Chapter9 打たれる側にとっては変わらないよね
夢を見ていた。
夢――というよりは、記憶のリピート。私の魂を捻じ曲げ変えてしまった、あの日の出来事。
兄は昔から物静かな少年だった。皆が校庭で遊んでいるのを他所に、教室で本を読んでいるような、そんな男の子。友達というものがいるのを見たこともない。成績はその頃から優秀であったものの、彼に投げかけられていたのは、賞賛よりも専ら、憂慮の声であった。
家に帰っては部屋にこもってゲームをしている彼について、両親がいつも議論を戦わせていたのを覚えている。その時の私は不思議だった。兄の何が心配なのだろう。クラスで男子と殴り合いなどしていた私の方がよほど心配すべきなのではないか、と。
兄はその頃から私に優しかったと思う。あまり喧嘩というものをした記憶がない。ゲームを貸して欲しいと言えば貸してくれたし、怖い夢を見たと言えばトイレまで同行してくれた。雨の降った休日にはもっぱら、私は兄とゲームで対戦したり、協力プレイで遊んだりした。私はそんな、大人しくて綺麗で理知的な兄との時間が好きだった。ガサツで不細工で脳味噌の足りないクラスメイトの男子を、兄と比較して蔑んでさえいた。
――そんなある日、状況が変わった。
確か、兄が小学校5年、私が2年の春だったか。「サッカーをやってみないか」と、父が突然、兄に持ちかけた。何でも、両親の共通の知り合いがコーチを務めている少年サッカークラブがあるのだという。兄は渋ったが、父は溜息をつき、彼に言った。
「翼。お前ずっとそのままだと、いつか本当にダメになるぞ」
兄は俯き、結局、父に従った。その頃の兄は、今のように両親に反抗的ではなく、むしろ、従順な部類だった。私に優しかったのも、妹には優しくしろ、という両親からの言いつけを律儀に守っていたのかもしれない。
それから兄の休日は、サッカーの練習で埋まった。彼はいつも泥だらけで疲弊した様子で帰宅し、風呂に入り夕飯を食べるとすぐに眠った。私は結果的に兄と遊ぶ時間を奪われ、不満だった。
ある日、母に連れられて兄の出場する試合を見に行った事がある。兄と同じくらいの背丈の少年達があっちに行ったりこっちに行ったりしていて、おまけにどちらが兄のチームかもよく把握していなかった私は、彼が活躍しているのかそうでないのかもよく分からなかった。
というかそもそも、当時の私にとって、サッカーの試合は余りにも退屈だった。何で彼らがボールを追いかけているのか、今笛が鳴ったのは何故なのか、全く理解できなかった。そもそもそんなにボールを取られたくないなら手に持てばいいのに。変なの。母親や周囲の大人達は彼らにやかましく声援を送っていたが、その意味もよくわからなかったし、単純にうるさくて嫌だった。
「お、時子ちゃんも来てくれてたんだ」
休憩中、水筒のお茶を飲んでいたら、いやに軽薄な声がした。顔を上げると――今思えばだが――いかにも「遊んでいる」風貌の男性が立っていた。父と同じくらいの年頃だろうか。母は親しげにその男の名前を呼んだ。どうやら、彼が兄の所属するチームの監督を務めているらしい。見知らぬ人が怖かった私はずっと母の陰に隠れていたのだが、男の興味は当然私にも向いた。
「翼クンの妹さん? 可愛いねぇ、今いくつ?」
「……」
黙って顔を背けた私の代わりに、母が苦笑交じりに言った。
「ごめんね、この子お転婆な癖に人見知りで。今小3」
「あ、じゃあうちの下のと一緒だ? 学校で会ってるかもね」
それからも男と母は、私を置き去りにして世間話を続けた。知らない男と自分の母親が楽しげにしているのが何だか嫌で、とにかく早く帰りたくて仕方なかった。
「どうだった?」
試合が終わり、帰りがけの道。スポーツ公園の遊歩道を歩きつつ、母がニコニコしながら私に尋ねた。私の隣では、兄が俯きがちに歩いていた。
「つまんなかった」
