Chapter11 ヒーローは、結果ではなく過程で決まる

 その後の話をしようと思う。


 私とルチア、そして勿論舞衣も、高儀のやった事を告発などはしなかった。当然煙草の吸い殻が校内で見つかることもなくなり、事件そのものがやがて忘れ去られた。


 高儀はそれ以来、変わった。性格そのものが激変した訳ではないが、生徒を毅然と叱りつけたりする姿が時折見られるようになったのだ。それが結構な迫力なものだから、どちらかといえば友達感覚で接される事の多かった彼女も、生徒から、一人の教師として認識されるようになってきた。かつての「鬼の先輩」の面目躍如である。


「でも……やっぱり今年いっぱいで辞めるんだって、莉子ちゃん」


 ある日の放課後、廊下の窓枠に肘をつきながら、舞衣が言った。予感していたことではあったが、私は彼女の少し寂しげな横顔に視線を向けた。開いた窓から吹き込んだ風が、艶やかなショートヘアをさらりと揺らした。


「……いいのか?」


 あの時の体育館裏の言葉を踏まえて私が尋ねると、舞衣は首を傾げ、それから笑った。


「しゃーないよ。どうせ三年になったら、すぐ部活引退だし。私に相談してくれただけで嬉しい」

「……そうか。まぁ、学校の外でも会えるしな」

「番号は握ってっからね。絶対に逃がさない」

「怖ェ」

「あははっ」


 舞衣と高儀は、あれ以来仲を深めていた。今もこっそり、LINEで連絡を取り合っているようだ。そんな歳の離れた友人としての高儀を、舞衣は「莉子ちゃん」と呼び続けている。


「てか、父親がよく納得したな」

「いや、全然納得してないみたい。もう大喧嘩して、家ん中冷戦状態らしくて。近いうちに引っ越すって」

「……大変だな」


 高儀は煙草を吸わない。舞衣への嫌がらせで使っていたのは、全てヘビースモーカーの父が家に残したものであったらしい。今思えば、それも父親への当てつけだったのだろうか。


「あ、これあんまベラベラ喋んないでよ?」

「わかってる」


 私が重々しく頷くと、舞衣はふと思い出したように、「あ」と言った。


「そういえば夏休みにさ、二人で旅行行くんだ」


 唐突な発言に、流石に驚く。私が目を丸くしているのが面白かったのか、舞衣は目を細めて口元を綻ばせた。


「……お前らもうそこまで行ってんのかよ」

「何その言い方、雲雀やらしー。別にいいでしょ、女同士だし。保護者同伴で友達と行くって言ったら親からもオッケー取れたよ」

「……まぁ、そうか」


 彼女の親も、友達と保護者が同一人物だとは思っているまい。私は苦笑して、その時ふと思い出す。


「でも、県大会も夏だったよな」

「うん、だから大会終わったタイミングにするつもり。お疲れ様会みたいなノリかな」

「祝勝会、だろ?」


 すかして笑ってみせると、舞衣は一瞬キョトンとして、それからくすぐったそうに頬を染めた。


「……雲雀のそういう、サラッとクサい事言っちゃう感じ、けっこー好き」

「……そりゃどうも」


 私は舞衣から視線を外して、窓の外を見た。あれから梅雨がやってきて、それから過ぎ去るくらいの時間が過ぎている。今日は全9教科、二日間に渡る期末テストを終えた金曜日。もうすぐ、私達は二度目の夏休みを迎える。


「てか、そう言うなら雲雀も応援しに来てよ?」

「ん……まぁ、行けたら行くわ」

「それ来ないやつだろ!」


 舞衣が私の肩をシバく。運動部の筋肉量から放たれる肩パンは鋭く、声にならない声が出た。そんな私を舞衣は笑い、それから急に思いついたように言う。


「雲雀はなんか予定ないの、夏休み」

「ん? あー……考えてないな……」

「じゃあ、琉智空のこと誘ってあげたら? それこそ旅行とかいいじゃん。泊まりは無理でも、日帰りとか」

「……そうだな……」


 この県から日帰りで無理なく行けるのは、金沢辺りだろうか。いや、遠方にこだわらず、県内でもいいかもしれない。ここには海と山しかないが、それもアイツとなら楽しいだろう。


