十 宵を統べる者
それから数日が経ったある日。珍しく真面目に薬草を干す作業をしていた菫は、とある気配に気づいて思わず顔をしかめた。面倒ごとを予感し、苦労して干した薬草をすべてばらばらにしたい気分になったが、どうにか思いとどまった。後で掃除するのは面倒だ。帰ってきた翠雨にも不審に思われてしまうだろう。これが何の気配なのか、既に菫は知っている。妖の国からの客人だ。時折ここにやって来るのだが、面倒という印象しか持ったことがない。入って来るのを拒もうとしているのだが、相手の方が、圧倒的に力が強いので、結局結界をぼろぼろにされる羽目になる。ここ最近、結界にほころびが出てきたのは、彼がここにやってくるたびにそれを破壊したせいだ。今回も一応結界をはってみたのだが、やはり今回も無意味のようだ。自分の術が破壊されていくのと同時に、その人物がこちらに近づいてくるのを感じる。
「…毎度私の術を壊さなくなっていいのに。しかも、何のためらいもなく…」
「それはあなたが絶対にこちらの招待に応じてくれないからですよ?それに、ためらっていたらいつまで経ってもこの中に入れないので」
急に他人の声がして菫はぎょっとした。ついさっき森の結界を突破したはずなのに早すぎる、と思ったが、彼は妖だ。しかも、並の妖よりも強い胡蝶の術に打ち勝つほどの強さをもっている。なので、ここまで一瞬で移動するのも彼にとっては簡単なことのはずだ。菫は思わず相手をにらんだが、当の本人は何も気にしていないようで、それが余計に菫を苛立たせる。
「…珍しく、客人がいるみたいですね。俺のことは一度も歓迎してくれないのに?」
「あなたはいつも勝手に侵入してくるだけじゃない、
「…あなたこそ。この前は有明国に行って、妖だと勘違いされたみたいですけど?」
そう言いつつ、楽しそうな笑みを崩さない。心配しているというよりも、面白がっているだけなのだろう。そういう態度に腹が立つのは事実だが、綴はそういう性格だということを菫は知っている。まともに相手をしているとこちらが疲れる。菫は椅子に座った。
「こんな場所までご足労いただきありがとうございます。それで、今日は何のご用事ですか?」
「ははっ、全然感謝しているように聞こえませんね。暇なのかという嫌味ですか?」
「当然。私があなたに感謝することはない。で、次期黄昏国王なのに何でここに?」
綴は、暇つぶしです、と笑った。だが、次期国王という部分は訂正しなかった。綴は黄昏国の王族だ。かなり有力な人物であり、王位継承者の候補として期待されている。しかし、現在の黄昏国王は高齢ではあるが、未だに後継者を決めていない。そのため、綴が跡を継ぐとは限らないのだが…。否定しないということは、決まりつつあるのか、それとも自分が王に指名されると確信しているのか…。どちらにしても面倒である。
「…それに、どうして私の有明国での出来事を知っているの?それも暇つぶしの範囲?」
何の断りもなく勝手に向かいの椅子に座った綴に尋ねたが、何も答えない。だが、綴が胡蝶を危険視しているのを菫は知っていた。胡蝶がその力を発揮すれば、妖の住む黄昏国ですら簡単に滅びてしまう。彼はそのことを知っていた。だからこそ何かにつけて菫に会いに来るのだろう。そして、翻意がないか伺うのだ。恐らく狭間の森周辺にも手下を配置させているのだろう。監視するくらいなら、菫が絡まれたときに助けてくれれば良かったのに。
「…あの半妖の願い事、叶えるつもりですか?」
急に話題を変えられた。だが、それもいつものことだ。自分の触れてほしくない話題については徹底的に避けている。それを知っているので、菫も深く追求はしなかった。
「……答える必要性を感じない。あなたの想像に任せるよ」
「そうですか。…では、何故彼をここに?それに、何とも中途半端な方法だ。胡蝶を探したって、あなたが名乗り出ない限り、あの者は胡蝶を見つけることができないのに」