私は正直に答えた。嘘をついたらまた連れて来られると思ったからだ。母は戸惑ったような顔をしたあと、厳しい眼差しで私を見下ろした。
「雲雀。翼があんなに頑張ってたのに、そんな事言っちゃダメでしょ」
納得できずに、私は内心で首を傾げた。どうだったと聞かれたから素直に感想を述べたのに。ただ、それを言うのも面倒だったので、私は「ごめんなさい」と小さく言った。
「お兄ちゃん、帰ったらぷよぷよやろ」
母の車に乗り込みながら、小声で私は兄に言った。兄は私に目を合わせず、首を振った。
「……疲れたから」
その返答に私はがっかりして、それからずっと膨れっ面で、車窓からの風景を見ていた。
――そして。
それから数日後、決定的な事が、起きた。
私は母親から任されたお使いを終え、夕暮れの道を、エコバッグを携えて歩いていた。その途中に、私が当時通っていた小学校がある。そのグラウンドの片隅、サッカーゴールの辺りに、少年達が集まって騒いでいるのが見えた。こんな時間に何をしているのだろうと、私は単純に興味を引かれて、そちらに近づいた。
そのうち、少年たちの喧騒の内容が聞き取れるようになってくる。それが口汚い悪罵と怒声、嘲笑の声だと気づいて、私は一瞬、足を止めた。本能が私に引き返せと訴えたが、私は、恐る恐る、彼らへの距離を詰めて行って、
そして、目撃してしまったのだ。
サッカーゴールに、紛れもない、私の兄が立たされていた。少年達が乱暴にボールを蹴って、何度も、何度も、兄にぶつけていた。練習の風景と称するには、それは余りにも野蛮な光景で、事実兄の顔は、苦痛に歪んでいた。私は恐怖に息を呑み、近くの植え込みの後ろに隠れた。
少年達による暴虐を、ニヤつきながら見ている大人がいた。試合の時、母親のところにやってきたあの男だった。その口からタバコの煙を吐いて、男は立ち上がり、兄に歩み寄った。砂の上に膝をついていた兄の襟首を、大人の手が乱暴に掴み、立ち上がらせる。
「お前さァ、こんなんじゃ中学上がった時大変だよォ? 怖ーい先輩とかいくらでもいるんだから。お勉強だよ、お勉強。得意だろ? 油田の倅だもんなァ」
男が手を離し、兄は地面に頽れた。その顔は、涙でグシャグシャになっていた。それを見て男はせせら笑い、吐き捨てた。
「女みてぇなツラしやがってよ。昔の油田そっくりだわ。ちゃんと金玉ついてんのか、お前?」
少年の一人が兄に近づいて、股座を乱暴に蹴り飛ばした。加虐者達から爆笑の渦が巻き起こった。兄は呻き声を上げて、グラウンド上を転がり――植え込みの影から見ていた私と、目が合った。
――その時の彼の絶望の表情を、私はきっと一生、忘れる事ができないだろう。
私は、脇目も振らずにその場を逃げ出した。怖かった。あの現実を認めたくなかった。信号を無視してひたすら走り、クラクションを鳴らされながら家まで帰り着き、私はエコバッグをリビングに置いて、母親の声を無視して部屋に飛び込んだ。
サメのぬいぐるみを抱き締めて、私は啜り泣いた。このぬいぐるみが本物のサメになって、兄を虐げた奴らの喉を食いちぎってくれたらどんなにいいだろうと、ありもしない空想に耽りながら震えた。
「雲雀、どうしたの? 何かあったの?」
部屋に入ってきた母親が、優しく私に尋ねた。でも、答えられなかった。あの異常な光景を説明するための言葉が、私には無かった。もしかしたら私が見ていたのが、奴らにバレているかもしれない。奴らが追ってきたらどうしよう。私は恐怖に震えて闇雲に嗚咽し、母は困惑しながらも、それをずっと慰めてくれていた。
1時間程後。気づけば泣き疲れて眠ってしまっていた私を、ドアの開く音が叩き起こした。私は願いを叶えてくれないぬいぐるみを放り出し、玄関へと走った。
「どうしたの!!」
顔にガーゼと絆創膏を貼って帰ってきた兄を見て、母親が驚く。兄は俯きながら、小さく呟いた。
「……友達と、喧嘩して」
