十一 胡蝶の役目

翠雨は、今日も一人森の中で胡蝶を探していた。帰り道が分からなくなってしまったあの時、たまたま胡蝶に遭遇したが、それ以来全く見つからない。

(けど、さすがにそろそろ諦めた方がいいな。菫に迷惑をかけ続けるわけにはいかないし)

既にこの狭間の森に来てから一か月以上が経っている。胡蝶探しのついでに食材探しをしたり家事を手伝ったりはしているが、それだけでは足りないほど世話になっている気がする。菫はほとんどこちらの行動に干渉してこないが、それでも面倒だとは思っているだろう。むしろこれほど長い間何も言わずに、翠雨がここにいることを許してくれたことがありがたい。

――でも、もしここで翠雨が狭間を出たら、菫との関係はおしまいだ。翠雨は半妖で、いつ有明国の人々にそれが知られてしまうか恐れながら生きているが、決して孤独ではない。翠雨の正体が明かされない限りは周りの人々とは良好な関係を続けることができるし、友人だっている。一方、この深緑に覆われた森に暮らす菫はどうだろう。時々有明国を訪れてはいるようだが、基本的にこの狭間から出ることはなく、たった一人きりだ。本人がそれでいいと言うのなら良いのだが、翠雨から見た菫はいつも寂しそうだった。隠された家の中で毎日書物をめくるその姿は孤独だ。……これはただの一時的な関係にすぎない。余計なお世話と言われたらそれまでだ。それなのに…、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。

(有明国に来れば、って言いたいところだけど、菫の外見はあの国では目立つし…)

翠雨はこの前の出来事を思い出した。菫の持つ色彩は妖を連想させる。ああいった人たちのように菫を敵視する人物は少なくないだろう。それに、菫は生まれたからずっとこの森で暮らしているという。急に新しい環境に自ら飛び込むのには抵抗があるかもしれない。翠雨の方が定期的にここに来てもいいのだが、それはそれで迷子になりそうだし、面倒だと思われそうだ。

胡蝶そっちのけでそんなことを考えていると、不意に後ろから声をかけられた。

「ああ、ようやく見つけました。あなたが胡蝶を探している半妖…ですね?」

びっくりして思わず振り返ると、見たことのない人物が立っていた。まっすぐな長い髪を一つにまとめている。顔立ちは穏やかで中性的だ。だが、翠雨はすぐに相手が妖であることに気づいた。…しかも、かなり強い力を持っている。翠雨が警戒の色を浮かべると、妖は笑った。

「安心してください。俺は綴といいます。この森の管理人…、菫の友人です」

まあ、向こうは俺をただの厄介な侵入者と思っているでしょうが、と綴は笑う。その言葉が真実かは分からないが、菫にも知り合いがいたのかと驚いた。だが、菫が厄介だと評している人物というのは、果たしてどの程度のものなのだろうか…。

「…俺は翠雨。えっと、菫と友人ってことは、よく彼女と会っているのか?」

「いえ、こちらも忙しいので、そこまでは。それに、向こうは俺を嫌っているようなので」

あの菫に嫌われているとは、一体彼は何をしたのだろう…。色々と気になるが、深く聞いてはいけないような気がして、翠雨は曖昧に笑った。綴は感情の読めない微笑みを浮かべ、近くの木に手を触れた。その頂を見通すかのように上を向く。

「この狭間は、底知れない歴史と秘密を抱えています。この森だけじゃない。…あの少女も」

「え…?」

少女とは、菫を指しているのだろうか。そう尋ねようとする前に、綴は笑みを浮かべたまま振り向いた。その表情はどこか面白がっているような不穏なものだ。

「そうだ、ちなみに胡蝶を見つけることはできましたか?」

「ああ…。一度だけ見たことあるけど、その時は願い事をできなくて。だからまだ探している」

翠雨の返答に、綴は少し驚いたようだったが、何かを考え始めた。しばらく沈黙が流れる。ただ、木々がざわめく音だけが響く。この狭間の森はうっそうとしているのに、生命の存在を感じることができない。実際、翠雨は動物などに遭ったことがなかった。鳥の鳴き声などもまったく聞こえないので、一人でここを歩いていると、この世界で一人きりになってしまったのではないか、という錯覚に襲われることがある。

