Epilogue Adolescence Goes On

 私はダイニングテーブルに向き合って、椅子に座っている。ランチョンマットの上には、牛乳に浸ったシリアル。私は木のスプーンでそれを口に運んでいるけど、味は全くわからなかった。


 対面の椅子にはあの人が座っていて、退屈そうに雑誌を捲っている。その背後の壁には、オディロン・ルドンの「キュクロプス」の複製画が飾られていた。あの人の好きな作品だ。だけど私は、この絵が小さい頃から怖くて仕方なかった。


 今、あの人の視線は私に向いていない。だけど、見られているのがわかる。あの絵を介して。一つ目の巨人はあの人の写身だった。複製画の巨人が見ているのはガラテイアではなく、私なのだ。あの、不気味な程に優しい目を介して、私は監視されている。


「ねえ」


 あの人が、しなやかな手で雑誌のページを捲りながら、私に呼びかける。私は全身が凍てついて、スプーンを取り落としかけた。


「……なあに、"ママ"」


 私は、無垢で無力な少女の人格ペルソナで自分自身を覆い隠して、首を傾げる。微笑んで。


「金曜の夕方にねえ、琉智空ちゃんと一緒にいた女の子の事なんだけど」


 ママは、いつも噛んで含めるようにゆっくりと話す。私は、努めて無垢な笑顔を維持したまま、口を開いた。


「雲雀ちゃんの、こと?」


 他人にあだ名をつけるのは下品な事だと、教わったわけではないが、ママはそんな事を言う気がした。だから私は、親友の事を、いつもとは違う、下の名前で呼んだ。


 ママは答えず、また、雑誌のページを捲った。その無表情の沈黙が恐ろしくて、私は必死に、言葉を繋いだ。


「とても、素敵な女の子なんだよ。優しくて、友達思いで……。勉強も得意なの。中間テストの点数、いつもより良かったでしょ。あの子が教えてくれたおかげなんだ」


 ママは私に応えない。そもそも私の声が届いているのかすらも、わからない。


「いつもクールなんだけど、甘いお菓子が大好きで。そんなところも、可愛くて」

「琉智空ちゃん」


 ママは、言葉を遮るように私の名前を呼んだ。いつもの甘やかな猫撫で声で、だけどそれは、鼻先に落ちた雷のように私を戦慄させた。そして、その人は、私が、一番恐れていた、言葉を――。



「ママねえ、あの子のこと嫌いだなあ」



「……ッ!」


 私は、冷水をぶちまけられたみたいに体を跳ねつかせた。次第に戻ってきた冷静な思考で、私は今が、二時間目の授業中だということを思い出した。


「何だあ、居眠りか城端。珍しいな」


 教壇に立っていた男が、チョークを手に、間伸びした声で言った。それに合わせて、教室からちらほら失笑の声が起こり、私は赤面して俯く。


「夜中まで絵本でも読んでたかあ?」


 男が、猿みたいに醜く笑った。私の容姿が子供っぽいことを揶揄したのだろう。こういうことを、この教師は平気で口にする。一部の男子が追従して笑ったが、大多数は沈黙していた。


 背後から小さく舌打ちする音がした。誰のものかがすぐにわかって、私はそれで、ちょっぴり勇気づけられた。振り返ると、ちょうどこちらを向いた舌打ちの主と目があった。彼女は――ロクちゃんは目だけで「気にすんなよ」と言っていた。私は嬉しくて、胸をギュッとさせながら、頷いた。男はそんな無言のやりとりに気づく事なく、授業を続けていた。


 ……あの光景は夢だったのだとわかって、私は安堵した。そもそもどうして気づかなかったのだろう。家のダイニングに、ルドンの複製画なんて飾られていない。幼い頃、ママが持っていた画集に載っていたのを見て、トラウマになっただけだ。それ以来、私はよくあの絵を悪夢に見る。だけど、よりによって授業中になんて。


 眠気がひどい理由はわかっている。菜乃ちゃんに教えて貰った「欠けカタ」の実況動画を、夜中までずっと見ていたからだ。だからあの教師の指摘は、全くの的外れではない(そのせいで余計にイライラするんだけど……)。


 再生数は少ないけど、セリフの読み方とか、キャラの演じ分けがとっても上手な女性の実況者さんだった。もうシナリオは知っているはずなのに、最終回では胸が詰まってぼろぼろ泣いてしまった。あと、声がちょっとハスキーで、ロクちゃんに似ていた。それも好きなポイントで、多分菜乃ちゃんもそこを踏まえて私に教えてくれたんだと思う。


 でも、ロクちゃん自身はあんまり「欠けカタ」が好きじゃないみたい。あの子が好きなのはアクションとかシューティングとかRPGとか、敵と戦うゲームが多い。だから、シナリオ重視のあの作品は、好みに合わなかったんだと思う。でも今はコミカライズ版があるから、そっちなら好きになってくれるかな。今度の誕生日にプレゼントしようか。でもちょっと、押し付けがましいかな……。