「お前らはどこ行くんだ?」

「USJ」


 何気ない質問に返ってきた答えに、私はギョッとする。確かに旅行先としては定番だが。


「……小遣いキツくねーか」

「莉子ちゃんが旅費出してくれるから大丈夫。貸しもあるし……まぁ、リベンジも兼ねてね」

「リベンジ?」


 私が首を傾げると、舞衣は遠い目をした。


「……昔、家族旅行で行ったとこなんだ」

「……そうか」


 福野に台無しにされてしまったという、家族旅行だろうか。かける言葉が見つからなかったが、楽しい思い出で上書き出来ればいいなと、ただ思った。


 その福野は今、何をしているのだろう。それを思うと、気分が沈んだ。


 私が退院した後に一度だけ、福野が母親同伴で家に来たことがある。やけに若々しい印象の母親の隣に佇んだ福野は、相も変わらず無表情で、口にした謝罪の言葉も儀礼的なものでしかなかった。


 私も、自分の親が隣にいることもあって、突っ込んだことは何も聞けなかった。ただ、「あつかましかった」と舞衣が語った福野の親の、媚びるような喋り方に苛立っただけで。結局、彼女の内心を知ることはできないまま、私達の最後の邂逅は終わった。


「もうちょっと……やんちゃな感じの子なのかなって思ってたけど」


 福野母娘と玄関先で別れた後、母親がぽつりと呟いた。


「あんなに大人しそうなのに、どうして乱暴な事したのかしら」


 私は何も答えず、首を振った。福野の身に何があったのか、話すことは憚られた。


 クラスメイト達も、もう福野の話をしない。福野が教室で振るった暴力は、彼女の存在もろとも一過性のコンテンツとして消費され、やがて忘れ去られた。その背後にあった想いなど、一切斟酌されないまま。


「そんなもんだろ」


 私がそのことを口にした時、兄が退屈そうに言った。私達はあの時と同じように、ベッドに隣り合って座っていた。


「厄介払いが出来て丁度良かったんじゃね。話も通じねぇ気味悪ぃ同級生なんて居ない方が良いんだから」


 窓の外を睨みつけながら、兄は続ける。まるでそこに、憎むべき何かがいるみたいに。


「教室だけじゃねえよ。全部そう。自分が叩かれたくねえから言わないだけで、みんな思ってんだよ。『死ねばいいのに』って」

「……そんなの、何の希望もないじゃん」

「それは」


 兄は急にベッドから立ち上がって、勉強机の椅子を引いた。ノートパソコンを起動しながら、彼は冷ややかに言う。


「そいつ本人が見つけることだろ」


 兄がヘッドフォンをつけて作業に没頭し始めてしまったので、私はそれ以上の会話を諦めた。


 ただ、胸の裡で祈る。私の知らない場所にいるアイツが、どうかそれを見つけられますようにって。


 ──だけど、その行為に何の意味があるって言うんだ?


「……雲雀? 大丈夫?」


 気がつくと、舞衣が私の顔を覗き込んでいた。私は無理に笑顔を作って、頷いた。


「すまん、ちょっとぼーっとしてた」

「ぼーっとってか……この世の終わりみたいな顔してたよ」

「いや、そんなでは――」

「二人とも、お待たせーッ!」


 鈴振るような声に、私達は会話をやめて振り返る。ルチアが手を振って、こちらに駆けてきていた。


「見つかった?」

「ご、ごめん。もう一回鞄調べたら、中に入ってた。お菓子のゴミ……」

「ドジっ子がよ……」

「ま、見つかったんだからいいっしょ。じゃ、もう行く?」

「おう」「うんっ!」


 私達三人は開け放った窓を閉め、連れ立って、昇降口へと向かった。


 あの日から数日が経つと、戸出は舞衣を積極的に除け者にするのをやめた。彼女にとってさらに大きな問題が起きたのだ。戸出の彼氏が、別のクラスの女子に浮気をしたのである。


 戸出は悲劇のヒロインとしての自分を演出し、仲間達の同情を買うことに没頭し始めた。彼女達の攻撃の矛先は浮気相手と彼氏に向き、舞衣はターゲットから外れた。それどころか、以前のように会話するようにさえなっていった。至って平然と。


 その身勝手さに苛立ちは覚えるが、ひとまず嵐は去ったわけだ。少なくとも、舞衣の周囲からは。


「バッカみたいだよね」


 戸出の話題がチラリと上がると、ルチアが毒づいた。舞衣がギョッとして彼女の方を向く。ルチアの意外な口の悪さにはまだ慣れないらしい。こういう反応を見ると、初見プレイでボスに瞬殺される実況者を見た時と同じ気分になる。


