二 菫色の永遠

人々は、ただ胡蝶にこい願う。彼らが考えるのは、自分の願いが叶うかどうか、ただそれだけだ。それはいつの時代も変わることがない。だからこそ、願いを叶えた胡蝶がその後どうなるのかを知ろうともしない。実際に、その事実を知っている人など数え切れるほどだ。

――胡蝶とは、誰かの願いを叶えるためだけに存在する、儚い妖であり、人でもある。狭間の森の片隅にひっそりと暮らし、どちらの国の民とも相いれることのない、孤高の存在だ。胡蝶にとって、誰かの願いを叶えることとは、自分の命を失うことと同じだ。たった一人のほんの小さな願いでさえも、胡蝶の命を燃やし尽くすには十分すぎるものだった。

誰かの願いが叶うたび、狭間の森に白銀の光が輝く。それは、その胡蝶の命が尽き、新たな胡蝶が生まれた時の印だ。――また、誰かの願いを叶えるために。

数代前の胡蝶は、手記にこう書き残している。誰かの願いを叶えること。それはまるで――。


「……それはまるで、恋のようなものだ……」

少女は古びた手記の一節を声にした。菫色の瞳が忌々し気に細められた。手記を投げだし、不満そうに立ち上がる。放り投げられた手記は、ぱさりと乾いた音を立てて机に落ちた。

「やっぱり、何度読んでも理解できない…。恋なんて、意味が分からない」

誰かの願いを叶えるためだけに存在する者――、胡蝶はため息をついて、窓の外に広がる深緑の森を眺めた。現在の胡蝶は二十代目、名をすみれという。ちなみに、この名前は自分でつけたものだ。胡蝶は決まって白銀色の髪をしており、菫もその例外ではないが、瞳の色は胡蝶によって異なっており、その色の名前を自分の名として使う者が多かった。

(胡蝶にだって、一応、誰の願いを叶えるのかを決める権利はあるけれど……)

だが、誰の願いを叶えても胡蝶が死ぬということには変わりない。そのことを知らずに、ただ胡蝶に願いを叶えてもらおうとする、という行為が菫は嫌いだった。そのせいか、胡蝶として生まれてきてから五十年ほど経った今も菫は誰の願いも聞かずに過ごしてきた。基本的に胡蝶は二、三十年ほどで代替わりするというので、既にそれを二十年超えて生きている菫は長生きな方なのだろう。ただ、中には百年ほど生き続けた胡蝶もいるので、いっそのことその記録を突破するくらい生きてみようかと考えることもあった。

(そもそも、何で私が胡蝶なの?もっと誰かのために尽くそうと考えている優しい人が、世の中にはいっぱいいるはずなのに)

ずっと十五歳ほどの姿を保ち続けている当代の胡蝶――菫は、これまでの胡蝶の中でもかなり異質だった。胡蝶の中にも一応決まりがあって、国や世界を揺るがすもの、人を傷付けるものに関しては何があっても叶えてはならなかった。しかし、それ以外に決まりといった決まりはなく、胡蝶は基本的に誰か願いを持った人が来ればそれを拒まなかった。そもそも胡蝶について知っている人などほとんどいないし、この森に来たとしても、胡蝶の住む場所は狭間の森の最奥だ。たどり着ける者の方が少ない。

だが、菫は誰かがこの場所にたどり着くことを拒んだ。菫が暮らす小さな家の周囲には術が施されており、普通の人が見つけられないようにしていた。たまにここに暇つぶしにやって来るとある人物は例外として、それ以外は絶対に受け付けないようにしている。

(自分の命を犠牲にして他人の願いを叶えようとするのが、私にはよく分からない。それに、胡蝶はいつも一人だけしか存在しない…。だから、全員の願いを叶えられるわけじゃない)

それは不平等なことではないか、と菫は思っていた。それだったら誰の願いも聞かずに、ただこうしてひっそりと暮らしていたい。そんな風に冷めた思いを持つ少女は、胡蝶でありながらも誰かの願いを叶える気などなく、ただ自分の好きなように生きていた。


その日も菫は一人、自分の好きな本を読んで過ごそうとしたが、雑貨が足りないことに気付いた。食料などはこの森で全て調達できるので問題ない。だが、雑貨や本など、狭間にはないものはいつも買いに行かなければならなかった。狭間の外に出るのは正直面倒だが、少し妖術を使えば簡単に移動したり、荷物を運んだりすることが可能だ。人でも妖でもある胡蝶は、妖だけにしか扱えないはずの術をいとも簡単に使える。菫が軽く手を振ると、部屋の照明が全て消える。部屋を暖めていた囲炉裏の火も、一瞬で消えてしまった。そうして支度をしたところで、ふと違和感を覚えた。この森には、全体的に菫の術が張り巡らされている。どこかで異常があったり、外から他人が入ってきたりした場合はすぐ分かるようになっていた。そして、その張り巡らされた術の糸のうちの一本――有明国寄りの場所が異常を告げていた。

――有明国の民と、それから妖。異様な雰囲気と、森の沈黙…。

菫が読み取れたのは、そんな奇妙な状況だ。菫はしばらく考え込んだが、はっとした。恐らくこれは、有明国の人が黄昏国の妖に襲われているということだ。妖の恐ろしさに、森は沈黙を保っている…。妖は基本的には人間と同じような食べ物で生きていけるはずなのだが、時折有明国に侵入しては、人を攫っていると聞いたことがある。これもそのうちの一つなのだろう。

そこまでは分かったが、菫はどうするべきかと逡巡した。菫は基本的に他人と関わりたくないと思っている。菫は胡蝶で、人とも妖とも相いれない存在だと考えているからだ。どちらの味方でもない、中立の存在でもある。だから、自分は介入するべきではない。そう理由を並べてみたが、何となく心が晴れない。本当にそれでいいのか、と迷ってしまう。

(ここで何もしなかったら、それはそれで後悔する気がする)

菫はそんな自分の思いに苛々しつつ、立ち上がった。そして、再び考える。

(……狭間は胡蝶である私の管轄。そこで有明や黄昏の者に好き勝手させるわけにはいかない。それに、自分の住んでいる森で殺傷事件が起きても後味が悪いし)

そう言い訳をして、菫は外に出た。そこは、昼間でも薄暗い森の中だ。一面が苔と木々の深緑に覆われ、木漏れ日さえも差さない。菫は暗い森の奥をにらんだ。その瞬間、菫の周りに白銀色の風が起こり、少女の姿は蝶へと変わった。胡蝶としての力を持つ菫にとって、これくらいのことは簡単にできる。この方が木々の間をすり抜けて早く移動できると思ったのだ。胡蝶は白銀色の光の粒子を散らし、自分の感覚を頼りに何かが起こっている場所へと向かった。そして――、そこではやはり、有明国の者と黄昏国の者が対峙していた。

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