Chapter10 薄っぺらい同情なんかいらないよ

 翌週、水曜日。連日の検査でも特に異常は見られなかったため、私は、晴れて退院の日を迎える事ができた。体育の授業にはしばらく参加できないが、明日からはもう、学校に通うことになる。


 その日の夕食はカレーだった。味の薄い病院食にうんざりしてきた私が「退院したら家のカレーが食べたい」と口にしたせいだろう。母はそれが余程嬉しかったらしく、いつもの1.5倍近い量のカレーを製造し、デカいエビフライまで揚げてくれた(これも私の好物である)。おまけにデザートには退院祝いのケーキまでついてきて、気持ちは非常に有り難かったが、夕飯後はしばらく動けなかった。


「……本当に、すぐ登校して大丈夫?」


 リビングのソファーで、つまんないバラエティ番組を流し見ながらぼんやりしている私を、母が心配そうに覗き込んだ。


「……乱暴した子はもう来ないって聞いたけど、無理しなくて良いのよ。もしまだ怖いなら、しばらく休んでも」


 私が入院している間、福野の母親が家まで謝罪に来たらしい。可哀想になるくらい憔悴していた、と両親は言った。で、話し合いの結果、娘、つまり福野は転校させるという事で纏まったようだ。


 その決定に異論はないし、福野の為にもそれがベストだとは思う。ただ、あのクラスメイトにもう二度と会うことはないのだと思うと、変な話だが、少し残念なような気もした。……彼女自身が、何を思い、一連の行動を起こしたのか。それが、知りたかった。


「心配し過ぎでしょ、平気だよ」


 私は首を振って、母に笑いかけた。ルチアと野尻のためにも、これ以上休むわけにはいかない。――それに、やらなければならない事だってある。


「雲雀なら大丈夫だろう。咄嗟に友達を庇えるような強い子なんだから」


 ダイニングテーブルに座ってビールを飲んでいた父が、不意にそんな事を言った。父は滅多に私を褒めたりしない。アルコールで興が乗っているのだろうか。


「……でも、先生があの有様だし。お見舞いにも来なかったでしょう」


 「先生」を殊更皮肉っぽく言って、母は溜息をついた。


 両親は、大体の事件の顛末を昔馴染みの林から聞いたそうだ。学校側から説明のようなものはなく、電話口のイシセンは「それはお子さんの問題ですから、当事者同士で解決してください」の一点張りだったらしい。別に私はそれを聞いても不思議に思わなかったが、三者面談で奴に好感を持っていた母のショックは大きかったようだ。


 父は神妙な顔で頷き、私に言った。


「学校で何か嫌な事があったら、遠慮なく相談するんだぞ。先生はともかく――父さんと母さんは、お前の味方だから」

「……うん」


 私は曖昧に笑って頷きながら、兄の事を思い出していた。……もしあの時、素直に両親に相談していたら。兄さんの負った心の傷は、多少は、浅く済んでいたのだろうか。


 翌日私は、かなり早めに家を出た。別に親へのやる気アピールではない。単純に、約束事があるからだ。自転車で学校を素通りし、住宅街の方へと走る。ドールハウスみたいな家の前。随分懐かしい気のする「城端」の表札を眺めていると、聞き慣れた声がした。


「ロクちゃん!!」


 とびきりの笑顔のルチアが、私の方に駆け寄ってくる。手を上げてそれに応えると、彼女は鞄を放り出し、私の胸の中に飛び込んできた。虚を衝かれてよろけながら、私は彼女をぎゅっと抱き締めて、その体温を全身で感じる。ああ、帰ってきたんだな、と、しみじみと思った。


「お前な、また病院送りにする気か」


 親友の無邪気さに苦笑しつつ、私は彼女の髪を優しく漉いた。シャンプーがふわりと香る。そういえば、こいつは朝にシャワーを浴びる習慣があるらしい。そんな事をふと思い出した。