「それなら…、胡蝶の正体を教えましょうか?俺の方があなたよりもここに詳しいですし、よく来ているので。ここの秘密もそれなりに知っています」

突然の言葉に翠雨は驚いた。同時に、何か嫌な予感がする。この後の言葉を聞いたら、自分の想像が、信じていたものが覆ってしまうのではないか…。そんな恐ろしさと不安を感じる。だが、翠雨の沈黙を綴は肯定と捉えたらしい。彼は淡々と告げた。

「胡蝶は本当に蝶の姿をしているわけではありません。実際は――」



菫は綴が行ってしまった後、先ほどと同様に薬草を干していた。しかし、何となく集中できていないのが自分でも分かる。その原因もちゃんと分かっていた。綴が翠雨にちょっかいを出していないか不安なのだ。一応警告はしたから大丈夫だと思うが。そして、それよりも…、今は別れ際に綴が告げた一言が気になっていた。予言のような言葉。それは……。

「…あなたはきっと、その半妖の願いを叶えることになりますよ」

何を根拠に言ったのか分からないし、深く考える必要もないのかもしれない。けれど…。何となく嫌な予感がする。今までの安寧が崩れ去ってしまうような…。

「気のせいだといいんだけどね」

そんなことを考えながら作業していると、ようやくすべての薬草をつるすことができた。これで数日間放っておけば乾燥するはずだ。菫が満足そうに眺めていた時だった。急に扉が開いたかと思うと、翠雨が飛び込んできた。その顔は少し青ざめている。まさか綴が何かしたのかと思ったが、見たところ怪我はしていないようだ。菫は首をかしげた。

「どうしたの、翠雨。今日はずいぶん帰って来るのが早いね。顔色もよくないけど」

「菫……。君が胡蝶だというのは、本当なのか?」

翠雨は菫の質問に答えず、逆に質問を返してきた。だが、そんなことよりも…、その内容に戸惑う。この秘密は菫が自ら明かさない限り表にならないはずだ。それなのに、何故…。

「…っ!どうして、あなたがそのことを。……ああ、綴か」

菫はすぐに答えにたどり着いた。菫は一切自分の正体に関することを言っていない。だから、翠雨が自分でこのことに気づく可能性は限りなく低い。ということは、綴しかいないだろう。あの時言っていた、翠雨と話してくるというのはそういう意味だったのか…。口止めしておけば良かった、と一瞬思ったが、恐らく綴はこちらの言うことなど一切聞かないだろう。

「綴が言っていた。胡蝶は蝶の姿をしているわけじゃない。実際は…、白銀の髪の少女の姿をしていて、圧倒的な力を持っている、って」

翠雨の言葉は菫の予想を裏付けるものだった。余計なことを、と思ったが、綴は単純に面白がっているだけだろう。秘密を知った翠雨に対して、菫がどうするのか。…いや、違う。綴は予言していた。菫が翠雨の願いを叶えることになる、と。あの時点で綴は翠雨に菫の正体を話すと決めており、そして、胡蝶の役目を果たせと言ってきたのだ。綴は胡蝶を嫌っている。特に菫のことについては、その考え方の異質さから警戒していた。

(そういうことばかりするから、あなたは全く信用できないのよ、綴)

心の中で綴に抗議したが、既に彼は黄昏国に帰還しているだろう。つまり、この時点で菫は綴の策略に負けたといってよかった。菫は覚悟を決める。これ以上は隠しても無駄だ。自分自身でそれを認めるということは、これまでの「狭間の住人と胡蝶探しにやってきた少年」という平和な関係を壊してしまうことになるけれど。菫はふわりと微笑んだ。それは、いつもと同じようで少し違う。狭間を生きる「胡蝶」としての表情だ。

「その通り。改めまして…、私は第二十代胡蝶、菫。どうぞよろしく」

――やっと探し求めていた存在に出会えた。…そのはずなのに。翠雨はただただ呆然とすることしかできなかった。

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