 そういえば、去年の誕生日にプレゼントした香水を、ロクちゃんは気に入ってくれたみたいで、ずっと使ってくれている。あの爽やかな芳香と、彼女自身の匂いが混ざり合ったあの香りが、私は好きだ。たまにロクちゃんは私のことを「いい匂いがする」なんて言うけど、あの子の方がずっと、いい匂いだと思う。


 そんなことを考えているうちに、授業が終わった。日直の男子が教室の前にやってきて、手早く黒板を消してしまう。まだ板書の途中だったのに、容赦がない。私はその背中を睨み付けたけど、当然気づかれる事は無かった。


「イシセンマジ最悪だね、あんま気にしない方がいいよ」


 私の隣の席にいる女子が、気遣わしげにそんな事を言ってくる。戸出の取り巻きだ。私は「ありがとう」と微笑みながら、内心で唾を吐いた。お前らの同情なんかいらねえよ。


 私は席を立った。親友のところに行くまでの数歩で、私は苛立ちを胸の一番奥にしまった。


「ごめんロクちゃん、後で数学のノート、見せてくれる?」

「ん、ああ」


 私が手を合わせると、ロクちゃんは特に嫌な顔もせずに頷いた。優しい。やっぱりロクちゃん大好き。


「てかマジで珍しいな。お前が居眠りすんの」


 ロクちゃんが不思議そうに私を見て、私は薄っぺらく微笑む。


「……昨日ちょっと、夜更かししちゃいまして」

「youtubeでも見てたのか?」

「ぶっぶー、ニコ動です」

「ぶっぶーじゃねえよ、ほぼ正解だろ」


 いつもみたいなくだらないやり取りをして、私達は笑い合う。他愛無い、友達同士の会話。


 私は、金曜日の夕方の事を、不意に思い出した。――世界に私たち二人だけみたいに感じた、あのひと時。だけど、朝からロクちゃんはそれをおくびにも出さない。もしかしてアレも、夢だったんだろうか。そうであって欲しいような、欲しくないような、そんな、どっちともつかない思いが、私の中にあった。


「……なぁ、そういえば」

「んえ?」

「夏休み。どこの水族館がいい?」


 ああ、そうだ。夏休みに、二人で水族館に行く約束をしたのだった。だけど、どこと聞かれても私はわからない。あんまり、そういう場所に関する知識がない。


「ロクちゃんが決めていいよ」

「んー……じゃあ、こことかどうだ?」


 ロクちゃんは、ホントは教室内で使っちゃダメなスマホを平気で取り出して、ちょっと操作した後私に渡した。画面に表示されているのは、隣の県にある水族館のホームページだった。結構広くて、イルカショーなんかもあって、楽しそう。事前に調べてくれてたんだ。やっぱりロクちゃん大好き。


「……うん、ここいいかも、ここにしようよ。……あ、でも県外だとお金かかるかな?」

「電車賃はフリーきっぷ使えば往復3500円で済む。中学生は入館料900円だから……まぁ昼飯代含めても5000円ちょっとありゃ問題ない」


 そんな情報がすらすら出てきたものだから、私はびっくりして、ロクちゃんの顔をまじまじと見た。まさか、そこまで調べてくれていたなんて思わなかった。


「何だよ」

「……ロクちゃん、もしかしてすごく楽しみにしてる?」

「……悪いかよ」


 ちょっと頬を染めてそっぽを向くのが本当に可愛くて、私はとろけそうになりながら笑った。


 来るその日の事を夢想する。一緒に電車に乗って、一緒に海の生き物を見る。二人でご飯を食べて、同じ夕焼けを見て――そして、もしかしたら。あの黄昏時の続きが、出来たりもするのだろうか。


 私はふと、ロクちゃんの方を見る。何でか、耳まで赤くなっていた。唇に手を当てて、俯きがちに何かを考えこんでいるみたいな顔で――。その時私は悟った。……あの出来事は、やっぱり夢なんかじゃ無かったんだと。


 ロクちゃんが不意に顔を上げて、目と目が合う。そして、お互いに慌てて視線を逸らしたのだった。


 ――それから、昼休み。お弁当を食べ終えて、余った30分くらいの時間を潰すために、私とロクちゃんは中庭のベンチに座っていた。紫陽花の木立はもうあまり元気が無さそうだけど、その代わりに、鮮やかな紅色をしたサルビアの花が花壇に咲き誇っている。今日は薄曇りで、突き刺すような日差しは鳴りを潜め、多少過ごしやすい。


 私はロクちゃんの横顔をぼんやり見ていた。みんなはよく、私のことを美人だって言う。でも、その言葉は私には相応しくない。ロクちゃんの容姿にこそ、その言葉は相応しい。ただ幼いだけの私とは違う、怜悧で完成された美貌を彼女は持っている。