母は兄の前に跪いて、心配そうに、その顔を覗き込んだ。
「……本当に、喧嘩しただけ? いじめられたとかじゃないの?」
いじめられてたんじゃないよ、と、私は心の中で呟いた。あれは、そんな、可愛らしいひらがな三文字で表せるものではない。――もっと穢れた、邪悪な何かだ。
見つめる母に、兄は頷いて言った。
「……本当に、喧嘩しただけ」
なおも案じる母を振り切って部屋に篭ろうとする兄の服の袖を、私は掴む。びくりと彼の体が震えて、私は慌てて手を離した。
「……何でほんとのこと、言わないの?」
やっとの思いで尋ねた私を、兄は何もかも諦めたような目で見て、それから言った。
「……お前なら言えるの」
立ち尽くす私の前で、部屋のドアが閉まった。
その夜遅く、飲み会帰りの父が帰ってきた。母が今日のことを話したが、ほろ酔い加減の父は笑って「男の子はそういうものだろう」と言った。
――思えばこの時、私からも父に訴えるべきだったのかもしれない。兄を助けてくれ、と。だけど私は、逆襲を恐れていた。だって、言ったところで彼らとの関係性が完全に断ち切れる訳ではない。彼らの振るう暴虐が、今度は私に向けられたら。あるいは――。
私はその時、古本屋で立ち読みしたある漫画を思い出していた。度の過ぎたいじめが、放火にまで発展する筋書き。あの連中は、御礼参りとでも称して、いかにもそんな事をしそうだった。炎に焼かれて苦しむ両親の姿まで幻視して、私は怯え、兄の言葉を思い出した。……言えるわけが、なかった。
それから、兄は頻繁に体調を崩し、学校を休むようになった。両親にも、教師にも、そして私にすらも彼は心を閉ざした。サッカークラブの練習にもそれ以来行かなくなり、いつしか彼の籍は、自然にあの異常な集団の中から消えた。彼の身に起きたことを知っている者は、兄自身と、私しかいない。
……あの時、私がもっと勇敢で、冷静で、強い女だったら、兄さんを助けられたんだ。
強くなりたかった。クールになりたかった。だから私は、自然に私をそうさせてくれる、ルチアの存在が、嬉しくて、尊くて。守らなきゃ、いけなくて――。
「ひー」
何か、懐かしい声が、私の意識を闇の中から引き上げる。
「ひー」
私は、その声を目印にするように、瞼を開く。
真っ白な天井があった。握られた手のぬくもり。私を見下ろしている、大切な人の顔。
「……起きた」
安堵の息をついたのは、兄だった。
私は、辺りを見回した。……真っ白な壁の静謐な空間に、うっすらと薬品の香りが漂う。まごうことなき病室である。点滴の器具がベッドの傍らにあることに気づくと、その途端、腕に針が刺さっている感触が伝わってきた。
「……兄さん、何で。学校は?」
兄はブレザー姿だった。この時間はまだ授業中のはずである。兄は無表情のまま、答えた。
「抜けてきた」
「……ぬ、抜けてきたって」
急に眩暈がして、私は目を瞑る。兄が、私の手を握る力を強めた。
「よかった。ご家族もずっと心配してたのよ」
兄の傍らにいた看護師らしきお姉さんが、柔和な笑顔で私に話しかけてきた。……お姉さん、というか、おばさん、くらいの歳かもしれない。でも、若々しい印象の人だった。
「お名前と生年月日はわかる?」
「……油田雲雀です。12月29日生まれ……」
「何か、体調に優れない点とかはない?」
「……ちょっと、眩暈がするくらいで」
「そう。……意識を失う前の事は、覚えてる?」
看護師さんに聞かれた途端、急激に記憶が蘇ってきて、頭がキリキリと痛んだ。全てを説明するのは困難だった為、私は言葉を選んだ。
「……喧嘩に巻き込まれて。椅子で殴られて……」
「……誰にやられた」
急に兄が割って入った。冷たい声だった。その瞳が静かな憎悪に燃えていて、看護師さんがちょっと狼狽する。
「……だから、喧嘩に巻き込まれたんだよ」
「誰にやられたのかって聞いてんだけど」