「……ご、ごめんね。嬉しくて、つい」


 頬を赤らめながら、ルチアが私の体から離れる。人通りが無くてよかった。仮に他人に見られていても、多分コイツは容赦なくハグを仕掛けてきただろうから。


「……そういえば、授業って大丈夫なの? 数学とか新しいとこ入っちゃったけど……」

「むしろそっちより進んだかもな。兄さんが毎日教えてくれたし」

「あっそっか、病院家に近いんだもんね。……でも毎日来てくれたんだ。ホント優しいね、ロクちゃんのお兄さん」

「……まぁな。switchも貸してくれたし」

「え、病院ってゲームやって良いの?」

「別に平気だぞ、一人部屋だったし。……まぁ、流石に消灯時間過ぎてやってた時は怒られたけどさ」

「怒られたって、あの看護師さん? なんか穏やかそうな人だったのにね」

「いや、優しい人がキレるのマジで怖いわ……。ちびるかと思った」

「えー、そこまで?」


 入院生活の話で盛り上がりながら連れ立って歩く私とルチアだが、学校が近付くにつれ口数が少なくなり、ついにはお互い、黙り込んでしまう。今私達が抱えている問題が、嫌でも思い出されたからだ。――その一つを今日、私達は、解決しなければならない。


「それはお話しできません」


 保健室に訪れた私とルチアに、養護教諭の中川は厳しい眼差しで告げた。おばさん、というよりは、おばあさんとも言うべき齢の、物静かな女性だ。私が病院に搬送された時、付き添いをしてくれたのも彼女らしい。


「それは福野さんのプライバシーだから。いくらクラスメイトでも、軽々しく教えていい事じゃないの」

「ロクちゃ――雲雀ちゃんはアイツに怪我させられてるんですよ。その権利くらいあるんじゃないんですか」

「油田さんは巻き込まれただけでしょう? 直接あの子に暴力を振るわれたわけじゃない」

「だけど……ッ!」


 声を荒げるルチアを制し、私が口を開く。


「……先生は、うちのクラスで何があったかは、大体ご存知スよね」

「……ええ。大まかにはね」

「私達は別に、福野を陥れたいんじゃない。むしろその逆なんスよ。……福野が、少なくともその点については潔白だったって事を知りたいんス」

「貴方達が知ってどうするの。そういう揉め事を解決するのは、担任の先生の仕事じゃないの?」

「……ウチの担任は、私の親が連絡を入れた時にも、今回の件に無関心を決め込みました」


 中川が息を呑み、ルチアがさっとこちらを向いた。


「少なくともあの人は何も解決できない。だから、私達なりに出来ることがしたいんスよ」

「……」


 白髪の養護教諭は、しばらく私を哀しげに見つめ、それから深い溜息をついた後、力無く頷いた。


 結果は、私の予想通り。吸い殻が撒かれた日、そして野尻が煙草の箱を鞄に入れられた日、。勿論教室でも姿を見ていない。だとしたら、学校に来ていなかったと考えるのが自然だろう。福野が嫌がらせの犯人だったという可能性は、無くなったとは言えないが、低くなった。


「……でも、ロクちゃん」

「何だ?」

「福野はともかく、戸出達が犯人の可能性は消えてないよね? 元々ロクちゃん、アイツらが怪しいって言ってたんだし……」

「……ああ」


 それについては、そもそも私の確認に抜けがあったことを認めなければならない。


「お前、いつも戸出と部活に行ってるだろ。あの火曜日――吸い殻見つけた日もそうだったよな」

「う、うん。何となく体育館のトイレ、怪しい気がしたから、戸出は先に行かせ……あ」


 ルチアもなんとなく理解したらしい。私は頷く。


「戸出が関わってるなら、そこには今吸い殻があるってわかってなきゃいけないはずだ。その時アイツが何もアクションを起こさなかったのは妙だろ」

「で、でも……少なくとも2回目は違うのかもだけど、1回目と3回目は……」

「土日を2回挟んでテストもあったんだぜ? 伏線にするには流石に日が空き過ぎな気もする」


 集団で計画的に野尻を追い詰めようとしていたのなら、もうちょっとマシなやり方があるはずだ。……なまじ戸出に悪印象を抱いていたせいで、視野が狭まっていたのかもしれない。


「……じゃあ、本当に……」

 

 ルチアは目を伏せて、項垂れた。トイレの中にしばらく、重たい沈黙が流れた。


 不意に、ルチアがこちらを見て、か細い声で尋ねてくる。


「……ねぇ。話、変わるんだけど」

「どうした?」

「ロクちゃんの家の人が連絡入れた時に、イシセンがそんなだったのって……本当?」


 今更誤魔化すわけにもいかず、私は小さく頷いた。ルチアはぎゅっと拳を握り、突然、個室のドアを乱暴に蹴り飛ばした。派手な音がしてドアが壁に叩きつけられ、私は泡を食って彼女の腕を掴む。


