五 暁の国

久しぶりに来た有明国は、前よりも少し発展しているようだった。道を歩く人の姿も増え、狭間の近くとは思えないほどだ。そもそも菫は基本的に半年に一度ほどしかここに来ない。そのため、いつも知らない町に来たような感覚に陥ってしまう…。

実際はそんなことはなく、よく見てみると、菫の知っている店がきちんと同じ場所に存在している。菫はそんな町の様子を、白銀の髪を隠すために被った黒い布の下から観察していた。そんな菫を気にせず、翠雨が言った。

「俺は一旦家に戻る。すぐに戻ってくるよ。菫は?」

「…私は買い物を。他にもやることはあるけど、まずはそれが優先」

買い物と、翠雨の動向を確認する。主な目的はそれだが、有明国に来たのならば、やりたいことは色々とある。狭間の森に張られた術の確認や、情報集めもその一つだ。狭間の中にいると分からない、外側に面した術の状況を把握するのはとても大事である。また、胡蝶の術だけでは集めきれない細かな二つの国の情報を探すことも必要なことなのだ。買い物と言っても、欲しい物はそこまで多くないので最初に済ませておいても問題はないだろう。その後は何をしようかと順序を考えつつ、菫は馴染みの店へと向かった。

「こんにちは。色々持って来たんですけど、買って頂けますか?」

若草色ののれんをくぐり、店主に声をかけた。ふわり、と新鮮な草の香りがする。ここは薬屋だ。しかし、店主が高齢で薬草を取りに行くのが難しいため、代わりに薬草を採ってくると、質や量、貴重さを考慮した値段で買ってくれるのだ。狭間に閉じこもって仕事をしていない菫には、収入源というものがない。だが、狭間の森は誰も入って来ないおかげで、貴重な植物がたくさん生えているのだ。そういったものを採取して売ることで、菫はお金を得ていた。

「はいはい。見せておくれ。…うん、悪くないねえ。これならいい薬が作れそうだ」

菫が持って来た薬草を机に広げてしばらく眺めていた店主は満足そうにうなずいた。そして、そろばんをはじいて金額を考え始める。その作業をしながら店主は尋ねた。

「でも、こんなに高品質で貴重なもの、どこで手に入れたの」

「私の家の周りに生えていたものを適当に取ってきただけですよ。…それが何か?」

菫は笑顔で答えた。だが、内心ひやひやしていた。正体に気付かれたのではないか、と一瞬不安に思ったのだ。店主はそれ以上何も聞かず、計算を続けていたが……。勘定が終わると、菫は逃げるようにして店を後にした。黄昏国に行くのも怖いが、有明国も恐ろしい。彼らは妖を嫌う。不可思議な存在を忌む。そのくせ、狭間の胡蝶には願いを叶えてもらおうとするのだ。

(…さっさとやること終わらせて、帰ろう…。しばらくはここに来なくていいし…)

菫はしょんぼりとうつむき、黒い布を更に目深に被った。取りあえずお金は稼げた。あとは自分に必要なもの、欲しいものを買えばいいだけだ。どちらの方角に行けば良かっただろう、と菫が一旦立ち止まったその時だった。何者かに袖を強く引っ張られ、菫は狭い路地に引きずり込まれた。突然のことに何も抵抗できずにいると、被っていた布を取られた。

「やはりな、こいつは妖だ!」

敵意に満ちた声を浴びせられた後、菫はようやく相手の方を向くことができた。そこにいたのはごく普通の青年たちだ。独特の気配は感じられないので、妖ではないだろう。だが、あまりの敵意の強さに菫は思わずひるみそうになった。しかも、彼らは菫が妖だと思い込んでいる。

違う、と言いたかったが、胡蝶であることは説明できないし、白銀の髪と菫色の瞳は、人間ではないという何よりの証拠となってしまっている。どうにもできなかった。この色彩を見られるのを避けるために、布を被っていたのだが…。それが裏目に出てしまったのだろうか。

「お前なのか?この前、俺たちの村を襲った妖は!なあ、何とか言えよ」

「違う、私じゃない。そもそも私は妖じゃないし、彼らとは何の関わりもない…」

信じてくれないと分かりながらも、菫は必死に否定した。恐怖のせいで頭が回らない。菫が術さえ使えば、一瞬で終わる。人を撒くこともできるし、その気になれば殺すことさえできる。だけど…、菫は胡蝶だ。人を襲う妖ではない。だから、彼らと同じように人間に対して武力を使うことで、こうしたいざこざを解消したくはなかった。

「嘘つけ。こんな髪色をしているくせに!」

青年の一人が菫の髪を引っ張る。菫は悲鳴をあげかけた。今までこうした出来事に遭遇したことはなかった。だから、こういう時にどうすればいいのか分からなくて菫は混乱していた。怖い、嫌だ、と心の中で繰り返していたその時。

「菫!ここだったのか!」

その声に初夏の明るい陽射しを感じたのは、たぶん菫だけだった。突然細路地に入ってきた翠雨は呆気に取られている青年たちを無視して菫の手を引っ張った。そして、一言告げる。

「逃げるぞ!」

翠雨は驚くほど足が速かった。恐らく、何かしらの術を使っていたのだろうが、それにしたって速い。全く速度を緩めないまま、二人は走り続けて…。しばらくして、ようやくどこかの道で立ち止まる。先ほどの青年たちの姿はもうどこにもなかった。そのことに安堵し、菫はその場に座り込んだ。こんなに走ったのは久しぶりだ。息を整えた後で、翠雨に言った。

「…ありがとう。どうすればいいか分からなかったから、すごく助かった」

「ああ。見つけられて良かった。それより大丈夫か?怪我とかしてないよな?」

菫はうなずいた。髪を少し引っ張られただけで、特に怪我はない。被っていた黒い布は取られてしまったが、人気がないここならば銀色の髪を他人に見られないはずだ。

(…もしかしたら、さっきの人たちの村を襲った妖って…。狭間で翠雨に危害を加えようとしていた、あの妖だったのかも…)

冷静になったせいか、今になってその可能性に思い至った。あの時、菫は妖が黄昏国から胡蝶に願いを叶えてもらうためにやって来たのかと思ったが、もしかしたら有明国から戻ってきたところだったのかもしれない。狭間の森の道は複雑なので、さまよっている最中に同じ有明国方面から来たはずの翠雨と遭遇することもあり得なくはないだろう。

「良かった、怪我する前に助けられて。前に逃げ道を探しておいた甲斐があったな」

翠雨が安堵したようにほんの少し微笑んだ。一方、菫はその言葉にきょとんとする。

「…前に住んでいた町で、菫と同じような目に遭ったことがあった。半妖であることは隠していたはずなのに…、何かの拍子に気付かれていたみたいで。だから、こっちに移ってきた時、またそういうことがあった時のために逃げ道を探しておこう、って」

菫の隣に座った翠雨は少し寂しそうだ。たぶんその時、翠雨は多くのものを失ってしまったのだろう。その全てを菫は知らない。それは、自分の慣れ親しんだ場所であり、友人だったのかもしれなかった。ずっと狭間に住んでいて、しかも友人と呼べる人物がいない菫にとっては、失った時の気持ちを完全に理解することはできない。だが、いつ自分の正体に気付かれるか分からない、という恐怖は菫もよく知っているものだった。

そういう意味で、菫と翠雨はやはり似ているのかもしれない。出会った時はただただ純粋そうな人物だと思っていたが、その裏で様々な苦労をしてきたのだろう。人は見かけだけで判断できないのだと、菫はその時初めて知った。

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