「そんな事でいちいち振り回されてさ。中学生で彼氏彼女なんて、どうせすぐ別れるのに」

「お前だって恋愛小説読むじゃんかよ」


 狼狽している舞衣の代わりに私が嗜めると、ルチアは可愛らしく頬を膨らませて反駁した。


「二次元は別だもん! 大体沢木なんてブサイクじゃん、一緒にしないでよ!」


 沢木というのは同クラの男子で、件の戸出の彼氏である。ルチアの余りの暴言に私は思わず苦笑いし、舞衣はひきつった笑みを浮かべた。


「い、いや……そこまでじゃないっしょ。中身はともかく顔はそこそこじゃない?」

「言うほどか……? 中の下だろ」


 私が首を傾げると、舞衣は額を押さえて溜息をつく。


「二人とも理想たっか……。やっぱ美人は違うわ」

「えー、舞衣ちゃんも可愛いよ?」

「可愛いってか綺麗系だな。スタイルもいいし」

「ね、流石陸上部」

「あーもう、いいからそういうのっ」


 ルチアに便乗して褒め言葉を浴びせると、舞衣は可憐にはにかんで笑う。彼女からこんな表情を引き出せるようになるなんて、思ってもみなかった。


 その時、ちょうど向こうから歩いてきた大男とすれ違う。生活指導の大門だ。私達は慌てて居住まいを正し、行儀良く挨拶をした。


「「「せんせー、さよーなら」」」

「さようなら」


 いかめしい顔のまま頷く大門の横を、私達はいそいそと通り過ぎる。ほっと息をついたその瞬間、


「……ちょっと待ちなさい」


 背中にかけられた声に私達は飛び上がって、ぎこちなく振り返る。さっきの品性の欠片もない会話を聞かれていたのだろうか。しかし大門は私の顔を見て、柔和な声で言った。


「油田。怪我はもう、大丈夫か? その後、後遺症などは」

「あ、いえ……全然平気っス」

「そうか、なら良かった」


 大門は頷いたが、それから急に真剣な表情になって、深く息を吐いた。


「我々がもっと早く気づいていれば、お前が傷つけられるような事態にはならなかったかもしれない。本当に、済まなかった」


 などと言いつつ、岩のような巨漢が格式張って頭を垂れるので、私は恐縮――というより、困惑して言葉が出て来なかった。教師に謝罪されたのなんて初めてだったからだ。


 顔を上げた大門は、穏やかな顔をしていた。


「……気をつけて帰るんだぞ」

「あっ、はい、あざっす……」


 私が戸惑いながら礼を述べると、大門は急に眼差しを厳しくした。


「それはそれとして。他人の容姿を品定めするような言い方はやめろ。聞こえていたぞ」

「えっ……あっ、さ、さーせん……」


 まさか謝罪に説教が連続するとは思っていなかった。虚を衝かれて、私は挙動不審気味に頭を下げる。


「城端も。あんな大声で、下品な言葉を使うな」

「ふぇっ!?」


 突然矛先を向けられたルチアが、素っ頓狂な声を出す。彼女はオロオロと視線を巡らせた後、決まり悪そうにぺこりとお辞儀をした。


「ご、ごめんなさい……」

「ん」


 大門は頷き、私達の前から去っていった。


「……怒られてやんの」

「ロクちゃんもでしょ!」


 峻厳な岩山のような背中を見送りながらボソッと言うと、ルチアは真っ赤になって私の背中を叩いた。それを見た舞衣が、けらけらと笑った。


 帰り掛け、一人だけ徒歩通学のルチアに合わせて、私と舞衣は、自転車を引いて彼女のそばを歩く。


「……ねぇ、なんか、蒸し返すみたいでアレなんだけど」


 その時不意に、ルチアが俯きがちに口を開いた。


「……やっぱり、戸出の事ほっとけないよ。何とかしようよ。あんな、嘘なんかついてさ」

「あー……」


 舞衣が苦笑しながら空を見上げ、私は目を伏せた。そうだ。犯人はそもそも高儀だったのだから、戸出の目撃情報は、虚偽か見間違いのどちらかだったということになる。それに、ああやって舞衣がハブられるなどした以上、戸出が意図して話を拗らせたと考えるのが自然だ。ルチアは時々、戸出の嘘の告発を私に訴えたが、私はそれをのらりくらりとかわし続けていた。……舞衣の前で話をしたのは、今日が初めてだが。