「お兄ちゃん、気持ちはわかるけど、今は落ち着いてね。妹さんを困らせないであげて」
「……」
看護師さんに優しく諭されて、兄は黙り込んだ。彼女は穏やかな微笑みを湛えて、私を見た。
「優しいお兄ちゃんよね。雲雀さんが搬送されてから、真っ先に病院に駆けつけてくれたのよ」
「……真っ先って……」
私は混乱する。そういうのってまず両親に連絡が行くもんじゃないのか。なんで兄の初動が一番速いんだ。
「……お前の友達からLINEあったから」
私の疑問を見抜いたかのように、兄が言った。
「友達……?」
「林って奴」
私はまた眩暈がした。何でそことそこが繋がってるんだよ……。
「……どこでそんな、いつの間に」
「前バイト先に来て、なんか連絡先交換しろって言うから、交換した」
「……」
……林のやつ、兄とは大して交流を持っていないはずなのに、やけに持っている情報が多いと思っていた。知らないうちに連絡を取り合っていたのか。
「お母さん、今先生から説明を受けてるの。呼んでくるわね」
看護師さんはそう言い残して、病室から去って行った。母ももう来ていたのか。午前中はまだパートのはずだ。面倒をかけてしまったな、という思いがよぎる。
それに、教室があの後どうなったのかも気になった。ルチアや野尻は無事だろうか。それに、福野は……。
「……お前、まさか、戦ったの?」
兄が急に問い掛けてきた。その眼差しに、咎めるようなものがあって、私は首をすくめる。……恐らく、昨日の会話を踏まえて聞いているのだろう。
「……違う。無関係じゃないけど、私からは仕掛けてない。……本当に、巻き込まれた」
何だか被害者ぶっているような言い方になってしまい、私は自己嫌悪で気が沈む。だって、加害者側の福野が悪いとすら一概には言えないのだ。兄はなおも何か言おうとして、結局口をつぐんだ。
「……意外だな、なんか」
私は、努めて気楽に口を開く。兄が眉根を寄せた。
「何が?」
「兄さん、冷めてるタイプだから。真っ先に来てくれたって……嬉しいけど、なんか、びっくりした」
兄は溜息をつき、窓の外を睨みつけた。ここは通学路にあるあの総合病院らしい。薬局の立ち並ぶ見知った通りが遠くに見えて、なんだか不思議な感覚がした。
「俺さ」
「……な、何?」
「……オリジナル曲作ったら。お前に最初に、聴かせたいって思ってんだよ」
私はしばらくポカンとしていたが、その意味を理解した途端、急激に頬が熱くなって俯いた。猛烈に恥ずかしかったが、とてつもなく嬉しくて、涙が出そうになっていた。
「雲雀!!」
その時、病室の入り口辺りから声がした。母が私のベッドに駆け寄って、兄が黙って脇に退いた。母の荒れた手が、私の手をしかと握った。私がベッドに居なかったら、きっと抱き締められていたような気がした。私によく似た目元に、涙が滲んでいるのがわかった。
「良かった、本当に良かった! アンタが倒れたって聞いて、もう、本当に心臓が止まるかと……」
それから母は泣き崩れてしまい、言葉が続かなくなった。ちょっと大袈裟じゃないか、という気もしたが、結構な時間意識を失っていたようだし、そりゃあ心配もするだろう。――その時私は今更ながらに、彼女が自分の母親であるという事を理解した。そうしたら、安心やら、今まで内心で反抗していた事への申し訳なさやらで勝手に涙が溢れてきて、私達母娘は、しばらく手を握り合ったまま泣いていた。兄はそれを黙って見ていた。
「……俺、学校戻るから」
私と母がようやく落ち着いてきた頃、兄が急にそう言った。そのまま返事を待たずに去ろうとする彼を、母が呼び止める。
「ありがとうね、翼。わざわざ来てくれて」
「……ありがと、兄さん」
母と妹からの感謝の言葉に、彼は俯き、それから「……別に」とだけ言って、病室を出て行った。母は溜息をついたが、そこに込められた感情が、何だかいつもより優しいような気がした。
「……あの子、先生方に何も言わずに飛び出してきたらしいのよ」
