八 狭間の底の深緑
狭間の森は昼でも暗い。何か危険なものが潜んでいる可能性もあるし、細かい場所もきちんと見るならば、明かりが必要になってくる…。
菫にそう言われたので、翠雨はそれに従っていつもろうそくを持って外に出ていた。木漏れ日が差さないほどの木々や葉の多さ。地面は苔に覆われており、それらのおかげで視界がすべて深緑に染まっている。奥の方を見ようとすると、その色は一気に深まり、何も見えなくなる…。それほどこの森は暗く、潜んでいる何かを覆い隠しているようだ。
「今日も見つからなかった…。さすが、幻の存在だと言われているだけあるな」
翠雨は近くの大木にもたれかかった。狭間の森の中でしばらく探していれば見つかるだろう、と思っていたが甘かった。そもそも、胡蝶の話が本当なのかさえ翠雨には分からない。他の人に胡蝶について聞いたことがあったが、皆昔の話だと言ってまともに取り合ってくれなかった…。どうやら翠雨と他の人々の間では胡蝶に関する認識が違うらしい。ただ単に二つの国の戦争の際に白銀の胡蝶が見られたというだけで、伝承にすぎない、と…。だが、翠雨の中の認識では、胡蝶は今もおり、願いを叶えてくれる不思議な存在だ。
「…どちらにしてもお伽話みたいな話だけどな。狭間の森も、胡蝶も」
お伽話みたいと言えば、白銀の髪の少女のこともそうだ。狭間の森に一人で住み、あり得ないほど上手く術を扱う少女…。見ず知らずの自分を助けてくれた、という理由でそこまで疑ってはいないが、ここに来てから半月ほど経った今もよく分からない、というのが現状だ。暇さえあれば誰かの手記らしき本をめくっている。中にはかなり昔の文字で書かれているものもあったが、それをすらすら読めるということは、古文書の研究でもしているのだろうか。だが、それにしたって何故この場所にずっと暮らしているのか…。色々と謎が多い。
そんなことを考えているうちにだいぶ時間が経ってしまった。今日は森のかなり奥まで探索していたので、菫の家に戻るまで時間がかかってしまう。早めに切り上げなくてはならなかった。
「…って、あれ?!地図がない…、かもしれない。嘘だろ…」
菫が作ってくれたこの森の地図が見当たらない。狭間の森は複雑な上に、目印となるようなものが何一つない。これがないと迷子になってしまうので、肌身離さず持っていたはずなのに…。どこかに落としてしまったのだろうか。ちゃんと荷物の中身を確かめてみたが、やはりない。このままでは戻れなくなってしまう。元の道なんて覚えていなかった。
――だが、その時。不意に目の前を光る何かが横切った。この森には日が差さない。そもそも今は夕方だ。これほど明るい光など、翠雨が持つろうそく以外に存在するはずがない。しかし、先ほどよぎった何かは、その色とは全く違っていた。ろうそくの優しい橙色ではなく…、研ぎ澄まされた冷たい雪を連想させる、白銀の色――。
「胡蝶…?!」
そうつぶやいて見渡した先に、それはいた。ひらひらと優雅に舞う小さな蝶。その色は、現実とは思えないような美しい銀色だ。蝶がゆらゆらと翅を動かすたびに雪のような鱗粉が散る。突然探し求めていた存在に出会えたことに、翠雨は喜ぶよりも呆然としてしまった。それに、その光景は夢の中のように幻想的で、自分は夢でも見ているのではないかと思ったのだ。しかし、蝶は翠雨の驚きなど気にも留めず、ふわふわとした動きで向こうへと行ってしまう。それでようやく翠雨は我に返り、慌てて胡蝶を追いかけた。道が分からなくなっていることなんて頭から抜けていた。必死で走っているのに、何故か蝶には追いつけない。時々木の根につまずきかけるのも気にせずしばらく走り続けていたが…。突然胡蝶の姿が消え失せた。
「あ…、でも、戻って来られた…?」