「沢木が浮気したのだって、多分、化けの皮が剥がれたっていうか……嫌になったんでしょ、そういうとこが」

「……だけど、どうやってその嘘を暴くんだよ、今更」

「どうやってって……だから、問い詰めればいいじゃん。私だって協力するよ」

「……それは、したくない」

「何で? まさか、戸出の事も守りたいとか言うんじゃ――」

「違う。怖いんだよ」


 私が正直に言うと、ルチアは足を止めた。まるで信じられないものを見るように、彼女は私を見ている。


「……怖いって、戸出が? ロクちゃん、あんなに勇気あるのに……」

「……すまん。けど、どうしようもないんだ」

「……」


 私が首を振ると、ルチアは俯いた。


 私は意味もなく戸出を恐れ嫌っているわけではない。理由はある。


 兄を虐げた、あのサッカークラブのコーチ。私の両親と昔馴染みで、同い年だという男。


 


「……じゃあ、私だけでも――!」


 ――なおも我を通そうとするルチアの頭を、舞衣の手が、くしゃくしゃと撫でた。


「……舞衣ちゃん……?」


 ルチアが戸惑いがちに、舞衣を見上げた。彼女は、いつもみたいに、爽やかに笑っていた。


「いいんじゃない、もう。そこまでしなくたって」

「ッ、でも、舞衣ちゃんだって、アイツのせいで……!」

「なんかもう、疲れちゃった」


 空の端を見つめながら呟く舞衣に、ルチアが口をつぐむ。


「……愛有の事は一応、友達だって思ってたこともあったから。ショックだし、ムカついてるよ。でももういい。他の嫌な事なんて全部どうでもいいくらい大事なものが、私にはあるから」

「……ッ」


 ルチアが息を呑んだ。奇しくもそれは、ルチア自身が、かつて私に言った言葉と重なっていた。


 舞衣が、こちらに向き直った。気の早い向日葵みたいな笑顔に、うっすら朱色が差しているのがわかった。


「……あーもう! クサいこと言っちゃった! 雲雀とつるんでるせいで移ったわ!」

「私のせいかよ……」

「そんな事よりさ、結局どうすんの?」

「あん?」

「夏休みの旅行」

「ん……あぁ、そうだな」

「え、何?」


 首を傾げるルチアに、私は切り出す。


「夏休みさ、どっか行かね?」

「え、みんなで?」

「いや、二人で」

「ふえぇっ!?」


 ルチアが素っ頓狂な声を上げた。偶然通りがかった老人が、何かと訝しげにこちらを見た。


「……そんな驚くことか?」

「だ、だって……二人で遊ぶの、初めてだし……」

「え、マジで? そんなに仲良いのに?」


 舞衣が驚く――というか、それを通り越して若干引いているのがわかった。そういえば、林と一緒に勉強会をして以来、ルチアとは遊んでいない。休日に会ったのすら、見舞いに来てくれたのが最後だ。


「……だ、だって、土曜日は部活あったし……」

「でも日曜は流石に休みでしょ?」

「日曜はいつも家族で出かけてるから……」

「そんなん別に断って良くない?」

「そ、そうなんだけど……」


 舞衣は過去のこともあってか、家族への愛着が弱い。しかし、ルチアがそうとは限らないだろう。実際彼女は、教師にはともかく、親にはあまり強く出られない傾向がある。私は項垂れるルチアに助け船を出した。