「……昔さ、蜜吸ってるやつよくいたよな」


 ロクちゃんが不意に言った。その視線の先にはサルビアがあったけど、何のことかよくわからなくて、私は首を傾げる。


「……ちょうちょの話?」

「いや人間。あの先っぽのところむしって吸うと甘いんだよ」

「え、そうなんだ。やったことないかも」

「マジか、割とあるあるだと思ってたが」

「ロクちゃんも吸ったの?」

「私はあんまり。一回蟻食っちまってダメになった」

「うわぁ……」


 噛み潰された蟻の味を想像して顔を顰めていると、見知らぬ男子の一団が、何がおかしいのか爆笑しながら中庭に現れる。私達は口籠もって、そちらを伺った。一年生だろうか。ベンチに座っている私達を一瞥することもなく、会話を弾ませているようだった。


「そういやさぁ、前ここに机落ちてきたじゃん」


 その言葉に、ロクちゃんが反応した。俯いて気にしていない素振りをするけど、耳に入っているのは明らかだった。


「あー、アレだろ。2年が教室から投げたんだろ」

「ヤベーよな。そいつ今どうしてるか知ってる?」

「え、知らん」


 男子の一人が、ヘラヘラと下品に笑う。ロクちゃんの綺麗な指先が、不穏にベンチの上を掻いた。


「なんか転校したらしい。多分さ、そういう、ガイ――」

「おい」


 その単語を封じるように、ロクちゃんが低い声を出す。決して大きくはないのに、その瞬間、全ての音が相殺されたみたいだった。ヘラついていた男子達が一斉に黙り込んで、挙動不審にこちらを見た。


「キャーキャーうっせぇんだよ、殺すぞ」


 ロクちゃんは、単に彼らの声の大きさに苛立ったわけではない。彼女は、教室からいなくなったあの子のために怒っている。私の親友は、そういう事が出来る。


 その意図が伝わったのかどうかなんてわからないが、連中は凍りついたように静止した後、競うようにその場を逃げ出していった。ロクちゃんはその背中を睨んだ後、俯いて額を押さえた。


「……すまん」

「な、なんで謝るの?」

「……いや。つい、ムキになって。意味ねーことしちまった」


 張り詰めるような殺気は鳴りを潜めて、今のロクちゃんの顔には、うっすらとした自罰の微苦笑が浮かんでいた。私は笑って首を振る。だって私は、ロクちゃんのこういうところが、どうしようもなく好きなのだ。


 最初はこの子を、怖いもの知らずなかっこいい女の子だと思って憧れていた。だけど、一緒にいるうちに違うってわかった。他人事に寄り添いすぎて自分が傷ついてしまう、そんな繊細なところがこの子にはある。仲良しこよしの振りをして、水面下で傷つけ合い殺し合うこの煉獄に、彼女は絶望的なまでに向いていない。


 だけどそれを隠して、彼女はいつだって強く、気丈にあろうとする。クールな女の子のフリをする。それがたまらなく尊くて、愛おしい。そんな、彼女の眩しさに触れるたび、捻くれ者の私は思うのだ。


「……あいつら、先公にチクるかもな」


 ロクちゃんは面倒臭そうに溜め息をつくけど、私は連中の情けない顔を思い起こして、鼻で笑った。


「そんな度胸無いんじゃない? 見るからに陰キャの群れだったもん」


 こうやって私が醜い本性をむき出しにしても、ロクちゃんは驚かないし、引いたりしない。ただ、やれやれと肩を竦めるだけだ。


「……お前は相変わらずだねえ」

「だって、本当――ふわぁ」


 無意識に大きな欠伸に言葉を遮られて、私は赤面する。その様子にロクちゃんは小さく笑ったけど、その瞳は優しかった。


「まだ眠いのか?」

「……ん、ちょっと。ご飯食べたからかな……」

「別に寝てていいぞ? まだ時間あるし」

「……じゃあ……」


 その時、思い浮かんでしまった欲求がある。私は――邪にも、ちょっと上目遣いを演出しながら、おねだりしてみることにした。


「……お膝、お借りしてもいいですか?」


 ロクちゃんは目を細めて、「しょうがねえな」と微笑んだ。紺のプリーツスカートに包まれた膝を、ぽんぽん叩いて私を招く。私はそこに、そっと頭を預けた。自分の容姿は好きじゃないけど、こうやって甘えやすいのはお得だ。


 大好きな彼女の匂いが鼻腔を満たして、見下ろす眼差しが優しくて、私の頭の中は、甘ったるい幸福に満ちる。それに、下から見上げる彼女の姿は、やっぱり、すごく綺麗だった。


 ――私は学校なんて大嫌い。仲良しごっこをしてる生徒達も、それを微笑ましく見守るだけの教師達も、はがれかけた壁の塗装も、これ見よがしに植えられた桜の木も。チョークの粉の匂いもみんな。


 疑問だった。不気味ですらあったのだ。どうしてこんな澱みだらけの空間を、青春の舞台なんて呼んで持て囃すことができるんだろうって。


 でも、今はわかる。彼女に初めての恋をして、私はようやく理解した。


「……ずっと、一緒にいようね」


 その言葉が届いたかどうか確かめる前に、私は、瞼を閉じた。彼女の手が私の髪をそっと漉くのがわかって、今度は、幸せな夢が見られるような気がした。

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油田雲雀はアオハルに向かない 鍵虫 @Neo-teny14

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