気付くとそこは菫の家の目の前だった。そして、失くしてしまったはずの地図をいつの間にか手に握っている。途中で何かを拾った覚えなどないのに…。もしかして、胡蝶が助けてくれたのだろうか。――とにかく、胡蝶が本当に存在することだけは分かった。それだけでも一歩前進だ。また、胡蝶に出会えるだろうか…。そう思いつつ扉を開けた。
「お帰りなさい。今日はちょっと遅かったね。まあ、無事ならそれでいいけど」
胡蝶と同じような白銀の髪の少女がそう声をかけてきた。同い年の割にはかなり大人びていて、淡々としている。こちらに目も向けずに今日も手記を読んでいた。表紙の端の方はぼろぼろになっていて、相当昔の書物であることが伺える。毎回何を読んでいるのか気になっているが、翠雨が近付くと本を閉じてしまうので分からなかった。恐らく、その内容はあまり聞かれたくないし、見られたくもないのだろう。逆に気になってしまうのだが、今の翠雨はそんなことを気にしてなどいられなかった。
「途中で地図を落として…。けど、そこに胡蝶が現れてここまで案内してくれたんだ!」
「…胡蝶?ふーん、本当にいたんだ。ちなみに、願い事はしたの?」
そこでようやく菫がこちらを向いた。そこまで興味はなさそうな様子だが、一応話は聞いてくれるらしい。しかし、その言葉で翠雨は自分の失態を悟った。願い事を叶えてもらうために胡蝶を探していたはずなのに、肝心のそれを忘れてしまっていた。とにかく戻らなければ、という焦りが強かったせいかもしれない。また胡蝶に遭遇するかは分からないし、むしろその可能性は低いというのに…。翠雨は後悔して窓の外を見たが、どこにも胡蝶の姿はない。あの幻想的な白銀色はどこにも見えず、ただ真っ暗な森が広がるだけだ。
そんな翠雨の様子を見て、菫もそれを察したらしい。呆れたような表情を向けてきた。確かに大きな失敗である。何となくこの空気間に耐えられなくて、翠雨は無理矢理話題を変えた。
「そ、そういえば菫には胡蝶に叶えてもらいたい願い事とかないのか?」
「ない」
驚くほど不機嫌な口調で菫は答えた。いつもの冷静な様子からは想像もできないほどだ。翠雨は驚いたが、菫はそれすらも気にしていない様子で淡々と言葉を続ける。
「願い事なんてないし。……それに、私が何かを願っても胡蝶には叶えられないよ」
翠雨はその刺々しい言葉に驚いたが、もしかしたら菫は胡蝶のような不可思議な存在を信じてもらえないのかもしれない、と思った。だが、それにしたってその表現は何となく引っかかる。一方の菫は何となく雰囲気を悪くしてしまったことにはっとした。普段人といるということが全くないので、いまいち雰囲気の変え方というものがよく分からないし、どういう言葉を交わせばいいのかも知らない。菫は少し言葉を考えてから言った。
「…でも、そうだね。あえて何か願い事を言うならば、この島の外の世界を見てみたい。この島は籠の中みたいで退屈だからね。海の向こうに広がっている景色が気になる。狭間では見られないものがたくさんあるんだろうな」
初代胡蝶・夏蓮はそれを望んでいたという。彼女の魂がこの籠の外に出られたかは知る術もないが、その望みを叶えられた、と考えた方が何となく明るい気持ちにはなれる。夏蓮が海外のことを気にしていたためか、ここには夏蓮が遺した外国の書物がたくさんある。どれもかなり古いので、今はもうほとんど参考にできないだろうが、そうした書物の絵を見るのは楽しいし、楽しみが少ない狭間では、こうした未知の場所に思いを馳せることくらいしか楽しいことがない。だからこそ、たとえそれが叶わないとしても、そうした夢を見たくなるのかもしれない。
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