「え、マジ?」
私は、驚いて母の顔を見た。母は苦笑して、頷いた。
「マジ。こっちはアンタの事で頭が一杯なのに、翼の学校からも電話が掛かってきてね。事情を話したら分かって貰えたから、良かったけど」
呆れ笑いで私の手を握る母に、私は、唇を噛んだ。……彼女にずっと、伝えたいことがあった。それを口に出すのは、きっと今だ。
「……母さん」
「うん?」
「……父さんとか母さんは、あんまり兄さんのこと、よく思ってないみたいだし、その気持ちも、わかるはわかる、けど」
私は、困惑している母の顔を真っ直ぐに見て、言った。
「昔から、ずっと……。油田翼は、私の自慢の兄貴だよ」
反抗したいんじゃない。これは、ただの主張。母親は、目を見開いて――それから、今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃの笑顔で私を見た。
「……ごめんね」
母は、呟くようにそう言った。その手が、優しく私の髪を撫でた。
それから医者がやってきて、私と母は、今後について説明を受けた。脳挫傷、という、何となく聞き覚えのある単語で、医師は私の受けた傷の名を呼んだ。詳しい事はよくわからないが、CT検査の結果、症状は幸運にも軽度だったらしい。しかし、損傷が遅れて広がる場合もあるため、しばらく経過観察入院の必要があるのだとか。入院。自分には縁のない言葉だとばかり思っていたのだが。
しかし何より、話の流れで出た"開頭手術"という単語に私はゾッとした。開頭。頭を開く。よく知らないが、頭蓋にドリルかなんかで穴を開けて、脳味噌をどうにかするのだろうか。私は危うく、そんな処置を必要とする状態にまでなりかけたのだ。下手をしたら多分、死んでいた。遅れて震え出した私の手を、母は優しく握ってくれた。
「しかし、昔よりは学校も平和になったと思ってたんだけどね……」
恐らく父よりも年上であろう、恰幅のいい男性医師は、嘆かわしげに溜息をついた。福耳で、何だか恵比寿神に印象が似ている。
「そうですねぇ。私の中学時代も不良なんかはいましたけど、先生のお若い頃は余計にでしょう?」
世間話が好きな母親がそう言うと、医師は頷いた。
「ええもう、『盗んだバイクで走り出す』の時代ですから」
「……尾崎スか」
「おっ、よく知ってるね」
医師はでっぷりしたお腹を揺らして笑った。笑うと余計恵比寿に似ていた。彼はそれから少し、遠い目をする。
「……まぁ、打たれる側にとっては変わらないよね。昔も、今も」
その言葉に、ハッと息を呑む。彼は照れくさそうに笑いながら、頭を掻いた。
「なんて。おかしな事言っちゃったかな」
「……いえ、わかります」
「そう?」
もしかしたら彼も、かつては虐げられる側の人間だったのかもしれない。だけど今はお医者様なんて立派な仕事について、こうやって朗らかに笑っている。……それは何だか、希望のような気もした。
それから、夕方を回った頃。ルチアと林が、病室にやってきた。――やってきたのはいいが、ちょっとそこで一騒動あった。ルチアが私の顔を見た瞬間、ベッドに飛び込んで来て泣き喚いたからだ。完全に取り乱した親友に私は狼狽し、林もオロオロするばかり。結局駆けつけた看護師がルチアを私から引き剥がし落ち着かせた。すいません、ダチが迷惑かけて。
「だから言っただろお、ひばりんはルチ公を置いて逝くような女じゃないって」
林が、しゃくりあげるルチアの頭をくしゃくしゃ撫でながらそう言った。そういう林の目尻も随分腫れていたものだから、私はむしろそれで泣きそうになった。……そういえば、兄と連絡をとってくれたのも林だったか。ルチアが私を見て申し訳なさそうに、形の良い眉を下げる。
「……ごめんね。本当はすぐお見舞いに行きたかったのに、早退はダメだって言われて……」
