三 翡翠色の雫

胡蝶は取りあえず近くの木にとまることにした。妖の方はかなり年齢が高いが、人間の方はまだ少年と言ってもいいような外見だ。この森に迷い込んでしまったのだろうか…。だが、そこであることに気付いた。

(もしかして少年の方…、完全な人じゃなくて…、半妖?)

黄昏国に住まう妖は、赤系統の瞳を持って生まれることが多いという。一人は桃色の瞳をしていたので、恐らく妖で間違いないだろう。一方、もう一人の菫が有明国の民だと思っていた人物は、瞳の色こそ赤ではないものの、妖に特有の気配をまとっていた。半妖であれば、多少なりとも術は使える。もしかしたら、菫の出る幕ではなかったのかもしれない。一度戻ろうかと胡蝶が翅を動かそうとした時だった。

「……半妖。お前のような中途半端な者、消えてしまえ!」

妖がそう叫び、術を発動した。直後、森の木々さえも焼き払うような炎の矢が放たれる。幸い、半妖の人物はどうにか避け、菫も咄嗟に移動したので怪我はなかったが…。

(全く、狭間の森を勝手に燃やそうとするなんて、どういう了見?一応、この森は簡単に燃えないけど。それでも木々が傷つく原因にはなる)

半妖の少年よりも木々の心配をした菫は、不承不承、この場に介入することにした。半妖の少年の方は戦わずに逃げる姿勢を見せていたが、あの様子ではすぐにやられてしまいそうだ。菫が今とまっている木の記憶を読み取ってみると、どうやら二人は偶然ここで会ったようだが、相手が半妖であることに気付いた妖の方が勝手に腹を立てたらしい。菫はいつもの少女の姿に戻り、ついでに妖が再び打ち出した炎の矢を自分の術で消し去った。

「ご歓談中失礼しますね?」

菫がそう言って木から飛び降りると、二人は驚いたような目を向けてきた。恐らく、今まで何の気配もなかったのに菫が突然現れ、しかも会話に割り込んできたからだろう。更に、妖が作り出した強力な術を消してのけたのだから、驚愕して当然だ。

「なっ…、お前、誰だ!一体どこから…」

「狭間の森の管理人です。ここを傷付けようとする方がいらっしゃるようなので、僭越ながら介入させて頂きました。狭間は、二つの国の古い歴史が眠る場所。そのような場所で誰かを攻撃し、更に森を傷付けようとするのは、あまりよろしくないのでは?」

菫はにこやかにそう告げた。外見は少女だが、既に五十年もの時を生きているので、似たような事態には何度も遭遇してきている。そのため、相手の対応にもそれなりに慣れていた。こういう相手は、恐らく自分よりも年下に見える菫を侮ってくる。つまり、こちらが何を言っても耳を傾けないということだ。そういう時は、適当に話をして、あとは菫の術で狭間の外に放り出せば一件落着だ。案の定、妖は少女に注意されたことに腹を立てたらしく、菫をにらみつけ、今度はこちらに向かって術を放とうとしてきた。しかも、先ほどまでよりも更に強力なものだ。相手が大きく手を振りかざす。本能的な危険を感じた菫は、手で目の前の空間を払った。

「――開け、どこにも存在しない扉よ」

その瞬間、目の前の空間に大きな切れ目が入った。その奥は、ただ真っ暗な空間が広がっている。どこに続いているのか、果てが存在するのかも分からないほどの暗闇だ。妖は自分が発動しかけていた術と共に一瞬でその空間へと消えていった。その姿が完全に闇の中へと消えたことを確認し、菫は切れ目を閉じた。そして、小さくため息をつく。

(…ああいう人の願いは絶対に叶えたくない。それにしても、私の術があるのによく入ってきたな…。最近手入れをしてなかったから、ほころびが生じていたのかも)

確か、最後に菫が張り巡らせた術の点検をしたのは十年以上前のことだ。それならばほころびがあってもおかしくはないし、そうしたところからこの中に入ってくることは簡単だ。

