六 たった一つの…
幼い頃の翠雨にとって、自分が半妖であるという事実はそこまで重要ではなかった。翠雨自身は術を使う機会などなく、そもそも使おうと思うことさえなかったからだ。妖である母は黄昏国に住み、翠雨は人間の父と共に有明国に住んでいたが、時折手紙を送り合っていた。それに、母が術を使って会いに来てくれることもあった。離れていても両親の仲は良く、翠雨もそんな二人のことが好きだった。たぶん、本当は母も有明国で一緒に過ごしたかったはずだ。それができなかったのは、有明国で妖というものが恐れられ、時に差別される存在だったからだろう。けれど、そのこと自体が翠雨にはよく分かっていなかった。妖の血を引いていたとしても、こうして日々を送る上では有明国の民の同じ。それに、こちらには危害を加えるつもりは全くないのだ。それならば、差別などしなくたっていいはずだし、仲良くすることもできるはず――。だが、翠雨のその認識は他の人々とは通じないようだった。
――昔から妖たちは有明国にやって来ては悪さをしていく……。有明国の民は黄昏国の妖に対してその印象を強く抱いている。そして、その固定観念はもう払拭できないほど根強い。それを分かっていた両親は翠雨に、自分が半妖であることを言ってはならない、といつも言い聞かせた。翠雨もその言いつけをしっかりと守っていた。だが、隠し事と言うものは、何重に隠していたとしても、気付かれる時はあっさりと気付かれてしまうものだ。
きっかけが何だったのかは翠雨にも分からない。その日、翠雨と彼の父は、家の奥で一緒に遊んでいたのだが、突然家に複数人の人物が押しかけてきたのだ。その中には近所の人の姿もあったが、その表情はいつになく険しい。他の人々も殺気立った雰囲気で立っていた。ただならぬ雰囲気を感じ取った父は、翠雨にここに留まっているよう言い、一人で表口に向かった。家に押し入った人々は、父の姿を見るなり口々に問い詰めた。
――ここに妖がいるのではないか。お前の息子は、妖ではないのか。
父はもちろん否定した。自分がお前たちと同じ有明国の人間だということは分かっているはずだ。それなのに何故、息子である翠雨が妖であると疑うのか……。しかし、彼らはその言葉に納得せず、自分たちの主張の根拠も言わなかった。次第にその勢いは激しくなり、彼らは翠雨をここに連れて来るよう言い始めた。本当に妖ではないということを確かめるだけだと言っていたが、その気がないことは明白で、だから翠雨は――。
「…その時初めて、妖の力を使った。怖かったんだ。このままだと、俺はもちろん、父まで殺される…。ずっと暮らしてきた場所に、同じように住んでいる人たちに」
翠雨は懺悔するようにそう言った。菫は何も言わなかった。この先の展開は、何も言われなかったとしても既に分かっている。たぶん、その出来事はそれまでの翠雨自身を否定されたようなものだったのだろう。半妖であることを隠してきたことも、今まで妖術を使ってこなかった自分も、半妖であっても人々と暮らしていけるという考えも、全て…。
翠雨の話の続きを聞く菫の中に、一つの光景が生まれる。胡蝶の術が無意識のうちに発動され、翠雨の言葉を基に、その過去を再生しはじめたのだ。
人々がひしめく家。彼らは奥に入って来ようとしており、翠雨の父が必死でそれをとどめている。そんな殺気が渦巻く家の奥の間。そこで全てを聞いていた少年の翡翠色の瞳が暗く輝く。その瞬間、家の中に風が吹き荒れ始めた。少年のいる家の奥から、人々が集まっている表口へ…。それは次第に強さを増していく。奇妙な現象に、誰もが動きを止めた。だが、風は止まることを知らない。あっという間に強くなった風が、鋭い刃のように人々を襲う。風は彼らに致命傷を負わせることはないものの、確実に傷つけていく。袖や裾が断ち切られ、手や顔に引っかかれたような傷ができていく…。あまりにも不気味な風は、押し入った人々に恐怖をもたらした。しかし、恐ろしい現象はまだ続く。大人が数人ばかりいなければ動かないはずの棚が風によって押されて動きだし、この家に入ることを拒むように彼らの前に立ち塞がった。それ以外の家具も、意思を持っているように動きだした。
「……翠雨!」
そこでようやく何が起こっているのか分かったのは、翠雨の父だった。騒ぎ、罵る人々を無視し、彼は奥の部屋へと走った。扉を開けた瞬間視界に飛び込んだのは、らんらんと光る翡翠色の瞳。それを見た父は、この惨劇が翠雨によって引き起こされたことを確信した。一方の翠雨は、父の姿を見ると安心したように笑う。その笑顔はあまりにも無邪気だった。
「……その後ここに逃げてきて、そのままずっと暮らしている、ということ?」
自分の術ですべてを見た菫がそう尋ねると、翠雨は静かにうなずいた。
「…妖術を使ったおかげで、俺は生き延びた。でも、そのせいで知っている人たちに怪我させて、怖がらせたのも事実だ。だから、その時に決めた。俺は二度と妖術を使わない、って」
それでまた誰かを傷付けるのが怖いから…。その言葉で、菫は狭間の森でのことを思い出した。菫が初めて翠雨に会った時、彼は妖に襲われそうになっていた。あの時、翠雨は妖の攻撃を避けるだけで自分からは攻撃していなかったが…。恐らく翠雨なら妖に攻撃しかえすことができていたはずだ。それを攻撃しなかったのは、きっと自分との約束があったからだ。そして、それをずっと守り続けようと思う強い意思があったからだろう。
けれど、誰かを妖術で傷付けてしまうかもしれない懸念も、誰かに自分の正体を気付かれてしまうかもしれない不安も、自分が半妖である限りずっと消えない。だからこそ翠雨は、自分が半妖ではなく、本当の人間であることを願っているのだ。それが、たった一つの彼の願い事。
「……胡蝶探し、手伝おうか?」
気がつくと菫は無意識にそんなことを言っていた。翠雨が驚いたように菫を見て、それでようやく自分が何を言ったのか認識した。…何故、こんなことを言ってしまったのだろう。自分でもよく分からない。だって、誰かの願い事を叶えることは胡蝶が死ぬことに繋がる。翠雨の願いを叶えれば、菫は死ぬ。それは絶対だ。願いを叶えてもらおうとしている人物には絶対に関わるつもりはなかった。それなのに。だが、自分の言葉を取り消すことはできない。
「…せ、正確には狭間の森での食と住、それから道順を提供する。あの場所は複雑に入り組んでいるの。知っている道だと思って進んでも、全く違うところに出て迷子になるかもしれない。自分が住んでいる場所でそんなことが起こるのはごめんだもの」
菫は淡々と告げた。実際に探すのは手伝わない。探したって菫以外に白銀の蝶なんていないので、見つけられるわけがない。たぶん菫は気になったのだ。翠雨の自分の願いを叶えたいという思いが、どれほど強いのか…。そして、もしかしたら…、菫は翠雨のことを慰めたかったのかもしれない。けれど、人と関わることのない菫は、そういう時に慰める言葉や方法を知らなかったのだ。心の中で言い訳を並べていると、翠雨は嬉しそうに笑った。
「ああ。ありがとう。それだけでも助かる。菫って案外親切だな」
「…別にそんなことないけど。というか、案外って何。私って冷たく見えるの?」
菫は怒ったふりをして立ち上がった。翠雨と話していると、何だか調子が狂う。
(…別に、これはただの気まぐれよ。願いを叶えるつもりなんて、ないもの)
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