九 過去が沈む場所
菫はいつものように手記を眺めながら考え事をしていた。思い返していたのは、今日の出来事だ。今日もまた無意味な胡蝶探しに出かけていった翠雨がなかなか帰ってこないので、気になった菫は胡蝶の術で翠雨の様子を確認してみることにした。この狭間の森は胡蝶の庭だ。彼女の目の届かない場所なんてない。この狭間の中で起こったことならば何でも分かる。菫が術を通して翠雨が通ったと思われる道をたどっていくと、途中で地図が落ちているのに気づいた。どうやら何かの拍子に落としてしまったらしい。もしかしてそのせいで帰り道が分からなくなってしまったのではないか、と推測した菫は取りあえず地図を回収し、更に奥へと術を進ませた。そうしてたどり着いたのは、深緑に包まれた森の深部。そこで地図がなくなったことに気付いて呆然としている翠雨を見つけ、菫は思わずため息をついた。予想通りの展開になっていた。だが、そこでふとあることを思いつく。
(そうだ、ここで私が術で白銀の胡蝶を作り出したら翠雨は一応胡蝶を見つけたことになる)
実際に願い事が叶うわけではないのだが、それでも一応胡蝶に出会ったならば翠雨は願い事をするはずだ。そうすれば、翠雨はきっと満足し、有明国に帰るだろう。何故そんなことを考えたかというと、菫が誰かと一緒にいるというこの状況に戸惑いしか感じられないからだ。それが面倒だと思ってしまう。それに、誰かと一緒にいると、自分が一人であることを改めて痛感してしまう。それが嫌だった。孤独は胡蝶の宿敵だ。孤独に耐えられなかった胡蝶たちは、それに苦しみながら誰かの願いを叶えて消えていった。――だから、誰かといるこの状況に慣れたくない。そんな自分勝手な理由で人を騙すのはさすがの胡蝶でも気が引けるけど。
しかし、何故か翠雨は菫が作り出した胡蝶に願い事をしなかった。ただ単に忘れていたらしいが、結局菫の計画通りにはいかなかったのが事実だ。なかなか難しい、と思いつつ、菫はまた手記をめくった。胡蝶として生きる菫にとって、願い事を叶えようとしている人というのは皆距離を取りたい人物だった。けど、何故自分はこうして翠雨を狭間の森に招いてしまったのだろう。ずっと繰り返し続けているその質問を再び自分に問いかける。
「…翠雨が、ある意味で私に似ているから…かもしれない」
胡蝶に仲間がいないのと同じように、半妖というのもなかなか存在しない。人と妖の間には埋まらない溝があるし、そもそも彼らの間に交流などほとんどない。狭間の存在によって二つの国は安寧を取り戻したが、同時にそうした交流の機会を失ってしまったのだ。
そんな状況から、菫は翠雨にある意味での親近感を覚えていた。他の人とは違うということで時に苦しみ、だけど、純粋さを失っていない少年。それに、自分と違って彼は自由だ。この夙夜の籠に閉じ込められることなどない。その明るさはきっと、祝福の雨のように皆に希望を与えるだろう。それが半妖だからというだけで人々に嫌われるなんて状況が気に入らなかった。だから、そうしたしがらみが消えたならば、翠雨はどうするのだろう。そんなことが気になっていたのである。胡蝶と違って翠雨には生き方に対する選択肢が無数にある。その時彼はどんな選択をして、どう生きていくのだろう。そんな興味があった。
(我ながら、身勝手な理由だけど。別にこれくらいは許されるはず)
随分と自分の心境が変わってしまった、と菫は苦笑した。前までは胡蝶の力で願い事を叶えてもらおうとする人のことなんて興味がないし、関わりたくもなかったのに。それが今では彼の将来を気にし、狭間の森で共に生活を送っているとは…。
(何と言うか…、これはきっと弟を心配する姉のような気持ちよ。確かに年の差はかなりあるけど、外見からすればそこまで問題はない)
謎の理屈で自分の考えを正当化した。けど、これはただの言い訳のような気もしている。自分の感情の変化に対する理由を考えているだけだ。自分はさっきから何をやっているのだろう。
「あ、菫!良かった、まだいた。もう夜も遅いし、もしかしたら寝ているかと思ったけど」
不意に翠雨がやって来た。何やら嬉しそうな顔をしている。菫がきょとんとしていると、翠雨は何かを菫の手に握らせた。見ると、それは紫色の花だった。
「…これは?」
「あれ、もしかして知らないのか?それはスミレの花だ。胡蝶探しの途中で見つけたから摘んできた。やっぱりこの花、菫の目と同じ色だ」
翠雨がじっと見てきたので、菫はたじろいだ。ゆっくりと自分と同じ名前の花へ目を移す。確かに言われてみれば、同じ色をしているかもしれない。この森にスミレがあることは知らなかった。なので、菫にとっては予想外の発見である。何だかんだ本物のスミレを見るのは初めてかもしれない。そのことがとても嬉しくて…。菫は早速花瓶に生けて飾っておくことにした。
「ありがとう、わざわざ摘んできてくれて。どこにあったの?」
「森の少し奥の方だった。うっそうとしているし、見つけづらいかもしれない」
ここら辺、と翠雨が地図の真ん中の辺りを指差す。確かにその辺りは菫もほとんど行かないし、行ったとしてもそこまで長居するような場所でもない。翠雨が言う通り、森の真ん中はとても暗いからだ。どこかの機会にでも案内してもらった方が良さそうだ。
「せっかくだから、術で花がしおれにくいようにしておこうか」
「え?!さすがにそこまでは…。しおれたら俺が採ってくればいいだけだし」
大げさだと言うように翠雨は苦笑した。取りあえず術の件は保留にして、スミレを花瓶に挿して部屋に飾った。それだけで少し部屋の雰囲気が明るくなったような気がする。翠雨はその様子を眺めていたが、やがて眠くなったのか大きなあくびをした。
「そろそろ寝たら?明日もどうせ胡蝶探しに行くでしょう?体を休めた方がいいよ」
「そうする……。菫、おやすみなさい」
本当に眠そうにそう言ったので、菫は思わず笑った後で、おやすみ、と返した。そして、自分は再び手記をめくる。ずっと意味の分からなかった言葉がそこに載っている。もうずいぶん前の胡蝶が書いたものなので、この紙自体はかなり古びているのだが…。それでもその文字は色あせることがない。そこに込められた思いは今でも消えていない。
――それはまるで、恋のようなものだ。
胡蝶が書き残したその意味が、今なら少しは分かるかもしれない。恋というものはまだ知らないけれど。きっと、胡蝶たちが願いを叶えた人は、彼女たちにとって、一緒にいて楽しかったり居心地が良かったりする相手だったのではないか。孤独な存在である胡蝶に、束の間の安寧と安らぎを与えてくれた…。だからこそ、相手の願いが自分を滅ぼすと分かっていても、それを叶えたのだ。
(でも、待って。その論理でいくと、私は翠雨の願い事を叶えることになる気が…)
菫は慌ててその考えを打ち消した。胡蝶を使って願いを叶えようとする人のことは好きではない。その思いは今でも変わらない。翠雨だってそのうちの一人だ。それでも…、嫌いではないと思ってしまうのは、何故だろう。それも、翠雨が菫と少し似た境遇だから、ということなのだろうか。自分の感情のはずなのに…、はっきりとした答えが出ない。
「…やっぱり、誰かと関わるのって面倒…。分からないことだらけだ」
菫はため息をつくと、手記を閉じて机に静かに置いたのだった。
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