「家庭の事情はそれぞれだし、しゃーねーだろ」

「ん……まぁ、そっか。ごめん」


 舞衣はちょっと気まずそうに俯いたが、すぐに顔を上げて、快活に笑った。


「じゃあ、尚更夏休みくらいは一緒に出かけなきゃだね」

「だな。どっか行きたいとこあるか?」

「うーん……」


 ルチアはちょっと考え込んで、舞衣の方を見た。


「舞衣ちゃんはなんか予定あるの?」

「うん。莉子ちゃんとUSJ行くんだ」

「えっ、すごい……! いいなぁ……。じゃあ私は……」


 ルチアはぱちんと手を叩いて、期待に満ちた眼差しで私を見た。


「ディズニーランド! ディズニーランド行きたい!」

「……えー……あー……」


 私の笑みが引き攣った。まぁ、行きたいとことしか聞かなかった私も悪いが。ルチアは不安げに眉根を寄せて、上目遣いに私を見上げた。


「……だ、ダメ? ちょっと子供っぽいかな……」

「いや、そういう事じゃなくてだな……。予算の問題が……」

「でも、舞衣ちゃんはUSJ行くんでしょ?」

「いやそりゃ、社会人の財力があるから……」

「えー……舞衣ちゃんずるい……」

「ふふんっ、羨ましいだろ〜」


 ルチアが恨みがましく睨みつけるが、舞衣はどこ吹く風でドヤ顔する。私は苦笑して、最低限の条件をルチアに提示した。


「県内とか、出来るだけ近場な? 日帰り出来て、なおかつあんまり金かかんないところ」

「ええっ……泊まれないの……?」

「当たり前だろ、中学生だけで泊めてくれる宿なんてねぇよ。修学旅行まで待て」

「……うーん……。じゃあ……水族館とか……」

「おっ、いいね。デートの定番」


 舞衣が茶化すと、ルチアの頬が真っ赤に染まった。ああ、こうやって照れる彼女を見るのも、だいぶ久しぶりな気がする。


「ち、違うよ! そんなつもりで言ったんじゃなくてえ!」

「あはっ、琉智空ほんと可愛い」


 ムキになるルチアと、楽しげな舞衣に混ざって、私は笑った。


 ……クラスの女子から聞かされた話だが。私が意識を失ったあの後、ルチアは舞衣に相当手酷い罵声を浴びせ、舞衣は激昂するルチアに、号泣しながら詫びていたという。そんな彼女達がこうして仲直りしてくれた事に、私はこっそり、安堵していた。


 分かれ道の丁字路で、舞衣は私達に手を振る。


「じゃあね、雲雀。琉智空も」

「うんっ、またね!」

「おー。じゃあな、舞衣」


 私が手を上げて応えると、舞衣は何故だか少し、気恥ずかしそうに笑った。


「……なんか、まだちょっと慣れないや。雲雀に名前で呼ばれんの」

「呼べって言ったのお前だろ?」

「そうだけど。……まぁ、いいや。バイバイ!」


 少しずつ、西の空に日が没していく。慣れ親しんだ街に、黄昏の気配が降りてくる。私達はちょっと駆け足で、ルチアの家に向かった。


「……私ね」


 いつものロードスフェンスの前で、ルチアが幸せそうに微笑む。


「……夏休みが楽しみだなって思ったの、初めて」


 沈みゆく日に映えるその微笑みが、あまりに儚げで美しく、私は言葉を失った。ルチアの柔らかくて小さな掌が、私の手を、そっと包んで握る。真っ直ぐに見つめる青金色の瞳に、私の胸はざわめく。


「……あのね。ずっと、言い忘れてたんだけど」

「どうした?」

「……あの時は、庇ってくれてありがとう。カッコよかったよ」


 はにかんだ微笑みを遮るように、私は首を振った。


「……勝手に体が動いただけだ。お前の方が偉いよ。意識してアイツのこと止めようとしただろ」

「……ううん。それだって、ロクちゃんのお陰だもん」


 首を傾げる私に、ルチアは力無く笑ってみせた。


「……私も、ロクちゃんみたいになりたいって思って……やってみたの。全然、駄目だったけど」

「……ルチア」


 か細く頼りない声が、俯いたルチアの唇から落ちる。


「あの、昼休みに話した時にさ。自分が嫌になったんだ」

「……何で」

「私、何の取柄もないもん。ロクちゃんみたいに優しくないし、舞衣ちゃんみたいに強くないし、菜乃ちゃんみたいに性格いいわけじゃない。こんな私なんかが、あなたのそばにいちゃ、ダメだって――」

「ダメなわけねえだろ、バカ」


 私はルチアの言葉を、乱暴に遮った。驚いて黙り込む彼女を見下ろし、小さな掌を振り解いて、両手で強く握り返す。


「それはお前じゃなくて、私が決める事だ」

「……ッ」


 ルチアの瞳が、今にも泣き出しそうに揺れた。その口元が綻んで、ルチアはそのまま、私の胸に体を寄せる。何か、微かに甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐったような気がして――鼓動が、早まる。