「馬鹿ッ、何やってんだ!!」

「だって、だって異常だよ、そんなの! ロクちゃん、死んじゃってもおかしくなかったのに……! 自分の受け持ってるクラスの事でしょ!? 関係ないなんて、よくもそんな事……ッ!」


 私は自分を呪って唇を噛んだ。説得のためとはいえ、あんな事を軽々しく言うべきではなかった。私は取り乱すルチアを抱き締めて、彼女の背中を何度も撫でた。


「どうしたの?」


 投げかけられた気遣わしげな声に、私は、ハッと顔を上げる。……高儀だった。音を聞きつけて様子を見にやってきたのか。


「……すいません、平気っス。ちょっと、コイツ、転んじまって。よっぽど痛かったみたいで」

「……そう。怪我はない?」

「はい、大丈夫そうっス」

「……なら、いいけど。そういえば油田さん、退院したんだね。元気そうでよかった」

「あ、はい。……お花、ありがとうございます」

「あれは野尻さんの気持ちだよ。私はちょっと選ぶの、手伝っただけだから」

「……。いえ、それでも。気遣って貰えたのは嬉しいんで」


 私はルチアの手を引いて、高儀の横を通り過ぎる。その時、彼女のジャージのポケットに、準備していた紙切れを、すれ違いざまに滑り込ませた。


「……え、油田さん、何?」


 高儀が振り返って、私を呼ぶのがわかったが、私はそれを無視した。……本当はルチアに日直を代行させ、職員室の机の上に置いてこさせる手筈だったものだ。やや強引な手段に土壇場で変わったが、仕方がない。今のルチアをイシセンに会わせるわけにはいかない。


 彼女が「それ」をポケットから取り出して開くのをさりげなく確認し、私はルチアと共に教室へ急いだ。


「……ごめんね」


 私に手を引かれながら、ルチアが震える声で、小さく呟いた。私は返事をする代わりに、彼女の頭をちょっと乱暴に撫でた。


 教室に入った途端に、クラスメイト全員からの刺すような視線を浴びた。たじろぐ私めがけて、普段は話したこともない戸出達のグループが、汚職政治家に殺到する記者の如く集まってくる。


「雲雀ちゃん、おはよー! もう退院したんだ、え、つか頭大丈夫?」

「……あ、ああ。もう平気……」

「良かったー! 琉智空ちゃんとかめっちゃ寂しがってたもん。あ、勿論愛有達もね」


 戸出は自分の事を名前で呼ぶ。マシュマロを機関銃で乱射するようなそのノリに、私は眩暈がしていた。


 甘ったるいコロンの香りが鼻をつく。フリルのシュシュで結えたサイドテールが揺れる。戸出をこんなに近くで見た事が無かったが、彼女は、垢抜けた愛らしい顔立ちをしていた。制服の上からでも早熟な肢体が窺え、全体として魅力的な女であることは間違いなかった。クラスメイトの男子と付き合っている、という話も聞くが、それも頷ける。――だからこそ、怖かった。そんな「武器」を持った人間が、他人を平気で傷つけられる精神性を持ち合わせていることが。


 それに、やはりどこか、。面差しが。


 ――駄目だ。私は、この少女と、戦えない……。


「ていうか、あの時の油田さん、めっちゃカッコよかったよね!」

「わかる、漫画みたいだった!」


 それからも、彼女達は私を口々に褒め称えたが、その殆どは耳に入ってこなかった。その生垣の隙間から、野尻の姿が見える。彼女は私の方をチラリと伺って、それから俯いた。かつてのヒエラルキー最上位の面影は、もうそこには無かった。


 イシセンが教室に現れ、戸出達はそれぞれの席に散っていく。奴は私の復帰について軽く流し、連絡事項を端的に伝えた。


 休み時間中も、私はずっと戸出達に拘束された。野尻どころか、林にすら話しかける暇は与えられなかった。……戸出が、急に私と仲良くしたくなったとも思えない。明らかに彼女は、野尻を孤立させるために動いている。それがわかってなお戸出を退けることができない、自分の臆病さが嫌だった。