どうやら放課後まで、ルチアと林は学校に拘束され続けたらしい。一応私の意識が戻った事、命に別状がない事はイシセンから聞かされていたものの、実際に様子を見るまでは不安で仕方なかったそうだ。昨日喧嘩したばかりの彼女がそこまで私を慮ってくれていたのがまず嬉しくて、私は首を振った。
「いや、いいよ。……それより、あの後どうなったんだ」
ルチアが俯いて口を閉ざす。代わりに、林が順序立てて教えてくれた。
福野は、私が昏倒した事で幾分か動揺したらしい。その隙を突いて動いたのが、なんと山田だった。彼の行動を切欠として、男子達が協力して福野を取り押さえ、騒ぎを聞きつけて教室に駆けつけた大門(担任じゃないのかよ)によって、事態は一応、収束したそうだ。
「……野尻は、大丈夫なのか?」
「うん、擦り傷で済んだみたいだよ」
「……なら、良かった」
その野尻がこの場にいない事が、少し気になった。……部活もあるだろうから、仕方ないが。もし責任を感じているのだとしたら、そんな必要は無いと伝えてやりたい。
気になると言えば福野もそうだ。男子達に取り押さえられた後は教師に引き渡されたのだろうが、その後はどうなったのだろう。……これは少し、聞くのが怖くて、聞けなかった。
夕方過ぎには父がやってきて、ベッドに横たわる私を気遣わしげに見下ろした。会社帰りでそのまま来たのか、スーツ姿だった。
「すまん、仕事がどうしても抜けられなくて。調子はどうだ? 今はどこも悪くないか?」
兄さんは学業を放擲して駆けつけてくれたぞ、と思わなくもなかったが、父を責めるのも酷だろう。学生と社会人では立場が違う。私は微笑んで、大丈夫、と言った。
父は家から色々なものをカバンに詰めて持ってきてくれた。大体私が母に事前に頼んだものだが、そのうち、要望に入れていなかったはずの一つに私は驚く。兄と共有しているswitchだった。これどうしたの、と尋ねると、父は頭を掻く。
「翼に持っていくように頼まれたんだよ。……あんまりやり過ぎるんじゃないぞ、入院中なんだから」
「……うん、わかってる」
私は兄の心遣いを、胸の中に抱きしめた。なぜ私がこんなに感動しているのかわからないらしく、父は首を傾げていた。その日私は、個室であるのをいいことに消灯時間過ぎまでゲームに没頭し、看護師にしこたま叱られて涙目になった。
そうして一週間の入院生活が始まったが、当初の印象とは違いあまり退屈はしなかった。……というかそもそも、学生の本分である勉強を一切しないわけにもいかない。私がベッドで寝ている間にも授業は進むのだ。幸い兄が毎日顔を出してくれたので、彼に協力を仰ぐこともできた。
ルチアは部活の都合であまり見舞いに来られなかったが、毎日LINEで学校の話を聞かせてくれた。でもやっぱり、ロクちゃんがいないと辛いよ、と彼女は言った。寂しい、ではなく、辛い。「私、学校嫌いなんだ」――火曜日に聞かされたその言葉を私は思い出し、私は胸が締め付けられた。
そして、土曜日を迎えた入院4日目の朝。野尻が、病室に初めて姿を現した。
「……ごめん、雲雀」
Tシャツにジーンズ姿で、大きな紙袋を携えた野尻は、私を見るなり頭を下げた。……私の予想は、どうやら当たっていたらしい。
「……本当は、もっと早く来なきゃいけなかったんだけど」
「いや、いいよ。部活も塾もあるんだから仕方ねぇだろ」
「違う! あたし……その、ごめん。部活があるとか、言い訳にしてて……ホントは……許してもらえるわけないって……雲雀に会うのが、怖くて……」
野尻が、今にも泣き出しそうな顔で俯く。私は、腕を伸ばして彼女の頭を撫でた。今まで友達からそんなことをされた事がなかったのか、野尻が少し狼狽える。仲良くなって数日なのにちょっと馴れ馴れし過ぎたか、と思ったが、野尻は拒む事なく、私の手を受け入れた。
「……いいんだよ。怒ってないから。むしろ、お前は最初から被害者じゃんか」
「……そんな事……」