「ダメだな、私……。やっぱり、ロクちゃんといなきゃダメ……」


 青金色の双眸が、再び私を捉えた。


「……夢を、見てたの」

「……夢?」

「ロクちゃんがいない間、ずっと。怖い夢だった。ロクちゃんが、病院から二度と帰ってこない夢。二度と、会えなくなる夢……」

「……」

「ロクちゃん、ロクちゃん。あのね」


 薄桃色の、無垢な唇が震える。それを視界に収めた時、燃えるように湧き上がった衝動が、私の理性をぐらつかせた。


「わ、たし……。ロクちゃんの、ことが……」


 ほとんど無意識で伸びた手が、ルチアの顎をそっと持ち上げる。小さな体が一瞬震えて、そのまま、何かを熱望するように、瞼が閉じた。私は周囲を伺う事も忘れ、彼女の背中に片腕を回した。ルチアの学生鞄が、石畳の上に落ちて――。


 ――――。


 その時、無機質なバイブレーション音が、ゼロになりかけた私とルチアの距離に割り込む。私とルチアは、同時に体を跳ねつかせて、音の聞こえる方を向いた。


 私の鞄ではない。ルチアの鞄からだ。しばらく待っても、振動が止む事はなかった。……電話だ。ルチアは唇を噛んで、鞄から取り出したスマホを耳元に当てた。


「……も、もしもし? ……あ、ママ?」


 母親からの電話らしい。しかし、ルチアの表情が妙に硬い気がした。家族に対してするものとは思えなかった。


「……うん。もう、帰ってるから、大丈夫。……あ、えっと……はい。……ごめんなさい。……わ、わかっ、た。気をつけてね……」


 ルチアは電話を切ると、ひどく安堵したように、深い息を吐いた。


「ご、ごめん。急に、ママから電話で……」

「あ、ああ……別にいいけど……」


 ルチアはまた、私の方に体を寄せた。大袈裟に、別れを噛み締めるように、彼女は瞼を閉じる。


「……来週、学校でね」

「……おう」


 ルチアの体温が、体から離れる。親友は寂しそうに微笑んで、家の方へと駆けて行った。


 私はしばらく、そこにぼんやりと立っていた。最後に彼女が言いかけた言葉の続きを思い、小さく、息を吐く。


「……ああ、クソ」


 これだけ積み重なれば、もう、自惚れじゃないなんてわかる。私も、そこまで朴念仁じゃない。


 ――ルチアが、自分にとってどういう存在なのかだって、わかってる。


「……私もだよ」


 それだけ呟いて、フェンスの傍に停めていた自転車に跨り、私は夕焼けの中、家路を急いだ。


「ただいまぁ」


 いつもの無気力な挨拶と共に、私は玄関扉を開ける。しかし、いつもなら出迎えてくれる母親の姿がない。車は車庫にあったから、帰ってきてはいるはずなのだが。私が訝しんでいると、リビングから何か、どたどたと足音がした。うちの人間はこんな音を出さない。何者だ、と思っていたら――


「ひばりんおかえりー」

「……は?」


 憮然としたびわを抱きかかえ、その前足を振ってみせるのは林だった。いや、何で?


「……え、母さんは?」

「すぐにあわせてやるよ おれのはらのなかでな!」

「悪魔が猫抱いて出てくんな」

「何わけわかんない話してんの、アンタ達は」


 呆れ顔の母親が、リビングから姿を現す。どうやら林に食われたわけではなかったらしい。


「……なんで林がいんの」


 友達と親が同じ空間にいると、どういう自分を出せばいいかわからない。いつかの山田みたいに口をもごもごさせながら問うと、母はあっけらかんと答えた。


「林さん、今日高校の同窓会なんだって。ご飯の用意できないって聞いたから、折角だし、ウチで食べていって貰おうかと思って」


 林の母親とウチの母親は同じスーパーでパートをしている。仕事中にそういう話になったのだろう。それはいいのだが、私の知らないところで話が展開しているものだから、こっちは戸惑うしかない。


「ついでにお泊まりも誘われちゃった。というわけで改めて、今夜はお世話になりますね、おばさん」

「いいのよ、昔はよく泊まりにきてたし。あ、雲雀の部屋に布団敷いといたけど、いいわよね?」

「……いいけど」


 ……部屋にまで上がり込まれていたらしい。私は額を押さえて溜息をついた。テストが終わってやっと一息つけると思ったのに、騒がしい週末になりそうである。……なんて、スカしはしながら。正直、ワクワクしていた事も否めなかった。