「てかさ、雲雀ちゃんと愛有、同小なのに全然絡みなかったよね」


 そんな時。戸出が唐突に振ってきた会話に、私は戦慄する。隣にいたルチアが驚いて、私を見た。


「……そう、なの?」

「そうだよ、何度か同じクラスにもなったもん、ねー」

「あ、ああ……」


 戸出は目を細めて、微笑んだ。


 そうだ。私は、戸出愛有という女子の事を、昔から知っている。それでもなお、彼女と関わるのを意識して避けて来たのだ。


「雲雀ちゃん、今はクールだけど昔ヤバかったよ。男子殴って泣かせたりとかしてたから」

「え、マジ? 怖っ!」

「でも、愛有はちょっと憧れだったなぁ。その頃から持ち物のセンスとか、良かったし。今もだけど」

「あ、わかる。油田さん、男ウケとか全然狙ってないの逆にいいよね」

「ねー、チンパンは女捨て過ぎだけど、そこまでもいかないじゃん」


 時折爆笑を交えながら、戸出とその取り巻きは一方的に話し続ける。それを適当に薄ら笑いで流して、私は地獄のような時間をやり過ごした。――「チンパン」という単語が何を、誰を指しているのかは、考えないように努めた。


「……一人で、大丈夫?」


 放課後。ルチアが私の目を見て、不安げに言った。


「……大丈夫だよ。こんなことで部活休ませるわけにもいかないだろ。私に任せとけ」

「……でも」

「琉智空ちゃん部活行こー!」


 私達の会話は、やはり戸出によって遮られた。小さく舌打ちした後、ルチアは最後に私の手をそっと握って、教室の外で待つ戸出の方に向かった。


「……じゃあね、ロクちゃん」

「雲雀ちゃんバイバーイ!」

「……おう」


 私は戸出とルチアを見送り、教室に残された。既に、野尻は部活に行っている。グラウンドには戸出はいない。それが少しでも息抜きになればいい。


 溜息をつき、私は考える。私が今やろうとしていることは、本当に野尻の助けになるのだろうか。むしろ、余計に彼女を追い詰めることにしかならないのではないか。


 しかし、最早賽は投げられたのだ。真面目な彼女は、恐らく渡したメモ書きの通りにするだろう。待ちぼうけをさせるわけにはいかない。運命がどう転ぼうが、もう動くしかない。それでも、僅かに残った逡巡が、約束の場所に赴く足を躊躇わせた。


 その時不意に背中を押され、私は前方につんのめった。戸出がいる間碌に話が出来なかった林が、いつもの笑顔で立っていた。


「うっす」

「……おう」

「……今日は、アレだったね。災難、みたいな」

「ああ、まぁな……」


 長年の友人の労いに安心して、涙が出そうになる。林はちょっと心配そうに、私の顔を覗き込んだ。


「……どしたの」

「……いや、その」


 私は一つ深呼吸して、言った。


「……一世一代の戦いに挑むか挑まねーか、迷ってる」


 林は首を傾げた。事情など知らないのだから当然である。……しかし奴は突然、私の背中を強めに叩いた。


「いって……ッ! てめ、病み上がりだぞこっちはッ!」


 運動神経の悪い林だが、体重が体重なのでかなり痛い。溜まっていた涙がちょっと溢れそうになる。私が睨みつけると、林は悪びれもせずに腕を広げて、元気に言った。


「大丈夫だよ、ひばりんなら!」

「……いや、何が……」

「ルチ公もよく言ってるけどさ」


 林はくるりと向こうを向いた。ずんぐりした背中の向こう側、あの時から修繕されたらしい、一枚だけ澄み切った窓ガラスから、傾いた陽の光が差してくる。


「……私も、割とマジでさ。ひばりんのこと、カッコいいって思ってるんだぜい」


 言葉に詰まる私に、林が振り返った。その表情は、いつもの、呆れ返るくらいに陽気な林菜乃幼馴染の笑顔だった。


「だから胸張って行ってきなさい! 何処か知らんけど!」

「……んな無責任な激励があるかよ」


 私は苦笑したが、胸の内に溜まった澱みが、少しだけ洗い流されたような気がした。――思えば、兄の時もそうだった。あの経験以来荒み切った私を、無責任に、だけど優しく支えてくれたのは、林だった。


「……行ってくる」

「おう、頑張れよ!」


 私は、もう一人の親友に手を振られながら、教室を後にした。


"大事なお話があります。

放課後の16:00、一人で体育館裏に来てください。

                  油田雲雀"