「…さっきの妖は?変な空間に飲みこまれて…。まさか…死んだ、のか?」

半妖の少年が話しかけてきた。そこでようやく菫は彼の姿をまともに見た。初夏を感じさせる翡翠のような色の瞳をしている。とても純粋そうな少年だ、と菫は思った。

「死んでない。黄昏国に強制的に帰しただけ。無駄な殺生をする気はないもの」

「そっか…。それなら良かった。そうだ、助けてくれてありがとう、えっと…管理人さん?」

少年はそう言って、明るい目をまっすぐに向けてきた。だが、菫は思わず訝しげな目を相手に向けてしまった。さっき堂々と術を使ってしまったので、相手は菫を妖だと思っているはずだ。それなのに、何故怖がらないのか不思議に思ったのだ。それに…、何故、自分を殺しかけた相手の安否を心配できるのだろうか。色々と不思議だったが、菫はそうしたすべての疑問を心の奥にしまいこんだ。どうせこの少年とは二度と会わないはずだ。それなのに深入りしても意味はない。

「うん、私がたまたまここを通りかかって良かったね。…で、どうして狭間に来たの?迷子?」

「いや、狭間に来たのは用事があったからだ。……胡蝶を、探したくて」

その答えに菫は一瞬固まりかけた。まさか、助けた相手が胡蝶探しにやって来た人だったとは。つまり、彼は何か願い事をしたいのだろう。よりによって一番菫が会いたくない人物に会ってしまったのだ。菫は今すぐここから逃げ帰りたい気持ちを抑え、少し考えながら言った。

「そう。でも、私は長いことここに住んでいるけど、胡蝶なんて見たことないよ」

思い切り嘘をついた。実際は、菫自身が胡蝶なので、見たことがないというのは大嘘だ。だが、やはり菫の予想通り少年は純粋らしく、あっさりそれを信じてしまった。

「うーん…。ここの管理人でも見たことがないのか…。それだけ貴重なんだな。けど、君って何年ここの管理をしているんだ?」

菫は返答に詰まった。五十年と正直に答えるわけにはいかなかったからだ。人も妖も寿命はほぼ同じだ。正確には妖の方が少し長いのだが、それでも二十年ほどの差しかない。なので、ここで正直に答えれば怪しまれるのは目に見えていた。もしかしたら、それをきっかけに相手が菫の正体に気付いてしまうかもしれない…。そうなれば非常に厄介だ。

「…十五年くらい、だけど。一応、生まれた時からずっとここに住んでいるからね」

結局、外見に合った年数を言うことにした。十五年という年月はそれなりに長いので、それで諦めてくれれば良かったのだが、少年は菫の言葉に嬉しそうに笑った。

「それなら、俺と同い年だな!…そういえば、まだ名乗ってなかった。俺は翠雨すいうだ」

「私は…、菫。ちなみに聞きたいんだけど、あなたって…、半妖、だよね?」

そう尋ねると、翠雨は驚きつつもうなずいた。だが、翡翠色の瞳は少し翳っている。

「…俺は今、有明国で暮らしている。周りの人には俺が半妖ってことを隠しているけど…。時々思うんだ。俺も、他の人たちみたいな普通の人だったら、って…」

菫は何となく翠雨の気持ちが分かるような気がした。そして、彼の願い事が何なのかも理解した。――翠雨は、妖の力を完全に消し、本当の人になりたいのだろう。確かにそれは、どんなに優れた力を持つ妖にもできないことだろう。半妖である翠雨は、完全な人でなければ妖でもない。それは、ある意味では孤独なことだ。自分と本当に「同じ」であると言える人がいないからである。そのことに疎外感を覚えてしまうのだろう。

そして、それは菫も同じだった。狭間に属する胡蝶である菫は、有明国の者でもなく、黄昏国の者でもない。そして、人とも妖とも異なる存在だ。どちらとも、分かり合うことのない存在――。それが、胡蝶だった。そんな二重の孤独に、菫は既に慣れてしまっていたけど、胡蝶の中にはそれに耐えきれなかった者もいたという。そんな胡蝶たちは、孤独の苦しみから逃れるように、生まれて数年で他人の願いを叶え、消えていった…。

「…自分と分かり合えたり、苦しみを共有できたりする人がいないのは、つらいよね。その気持ちは分かる。私も狭間の森でずっと一人きりだから」

翠雨は菫の言葉に小さくうなずくと、寂し気にうつむいたのだった。

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