 夕飯は宅配ピザだった。嬉しいは嬉しいが、振る舞い方がはっきりしないせいでどうしても口数が少なくなる。持ち前のコミュ力で楽しげに両親と談笑する林を他所に、私は兄に倣い、寡黙に淡々とピザを消費するのだった。


 で、食事と入浴を終えた後、兄が快く(というか無言で)switchを貸してくれたので、私と林は部屋でスマブラに勤しんでいた。


「え、嘘でしょ? ひばりん強くない?」

「ハ……これが私の真の実力だよ」


 あれから散々アイテムありのルールで兄と対戦したから、もう不確定要素に惑わされる事はない。今のところ、7戦して全勝。


「……くそう、これじゃもうひばりんにコスプレさせらんないじゃん……」

「不純な動機で戦ってっから勝てねえんだよ」

「え、勝たなくても着てくれるってこと?」

「誰がんな事言った。トドメだオラッ」

「グワーッ!」


 林のヨッシーが最後のストックを撃墜され、8度目のゲームセット。画面の中で私のリンクが勝利のポーズを決める。さすが英傑だ、キマってるぜ。林が布団の上にひっくり返り、「あー」と情けない声を出した。そのまましばらく黙っていた林だが、唐突に、何やらしみじみとした声で呟いた。


「……1学期、色んなことあったね」


 私は彼女の顔を見る。何か、満ち足りたような、幸せな笑顔だった。このまま昇天するのではないかという気がして、私はちょっと心配になる。


「……なんだよ、急に」

「いや。思い返すとすごい……まぁ、不謹慎かもだけど、刺激的だったなぁって思ったの」

「……そうだな」


 ……まぁ、確かに言われてみればそうだ。精神的にしんどい事もあったし、病院送りにされる羽目にもなったが、今となってみれば、退屈しない毎日ではあったと思える。


 ――だけど、そこから弾き出されてしまった奴だって、いるのだ。


「ひばりんは、やっぱりすごいよ。最初に会った時から、只者じゃないとは思ってたけどさ」


 微笑む林に、私は首を振った。


「……私がやった事なんて、ただの偽善だろ」


 自嘲気味に呟いて、私は目を伏せる。林がどんな顔をしているのかは分からなかったが、降ってきた言葉は、寂しげだった。


「福野ちゃんの事、気にしてるの?」


 胸の内を言い当てられて、私はざわめく心を隠すように、林の丸い膝から視線を逸らした。その時、暖かく、柔らかいものが私の頭に触れた。


 その手の主が、気取った調子で言う。


「ヒーローは、結果ではなく過程で決まる」

「……何のセリフだよ」

「へへっ、私のオリジナル」

「ホントか……?」


 こいつに頭を撫でられるのは初めてで、頬が熱くなる。そんな私をからかおうともせずに、林は優しく続けた。


「ひばりんはやっぱりカッコいいって、今、改めて思った。私にないものを、ひばりんはいっぱい持ってるよね」

「……林」

「私、ひばりんの友達でよかった。ひばりんの友達でいられるのがさ、なんてーか、誇らしい! です」


 それだけぎこちなく言った後、林は私の頭から手を離し、急にくるりと向こうを向いた。


「……まぁ、その、ね。出来ることなら、ヒロインになりたかった気持ちも、あるにはありますがね」

「……林――」


 不意にドアノブの動く音がして、私と林は同時にビクつく。母がドアの隙間から、眉を顰めて私達を見ていた。


「もう10時半よ! 明日休みだからってゲームばっかやってるんじゃないの! 菜乃ちゃんも!」

「はーい」「へーい」

「全くもう、女の子だっていうのに……」


 ぶつくさと小言を残し、母はドアを閉めていなくなる。私と林は、顔を見合わせて笑った。


「……もう寝る?」

「……そうだな」


 私達はswitchを片付けて、それぞれの布団に潜る。部屋の明かりを操作するリモコンを手に取って、私は林に声をかけた。


「おやすみ」

「おやすみ、ひばりん」


 スイッチを切り替える。オレンジの微かな灯りを残して、夜の帷に、部屋の中が沈んだ。


「……真っ暗だと寝れないタイプ?」

「……うっせ、バーカ」


 ベッド下から揶揄う声に、私は小声で悪態を返しながら、目を閉じた。

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