 あの時渡したメモには、そう書いてある。彼女は、おそらくそこにいる。私には、その確信があった。


 そして。


 ――高儀は、来ていた。


「……すいません、部活の時間に呼びつけて」


 頭を下げる私に、高儀はいつもの優しい微笑みで、首を振った。


「ううん、いいよ。大切なお話なんでしょ。でも、何のこと?」


 そこで高儀は、何かを思い出したような顔をして、少し後ろめたそうに俯いた。


「……もしかして、野尻さんの事かな」

「……気づいてるんスか」

「……うん。体育の、時間中にね。野尻さん、今までクラスの中心って感じだったのに、急に仲間外れにされ始めて……。一応、石黒先生には相談したんだけど……」

「アイツに頼るのは間違いスよ」


 私が吐き捨てると、高儀は、ちょっと困ったように眉を下げて、諭すように言った。


「……油田さん、先生にそういうことは」

「すいません。野尻の件じゃないんです。……いや、無関係ではないんスけど」

「……どういう」


 私は、スカートのポケットから、あるものを取り出し、高儀の目の前にぶら下げた。


 登校中にルチアから受け取った、第二の証拠品。ガラム・スーリヤ。


「これについて、なんかご存知ないスか」


 それを目にした高儀は――明らかに、狼狽した。笑顔を浮かべてはいたが、顔色は蒼白だった。


「ど、何処で、拾ったの?」

「体育館のトイレっス」

「そ、そういうのはその日のうちに、教えてくれないと、ダメじゃない……」

「……別の日に拾ったなんて私は言ってないんスけど?」


 高儀が、ハッと口元を覆った。その反応で、私は、絶望的に確信してしまった。嘘だ、と、心の何処かで叫ぶ自分もいた。


「……すいません。実は、最初の事件以来……私とルチアで、それとなく、犯人は誰なのか調べてたんスよ」


 高儀は、何か恐ろしいものを目前にしたかのように、凍りついていた。


「……こいつを見つけたのはテスト前っス。掃除の時間から、ルチアが部活に行くまでの短い時間に、体育館のトイレに捨てられてたんスけど、その癖、現場には匂いも残ってなかった。私達はそこから、一連の事件が、喫煙をしてる不良生徒じゃない、愉快犯の仕業、もしくは誰かへの嫌がらせなんじゃないかって、仮説を立てた。そいつは家の灰皿か何かから吸い殻を持ち出して、校内にばら撒いたんだ」


 高儀の表情は、時間が止まったかのように変わらない。私の言葉が耳に入っているのかもわからなかったが、私は構わず続ける。


「で、三度目の事件が起きた。この前日も、私達は帰りがけに吸い殻探しをしてます。だけど、それらしいものは見つけられなかった。……でも、先生はその日の夕方、吸い殻を見つけたんスよね。それは何処にあったんスか。……いや、そもそも、本当にんスか?」

「……か、帰りがけに、見つけたんだよ。だいぶ遅くなったから、暗かったけど、中庭の、隅に……」


 彼女がもう、なりふり構わなくなっているのがわかった。視線を泳がせ、今にもこの場から逃げ出しそうな彼女へと詰め寄り、私はさらに質問する。


「じゃあ、もう一つ聞くんスけど。先生、私達が二人乗りして帰るのを見たって言ってましたよね。流石に学校の中からじゃ、下校する生徒の顔まで判別するのは不可能だ。つまり、先生は外から私達を見たんです。でもあの日はテスト期間で、部活は本来休み。生徒の自主練に顧問が顔を出す道理もない。……なのに、なんで先生は外にいたんスか」

「……い、いつもより早く……仕事が終わって……」

「……んなわけねぇだろ。8

「あ……ッ」


 私は、彼女の言い逃れに苛立ちを覚え始めていた。お前のせいで。お前の意味不明な嫌がらせのせいで、福野は転校させられて、野尻は教室に居場所を失ったのに。


「……アンタは元々、その日に吸い殻をグランド辺りに捨てる気だったんだろ? だけど、ちょうどその時間、私達が外をウロチョロしてたから諦めた。……それに、陸上部顧問のアンタなら、野尻が朝練してる隙に、あいつの鞄に煙草の箱を仕込むのだって簡単だ。その日に抜き打ちの持ち物検査があるかどうかも、当然わかってるだろうしな」