「……でも、気になりはするんだよな」
「気になるって……?」
「お前と、福野のこと」
「……ッ!」
怯えたように息を荒げ、目を泳がせる野尻に、私は胸が痛んだ。……それでも私は、彼女をまっすぐに見据えて、続けた。
「……流石にそれくらい、知る権利はあるだろ?」
野尻はしばらく沈黙していたが、やがて頷き、口を開いた。
「……幼馴染だったんだ」
物心ついた時から、福野は野尻の隣の家に住んでいた。幼い野尻は、同い年の福野とよく遊んでいたのだと言う。――これだけ聞けば、微笑ましいエピソードのようにも聞こえる。しかし、実態は全く違った。
「……あいつの母親、厚かましかったんだよ。シングルマザーで、家が貧しいのもわかってた。だけどアレは……やり過ぎ……!」
頻繁に食材や生活雑貨などを無心にやってくる福野の母親を、お人好しだった野尻の両親は暖かく受け入れた。福野と遊んでいたのも、その母親に頼まれて仕方なくの事だったという。……あろう事か、家族旅行に娘を連れていくよう要求され、それに従った事もあったそうだ。幼い頃の野尻の思い出の影には、必ず福野の存在がついて回った。
福野がごく普通の女の子であったなら、あるいは野尻もそれに耐えられたのかもしれない。しかし、そうではなかったのだ。福野の行動は、その頃から常識を外れて予測がつかなかった。「一緒に遊ぶとかじゃない、あんなの"介護"だよ」と、野尻は吐き捨てた。家族旅行の時など、野尻の両親は福野の世話に付きっきりになっていたという。
ただ、福野の側は、心の底から野尻に懐いていたようだ。実際、野尻が他の友達と遊んでいると、彼らに暴力を振るうことなどもあった。最終的には野尻が友達から遠巻きにされ、孤立するまでに至った――。
「本当に、本当に嫌いだった……。親にも何度も泣きついたよ、でも、『ああいう子には優しくしなきゃダメ』って、聞いてくれなくて……」
野尻が小学校に上がる頃、福野の家が急に引っ越しをした。心の底からホッとしたそうだ。これでもう、あの少女の存在に苛立ち、怯えながら生きなくて済むと。
――しかし、中学で二人は再会してしまった。それもよりによって、同じクラスでだ。
「……だから、愛有がアイツのこと、グランドで見たって言った時にさ……。アイツ、やっと見つけた夢まで、奪っていく気なんだって……」
野尻は次第に声を震わせ、ついにはその目元から、涙が溢れ出した。
私は、野尻を責められない。彼女へのあらゆる批難の言葉は、当事者ではないから、言えることだ。
「……お前は、悪くないよ」
私は彼女の頭を撫でながら、出来る限り優しく、呟いた。野尻は私のベッドの隣で啜り泣き続けた。今まで誰にも言えずに蟠っていた気持ちを、全て絞り出すみたいに。
「……ごめん。情けないとこ、見せた」
やがて落ち着きを取り戻した野尻は、頬を染めつつ、私から目を逸らした。
「……謝るのはこっちだよ。嫌なこと、思い出させちまったな」
「ううん。私もなんか、泣いたらスッキリしたから」
野尻は照れ臭そうに笑い、それから「そうだっ!」と、急に話題を転換した。ベッド脇に置いていた紙袋から、何かを取り出して私に手渡す。
「あ、これ……」
有名洋菓子店のプリンである。瓶入りで高級感のある一品で、実際値が張り、そしてハチャメチャに美味い。口にするのは、中学入学の時に母親が買って来て以来だ。私がよほど目を輝かせたのか、野尻の口元が綻んだ。
「……マジか。やべ、すげー嬉しい」
「ウケる、めっちゃ喜ぶじゃん。……あと、これも」
紙袋から、野尻がもう一つのものを引っ張り出した。今度は食い物では無く、フラワーアレンジメントだった。紫色をした、釣鐘型の可憐な花がふわふわと揺れている。
「莉子ちゃんと一緒に選んだんだ。お花って、やっぱ定番……でしょ?」
「……サンキュ」
