七 蝶は眠らない
夜になってから、二人は狭間の森へと出発した。日のあるうちは、まだ先ほどの青年たちが町にいるかもしれないと思ったからだ。それに、菫が被っていた布を取られてしまったため、髪色を隠すこともできない。黄昏国はともかく、有明国ではこの容姿が非常に目立ってしまう。そのため、翠雨の家で夕暮れを待つことにした。日が落ちてからであれば、夕闇に髪色を隠すことも簡単だ。翠雨が黙々と狭間に行くための作業している間、菫はずっと考え事をしていた。
狭間にある歴代胡蝶の手記を読むと、彼女たちはあまり狭間の外に出なかったようだ。森の中に引きこもっていた方がよっぽど楽なので、その気持ちは分かる。それでも菫は定期的に有明国に来ているので、かなり珍しい方なのだろう。確かに、食料などは狭間の森ですべてまかなえるので外に出なくても問題はないし、胡蝶はあまり人前に出るべきではない。中には外の世界を知らずに消えた胡蝶もいたのだろう。
(願いを叶えること、それは恋のようなもの…。相変わらずよく分からない言葉だけど…)
この言葉を遺した胡蝶によると、どうしてもその人の願いを叶えたい、と強く思う相手が現れることがあるのだという。そんな人物に会えるかどうかは胡蝶次第ではあるらしいが…。だが、結局は胡蝶が願いを叶えられる相手は一人だけ。そして、願いを叶えることは胡蝶の死を意味する。それでも構わないから、願い事を聞こうと思ってしまう、ということだろう。そして、それが恋に近いものなのだとしたら、恋というものは随分恐ろしいものだ、と菫は考えていた。普通、恋愛というものをするために命が奪われることはないという。しかし、その胡蝶の言う通りならば、その人のためならば命を捨てても構わない、と思うのが恋というものなのだろうか…。恋というものは大変らしい。考え始めると段々分からなくなってくるので、菫はいつも、自分には一生分からない感情だろう、という結論を出していた。
――けれど、もしかしたら…、その始まりは唐突なものだったのかもしれない。翠雨との出会いが突然だったように。それについては少しだけ理解できる気がする。
取りあえず、たぶん今の自分は恋というものをしていない。だって、翠雨の願いを叶えようなんて欠片も思っていないのだから。…だけど、どうして自分は翠雨に機会を与えようと思ってしまったのだろう。確かに、胡蝶は菫自身なので、普通に探したって見つかるはずがない。だが、自分の傍に誰かがいるということは、菫の正体が知られる可能性が高くなるということだ。それは自分でも分かっている。それなのに、……何故だろう。
そんなことを考えながら歩いていた菫はふと思った。普段は話す相手が全くいなかったから分からなかったが、もしかしたら隣にいる翠雨ならば恋というものを知っているかもしれない。
「…ねえ、翠雨。あなたって恋が何だか分かる?」
「…は?!菫、君…、何で急にそんなことを…。話に脈絡がなさすぎる…」
確かに唐突な質問だったかもしれない…。菫は少し反省した。思考に沈んでいたせいでそこまで考えが至らなかった。だが、翠雨は真面目にその質問の答えを考え始めた。
「俺はそういうのは全然分からないけど…、喜びや幸せもあるし、悲しみもあるもの…らしい」
その説明で菫は更に混乱した。その説明と胡蝶が願いを叶えることが菫の中で上手く一致しなかったのだ。だが、取りあえずお礼を言っておくことにした。それに、そんな話をしているうちに二人は狭間の森にたどり着いていた。夜の森は昼よりもいっそう暗く、底知れない何かが潜んでいるようだ。実際、この狭間の森の近くに住む有明国の人々の中には、夜になると化け物が現れると信じる者もいるらしい。本当はそんなことはないし、菫もそういったものに遭遇していない。そもそも、そう言った危険なものがこの狭間の森に住みついた瞬間、菫が胡蝶の術で感知して抹殺するので問題はないのだ。だが、やはり夜の狭間というのは知らないものには恐怖を呼び起こすのだろう。翠雨は思わずといった風に入り口で足を止めた。だが、菫が慣れた様子でろうそくに火をつけ、躊躇することなく森の中へと入っていくのを見て恐る恐る付いてきた。菫は時折その様子を確認しながら夜の森を歩き続ける。
「…すごい、この森、貴重な植物がたくさん生えている。意外だ」
しばらくすると森の雰囲気に慣れてきたのか、翠雨がきょろきょろと辺りを見渡しながらそう言った。だが、「意外」の意味を計りかね、わずかに首をかしげた。
「ここに住んでいる君にこんな話をするのは良くないだろうけど。狭間の森は遠い昔に二つの禁忌が交わった場所だって聞かされてきたから…。確かに外から見ると木々が生い茂っているけど、中は枯れ果てているのかなって勝手に思っていた」
一応、既に一度ここに入ったことがあるはずなのだが、その時はこんなにじっくりと周りを見る余裕はなかったらしい。一人で得体の知れない場所に来たのなら、確かに周りの植物の種類に気を取られるような余裕など持てないだろう。今は夜とは言え、ここに住んでいる菫が一緒なのでそこまで怖くない、ということだろうか。
「…別に採取しても構わないけど、明日にして。今は家を目指す方が優先」
さすがに暗い中で草花を採るのは良くない。もしかしたら、有毒なものを誤って取ってしまうかもしれないからだ。ただでさえ狭間の森は日が差していても暗いので、特に森の奥へ向かう時はたとえ昼でもろうそくが欠かせない。そんな話をしているうちに、ようやく菫の家にたどり着いた。菫が軽く手を振った瞬間、術によって隠されていた小さな家が姿を現す。同時に家の中の明かりがついて、その光が窓からうっすらと漏れていた。
「わ…、すごい。君は優れた力の持ち主なんだな。黄昏国にもこれほどの力を持つ人はなかなかいない気がする。いるとすれば、黄昏の宮廷の親衛隊とか…?」
有明国に住んでいる翠雨は、何度か母に連れられて黄昏国に行ったことがあるという。だが、今まで翠雨は同時にこれほどの術を展開する人物を見たことがなかったらしい。そう言われたものの、菫はあまり興味がなかった。これは妖術ではなく胡蝶の術であり、この力というのは胡蝶ならば必ず扱えるものなので、そこまですごくはない。親衛隊とやらを目指すつもりもないので、菫は適当に流しておくことにした。
(一応、黄昏国には知り合いもいるけど…、正直あまり関わりたくないし)
時折ここにやってくる面倒な人物のことを思い出しつつ、菫は扉を開けた。囲炉裏の火がパチパチと燃え、明かりもちゃんとついている。…と、そこで菫は机の上に放り出したままの、昔の胡蝶の手記を見つけて内心慌てた。例の意味不明な言葉がある、記録…。なるべく感情を悟らせないよう、自然な風にそれを取り、本棚に戻す。これを翠雨に見せるわけにはいかない。これを見られたら、胡蝶の正体を見破られる可能性が一気に高まってしまう…。一応、文字自体は古い時代のものなので、たぶん読める人はほとんどいないと思うのだが。
「取りあえず、狭間にようこそ。これでも意外と中は広いから説明が必要だけど…、取りあえず夕飯にする?ここまでかなり長かったし、疲れたでしょう?」
翠雨はこくりとうなずく。そもそも、妖と翠雨との騒動があったり菫を「村を襲った妖」と勘違いした人から逃げたりしていたので相当疲労が溜まっているはずだ。…身体的な意味だけでなく、精神的な意味でも。それは菫も同じだったので、ふわりと笑って翠雨を中へと促した。
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