「ち、ちが、違う……」

「……カンパニュラの花言葉は、『後悔』」

「……!」


 スポーツシューズが体育館の床を擦る音と、運動部の生徒達が発する掛け声が反響して壁をすり抜け、私達の耳朶を打つ。壁の外側の事になど構うことなく、彼らは各々の青春を謳歌している。


「……流石に、病院送りにされる奴が出るなんて思ってなかったか? ……何が『野尻さんの気持ち』だよ! 後悔してるのは、アンタなんじゃねぇのかッ!」


 息を荒げ震え出した高儀を、私は真っ直ぐに睨みつけた。そして彼女の足元に、ルチアが拾った証拠品を叩きつける。


「……学校に煙草の気配をばら撒いて、野尻を陥れたのは……テメェだろ、高儀莉子」


 高儀は、力が抜けたようによろめき、体育館の壁に手を着いて、項垂れた。ルージュの引かれた唇から、乾いた笑いが漏れ出す。


「……あーあ……。すごいね、最近の子って……。こんな、見事にバレちゃうんだ……」

「……先生のツメが甘いんスよ。ブツ見せられただけで動揺したりして……」


 私は、深く息を吐いた。いきなり決めつけるような言い方をしなかったのは、彼女が犯人だと信じたくなかった自分が居たからだ。「知らない」と言われるようならそれで良かった。結局、そうはならなかったが。


 私は俯く高儀に向けて、可能な限り優しく、取り繕うような言葉を投げかけた。


「……魔が差した、だけなんスよね。あの時はああ言ったけど、やっぱ、疲れてたんでしょ? 精神的に限界が来て、だからこんな事――」

「あなたに何がわかるの」


 ぽつりと呟かれた乾いた言葉に、私は凍りつく。ぬらりと光る高儀の双眸が、私を捉える。虚な無表情で、その教師は、私に呪詛を投げつける。


「そんな、薄っぺらい同情なんかいらないよ。知った風な顔して言ってくれるけどさ、浅いよ。私がどんな思いしてきたかなんて何にも知らないでしょ? ……子供のくせに。みんなに守ってもらってるくせに。キミみたいなのが、一番イライラするんだよ……」


 優しく穏やかだった教師の言葉、その一つ一つが、散弾のように心を抉る。私は危うく泣きそうになるのを、強引に堪えた。


「……すいませんねェ、生憎こういう性格なもんで。嫌われるなんて承知の上なんスよ」


 私は努めて飄然と嘯いて、無表情のままでいる高儀を、再び睨みつけた。


「……だけど、野尻は違うでしょ。アイツは……確かにキツイところはあるけど、私みたいに捻くれたクソガキじゃない。……大体先生は、アイツにずっと目かけてたじゃないスか」


 それを聞いた高儀は、うっすらと笑いながら俯き、それから、ポツリと口にした。


「……綺麗だったから」

「は……?」


 混乱する私に、高儀は語り始めた。


「……私、陸上選手目指してたんだ。でもね。私のお父さんが、昔、教師になりたがってたらしくて……」


 ――その夢を娘に仮託したかった父親と、彼女は対立した。それならば意地でも結果を残し、父を見返そうと、全てを擲って、学生時代の高儀は練習に励んできた。――しかし、結果は最後まで、振るわなかった。高校時代最後の県大会で、彼女は敗れ去った。


「……才能が無かったんだって。井の中の蛙って言われたよ。だから、お前のために言ってやってたんだって……。酷いよね、最初から、全部エゴのくせに……」


 高儀は、目を細めて天を仰ぐ。もう6月に差し掛かるというのに、忌々しいくらいに空は晴れ渡っていた。


「それでも、この職業にちょっとは夢、見てたよ? 実習生の頃はまだ楽しかったし、無事に、教員免許取って……お父さんが自分のことみたいに喜んでくれた時は、悔しいけど、嬉しかった。それに教師になれば、お父さんがやったみたいに、誰かに夢を託すことだって出来るでしょ」


 高儀は首を振り、自らを嘲るように口の端を歪めた。


「……でもさ、実際託そうと思ったらさ、辛いんだよ。"成功例"そのものなんだもん、あの子」

「成功例……?」

「……全部が上手くいった世界の、私。才能があって、明るくて、友達もたくさんいて……」


 高儀が、ゆらりとこちらを向き直った。幽鬼のような虚な笑みは、もう、教師が浮かべていいものではない。私の前に立っているのは、妄念に取り憑かれた一人の女でしかなかった。