「うるさい。それにしても綴、やけに翠雨のことを気にするね?」
「当然のこと。あの者の願いが、俺たちを滅ぼすかもしれない。それを危惧しているだけです」
それでようやく菫は納得した。翠雨が黄昏国の滅亡を願い、胡蝶がそれを叶えたら、その願いは現実のものとなる。だが、それについては問題ないはずだ。翠雨の願いは綴が想像するものとは違う。それに、もしも翠雨がそういうことを願ったとしても、胡蝶の中には決まりがある。
――人を傷つける、もしくは国や世界を揺るがすような願いを叶えてはならない。
「それは心配しなくていい。翠雨の願いはそういうものじゃないよ」
それだけ言うと、菫は立ち上がり、薬草の乾燥を再開した。さっさとやらないと今日中に終わらない。綴の相手をする暇はない。それに、綴のもう一つの目的も分かっている。単純に菫にちょっかいを出したいのだろう。そうした彼の性格の悪い行動は今に始まったことではない。いちいち気にしているだけ時間の無駄である。…だが、今回は趣向が少し違った。
「そうですか。……そうだ、少しその翠雨とやらと話してきましょうか」
「…は?」
菫は薬草を床に落としてしまった。何故急にそんなことを言い始めたのか。その理由は分からないが、絶対にろくなことにならない。それに、綴が翠雨に危害を加えないとは限らない。綴は穏やかな見た目をしているが、性格は全く外見通りではないし、むしろ面倒である。一方、動揺した菫を見た綴は小さく笑った。どうやら菫をからかいたかったらしい。しかし、翠雨と話すというのは本気のようだ。にこにこと笑みを崩さないままこう告げた。
「そんな怖い顔をしないでください。危険な目に遭わせるつもりはないですよ?ちょっとお話しするだけです。さすがに胡蝶の領域であるこの森で、あなたの客人にけがを負わせはしません」
「……まあ、好きにすれば?その代わり、少しでも翠雨に傷を負わせたら私が制裁を下す。と言っても、あなたの方が強いから、どれほど効果があるか分からないけど」
菫はどうにか平静を装い、床に散らばった薬草を拾い集めた。綴の言葉を信じたわけではない。だが、動揺しすぎると相手につけ込む機会を与えてしまう…。菫は綴を無視して薬草を拾い続けていたが、不意に首に冷たく鋭い何かを押し付けられた。それに驚いて振り返った瞬間、刃を当てられた部分がざっくりと切れた。その痛みに顔をゆがめると同時に血があふれ出す。切った場所は急所から逸れてはいるものの、かなり出血はひどい。だが、菫は慌てずに、傷口を抑えることもせず、ただ綴をにらんだだけだった。
「急に切り付けてくるとかどういう了見?殺人未遂で訴えようか?」
「証拠はどこにも残らないですよ。たとえ俺があなたをどんなに傷つけようと、あなたは死なない。なぜならあなたは胡蝶だから。…傷さえも消えてしまう」
綴は自らが切り付けた箇所に目を向けた。いつの間にか傷口はなくなり、襟の一部がただ赤く染まっているだけだ。それを確認した菫はため息をついた。
「…こういうことをするから、あなたは信用ならない。少しは己を省みたら?」
「俺はただ、あなたの方が圧倒的な力を持つことを証明しただけですよ?」
綴は悪びれずに刃物をしまった。しかし、実際に綴の言葉は正しい。菫は綴の妖術が自分の胡蝶の術よりも長けていると考えているが、それは間違っている。胡蝶は誰かの願いを叶えるための存在だ。逆に言えば、胡蝶に叶えられない願いはない。そのため、普段菫が使っている普通の術も、相当な力を内包しているのだ。菫が無意識に制御しているため、本人はそのことに気づいていないのだが…。だからこそ、胡蝶が叶える願い事について、「世界を揺るがさない、他人を傷つけない」という制約があるのだ。その気になれば胡蝶には何でもできてしまう。それこそが、綴が胡蝶の存在を警戒する理由だった。
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