、また、明日。学校でね」


 取り繕うように笑った後、自分のトレイを片付けて、野尻は足速に店を後にした。私は、彼女が出ていったドアがゆっくりと閉まりゆくのを、ただ、見ていた。


 ――事態が急に動き出したのは、翌日の事である。


「……えー、抜き打ちで悪いけどな、今日は持ち物検査をするぞ」


 やけに早く姿を現したイシセンからの唐突な宣告に、教室中がどよめく。私も眉を顰めて教壇を見上げた。最初に吸い殻が見つかったのはもうだいぶ前だ。対応にしてはいくらなんでも遅過ぎないか?


 生徒達のざわめきに苦笑しながら、イシセンが補足する。


「実は昨日、高儀先生がまた煙草の吸い殻を見つけたらしいんだ。それで急遽な」


 ルチアが私の方を振り向く。困惑の表情を浮かべていたが、私も同じ気持ちで肩を竦めた。昨日の帰り掛けに、隅々まで確認はしているはずだ。探索に漏れがあったのか、あるいは私達が下校した後に捨てられたのか。


「えー、じゃあ悪いが、各自、カバンを机の上に出してくれ。一人ずつ確認する」


 教室中が、不平不満を言いながら指示に従った。私もうええ、と思う。別に今日没収されるようなものは持ってきていないが、この男に私物を検められるのははっきり言って気分が良くない。それこそどうせなら高儀にお願いしたいところだ。


 そうして抜き打ちの持ち物検査が始まった。令和の時代に本当にこんな事やっていいのか疑問である。とはいえイシセンのチェック体制は傍目から見ても杜撰で、本人も面倒くさがっているのが丸わかりだった。……その割に女子の鞄だけ妙に念入りな気がしたのは、さすがに私の嫌悪感がバイアスをかけた結果だと思いたい。林が持ち込んだ漫画を当然没収されて「そんな殺生な……」などと哀れっぽく言っているものだから、教室の間から失笑の声が起こった。私も当然検査はパスした。「なんだ、男みたいな筆箱使ってんなあ」とか笑われてぶん殴りたくなったが。


 そのまま何事も無く、2-3全員がチェックを通過するかと思われたが、イシセンが急に素っ頓狂な声を上げた。


「おい野尻! 何だこりゃあ!」


 私は声のした方を振り向く。野尻が席に座ったまま、呆然としていた。イシセンがその手に持っているものを見て、私は目を疑った。


 「喫煙は、貴方にとって脳卒中の危険を高めます」――そんな物々しい文面が、ちらりと見えた。煙草の箱だ。


「……まさかお前が吸ってるとはなあ」


 イシセンがわざとらしく嘆息し、野尻は激しく首を振ってそれを否定した。


「違……ッ、違うッ! 私そんなの持ってきてない!」

「持ってきてないも何も、入ってたのは事実だろ?」


 取り乱す野尻に対し、イシセンは忌々しいほどに落ち着き払っていた。その光景に、私の心はざらつく。怒りと哀願の入り混じったような声で、野尻はなおも主張した。


「誰かが入れたんだよ! 学校来た時には、そんなの入ってなかったもん!」

「じゃあ、このクラスの誰かが、野尻の鞄にこれを入れたのか?」


 イシセンは教室中を見回すが、誰も名乗り出るものはいない。いるはずもない。野尻を庇おうと声をあげる者すらいなかった。誰もが顔を見合わせて、お互いの出方を伺っているようだった。