体育会系の野尻のイメージとは遠いプレゼントに、私はちょっと驚く。ただ、それを口に出すのは流石に失礼な気がして、私は素直に礼を述べた。野尻は、ベッドの傍らにあるスツールにアレンジメントをそっと飾り、私の手を握った。
「……早く戻って来てよ、学校」
私に向けて落ちて来たその言葉は、何故だか、私への労りというよりも、懇願のようだった。
午後になると、ルチアがやって来た。この間目にした、お嬢様風の休日コーディネートである。林は家の用事があるらしい。ちょうど、久々に味わった高級プリンの美味しさに打ち震えていた時だったので、私はひとすくいだけ、彼女にそれを分けてあげた。
「これ、どうしたの? お母さんから?」
「いや、野尻から。午前中に来たんだよ」
それを聞くと、何故だかルチアの表情に影が差した。「そうなんだ」と返す声もか細い。私は首を傾げた。
「……どうした?」
「あ、ううん……何でも……」
とても何でもないようには見えない。黙ったままじっと見つめていると、ルチアは重々しく口を開いた。
「……舞衣ちゃん、今、戸出達から無視されてるんだ」
胃の腑に鉛を落とされたような気がした。……正直予想できていた展開ではあったが、その事実は、想定を遥かに超えた重圧を私に与えた。ルチアは、震える声でさらに続けた。
「……ごめん。私があの後、舞衣ちゃんの事責めたから。それ、みんな見てて……」
ルチアがスカートの裾を、千切れそうなほどにぎゅっと掴んだ。今の彼女は、イシセンに理不尽を振るわれた時と同じ顔をしていた。
「……私のために、舞衣ちゃんの事ハブってるみたいな空気に、今なってて……。ホントに、ムカつく……。マジで死ねよ、アイツら……ッ!」
「……落ち着け。学校ならともかく病院で言うな、そういう事は」
私は、震えるルチアの拳を握って、溜息をついた。野尻の懇願は、そういうことか。
事態は、最悪の方向に動いてしまった。戸出が全ての黒幕だとすれば、もうこれは、彼女の思う壺と言ってもいい。……私は、どうすれば良かったのだろう。あの時、足が竦んだりしなければ、もっと早く動いていれば。
兄さんの言う通りだ。私には、何もできない。
「……これも、舞衣ちゃんが持って来たの?」
ルチアの眼差しが、スツールの上のアレンジメントに向く。私は頷いた。
「……そうなんだ。……舞衣ちゃん、ホントに気に病んでるんだね」
「……みたいだな。わざわざ花なんて持ってきて」
「……それだけじゃないよ」
ルチアの白い指先が、釣鐘型の花弁にそっと触れる。まるで風に躍るかのように、花がふわりと揺れた。
「……カンパニュラの花言葉はね――」
告げられたその単語に、私は息を呑んだ。……まさか、そんな意味合いのある贈り物だったのか。
「……よく知ってるな」
「……え? あぁ、ごめん。うち、お母さんがお花の仕事してるから、そういう本いっぱいあって。普通はみんな知らない、かな」
「渋見あたりなら知ってそうだが、野尻はどうだろうな。ああでも、確か――」
――その時、私の脳に閃きが走った。そうしたいと願ったわけでも無いのに、全ての事実が、知り得た情報が、繋がってしまった。私は突き刺すような頭痛に、額を抑えた。
「ロクちゃん!?」
ルチアが心配して、私の顔を覗き込む。それにも、私は応える事ができない。
「まさ、か……」
震える唇が、言葉を紡いだ。まさか、まさかだ。だって、そんな事はあり得ないのに。あってはならないのに。受け入れろ、これが真実だと、福野に打たれた脳髄が、嘲笑うように囁いていた。
「……ルチア」
私はやっとの思いで、親友の名を呼んだ。
「な、何……?」
「退院したら一つ、手伝って貰いたいんだけど、さ」
「いいよ、何でも手伝う。でも、どうしたの?」
私は、ルチアの顔をまっすぐに見る事ができず、俯いたままで、呟いた。
「……煙草の真犯人が、わかった」
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