「だから、綺麗だったんだよ。私が欲しくても手に入らなかったものを、あの子は全部持ってたの。あの子が、奪っていった、私から……」

「違う!」

「そうだよ、違うよッ! でも、でもさ、そう思っちゃったんだよ! あの子が憎いって、私と同じ場所に、堕ちてしまえば――」


 無様に、無惨に撒き散らされる彼女の呪詛を――不意に、凛とした声が遮った。


「莉子ちゃん」


 私は弾かれたように振り返る。高儀が顔を上げ、息を呑んだ。そして震える声で、その女子生徒の名を呼ぶ。


「……野尻、さん」


 学校指定の、紫のジャージに身を包んだ野尻が、そこに立っていた。


「……お前、いつから……ッ」


 野尻は、気まずそうに私から目を逸らす。


「……莉子ちゃんがどっか行くの見て、気になって、追い掛けたの。……まさか、雲雀が呼び出してるなんて、思わなかったけど」


 野尻の眼差しが、私の背後に立っているであろう、高儀の方を向いた。


 私は自分の不思慮を呪った。何故、この状況が想定できなかったのだろう。内心パニックに陥っている私を他所に、教師に陥れられた14歳の少女は、まっすぐ、加害者を見つめていた。


「……ごめん。全部、聞いちゃった」

「あ……ぁ……」


 野尻が、こちらに向けて歩き出した。私の横を、彼女は迷いなくすり抜けていく。


「の――」


 伸ばした私の手を、野尻は退ける。彼女は、足元に落ちていた吸い殻を一瞥もせずに踏みつけ、その場を動けずにいる高儀を――優しく、抱き締めた。


「……野尻……さん?」


 困惑を滲ませた声で、高儀が呟く。


「……ごめん。莉子ちゃんが、そんなに辛い思いしてたのに、私、気付けなかった。自分の事ばっかり、考えてた。……傷つけるようなことだって、いっぱい言ったんだよね、私」


 高儀は野尻に抱き締められたまま、歯噛みした。


「何でよ……! 自分がされたことわかってるの!? 私のことだって、福野さんにしたみたいにすればいいでしょ!? 何で怒らな――」

「怒ってるよッ!!!」


 ヒステリックな喚き声を、野尻の怒声が遮る。


「今だって、ぶん殴ろうかどうしようか迷ったよ!! でも、出来ないよ……! 私、莉子ちゃんの事、大好きなんだもん……!」

「あ……え……?」


 高儀が、目を見開いた。野尻は滔々と、胸の裡を吐き出し始める。


「私だって、やな事ばっかりだったよ。愛有が前から私の事嫌いなのだってわかってた。他の部員は一人だけマジでやってる私の事馬鹿にしてたし、親だって全然応援してくれない。……けど、莉子ちゃんは違った。莉子ちゃんはずっと、今の私の事を、真剣に見てくれてたでしょ? 」


 高儀は呆然としながら、力無く首を振る。


「……違う……。私はただ……貴女を……妬んでただけ……」

「そんなの知らないッ! 私は、莉子ちゃんにいっぱい励まして貰った! 支えて貰ったの! 莉子ちゃんが内心どう思ってたのかなんて関係ない、私は嬉しかったんだよ……!」


 高儀の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。それは、悔悟によって流されたものだろうか。


「本当は、憎いって思ってたのかもしれないけど……。だからって、今更、嫌いになんかなれないよ……」


 訴えかける野尻の体を、高儀は強く抱き締め返す。


「……ごめんね」


 そして彼女は、震える声で口にした。涙で化粧を崩されたその顔が、ひどくあどけなく、私の目に映った。


「……ううん。謝って、許されることじゃないよね。私、本当に最悪のことを……」

「……そうだよ。マジで最悪だよ。絶対に、絶対に許さないから。だから……」


 自分より大きな背中を撫でながら、半ば呪いをかけるような言葉を、野尻は口にする。だけどその声色は、優しかった。


「……これからも、ずっと私のこと見てればいいよ。ね、莉子ちゃん」


 生徒の体に縋り付いて、泣き声を漏らす高儀の姿は、もう、少女のようにしか見えなかった。

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