 ややあって、イシセンが溜息をついた。


「……とりあえず、職員室まで行くぞ、野尻。生活指導の先生も交えて話をしよう」


 生活指導の先生。無論、高儀も含まれるだろう。野尻が、この距離でもわかるくらいに青褪めた。


「ま、待って……。莉子ちゃんには……」


 ――野尻が弱弱しい声を出したその時、私の脳裏に、兄の言葉が過ぎる。



 「



 私は、わざと猛然と立ち上がった。椅子が後ろの机に叩きつけられて、持ち主の渋見がビクついた。すまん。


 イシセン――いや、クラスの全員の視線が集まり気圧されかけながら、私は、努めて毅然と言い放つ。


「野尻の言う通りだと思うんスけど」


 イシセンが困惑した様子で、私を見る。


「言う通りって……どういう意味だ」

「野尻の鞄にそれを入れた奴がいるって事スよ」


 教室にどよめきが走った。そんな過剰に反応するのはやめて欲しい。こっちは手汗がヤバいんだぞ。イシセンが目を泳がせながら、頭を掻きつつほざいた。


「……でもなあ、みんな知らないようだし」


 知ってても黙ってるに決まってんだろダボカス、頭創英角ポップ体かよと言いたいのを必死で抑えつつ、私は野尻の方を見る。


「野尻、お前今日も朝練あったろ」

「え、う、うん……」


 「あったろ」とか断定系で言ってはいるが、これは完全にゼロベースの予想。「いや無かったけど……」と言われたら一貫の終わり、私は「あっ……そ、そうなんだ……」とか言いながらすごすご着席し、非難と嘲笑を浴びる事になっていただろう。


 私は内心めちゃくちゃホッとしているのを気取られないように努めながら、さらに続けた。


「だったら部室かどっかに鞄を放置する時間が少なからずあるはずだ。その隙に入れられたって考えるなら、別に犯人がこのクラスにいるとも限らないスよね?」

「ん……んん……」


 未だに納得していない様子のイシセンに、私は二つ目の証拠を呈示する事にした。……こっちは証拠とも言えないようなものだし、出来れば使いたくなかったが、仕方ない。


「先生は当然ご存知だと思いますけど、喫煙は肺に悪影響です。肺活量にだって響くはずだ。……野尻は陸上部ですよ。そんなもん吸うとは、どうしても思えません」

「……油田」


 野尻が呟くのが聞こえた。私はちらりと、ルチアの方を見下ろした。彼女が憧憬の眼差しで私を見上げてくれるのを力に変えて、私はさらに続けた。


「……野尻は確かにまぁ、不良生徒みたいにも見えるかもしれませんけど。部活については、マジっスよ。みんな知ってると思いますけど」


 私が言葉を切ると、戸出が急に声を上げた。


「そうだよ! 舞衣が煙草なんて吸うはずないじゃん!」


 それを皮切りに、教室からもちらほらと野尻への擁護、そして教師への批難の声が上がり始める。生徒達を抑えながら、イシセンは肩を竦めた。


「わ、わかった、わかったよ。お前らを信じるよ」


 まるでいい先生ぶって奴がそう言った途端、私はどっと疲れが出て、へたり込むように椅子に座った。


 ――それからしばらく、机に突っ伏してぐったりしていた私の背中を、不意に誰かがつつく。顔を上げると、野尻がそこに立っていた。わざとらしく唇を尖らせているが、その目は優しかった。


「誰が不良生徒だって?」

「……悪い、言葉のあやで」


 私が手を合わせると、野尻は微笑んだ。ヒエラルキー最上位の少女のものとは思えない、可憐な微笑みだった。


「……ありがと、

「……おう」


 初めて私を名前で呼んだ野尻に、私はぎこちなく笑みを返す。それから、林とルチアが机に集まって、口々に私のことを褒め称えた。


「やるじゃんひばりん! なかなかあんな事出来ないよ!」

「ホント、すっっっごいカッコよかった!」

「……よ、よせよ」


 流石にこそばゆくて、私は自分の腕の中に顔を埋める。今思えば、何であんな事が出来たのかわからない。もう一回やれって言われたら多分無理だ。


「……でも、ホントに誰があんなの、野尻ちゃんの鞄に入れたんだろうね?」

「わっかんない。雲雀の言う通り、朝練の間は鞄部室に置きっぱなしだったし、目も離してたから……」


 溜息混じりに会話を続ける野尻と林をよそに、ルチアが真剣な眼差しで私を見つめ、私は頷いた。昨日の推理はほとんどが憶測だったが、こうなると全てが繋がってくる。……流石に何もかもが偶然だとは思えなかった。


 そうなると犯人は、やはり戸出なのだろうか。彼女は交友関係も広いし、複数人で共謀して野尻に嫌がらせをしている可能性もある。


 ……だけど、本当にそうだとして、どうやってそれを暴く? 下手なことをすれば、こちらにまで類が及ぶかもしれない。私だけならともかく、ルチアにまで何かあったら……。


 その時、当の戸出が、一際よく通る声を出した。


「ね、愛有知ってるかも!」

「え?」


 私は狼狽する。振り返った野尻の方に駆け寄って、戸出は神妙な顔をして言った。


「多分さ、福野がやったと思う」


 まるで、自分の罪を暴かれたみたいに。私の心臓が跳ねた。

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